Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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終章 声を疑う地図

 

 朝が来ても、放送塔は沈黙していた。

 

 避難民キャンプの空は白く濁り、夜の湿気がまだ地面に残っている。川沿いの桟橋には薄い霧が流れ、学校テントの布屋根からは夜露が落ちていた。配給所の前には、いつものように小さな列ができ始めている。診療所の前では、咳をする声が聞こえる。水場では、眠そうな子どもたちが順番を待っていた。

 

 昨日と同じ朝だった。

 だが、昨日とは違う朝だった。

 子どもたちは、放送塔を見ていた。

 以前のように、ただ声を待つためではない。

 その声を、すぐには信じないために見ていた。

 それは、新田良太にとって勝利ではなかった。

 必要な変化ではある。けれど、子どもたちがまた一つ、疑わなければならないものを増やされたことに変わりはない。

 

 放送塔。

 先生の声。

 アラタの声。

 ジブリールの声。

 正しい地図。

 安全な道。

 大丈夫、という言葉。

 その全部を、少し疑わなければならなくなった。

 新田は、それを悲しいことだと思った。

 それでも、教えなければならなかった。

 生きて帰るために。

 

 キャンプ中央では、朝の確認訓練が始まっていた。

 整列はしない。

 分隊ごとに綺麗な列も作らない。

 第一分隊、第二分隊、第三分隊という名前を、少しだけ脇へ置く時間を作る。

 近くにいる子と二人組になる。

 声が聞こえたら、隣を見る。

 聞こえた内容を、一度自分たちの言葉で確かめる。

 近くの大人に確認する。

 それから動く。

 早くはない。

 美しくもない。

 地図に描けば、乱れて見える。

 

 だが、その乱れこそが、教図係の地図を狂わせた。

 ジブリールが子どもたちの前に立っていた。

 新田は少し離れて見ている。

 彼が言うより、ジブリールが言う方がいい時がある。

 それも、昨日覚えたことだった。

 

「声が聞こえたら、すぐ走らない」

 

 ジブリールは言った。

 

「隣を見る」

 

 子どもたちが互いの顔を見る。

 

「名前を呼ぶ」

 

 小さな子が、隣の子の名前を呼ぶ。

 呼ばれた子が、眠そうに返事をする。

 

「聞こえたことを、二人で確かめる」

 

 別の子が聞いた。

 

「アラタの声でも?」

 

 ジブリールは頷いた。

 

「うん。アラタの声でも」

「ジブリールの声でも?」

 

 ジブリールは、少しだけ止まった。

 自分の声も使われた。

 自分の声も、地図にされた。

 それを思い出したのだろう。

 だが、彼女は顔を上げ、はっきり言った。

 

「私の声でも」

 

 子どもたちが少しざわつく。

 ジブリールは続けた。

 

「疑うのは、嫌いになることじゃない」

 

 新田はその言葉を聞いて、胸の奥が少し痛んだ。

 それは昨日、自分たちが何度も言った言葉だった。

 今朝には、もうジブリールの言葉になっている。

 

「疑ってから、信じる」

 

 子どもたちは、完全にはわかっていない顔をしていた。

 それでいい。

 完全にわからせようとすれば、それもまた命令になる。

 少しずつでいい。

 声を聞いて、隣を見る。

 地図を見て、足元を見る。

 正しいと言われたら、誰がそう言っているのか考える。

 それだけで、First Margin の線は一本ではなくなる。

 

 訓練が終わると、ジブリールが新田のところへ戻ってきた。

 

「アラタ」

「うん」

「みんな、少し覚えた」

「うん」

「でも、寂しそうだった」

「うん」

「アラタも?」

 

 新田は少しだけ笑った。

 

「寂しいよ」

「疑われるから?」

「それもある」

「それだけじゃない?」

「うん。疑わなくてもよかったものを、疑わせることになったから」

 

 ジブリールは放送塔を見た。

 

「でも、必要?」

「必要だと思う」

「じゃあ、疑ってから信じる」

「うん」

 

 ジブリールは少し考えてから言った。

 

「アラタも、私たちを疑っていいよ」

 

 新田は彼女を見た。

 

