Guns & Garlands — 銃と花輪   作:たこ焼き 龍月

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第三章 キャスパーの契約書

 

 ラブレス家の夜は静かだった。静かすぎるほどだった。ロアナプラなら、夜は必ずどこかで騒ぐ。怒鳴り声、銃声、車のエンジン音、安酒場から漏れる音楽、誰かの笑い声、誰かの悲鳴。だが、この屋敷の夜は違う。虫の声が聞こえ、風が木々を揺らし、古い壁の中で家そのものがゆっくり息をしているような音だけがある。静けさというものが、ここでは安心の形をしている。だからこそ、ロックには不気味だった。静かであることと、安全であることは違う。むしろ、本当に危ないものほど静かに近づいてくる。銃を持った男より、笑顔で契約書を出してくる男のほうが、時にずっと始末が悪い。

 

 応接室には、夜更けにもかかわらず灯りがともっていた。大きな机の上には、地下通信施設から持ち帰った資料、ベニーが印刷したログ、ラブレス家の旧通信権限に関する書類、そして昼間の代理人が残していった名刺が並んでいる。窓の外には庭が広がっていた。夜の庭は昼間よりも深く、木々の影は黒い海のように見える。ロックはその窓際に立ち、遠くの通信塔跡の方角を見ていた。塔は見えない。だが、そこにあることはわかっている。古い庭の奥に、戦争の鍵が眠っている。

 

 ベニーは端末の前で、地下施設のログを整理していた。目の下の隈は、ロアナプラを出る前より濃くなっている。彼はこの二日で何度「最悪」と言ったかわからない。だが、それでも手は止めない。彼にとって、わからないまま放置することのほうがもっと怖いのだ。

 

 ダッチは机の端に座り、煙草に火をつけずに指の間で転がしている。レヴィはソファを勝手に占領し、靴のまま足を投げ出していた。ファビオラはそれを見て露骨に眉をひそめているが、今は注意する気力もないらしい。ロベルタはガルシアの背後に立っている。少し離れているが、いつでも間に入れる距離だ。ガルシアは机の前に座り、昼間の代理人が置いていった名刺を見つめていた。

 

「投資家グループ、ね」

 

 レヴィが名刺を指で弾いた。

 

「金の匂いがする言葉ほど、血の匂いを隠すのが上手い」

 

 ファビオラが言う。

 

「あなたが言うと妙に説得力があるのが嫌です」

「俺は血の匂いには詳しいからな」

「自慢になりません」

「自慢じゃねえよ。履歴書だ」

 

 ベニーが端末から顔を上げずに言った。

 

「そんな履歴書、受け取った人事担当が泣くよ」

「泣かせるために出すんだよ」

「採用されないだろ」

「撃てば採用だ」

「社会制度を破壊するな」

 

 ガルシアは二人のやり取りを聞いて、少しだけ表情を緩めた。だがすぐに、その顔は硬さを取り戻す。

 

「この人たちは、本当に僕の署名を必要としているのでしょうか」

 

 ベニーは手を止めた。

 

「たぶん、必要としてる。正確には、君の署名そのものというより、ラブレス家が正式に権限を移したという形が欲しい」

 

「形?」

 

 ロックが答えた。

 

「後から責任を押しつけるためだ」

 

 ガルシアはロックを見る。

 

「責任を?」

 

「花輪が使われた時、彼らは言う。権限は合法的に取得した。ラブレス家は合意していた。こちらはインフラ整備のために契約しただけだ、と」

 

 ファビオラが怒りを抑えるように言った。

 

「そんな言い逃れが通るんですか」

 

 ダッチが低く答える。

 

「通すために、書類を作る」

 

 レヴィが笑う。

 

「弾丸より汚ねえな」

 

 ロックは頷いた。

 

「弾丸は撃った方向がわかる。契約書は、撃った人間が最後まで見えないことがある」

 

 ロベルタが静かに言った。

 

「ならば、署名しなければいい」

 

 ベニーは首を振った。

 

「それで終わればいいんだけど。問題は、署名したことにされる可能性もある。あるいは、君が署名せざるを得ない状況を作られる」

 

