Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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終章 花輪の残り香

 

 

 ロアナプラに朝が来る時、街はいつも少しだけ白々しい顔をする。

 昨夜の銃声など知らない。

 割れたガラスも、焦げた車も、血の匂いも、路地裏で誰かが呻いていたことも、すべて夜の中へ置いてきたのだと言いたげに、港はまた動き出す。

 

 だが、この街は忘れているわけではない。

 ただ、忘れたふりがうまいだけだ。

 コンテナは積まれ、クレーンは軋み、作業員たちは怒鳴り合いながら荷を運ぶ。誰かが昨日死んでも、今日の荷役は止まらない。誰かが昨日裏切っても、今日の取引は始まる。

 

 油膜の浮いた海面に、朝日が歪んで映っていた。

 綺麗とは言いがたい。

 だが、汚いと切り捨てるには、妙に目を引く光だった。

 ロアナプラはそういう街だ。

 壊れたものを直すのではない。

 壊れたまま、その上から次の看板を打ちつける。

 焼けた倉庫の隣で密輸の値段が決まり、弾痕の残った壁の前で安酒が売られ、昨日まで敵だった男が、今日は同じテーブルで煙草を吸っている。

 

 生きている者は、死者の分まで働く。

 ただし、祈るためではない。

 自分が明日も生きている保証を買うためだ。

 

     *

 

 ラグーン商会の事務所にも、いつもの湿った空気が戻っていた。

 天井扇は回っている。

 だが、涼しさはない。

 ただ部屋の中の熱気と煙草の匂いと、昨日から残っている疲労を、ゆっくりとかき混ぜているだけだった。

 

 レヴィはソファに寝転がっていた。

 片足を肘掛けに乗せ、片手に酒瓶を持ち、煙草を口の端に引っかけている。目は半分閉じているが、眠ってはいない。

 ベニーはコンピュータの前に座り、画面を睨んでいた。目の下には薄い隈がある。肉体的な疲労より、精神的な消耗のほうが大きい顔だった。

 

 ダッチは机の前で、一枚の請求書を見ていた。

 いや、一枚ではない。

 束だった。

 差出人はバオ。

 イエロー・フラッグ修理費一式。

 その文字だけで、部屋の空気が少し重くなる。

 

「なあ、ダッチ」

 

 ソファの上から、レヴィが気怠げに言った。

 

「何だ」

「その紙束、まだ見てんのか?」

「見てる」

「燃やせば?」

「燃やしても、あいつはもう一束持ってくる」

「じゃあ本人ごと――」

「やめろ」

 

 ダッチは請求書から目を離さずに言った。

 

「まだ最後まで言ってねえ」

「言う前からわかる」

 

 ベニーが画面を見たまま口を挟んだ。

 

「今回は、バオにちょっと同情するよ。店の被害、本当にひどかったし」

 

 レヴィは鼻で笑った。

 

「あの店は元からひでえだろ」

「元からひどい店を、さらにひどくしたんだよ」

「俺だけのせいじゃねえ」

「それはそうだけど、レヴィがいると被害額が跳ね上がるのは統計的に正しいと思う」

「統計で人を撃つぞ」

「やめて。統計に罪はない」

 

 ダッチは請求書の一枚を持ち上げた。

 

「壁、窓、床、カウンター、酒瓶、椅子、テーブル、照明、看板、精神的苦痛、今後の危険予備費」

 

 レヴィが顔をしかめる。

 

「最後の二つ、何だよ」

「精神的苦痛は、お前を見たバオの心労だろうな」

「じゃあ今後の危険予備費は?」

「お前がまた来る可能性への備えだ」

 

 ベニーが真面目な顔で頷いた。

 

「妥当だね」

「妥当じゃねえよ。未来の俺にまで請求すんな」

 

 窓際に立っていたロックは、苦笑した。

 外では、いつものロアナプラが動いている。

 怒鳴り声、車のクラクション、遠くの銃声、安酒場から漏れる音楽、そして潮と油の匂い。

 何も変わっていないように見える。

 だが、ロックの中には変わってしまったものがあった。

 ポケットの中の小さな記憶媒体。

 重さなど、ほとんどない。

 だが、それはロックの立ち方を変えていた。

 