「どういう意味?」

「私たちが大丈夫って言っても、本当に大丈夫か見ていい。でも、決めつけないで」

 

 新田は返事に詰まった。

 ジブリールは、もう完全に守られるだけの子ではなかった。

 守られることを拒んでいるわけではない。

 ただ、自分も確認する側に立とうとしている。

 声を受け取るだけではなく、声を返す側に。

 

「わかった」

 

 新田は言った。

 ジブリールは満足そうに頷いた。

 

「じゃあ、二人で疑う」

「うん」

「あと、アラタが疲れてたら言う」

「それも?」

「それも」

 

 新田は小さく息を吐いた。

 

「手厳しいね」

「必要なので」

 

 新田は少し笑った。

 ジブリールも、少しだけ笑った。

 

     *

 

 川沿いの中継基地では、後始末が続いていた。

 

 廃測量学校から回収されたものは、三つに分けられた。

 一つは、即座に無力化するもの。

 一つは、危険性を確認するために最低限だけ記録するもの。

 一つは、誰にも単独で持たせないもの。

 ベニーとワイリは、ほとんど徹夜に近い状態でそれを整理していた。

 倉庫の中には、眠気と苛立ちとコーヒーの匂いが混ざっている。

 

「もう地図を見たくありません」

 

 ベニーが端末の前で呟いた。

 ワイリは横から言う。

 

「でも、地図を見ないと危ないよ」

「わかっています」

「声も聞かないと」

「聞きたくありません」

「でも、聞かないと偽物がわからない」

「わかっています」

「じゃあ」

「理屈を言わないでください。今は感情で嫌がっているんです」

 

 ワイリは少し笑った。

 

「それは大事だね」

「あなたに言われると、少し腹が立ちます」

 

 近くでレヴィが椅子に座っていた。

 机に足を乗せようとして、ベニーに睨まれ、やめた。

 

「昨日からお前ら、ずっと嫌そうに仕事してんな」

「嫌だからです」

 

 ベニーは即答した。

 

「でもやってんだろ」

「やらないと、もっと嫌なことになるので」

「いい根性してんじゃねえか」

「褒めないでください。慣れたくありません」

 

 レヴィは少しだけ笑った。

 倉庫の奥では、キャスパーがアランに名簿を出させていた。

 

 教育支援団体。

 測量会社。

 放送設備業者。

 医療支援を名乗る中間団体。

 資金の流れ。

 船積み記録。

 別名義の倉庫。

 港湾通過許可。

 白い箱が通った道。

 そのすべてが、庭師の苗床へ繋がる可能性を持っている。

 

 キャスパーは端末をロックと新田の前へ置いた。

 

「関連名簿だ」

 

 ロックは端末を見た。

 

「全部ですか」

 

 キャスパーは一瞬、いつもの言い方をしようとした。

 半分以上。

 出せるだけ。

 現時点で。

 だが、横からチェキータの視線が刺さる。

 正面では新田が見ている。

 ジブリールも見ている。

 彼は小さく息を吐いた。

 

「僕が持っている全部だ」

 

 レヴィが眉を上げる。

 

「言い切ったな」

「言い切ったよ」

「明日になって、実はもう少しありましたとか言うなよ」

「その時は、僕が今日より高くつく」

「意味わかんねえよ」

 

 ロックは端末の内容を確認した。

 

 ベニーも横から覗き込み、ワイリと一緒に情報を整理する。

 一覧の中には、昨日見た教図係の偽名もあった。

 エリアス・グラント。

 教育放送・避難計画アドバイザー。

 その周囲に、似た肩書きがいくつも並んでいる。

 学校安全導線コンサルタント。

 避難所音声管理補助員。

 人道物流調整官。

 児童支援放送プランナー。

 市場安全誘導アドバイザー。

 港湾労働者教育支援員。

 きれいな名前ばかりだった。

 きれいすぎた。

 

 新田は画面を見て言った。

 

「この人たちは、全員が敵ですか」

 

 キャスパーは首を横に振る。

 

「違う」

「本物もいる」

「いる。むしろ本物が多いかもしれない」

「その中に庭師が混ざる」

「そうだ」

 