 ガルシアの顔が曇った。

 

「僕を脅す、ということですか」

 

 レヴィが言う。

 

「お前を直接脅すならまだわかりやすい。家の金、使用人、農園、取引先、地元の病院、学校。そういうところから締めてくるかもな」

 

 ファビオラがレヴィを睨む。

 

「わざわざ怖がらせるようなことを」

 

「怖がっておいたほうがいい。怖がらずに撃たれるよりましだ」

 

 ガルシアは黙っていた。視線は机の上の書類に落ちている。ロックはその横顔を見た。少年の顔だ。だが、ただ怯えている顔ではない。怖さを飲み込もうとしている顔だった。自分の家が、誰かを傷つけるための鍵にされようとしている。自分の署名が、その言い訳に使われようとしている。その事実は、銃口を向けられるよりも静かに彼を追い込んでいた。

 

「僕は」

 

 ガルシアが口を開いた。

 

「僕は、ラブレス家の当主です。でも、まだ何もわかっていません。財産のことも、権利のことも、祖父の時代に何があったのかも。ロベルタやファビオラや、ここで働く人たちが守ってくれるから、僕はここにいられます」

 

 ロベルタが静かに言う。

 

「坊ちゃま、それは当然です」

 

 ガルシアは首を振った。

 

「当然にしてはいけないんです。守られることに慣れてしまったら、僕は何も知らないまま署名して、何も知らないまま誰かを傷つけるかもしれない」

 

 部屋が静かになる。

 レヴィが酒瓶を軽く揺らした。

 

「坊ちゃん、ずいぶん厄介な方向に成長してるな」

 

 ファビオラが怒るかと思ったが、彼女は何も言わなかった。代わりに、ガルシアの背中を見ていた。誇らしさと不安が混じった顔だった。

 

 ロックは言った。

 

「知ることから始めればいい」

「はい」

「ただし、知れば楽になるとは限らない」

 

 ガルシアは小さく笑った。

 

「ロックは、いつも厳しいことを言いますね」

「嘘を言っても役に立たないから」

「ロアナプラの人みたいです」

 

 レヴィが吹き出した。

 

「言われてんぞ、ロック」

 

 ロックは少しだけ苦笑した。

 

「褒め言葉か?」

 

 ガルシアは真面目に答えた。

 

「半分くらいは」

 

 レヴィが天井を仰いだ。

 

「ここにも感染してやがる」

 

 ベニーが疲れた声で言った。

 

「この言葉、もう止められないんじゃないかな」

 

 ダッチがようやく煙草に火をつけた。

 

「止めるべきものは別にある。ベニー、代理人の会社は洗えたか」

 

 ベニーは画面を切り替えた。

 

「いくつか出てきた。表向きは南米のインフラ投資会社。だけど、親会社を辿ると、さらに別の持株会社、その先に海運会社、その先にコンサル会社。典型的な責任逃れの迷路だね」

 

「実体は?」

「まだ断定できない。でも、一つだけ面白い名前が出た」

「面白い?」

「キャスパー・ヘクマティアル」

 

 その名前が出た瞬間、レヴィが舌打ちした。

 

「白いのの兄貴か」

 

 ロックも表情を硬くした。

 

「直接関わっているのか?」

「直接ではない。少なくとも書類上はね。ただ、代理人の会社が利用している海運ルートの一部に、キャスパーの取引網と重なる部分がある。偶然かもしれない」

 

 ダッチが短く言う。

 

「偶然ではないな」

 

 ベニーは頷いた。

 

「僕もそう思う」

 

 ガルシアが聞く。

 

「キャスパーという人は、ココさんのお兄さんなんですよね」

 

 ロックは頷いた。

 

「武器商人だ」

 

 レヴィが付け加える。

 

「しかも、妹より笑顔が信用できねえタイプだ」

「妹も信用できないのですか」

 

 ファビオラが言う。

 レヴィは即答した。

 

「できねえよ」

 

 ロックが横から言う。

 

「ただし、嘘をつく時でも、自分が嘘をついていることはわかっている」

 

 ファビオラは眉をひそめた。

 

「それは信用できる理由になるんですか」

「ならない。でも、見分ける材料にはなる」

 