 花輪の断片。

 ココ・ヘクマティアルから預かった、危険な半分。

 あれは武器ではない。

 少なくとも、銃ではない。

 だが、銃より静かに人を動かせる。

 銃より遠くの戦場を作れる。

 引き金を引いた本人にさえ、自分が何を撃ったのかわからなくさせる。

 ロックはそのことを、もう知ってしまっていた。

 

「ロック」

 

 ダッチが呼んだ。

 

「はい」

「後でバオのところへ行って、交渉してこい」

「俺がですか?」

「お前が一番、撃たれにくい」

 

 レヴィが笑った。

 

「いい評価じゃねえか」

 

「嬉しくない」

 

 ベニーが言う。

 

「でも本当に、ロックが一番いいと思う。僕が行ったら、たぶん泣きつかれる。レヴィが行ったら請求額が二倍になる。ダッチが行ったら、交渉は成立するけど、最後にバオが人生相談を始める」

 

 ダッチが少しだけ眉を動かす。

 

「なぜだ」

「頼れる大人に見えるから」

 

 レヴィが吹き出した。

 

「ダッチが頼れる大人? ベニー、お前、疲れてんな」

「疲れてるよ。とても」

 

 ロックは請求書を受け取り、小さく息を吐いた。

 

「わかりました。行ってきます」

 

 そう言った直後、ベニーが静かに口を開いた。

 

「ロック」

「何だ?」

「まだ持ってるよね」

 

 部屋の空気が、少し変わった。

 レヴィがソファの上で片目を開く。

 

「何をだ」

 

 ベニーは答えなかった。

 ロックも答えなかった。

 その沈黙だけで、ダッチは察した。

 

「ベニー。何かわかったのか」

 

 ベニーはキーボードを叩き、画面を切り替えた。

 モニターに地図が映る。

 東南アジア沿岸部。

 複数の通信線。

 消えたノード。

 破壊された中継点。

 そして、海上に残る小さな点。

 

 陸ではない。

 港でもない。

 どの国の領土とも言い切れない、曖昧な海域。

 

「これは?」

 

 ロックが訊いた。

 ベニーは椅子の背にもたれた。

 

「花輪の通信ログの残りカスだよ。ロアナプラのノードを潰した後、一瞬だけ別の中継点が反応した。ほんの数秒。でも位置情報が少し残ってた」

 

 ダッチが地図を見る。

 

「船か」

「たぶん。固定施設ならもっと信号が安定している。これは動いてる。しかも、こっちに探知されたことを嫌がったみたいに、すぐ沈黙した」

 

 レヴィが身体を起こした。

 

「つまり、まだ終わってねえってことか」

 

 ベニーは疲れたように笑った。

 

「終わっててほしかったけどね」

 

 ロックは画面の小さな点を見つめた。

 ただの座標。

 ただの光点。

 だが、その向こうには、まだ見えない誰かの意志がある。

 ロアナプラを実験場にした者たち。

 街の通信を歪め、人間同士をぶつけようとした者たち。

 そして、その結果を数字とログとして眺めている者たち。

 ロックは、そういう人間を知っている。

 

 戦場ではなく、会議室にいる人間。

 銃を撃たずに戦争を動かす人間。

 死者の名前ではなく、損失率と成果だけを見る人間。

 ダッチが低く言った。

 

「今は追わない」

 

 レヴィが顔を上げる。

 

「何でだよ」

「船も人も消耗してる。情報も足りん。見えない相手を海の上で追うほど、俺は若くない」

「金になるかもしれねえぞ」

「金になるかどうかもわからん」

「ココに聞けばいいだろ」

 

 ダッチはロックを見た。

 

「聞いて、あの女が全部話すと思うか」

 

 ロックは答えられなかった。

 レヴィは短く笑う。

 

「話さねえな」

 

 ベニーが呟いた。

 

「半分くらいは話すかも」

 

 全員が妙な顔をした。

 レヴィが嫌そうに舌打ちする。

 

「おい、やめろ。その言い方、感染してんぞ」

 

 ロックは思わず笑った。

 

「確かに」

 

 ダッチもわずかに笑った。

 だが、すぐに表情を戻す。

 

「ロック」

「はい」

 

「持っていることを忘れるな」

 

 ロックはポケットに手をやった。

 