 キャスパーは表情を薄くする。

 

「本物の善意が多いほど、庭師は隠れやすい」

 

 ココが画面を見ながら言った。

 

「Nursery」

 

 ベニーが頷く。

 

「苗床。声が最初に信じられる場所を作る計画ですね」

 

 ワイリが続ける。

 

「First Margin は、その声を聞いた後、人がどこへ動くかを読む補助層。声を育てる場所と、声で動いた後の線を繋ぐ」

 

 ロックが低く言う。

 

「声を育てる。声で動かす。動きを地図にする。地図を見て、次の声を変える」

 

 ジブリールが小さく言った。

 

「庭師の畑」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「ガキに言わせんな、そんな気持ち悪い言葉」

 

 ジブリールはレヴィを見る。

 

「気持ち悪いから、言った」

 

 レヴィは言い返せなかった。

 新田は名簿を見る。

 

「これは、キャンプだけの話ではありませんね」

 

 キャスパーは頷く。

 

「学校、避難所、放送局、市場、港、軍事基地跡、集会場、災害現場。人が声を待つ場所なら、どこでも使える」

 

 ココが言った。

 

「街そのもの」

 

 ロックは彼女を見る。

 

「ヨナの言葉ですか」

「まだ聞いていない。でも、そうなるわ」

 

 ココは画面に並んだ名簿を見つめる。

 

「学校だけなら、学校を疑えばいい。放送塔だけなら、放送塔を疑えばいい。でも街そのものが苗床なら、人は日常の声を疑わなければならなくなる」

 

 新田は顔を曇らせた。

 

「それは、子どもたちには重すぎる」

 

 ココは静かに答える。

 

「大人にも重いわ」

 

     *

 

 ココ・ヘクマティアルは、封印された記録ユニットを見ていた。

 

 それは、彼女のものではない。

 HCLIのものでもない。

 ラグーン商会のものでもない。

 アラタ陣営のものでもない。

 ベニーとワイリが危険な部分を無力化し、残った危険性の記録は複数に分割された。

 単独では開けない。

 単独では再現できない。

 単独では使えない。

 ココは、それを見ていた。

 欲しい顔ではなかった。

 だが、忘れた顔でもなかった。

 ロックはその横に立っている。

 バルメもいる。

 少し離れて新田。

 

 ジブリールも、レヴィの近くからこちらを見ていた。

 

「欲しいですか」

 

 ロックが聞いた。

 ココは封印ユニットから目を離さずに答えた。

 

「欲しいと思う部分は、まだある」

「正直ですね」

「嘘をつくと、あなたが余計に怖い顔をするもの」

「怖い顔ですか」

「最近、するわよ」

 

 ロックは少しだけ苦笑した。

 

「あなたを見張るためです」

「見張るだけでは足りない」

「はい」

「だから、言わせる」

「はい」

 

 ココは封印ユニットを見て言った。

 

「これは欲しい」

 

 バルメの手が、わずかに動く。

 ココは続けた。

 

「だから、私は一人では持たない。開けない。使わない。忘れもしない」

 

 新田が言った。

 

「忘れないことも危険です」

 

 ココは彼を見る。

 

「そうね」

「でも、忘れたらまた欲しがるかもしれない」

「ええ」

「だから、覚えておいてください。気分の悪さも」

 

 ココは静かに頷いた。

 

「覚えておくわ。地図が綺麗すぎたことも。子どもたちが点にされたことも。私が座ったことも。手を伸ばさなかったことも」

 

 ジブリールが近づいてきた。

 

「ココ」

「何?」

「一人で走らない」

 

 ココは少し驚いたように彼女を見た。

 それから、柔らかく笑う。

 

「ええ。一人で走らない」

「欲しくなったら、隣を見る」

「誰を見ればいい?」

 

 ジブリールはロックを指した。

 次にバルメ。

 それから新田。

 少し迷って、レヴィも指した。

 

「レヴィも」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「なんで俺まで入ってんだよ」

「大きい声で止めるから」

「褒めてんのか、それ」

「たぶん」

 

 ココは小さく笑った。

 