 ロベルタが静かに言った。

 

「キャスパーという人物は、坊ちゃまに接触する可能性がありますか」

 

 ベニーが答える。

 

「かなり高い。というか、もう間接的には接触してる。昼間の代理人がそうだ」

 

 ガルシアは名刺を見つめた。

 

「彼は、僕に何を売ろうとしているんでしょうか」

 

 ロックは言った。

 

「安心だと思う」

「安心?」

「家を守れる。使用人を守れる。農園を守れる。地域の未来を守れる。そういう言葉で、君に署名させようとする」

 

 レヴィが鼻で笑う。

 

「安心ってのは高い商品だな」

 

 ダッチが低く言った。

 

「しかも不良品が多い」

 

     *

 

 夜がさらに深くなったころ、ラブレス家の屋敷に二度目の来客があった。門番からの連絡を受けたファビオラは、最初それを屋敷へ入れることに強く反対した。ロベルタも同じだった。だが、相手が名乗った名前を聞いた時、部屋の全員が別の意味で黙った。

 

 キャスパー・ヘクマティアル。

 彼は、まるで古い友人の家を訪ねるような気軽さでやって来た。黒い車から降りた彼は、白いスーツではなく淡い色のジャケットを着ていた。場違いなほど涼しげな服装。顔には柔らかな笑み。手には武器ではなく、薄い革の書類ケースを持っている。

 

 レヴィは二階の窓からその姿を見て、低く言った。

 

「来やがった」

 

 ダッチは煙草を灰皿に押しつける。

 

「招いていない客ほど、帰すのが面倒だ」

 

 ガルシアは立ち上がった。

 

「会います」

 

 ロベルタがすぐに言う。

 

「坊ちゃま」

「会わなければ、何を望んでいるのかわかりません」

「私が同席します」

「もちろんです」

 

 ファビオラも言った。

 

「私も」

 

 レヴィが笑う。

 

「じゃあ俺も行くか。ああいう顔した奴は、近くで見るともっとムカつくからな」

 

 ロックはガルシアを見る。

 

「無理に会う必要はない」

「いえ」

 

 ガルシアは首を振った。

 

「逃げていると、僕の名前がどこかで勝手に使われます。なら、正面から聞きます。彼が何を買いに来たのか」

 

 ダッチは少しだけガルシアを見る目を変えた。

 

「いいだろう。ただし、交渉の主導権を渡すな。あの手の男は、座った瞬間から部屋の値段を見積もる」

 

 ガルシアは頷いた。

 

「はい」

 

 応接室でキャスパーを迎えた時、彼は本当に礼儀正しかった。礼儀正しすぎるほどだった。ロベルタやファビオラに丁寧に挨拶し、ダッチに軽く目礼し、レヴィに対しても笑顔を崩さなかった。レヴィだけが露骨に嫌そうな顔をしている。

 

「やあ。君がレヴィか」

「お前に名乗った覚えはねえ」

「噂は聞いているよ」

「ろくな噂じゃねえだろ」

「だから興味深い」

「その笑い方やめろ。撃ちたくなる」

 

 キャスパーは笑った。

 

「撃たれるほどのことは、まだしていないつもりだけどね」

「これからする顔だ」

 

 ロックはキャスパーを見ていた。直接会うのは久しぶりだったが、印象は変わらない。ココとは違う。ココの笑顔は人を巻き込む。キャスパーの笑顔は人を値踏みする。どちらも危険だが、危険の温度が違う。ココは火に近い。キャスパーは刃物に近い。

 

 ガルシアは正面の椅子に座った。

 

「キャスパー・ヘクマティアルさんですね」

「そうだ。君がガルシア・ラブレス。若い当主にしては落ち着いている」

「落ち着いているわけではありません」

「なら、そう見せるのが上手い」

「本題に入ってください」

 

 キャスパーは少しだけ楽しそうに目を細めた。

 

「いいね。時間を大切にする若者は好きだ」

 