「忘れられません」

「ならいい。だが、持っているだけで何かを選んだ気になるな。情報は銃と同じだ。抜く時より、抜かずに持っている時のほうが厄介なこともある」

 

 レヴィが鼻で笑った。

 

「銃は抜いたほうがわかりやすいだろ」

「だからお前はわかりやすい」

「褒めてんのか」

「半分な」

 

 レヴィは天井を仰いだ。

 

「最悪だ。この言葉、この部屋から追放しろ」

 

     *

 

 イエロー・フラッグは営業していた。

 

 正確には、バオが営業していると言い張っていた。

 入り口の扉は歪み、窓には板が打ちつけられ、壁には補修途中の跡が残っている。看板のネオンは半分だけ点き、半分は沈黙していた。

 店内には、割れた瓶の匂いと新しい木材の匂いと古い酒の匂いが混ざっていた。

 ロックが入ると、バオはカウンターの向こうからじろりと睨んだ。

 

「来たか」

「来ました」

「払え」

「まだ何も話していません」

 

「話はいい。払え」

「交渉に来たんです」

「交渉ってのは、払う側が金額を下げるために使う汚い言葉だ」

 

 カウンターの端で、エダが酒を飲んでいた。

 修道服の袖口を軽く揺らしながら、面白そうに二人を見ている。

 

「バオ、いいこと言うじゃない」

「お前は黙ってろ。今回の被害者は俺だ」

「この街で被害者面できる人間は貴重よ。大事にしなさい」

「大事にするから金をくれ!」

 

 ロックは請求書を広げた。

 

「この“今後の危険予備費”ですが」

「必要経費だ」

「まだ起きていない被害です」

「お前らが存在してる時点で、ほぼ確定した未来だ」

 

 エダが笑う。

 

「反論しにくいわね」

 

 ロックは彼女を見た。

 

「エダ、味方してください」

「味方してるわよ。現実の」

「それは敵です」

 

 店の奥から、張が静かに姿を現した。

 彼はいつものように穏やかな顔をしていたが、その目は店内の全員の位置を自然に把握している。ロアナプラで本当に危険な人間ほど、穏やかな顔で部屋に入ってくる。

 

「ロック」

「張さん」

「交渉は進んでいるかい」

「進んでいません」

「この街で誠実に交渉を始めると、たいてい時間がかかる」

 

 バオが叫んだ。

 

「俺は誠実だ!」

 

 張は微笑むだけだった。

 彼はカウンターに座り、静かに茶を受け取った。

 

「ところで、ロック」

 

「はい」

 

「君は厄介なものを預かったようだね」

 

 ロックの手が止まった。

 バオは顔をしかめる。

 

「おい、俺の店で厄介な話を始めるな。陰謀なら外でやれ。銃撃戦ならもっと外でやれ。請求書の話ならここでやれ」

 

 エダはグラスを傾ける。

 

「バオ、残念だけど、陰謀と請求書はよく同じテーブルに乗るのよ」

「乗せるな!」

 

 ロックは張とエダを見た。

 

「どこまで知っているんですか」

 

 エダは軽く肩をすくめる。

 

「ココが全部を持っていないこと」

 

 張が続けた。

 

「そして、君が一部を持っていること」

 

 ロックは黙った。

 隠せるとは思っていなかった。

 だが、こんなに早く知られるとも思っていなかった。

 ロアナプラでは、秘密は貨幣に似ている。

 隠したつもりでも流通する。

 誰かの沈黙から、誰かの視線から、誰かの不自然な行動から、少しずつ形を変えて広がっていく。

 エダが言った。

 

「あなた、顔に出るのよ。私は重大な秘密を持っています、でもそれを秘密にしていることも秘密です、って顔」

「そんな顔をしていましたか」

「してた」

 

 張も穏やかに頷く。

 

「沈黙にも形がある。君の沈黙は、少し角が立っている」

 

 バオがカウンターを叩いた。

 

「俺の店で詩みたいなことを言うな! 修理代を払え!」

 

 ロックは小さく息を吐いた。

 

「俺は、どうするべきだと思いますか」

 