「頼もしいわね」

 

 レヴィは舌打ちした。

 

「持って帰ろうとしたら、怒鳴るくらいはしてやるよ」

 

 ロックが言った。

 

「怒鳴るだけでは足りないかもしれません」

「じゃあ、蹴る」

 

 バルメが真顔で言う。

 

「私が先に止めます」

 

 ココは二人を見て肩をすくめた。

 

「本当に見張りが多いわね」

 

 新田は言った。

 

「それだけ危ないので」

「最後まで容赦ない」

「必要なので」

 

 ココは苦笑した。

 

「その言葉、嫌いになりそう」

 

「嫌いになっても、必要です」

 

 ロックはココを見た。

 彼女はまだ危険だ。

 これからも危険だ。

 おそらく、その危険は消えない。

 だが、今は見える場所にある。

 本人が言葉にしている。

 周囲も見ている。

 

 それが、今できる最善だった。

 

     *

 

 昼前、ラグーン商会の船が出る準備を始めた。

 

 HCLIも別ルートで動く。

 キャスパーの白い船は、予定より少ない荷を積んで戻ることになった。

 いくつかの箱は、無力化され、分解され、あるいはキャンプ側に残す安全確認済みの物資として再分類された。

 すべてが解決したわけではない。

 むしろ、見えていなかった問題が増えた。

 Nursery。

 声の苗床。

 First Margin Layer。

 声と地図を繋ぐ補助層。

 教図係は逃げた。

 庭師の根は残っている。

 それでも、子どもたちは今朝、一人で走らなかった。

 それだけは、確かなことだった。

 

 出発前、レヴィはジブリールに呼び止められた。

 

「レヴィ」

「あ?」

「昨日、ありがとう」

「それ、もう聞いた」

「もう一回」

「いらねえよ」

「いる」

「なんでだよ」

「ちゃんと言った方がいいから」

 

 レヴィは顔をしかめる。

 そして、少しだけ視線を逸らした。

 

「……勝手にしろ」

「ありがとう」

「おう」

 

 短い返事だった。

 だが、ジブリールは満足したようだった。

 

「怖い顔じゃない」

「今はな」

「また怖くなる?」

「たぶんな」

「じゃあ、その時は横を向いて」

「まだ言うか」

 

 ジブリールは少し笑った。

 レヴィも、ごくわずかに口の端を上げた。

 

 ダッチは新田へ近づいた。

 

「いい地図だったな」

 

 新田は少し驚いたように彼を見る。

 

「敵の地図が、ですか」

「いや。あんたの地図だ」

「僕の地図は、かなり乱れました」

「だからいい」

 

 ダッチはキャンプを見た。

 

「人間がいる地図は、乱れる」

 

 新田は少しだけ黙った。

 それから頷いた。

 

「覚えておきます」

「忘れない方がいい」

「はい」

 

 ベニーは端末を抱えながら、新田に言った。

 

「今後、放送設備の確認手順をまとめて送ります。ただ、専門的な部分は省きます。悪用されると困るので」

「助かります」

「もう二度と声と地図の仕事はしたくありません」

 

 ワイリが横から言う。

 

「またあると思うよ」

 

 ベニーは即座に答えた。

 

「言わないでください」

 

 新田は少しだけ笑った。

 

     *

 

 ロックは桟橋の端で、新田と向き合った。

 

 ココは少し離れてバルメと話している。

 ジブリールは子どもたちの確認訓練に戻った。

 レヴィは船の上で退屈そうに待っている。

 ダッチは出航前の確認をしている。

 キャスパーは白い船の上で、チェキータに何かを言われている。

 誰も完全には自由ではない。

 だが、誰も一本の線ではなかった。

 

「ロックさん」

 

 新田が言った。

 

「はい」

「あなたは、世界を守るためにココさんを見張っている」

「世界というほど大きいかは、わかりません」

「でも、彼女は世界を見ます」

「はい」

「その人を見張るのは、たぶん大変です」

「そうですね」

「止められますか」

 

 ロックは少しだけ黙った。

 ここで強く言い切ることはできる。

 止めます、と。

 でも、それは嘘になるかもしれない。

 