 彼は書類ケースを開けた。中から出てきたのは、厚みのある契約書だった。紙は上質で、印刷は美しく、表紙には投資会社の名前とラブレス家の正式名称が並んでいる。書類というものは、見た目が整っているほど恐ろしい。そう思うのはロックだけではなかった。ガルシアも、それを見た瞬間に息を呑んだ。

 

「これは?」

「提案書だよ。ラブレス家が保有する旧通信権限の一部を、こちらの管理会社へ移譲する。代わりに、ラブレス家には十分な対価が支払われる」

 

 ファビオラが鋭く言った。

 

「昼間の代理人と同じ話ですか」

「似ているが、少し違う。彼らは買いたがっている。僕は整理したい」

 

 レヴィが鼻で笑う。

 

「出たよ。商売人の便利な言葉」

 

 キャスパーは彼女を見る。

 

「整理は大事だよ。散らかった市場では、事故が起きる」

「お前が市場って言うと、死体まで値札ついてそうだな」

「死体に値段はつけない。つけるなら、死ぬ前の人間関係だ」

 

 空気がわずかに冷えた。

 ロベルタの視線が鋭くなる。

 キャスパーは平然としている。

 ガルシアは契約書を見たまま言った。

 

「この権限を、何に使うつもりですか」

「公式には、地域通信網の再整備。農業支援、教育、災害対策。君の家の理念にも合う」

「公式には?」

 

「非公式には、花輪の完成版に近づくための鍵になる」

 

 あまりにあっさりと言ったので、ファビオラが言葉を失った。

 ロックが口を開く。

 

「隠さないんですね」

 

 キャスパーはロックを見た。

 

「隠したほうがよかったかな?」

「普通は隠します」

「普通の嘘は、ここにいる人たちには通用しなさそうだ」

 

 レヴィが笑う。

 

「お前、ムカつくけど頭は悪くねえな」

「ありがとう」

「褒めてねえ」

「知っている」

 

 ガルシアは静かに言った。

 

「では、なおさら署名できません」

「なぜ?」

「花輪が人を傷つけるものなら、僕の家の権限を渡すわけにはいきません」

 

 キャスパーは頷いた。

 

「正しい」

 

 ガルシアは戸惑った。

 

「なら、なぜ提案するんですか」

「君が断る理由を確認するためだ」

「どういう意味ですか」

 

 キャスパーは椅子にもたれた。

 

「ガルシア。君が署名しなくても、花輪を欲しがる者たちは諦めない。彼らは別の方法を探す。偽造するか、脅すか、買収するか、君の周囲の誰かを利用するか。権限を持つ者が若く、善良で、責任感があるなら、なおさら扱いやすい」

 

 ロベルタが低く言う。

 

「坊ちゃまを脅しているのですか」

「警告だよ」

「同じことです」

「違う。脅しなら、もっと高く売る」

 

 レヴィが銃に手を近づける。

 

「おい、こいつ今すぐ撃っていいか」

 

 ダッチが言う。

 

「まだだ」

「まだって言ったな」

「言葉の綾だ」

 

 キャスパーは続けた。

 

「僕の提案を受ければ、少なくとも権限の行方は管理できる。市場に放り出されるより、値段をつけて管理されたほうがましなものもある」

 

 ガルシアは首を振った。

 

「それは、悪い人に渡すより、あなたに渡したほうがましだという話ですか」

「そうだね」

「あなたが悪い人ではないと、どうやって信じればいいんですか」

 

 キャスパーは笑った。

 

「信じる必要はない。比較すればいい」

 

 ロックは口を挟んだ。

 

「比較で悪を選ばせるのは、商人の手口です」

 

 キャスパーは嬉しそうにロックを見る。

 

「ロック。君は前よりずっと面白くなったね」

「あなたには言われたくありません」

「ココから何か預かっているだろう」

 

 ロックの表情が動いた。

 レヴィの目も細くなる。

 ダッチは黙っている。

 キャスパーは笑顔のままだ。

 

「安心していい。中身を聞く気はない。いや、本当は聞きたいけど、今聞いても君は言わないだろう?」

 

「言いません」

「いいね。君はちゃんと悪くなっている」

 

 ロックは眉を寄せた。

 