 エダはすぐには答えなかった。

 張も口を開かなかった。

 いつもなら、皮肉か軽口が返ってくる場面だった。

 だが、二人は沈黙した。

 その沈黙だけで、ロックは自分が持っているものの重さを再確認した。

 先に口を開いたのは、エダだった。

 

「誰にも全部は渡さないこと」

「前にも聞きました」

「何度でも言うわ。ココにも、CIAにも、ホテル・モスクワにも、三合会にも、そしてあなた自身にも」

「自分自身にも?」

 

 ロックは思わず聞き返した。

 エダは頷く。

 

「ええ。自分なら正しく扱える。自分だけは違う。そう思った瞬間、人間はだいたい階段を一段踏み外す」

 

 張が静かに続ける。

 

「情報は銃より静かだ。銃は発砲すれば音がする。誰が撃ったか、誰が倒れたか、少なくともその場にいる者には見える。だが情報は違う。使われたことに気づかないまま、人の行動だけが変わる」

「花輪と同じですね」

 

 ロックが言うと、張はゆっくり頷いた。

 

「そうだ。だから危険なのだよ」

 

 エダはグラスの中の氷を揺らした。

 

「ココは危険よ。でも、彼女は自分が危険だと知っている。問題は、その自覚がいつまで効くか」

「自覚があれば十分では?」

「十分じゃない。自覚はブレーキだけど、ブレーキを踏むかどうかは別の話」

 

 ロックはポケットの中の記憶媒体に触れた。

 

「俺に、それを見張れと?」

 

 エダは笑った。

 

「あなたが自分で受け取ったんでしょ」

「受け取らされた気もします」

「この街で完全に自分の意思だけで動いている人間なんていないわ。みんな誰かに押されて、誰かを押し返して、たまに自分で歩いた気になってる」

 

 張が言う。

 

「それでも、歩いた先の責任は残る」

 

 バオが耐えきれず叫ぶ。

 

「責任の話をするなら、まず店の修理代だ!」

 

 重くなりかけていた空気が、少しだけ割れた。

 ロックは苦笑する。

 

「わかりました。まずはそこから片づけます」

 

 エダが笑う。

 

「世界の秘密より酒場の修理代。ロアナプラらしい順番ね」

 

 張も微笑んだ。

 

「大きすぎる問題は、小さな請求書から始めるのがいい」

 

 バオは請求書を突きつけた。

 

「小さくねえよ!」

 

     *

 

 その頃、ロアナプラから遠ざかる海の上で、HCLIの貨物船は南へ進んでいた。

 白い船体は陽光を浴びていたが、爽やかさはなかった。

 武器を積む船には、どれほど白い塗装をしても、どこか鉄と油と火薬の気配が残る。

 

 甲板に立つココ・ヘクマティアルの白い髪を、海風が揺らしていた。

 ロアナプラはもう見えない。

 だが、あの街の音はまだ耳の奥に残っている。

 銃声。

 バオの怒鳴り声。

 レヴィの笑い声。

 ロックの問い。

 そして、花輪が発した電子的なノイズ。

 ココは海を見ていた。

 海は広い。

 国境線など見えない。

 地図の上では引ける線も、波の上ではすぐに消える。

 だからこそ、海は武器商人に向いている。

 

 そして、国家が隠し事をするにも向いている。

 レームが甲板へ出てきた。

 

「お嬢」

「何?」

「半分、置いてきましたな」

 

 ココは笑った。

 

「ええ」

「ロックに持たせた理由を、部下として聞いておくべきでしょうか」

「聞きたい?」

「給料分は」

「じゃあ、半分だけ」

 

 レームは苦笑した。

 

「その言い方、ロアナプラに置いてきてほしかったですな」

「便利だから持って帰ったの」

 

 ココは海から目を離さない。

 

「ロックは、私を疑う」

「でしょうな」

「私が間違えたら、たぶん最初に言葉で止めようとする」

「撃つ前に?」

「ええ」

「それは貴重ですな。戦場では、撃つ前に喋ってくれる人間は減りますから」

「でしょ?」

 

 レームは煙草に火をつけた。

 海風で火が一度揺れたが、すぐに安定する。

 

「ですが、危ういですぜ」

「ロックが?」

「ええ。あの男は盤面を見る。見るだけで済めばいいですが、人間は見続けると、いつか自分も駒を動かしたくなる」

 

 ココは少しだけ笑った。

 