「止められるとは言えません」

 

 新田はロックを見る。

 

「でも、見張ると約束しました」

「それでは足りません」

「はい」

 

 ロックは頷いた。

 

「足りないことは、わかっています」

「なら、どうしますか」

「一人で見張らないようにします」

 

 新田は少しだけ表情を変えた。

 

「一人で?」

「はい。バルメさんにも、あなたにも、ジブリールにも、レヴィにも、言ってもらいます。ココ本人にも、欲しい時は欲しいと言わせます」

「それでも足りないかもしれません」

「はい」

「それでも?」

「続けます」

 

 新田は少しだけ頷いた。

 

「ヨナが、あなたにそう言ったんですね」

 

 ロックは目を細めた。

 

「どうして」

「ジブリールが同じようなことを言いましたから」

 

 ロックは苦笑した。

 

「ええ。言われました。足りない。でも、続けて、と」

「なら、続けてください」

「はい」

 

 新田はキャンプの方を見た。

 

「僕も、僕の声を疑わせ続けます」

「つらくないですか」

「つらいです」

 

 新田は正直に言った。

 

「でも、必要です」

 

 ロックは静かに頷いた。

 その言葉は、もう何度も聞いた。

 だが、最後に聞くと、少し違って聞こえた。

 必要という言葉は、冷たい言葉ではない。

 それは、痛みを選ぶ言葉でもある。

 

     *

 

 船が出る直前、ロックの端末が鳴った。

 発信元は不明。

 だが、ロックは誰からかすぐにわかった。

 ヨナ。

 短い通信。

 ココも気づいたように、こちらを見る。

 ロックは通話を開いた。

 

「ロックです」

 

 少しだけノイズがあった。

 それから、少年の声。

 

『声と地図が繋がった』

 

 ロックは周囲を見た。

 新田も、ココも、ジブリールも、静かにこちらを見ている。

 

「はい。First Margin は一部止めました。でも、Nursery へのリンクが残っています」

『止めたんじゃない。見つけた』

 

 ロックは黙った。

 

『庭師は、見つけられることも計算に入れる』

「では、今回の失敗も」

『失敗じゃない。観測』

 

 ロックは奥歯を噛んだ。

 

「次は何ですか」

 

 ヨナの声は少しだけ遠くなる。

 

『苗床は、もう育ってる』

 

 新田が一歩近づく。

 ロックは通信をスピーカーに切り替えた。

 

「どこに?」

『学校じゃない』

 

 短い間。

 

『街そのもの』

 

 ココの表情が変わった。

 新田も目を細める。

 

『学校、避難所、放送局、市場、港。声が最初に信じられる場所は、もう一つじゃない』

 

 ロックは聞いた。

 

「教図係は?」

『逃げた。たぶん、切られた線を持っていった』

「庭師へ?」

『たぶん』

「指揮者は?」

 

 少し沈黙。

 

『声を選んでる』

 

 ヨナの声は低かった。

 

『合唱長は声を集めた。教図係は声と線を繋いだ。指揮者は、その中から使う声を選ぶ』

 

 ココが言った。

 

「ヨナ」

 

 通信の向こうで、短い沈黙。

 

『ココ』

「私は持たなかったわ」

『知ってる』

「見ていたの?」

『少し』

 

 ココは苦く笑う。

 

「相変わらずね」

『欲しかった?』

 

 ココはすぐには答えなかった。

 ロックが彼女を見る。

 バルメも。

 新田も。

 ジブリールも。

 ココは、静かに答えた。

 

「欲しかった」

 

 ヨナは何も言わない。

 

「でも、持たなかった」

 

 短い沈黙。

 

『うん』

 

 それだけだった。

 だが、ココは少しだけ目を伏せた。

 その「うん」は、責める声ではなかった。

 許す声でもなかった。

 ただ、聞いた声だった。

 

 ヨナは続けた。

 

『ロック』

「はい」

『見張れ』

「はい」

『足りない』

「わかっています」

『でも、続けて』

「続けます」

 

 通信が切れる直前、ヨナは最後に言った。

 

『次は、もっと普通の声で来る』

 