「悪くなった?」

「情報を持って黙る。相手を選んで真実を渡す。責任を感じながら、それでも全部は話さない。それはもう、善良な傍観者の振る舞いじゃない」

 

 ロックは何も言えなかった。

 レヴィが横から吐き捨てる。

 

「余計な分析してんじゃねえよ」

 

 キャスパーは肩をすくめた。

 

「職業病だ」

 

 ガルシアが静かに言った。

 

「キャスパーさん」

「何かな」

「あなたは、僕に何を望んでいますか」

「署名」

「それだけですか」

「それと、選択」

「選択?」

「自分の家の権利が戦争に使われる可能性を知った上で、それをどう扱うか。売る、守る、壊す、隠す。どれを選んでも、君は何かを失う」

 

 ガルシアは契約書を見た。

 そこには美しい言葉が並んでいる。地域の未来、持続可能な通信、社会貢献、災害支援、教育機会の拡大。どれも善良な言葉だ。だが、その言葉の隙間から、別のものが覗いている。花輪。完成版。海上ノード。認証鍵。欲望の市場。

 

「僕が署名しなければ」

 

 ガルシアは言った。

 

「誰かが傷つくかもしれないのですか」

 

 キャスパーは答えた。

 

「署名しても、傷つく人間は出るかもしれない」

「では、どうすれば」

「それを決めるのが当主の仕事だ」

 

 ロベルタが一歩前へ出る。

 

「坊ちゃまに、そのような言い方は」

 

 ガルシアが手で制した。

 

「いいんだ、ロベルタ」

「坊ちゃま」

「聞きます」

 

 ガルシアはキャスパーを見た。

 

「あなたは、僕が署名すると思っていますか」

「今夜はしない」

「今夜は?」

 

「人間は、選択を先延ばしにするほど追い込まれる。明日、別の提案が来る。明後日、別の問題が起きる。一週間後には、君の周囲の誰かが“署名したほうがいい”と言い始めるかもしれない」

 

 ファビオラが怒る。

 

「そんなことはありません」

 

 キャスパーは優しく言った。

 

「本当に? 農園の資金繰りが止まり、取引先が逃げ、使用人たちの生活が危うくなっても?」

 

 ファビオラは言葉を失った。

 キャスパーはガルシアへ視線を戻す。

 

「君は善良だ。だから、家族や使用人を人質にする必要すらない。彼らの将来を想像させるだけでいい」

 

 ガルシアの顔が白くなる。

 ロックは拳を握った。

 レヴィが低く言う。

 

「おい、商人。喋りすぎだ」

 

 キャスパーはレヴィを見た。

 

「君は銃で止める。僕は言葉で動かす。どちらが上品かは、議論の余地があるね」

「俺は自分が上品だなんて言ったことねえ」

「なら君の勝ちだ」

「ムカつくな、こいつ」

 

 ダッチがキャスパーへ言った。

 

「本題はわかった。契約書は置いていけ。返事は後だ」

 

 キャスパーはダッチを見る。

 

「君が決めることではない」

「ここで撃たれずに帰れるかどうかは、ある程度俺が決める」

 

 キャスパーは笑った。

 

「なるほど。説得力がある」

 

 彼は契約書を机の上に置いた。

 

「では、置いていこう。ガルシア、急ぐ必要はない。ただし、時間が君の味方だとは思わないほうがいい」

 

 ガルシアは静かに言った。

 

「僕は、今夜は署名しません」

「賢明だ」

「そして、簡単には売りません」

「それも賢明だ」

「ただ、守るだけでも終わらせません」

 

 キャスパーの笑みが、ほんのわずかに変わった。

 

「どういう意味かな」

 

 ガルシアは机の上の契約書を見た。

 

「僕は、僕の家が何を持っているのか知ります。そして、それが誰かを傷つける鍵なら、渡すか守るかだけではなく、壊すことも考えます」

 

 応接室が静まり返った。

 ロベルタがガルシアを見る。

 ファビオラも同じように見る。

 ロックは、胸の奥で何かが動くのを感じた。

 キャスパーはしばらく黙っていた。

 そして、楽しそうに笑った。

 

「いいね」

「何がですか」

「損を選ぶ可能性を持った当主は、高くつく」

 