「それも見たい」

「悪趣味ですな」

「知ってる」

 

 背後からバルメが歩いてきた。

 彼女は会話の最後だけ聞いていたらしい。表情はいつものように静かだったが、目だけはココを真っ直ぐ見ている。

 

「ココ」

「バルメ」

「ロックにデータを渡したのは危険です」

「そうね」

「彼は軍人ではありません」

「ええ」

「商人でもありません」

「元商社マンよ」

「今はロアナプラの人間です」

 

 ココはその言葉に少しだけ目を細めた。

 

「バルメがそう言うの?」

「完全には染まっていない。でも、もう戻れないところにいる」

「だからいいの」

 

 バルメは黙った。

 ココは海を見ながら続けた。

 

「完全にこちら側へ来た人間は、私を疑わなくなる。完全に外にいる人間は、私を理解しようとしない。ロックはその間にいる。だから、私が見落とすものを見る」

「あなたは、自分が見落とすことを前提にしている」

「もちろん」

 

 バルメの声が少し低くなった。

 

「怖い?」

 

 ココはすぐには答えなかった。

 海の青と、空の青が、遠くで曖昧に混ざっている。

 その境目を見つめながら、彼女は言った。

 

「怖いわ」

「何が?」

「自分が正しいと思い込むこと」

 

 バルメは何も言わなかった。

 その言葉は、ココが本当に怖がっているものの名前だった。

 敵ではない。

 弾丸でもない。

 裏切りでもない。

 自分自身の中にある、止まらなくなる可能性。

 バルメは静かに言った。

 

「あなたが自分を疑う限り、私はそばにいます」

 

 ココは振り返る。

 

「疑わなくなったら?」

 

 バルメは迷わなかった。

 

「止めます」

 

 ココは笑った。

 それは、いつもの軽い笑顔ではなかった。

 少しだけ安堵が混じっていた。

 

「ありがとう」

「礼を言うことではありません」

「言うことよ」

 

 レームが煙草の煙を吐いた。

 

「お嬢は、部下に恵まれていますな」

「知ってる」

 

 その時、船内からマオが顔を出した。

 

「社長」

「何?」

「キャスパーさんから通信です」

 

 ココの笑顔が、わずかに変わった。

 

「兄さんから?」

「ええ。妙に機嫌が良さそうです」

 

 レームが眉を上げる。

 

「それは悪い知らせですな」

 

 バルメも短く言った。

 

「同感です」

 

 ココは楽しそうに笑い、船内へ向かった。

 

     *

 

 通信室の画面に、キャスパー・ヘクマティアルの顔が映っていた。

 彼の笑顔は、ココの笑顔に似ている。

 だが、似ているからこそ違いも目立つ。

 ココの笑顔が火を連れてくるものなら、キャスパーの笑顔は金庫の鍵を回す音に似ていた。

 

『やあ、ココ。ロアナプラ旅行は楽しかったかい?』

「旅行じゃないわ」

『ずいぶん派手な観光だったと聞いてるよ。港湾地区、PMC、ホテル・モスクワ、三合会、暴力教会。お前は本当に賑やかな場所が好きだな』

「兄さんほどじゃない」

『僕は静かな商売が好きなんだ』

「静かな商売人は、笑いながら火薬庫の隣に店を出さない」

 

 キャスパーは笑った。

 

『相変わらず手厳しい』

「用件は?」

 

『花輪』

 

 通信室の空気が変わった。

 レームは煙草を消し、バルメは無言で画面を見る。マオは壁にもたれたまま腕を組み、ルツは目だけを細くした。

 ココは笑顔を崩さない。

 

「どこで聞いたの?」

『武器商人には耳が多い』

「耳だけ?」

『目も少し。鼻もね。金と火薬の匂いには敏感なんだ』

「売り物じゃないわ」

『本当に?』

 

 キャスパーの笑みが深くなる。

 

『お前が“売らない”と言う時は、値段ではなく使い道を考えている時だ』

「兄さんは私を何だと思ってるの?」

『妹』

「それだけ?」

『とても危険な妹』

「よく言われる」

『だろうね』

 

 ココは椅子に座った。

 

「花輪を作ったのは誰?」

 