 通信は途切れた。

 川の音だけが残った。

 誰もすぐには喋らなかった。

 もっと普通の声。

 それは、怒鳴り声でも、命令でも、先生の声ですらないのかもしれない。

 街の声。

 市場の呼び声。

 港の合図。

 配給の案内。

 家族を呼ぶ声。

 隣人の声。

 人が疑いにくい、日常の声。

 Nursery は、もう学校やキャンプだけではない。

 街そのものが苗床になる。

 

     *

 

 船が桟橋を離れた。

 

 

 ラグーン商会の船が先に出て、HCLIの船が後に続く。キャスパーの白い船は、少し離れて別の流れに乗った。

 新田とジブリールは、桟橋からそれを見送った。

 レヴィが船の上から手を上げる。

 手を振る、というより、面倒くさそうに上げただけだった。

 ジブリールはそれに手を振り返した。

 

「レヴィ、横向いてない」

 

 新田が言う。

 

「もう怖くない?」

「怖いけど、少し知ってる」

「知ると、変わる?」

「うん」

 

 ジブリールは川を見た。

 

「声もそう?」

「うん」

「知らない声は怖い。知ってる声も、真似されると怖い」

「うん」

「でも、疑ってから信じる」

 

 新田は頷いた。

 

「そう」

 

 ジブリールは少し黙り、それから言った。

 

「アラタ」

「何?」

「アラタの声、私はまだ好きだよ」

 

 新田は何も言えなかった。

 ジブリールは続けた。

 

「でも、疑う」

 

 新田は少しだけ笑った。

 

「それでいい」

「寂しい?」

「寂しい」

「でも、必要?」

「うん」

 

 ジブリールは頷いた。

 

「じゃあ、それでいい」

 

 川の向こうで、船の影が小さくなっていく。

 

 放送塔はまだ沈黙している。

 だが、いつかまた声は流れる。

 配給の案内。

 診療所からの呼び出し。

 避難訓練の合図。

 新田の声。

 ジブリールの声。

 知らない誰かの声。

 そのたびに、子どもたちは隣を見るだろう。

 少し遅くなる。

 少し面倒になる。

 少し寂しくなる。

 だが、その遅さが命を守る。

 その面倒さが地図を乱す。

 その寂しさが、声を絶対にしない。

 

 新田は端末を開いた。

 

 キャンプの地図が表示される。

 点が並んでいる。

 第一分隊。第二分隊。第三分隊。

 だが、彼はすぐに表示を切り替えた。

 名前のリストへ。

 点ではなく、名前。

 線ではなく、顔。

 地図は必要だ。

 だが、地図だけでは足りない。

 声は必要だ。

 だが、声だけでは足りない。

 隣を見ること。

 疑ってから信じること。

 自分の声でも疑わせること。

 それが、First Margin に対するアラタ陣営の答えだった。

 

 画面の隅に、昨日の残骸のような小さな文字列が一瞬だけ現れた。

 ノイズかもしれない。

 残ったタグかもしれない。

 

 **NURSERY LINK / CITY LAYER**

 

 新田はそれを見た。

 そして、端末を閉じた。

 まだ終わっていない。

 庭師は、まだどこかで声を植えている。

 指揮者は、どの声を使うか選んでいる。

 教図係は、切られた線を持って逃げた。

 花輪は、まだ遠くで輪を作っている。

 だが、今朝のキャンプでは、子どもたちが二人組で確認している。

 声を聞いて、隣を見る。

 地図を見て、足元を見る。

 それは小さな抵抗だった。

 世界を救う仕組みではない。

 だが、目の前の子どもを点にしないための、確かな余白だった。

 

 新田良太は、声を出す前に地図を見た。

 

 そして今度は、地図を閉じる前に、隣を見た。

 ジブリールがそこにいる。

 彼女は頷いた。

 新田も頷き返した。

 

 声は人を動かす。

 地図は人を線にする。

 だが、人は声だけでは動かない。

 地図だけでは帰れない。

 隣を見る。

 名前を呼ぶ。

 疑ってから、信じる。

 

 その小さな手順だけが、庭師の地図に描けない余白として残っていた。

 

 

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