 レヴィが吐き捨てる。

 

「結局値段かよ」

「僕の仕事だからね」

 

 キャスパーは立ち上がった。

 

「今夜はここまでにしよう。南米の夜は長い。海も近い。船も動いている。そして、花輪はまだ咲いている」

 

 ロックが言った。

 

「ヨナを知っていますか」

 

 キャスパーの足が止まった。

 部屋の空気が変わる。

 ガルシアはその名前を知らない。だが、ロックとレヴィ、ダッチ、ベニーは、その問いの重さを感じていた。

 キャスパーは振り返った。

 

「知っているよ」

「どこにいる」

「それを聞く権利を、君は何で買う?」

 

 ロックは静かに言った。

 

「買いません」

「なら、答えられない」

「ココには話したんですね」

「少しだけ」

「なぜ」

 

 キャスパーは微笑んだ。

 

「ココは動くから」

「俺たちは?」

「君たちは、巻き込まれてから動く。違うかい?」

 

 レヴィが笑った。

 

「よくわかってんじゃねえか」

「商売人は客の動きを見るものだよ」

 

 ロックはキャスパーを見た。

 

「ヨナは花輪と関係しているんですか」

「半分くらいは」

 

 レヴィがうんざりしたように顔を歪めた。

 

「もうその言い方、世界中で流行ってんのか」

 

 キャスパーは楽しそうに笑った。

 

「便利だからね」

 

 ロックはさらに言った。

 

「彼は危険なんですか」

 

 キャスパーは初めて、少しだけ笑みを薄くした。

 

「危険なのは、彼ではない。彼が見たものだ」

 

 ロックは眉をひそめる。

 

「どういう意味ですか」

「彼は花輪の完成版に近づきすぎた。見てはいけないものを見た。聞いてはいけない声を聞いた。だから、彼の声は今、とても高く売れる」

 

 ココがここにいたら、どんな顔をしただろう。ロックは一瞬そう思った。怒っただろうか。笑っただろうか。あるいは、何も言わずに銃を向けただろうか。

 ロベルタが静かに言った。

 

「人を商品として語るのは、不快です」

 

 キャスパーは彼女を見る。

 

「君ほどの商品価値を持つ人間に言われると、皮肉だね」

 

 その瞬間、空気が凍った。

 レヴィが立ち上がる。

 

「おい」

 

 ロベルタの目が冷たくなる。

 ファビオラが叫ぶ。

 

「撤回してください」

 

 キャスパーは両手を軽く上げた。

 

「失礼。今のは商人の悪い癖だ」

 

 レヴィが一歩近づく。

 

「次に言ったら、その悪い癖ごと歯を折る」

「肝に銘じておくよ」

 

 ガルシアが震える声で言った。

 

「ロベルタは商品ではありません」

 

 キャスパーはガルシアを見る。

 少年の目は揺れている。だが、逃げていない。

 

「そう言い切れるのは、君の強さだ」

「強さではありません。当たり前です」

「当たり前を守るには力がいる」

「なら、僕はそれを持ちます」

 

 キャスパーは少しだけ満足そうに頷いた。

 

「やはり、いい当主になる」

「あなたに評価されたくありません」

「ますますいい」

 

 キャスパーは書類ケースを閉じた。

 

「では、また会おう。次は海の上かもしれない」

 

 彼は去っていった。

 応接室には、契約書だけが残った。

 

     *

 

 キャスパーが屋敷を出た後、しばらく誰も口を開かなかった。窓の外で虫が鳴いている。屋敷の灯りは暖かい。机の上の契約書は静かにそこにある。だが、その紙束は拳銃よりも露骨に部屋を脅していた。

 レヴィが最初に言った。

 

「あいつ、撃っときゃよかったな」

 

 ダッチが答える。

 

「撃ったら話が早く終わりすぎる」

「いいことじゃねえか」

「その後の話が長くなる」

 

 ベニーが契約書をめくりながら呻いた。

 

「これ、かなり厄介だ。表向きには本当に地域通信再整備の契約になってる。災害対策、教育支援、農業支援。しかもラブレス家にかなり有利な条件だ」

 