 キャスパーはすぐには答えなかった。

 画面越しの沈黙。

 その沈黙が、答えよりも多くのことを語っていた。

 

『一つの国じゃない』

「続けて」

『軍、民間企業、情報機関、財団、武器商人。誰か一人が怪物を作ったんじゃない。みんなで少しずつ餌をやった。責任を薄めながらね』

「名前は?」

『まだ言えない』

「兄さん」

『お前もよくやるだろう? 全部は話さない』

「私は可愛いから許されるの」

『僕も可愛いと思うけどね』

「無理があるわ」

 

 マオが小声で呟いた。

 

「兄妹そろって面倒くせえな」

 

 誰も否定しなかった。

 キャスパーは続けた。

 

『花輪には完成版がある』

 

 ココの笑顔が消えた。

 

『ロアナプラで動いていたのは、実験ノードと制御断片。完成版じゃない』

「場所は?」

『移動している』

「船?」

『たぶんね』

「誰の船?」

『それを探すのが、次のゲームだ』

 

 ココは静かに画面を見た。

 

「兄さんも狙ってるの?」

『僕は商売人だ。欲しい人間がいて、売れるものがあるなら、興味は持つ』

「私が壊すと言ったら?」

『止めないよ』

「本当に?」

『ただし、壊す前に一度見せてほしい』

「やっぱり商売人ね」

『お互い様だろう』

 

 ココは少し身を乗り出した。

 

「今回、ロアナプラを実験場にした連中の中に、HCLI関係者はいる?」

 

 通信室が静かになった。

 キャスパーは笑っている。

 だが、目の奥が冷えていた。

 

『いたとしても、もう僕の顧客ではない』

「答えになってない」

『答えにしたくないんだ』

 

 ココは画面を見つめる。

 兄妹の間に流れる沈黙は、他人には読めない種類のものだった。

 

 血縁。

 商売。

 競争。

 信頼。

 警戒。

 そのすべてが、一本の細い糸に結ばれている。

 キャスパーが言った。

 

『それと、もう一つ』

「何?」

『ヨナを見かけたという話がある』

 

 ココの表情が止まった。

 ほんの一瞬だった。

 だが、バルメは見逃さなかった。

 レームも、マオも、ルツも、全員がその一瞬の重さを理解した。

 

「どこで?」

 

 ココの声は静かだった。

 

『東南アジアの沿岸。花輪の移動座標に近い海域だ』

「確かなの?」

『半分くらい』

 

 ココの目が細くなる。

 

「兄さん」

『怒るなよ。お前が一番よく動く餌だから出しただけだ』

 

 バルメの空気が鋭くなる。

 ココは片手を上げて制した。

 キャスパーは笑顔のまま言った。

 

『花輪を追うなら、次は海だ。ロアナプラの泥沼じゃない。国境のない水の上だ。そこでは街のルールも、バラライカの縄張りも、ラグーン商会の抜け道も使えない』

「兄さんは何を望んでいるの?」

『商売』

「嘘」

『じゃあ、半分は商売』

「残り半分は?」

 

 キャスパーの笑みが、少しだけ薄くなった。

 

『家族の問題だ』

 

 通信は切れた。

 画面が暗くなる。

 通信室には、船の機械音だけが残った。

 ココはしばらく動かなかった。

 やがて、ゆっくり立ち上がる。

 

「進路変更」

 

 レームが尋ねる。

 

「どちらへ?」

 

 ココは海図を広げた。

 キャスパーが送ってきた座標に指を置く。

 

「南東へ」

 

 バルメが言った。

 

「ヨナを探すのですか」

 

 ココは答えない。

 レームが言う。

 

「花輪を追うのですか」

 

 それにも答えない。

 マオがため息をついた。

 

「両方って顔だな」

 

 ルツが静かに言う。

 

「面倒になる」

 

 ワイリが明るく言った。

 

「いつも通りだね」

 

 ココは笑った。

 いつもの笑顔だった。

 だが、その奥にある光は、ロアナプラにいた時とは違っていた。

 

 戦略。

 怒り。

 好奇心。

 焦り。

 そして、どこか個人的な痛み。

 

「大丈夫」

 

 ココは言った。

 

「今度は、私たちの番よ」

 

     *

 

 夜。

 ロアナプラでは雨が降っていた。

 激しい雨ではない。

 街の汚れを洗い流すには弱すぎる雨。

 ただ、ネオンの色を少し滲ませ、油の匂いを少し薄め、銃声の残響を少しだけ遠くする雨だった。

 ラグーン商会の事務所で、ロックは一人、窓の外を見ていた。

 レヴィはソファで眠っている。

 ベニーはまだコンピュータの前にいる。

 ダッチは奥の部屋で電話をしていた。

 

 机には、海上座標を印刷した紙。

 ポケットには、半分のデータ。

 雨音が窓を叩く。

 ロックは、ココの最後の言葉を思い出していた。

 ――あなたが私を止める日が来たら、ちゃんと本気で来てね。

 

 彼女は冗談のように言った。

 だが、本気だった。

 ロックにはそれがわかっていた。

 彼女は自分が危険だと知っている。

 だが、知っていることと止まれることは違う。

 その違いを、ロックはもう見てしまった。

 

 その時、事務所の電話が鳴った。

 古いベルの音が、湿った部屋に響く。

 ベニーが顔を上げた。

 

「こんな時間に?」

 

 ロックは受話器を取った。

 

「ラグーン商会です」

 

 ノイズが聞こえた。

 雨音とは違う。

 海の向こうから来るような、ざらついた音。

 その奥に、声があった。

 

『ロック?』

 

 若い声だった。

 短く、硬く、感情を押し殺している。

 ロックの背筋が冷えた。

 

「誰だ?」

 

 沈黙。

 ベニーが椅子から立ち上がる。

 レヴィもソファの上で片目を開けた。

 声は言った。

 

『ココに伝えて』

「君は誰だ」

『花輪は、まだ咲いてる』

 

 ロックは息を止めた。

 声は続ける。

 

『白い船を追うな。追えば、海が戦場になる』

「待て。君は――」

 

 通信は切れた。

 受話器の向こうには、ただノイズだけが残った。

 ロックはしばらく動けなかった。

 ダッチが奥の部屋から出てくる。

 

「どうした」

 

 ロックはゆっくり振り返った。

 

「子供の声でした」

 

 レヴィが上体を起こす。

 

「子供?」

 

 ベニーが端末に飛びつく。

 

「逆探知は?」

 

 ロックは首を振った。

 

「短すぎた」

「何て言ったんだ」

 

 ダッチの声は低い。

 ロックは受話器を置いた。

 

「花輪は、まだ咲いてる。白い船を追うな。追えば、海が戦場になる」

 

 部屋が静まり返った。

 雨音だけが続く。

 ベニーは顔を青くした。

 

「それ、ココの船のことだよね」

 

 レヴィが笑った。

 だが、その笑みはいつものように軽くはなかった。

 

「どうやら、観客席はまた燃えそうだな」

 

 ロックは窓の外を見た。

 雨に濡れたロアナプラ。

 

 黒い海。

 その向こうにいる白い船。

 そして、まだ見ぬ誰か。

 ロックの胸の奥で、一つの名前が浮かんだ。

 

 ヨナ。

 確証はない。

 だが、あの声には、戦場を知る子供の硬さがあった。

 銃を憎みながら銃を持つ者の、乾いた響きがあった。

 ダッチは煙草に火をつけた。

 

「仕事になるなら、請求書を用意する」

 

 ベニーが振り返る。

 

「また関わる気ですか?」

 

 ダッチは窓の外を見た。

 

「向こうがうちの電話番号を知ってる時点で、もう半分関わってる」

 

 レヴィが苦笑した。

 

「半分かよ」

 

 ロックも少しだけ笑った。

 だが、その笑みはすぐに消えた。

 ポケットの中の記憶媒体が、また重くなる。

 軽いはずなのに。

 小さいはずなのに。

 まるで、まだ熱を持っているようだった。

 

 ロアナプラの夜に、朝は来ない。

 ただ、闇の色が変わるだけだ。

 そして今、その闇は海の向こうへ続いていた。

 

 白い船は南東へ向かう。

 黒い街は雨に濡れている。

 その間を、見えない花輪が静かに繋ごうとしている。

 ロックは窓に映る自分の顔を見た。

 観客席は、もう一度燃える。

 

 今度はたぶん、海の上で。

 

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