 ファビオラが言う。

 

「罠なのに、有利なんですか」

「罠だから有利なんだよ。相手に“断るほうが損だ”と思わせるために」

 

 ロックは契約書を見た。

 

「花輪に関する記述は?」

「直接はない。でも、権限の運用範囲が広すぎる。これに署名すると、旧通信権限の管理をほぼ相手に委ねることになる。後から何に使われても、契約上は“拡張運用”で通せる可能性がある」

 

 ガルシアは静かに聞いていた。

 

「つまり、僕が署名すれば」

 

 ベニーは言葉を選ぶ。

 

「花輪完成版の認証に使われるかもしれない」

 

「そして、何かが起きた時、ラブレス家も責任を問われる」

 

 ロックが続ける。

 ガルシアは目を閉じた。

 ロベルタが言う。

 

「署名する必要はありません」

「わかっています」

「坊ちゃま」

「でも、キャスパーさんの言ったことも、全部が嘘ではありません」

 

 ファビオラが声を上げる。

 

「坊ちゃま!」

 

 ガルシアは彼女を見た。

 

「僕たちが署名しなくても、彼らは別の方法を探す。偽造するかもしれない。誰かを脅すかもしれない。ラブレス家の周りを締めつけるかもしれない。僕は、それも考えなければいけない」

 

 レヴィが低く言った。

 

「坊ちゃん、商人の言葉を飲み込みすぎると腹壊すぞ」

「はい。でも、吐き出す前に味を知らなければ、毒か薬かわかりません」

 

 レヴィは少し目を細めた。

 

「本当に言うようになったな」

 

 ロックはガルシアを見る。

 

「答えを急ぐ必要はない。でも、守るだけでは足りないのは確かだ」

「はい」

「相手は契約書で来た。なら、こっちも情報を集める。権利の構造、関連会社、海上ノード、キャスパーの市場。それを知らないまま判断すれば、相手の盤面で選ばされる」

 

 ガルシアは頷いた。

 

「僕は、自分の家のことを調べます」

 

 ロベルタが言った。

 

「私もお手伝いします」

「ありがとう。でも、僕自身もやります」

 

 ロベルタは少しだけ目を伏せた。

 

「承知しました」

 

 その声には、誇らしさと寂しさが混じっていた。

 レヴィはそれを見て、つまらなそうに視線を逸らした。

 ベニーが画面を見ながら言う。

 

「ただ、こっちも時間がない。地下施設のログによると、海上ノードは南米沿岸へ近づいてる。キャスパーが“市場”と言ったなら、近いうちに何かが始まる」

 

 ダッチが聞く。

 

「場所は絞れるか」

「だいたいの海域なら。でも、相手は動いてる。しかも複数の船舶識別を偽装してるっぽい。こっちのデータだけでは足りない」

 

 ロックは言った。

 

「ココなら知っているかもしれない」

 

 レヴィが笑う。

 

「白いのに聞くか?」

 

 ダッチは少し考えた。

 

「聞かなくても来るだろう」

 

 その時、ベニーの端末が短く鳴った。

 全員が反応する。

 

「何だ」

 

 ダッチが聞く。

 ベニーは画面を見て、苦笑した。

 

「噂をすれば」

「ココか?」

「HCLI経由の暗号化メッセージ。宛先は……ロック」

 

 ロックは眉を寄せた。

 

「俺に?」

 

 ベニーが画面を開く。

 短い文章だった。

 

『ロック。そちらに兄さんが行ったでしょう。契約書に署名しないで。あと、兄さんの笑顔を信じないで。半分は嘘で、半分はもっと悪いものだから。――ココ』

 

 レヴィが吹き出した。

 

「妹にまで言われてんぞ」

 

 ベニーが続ける。

 

「まだある」

 

 画面には続きがあった。

 

『海上ノードの座標を追っている。ラブレス家の鍵が必要とされているなら、そちらはすでに市場の入口にいる。兄さんは商品を売るのではなく、欲しがる人間を集めるつもり。気をつけて。あなたはたぶん、もう招待客よ』

 

 ロックは画面を見つめた。

 招待客。

 嫌な言葉だった。

 呼ばれていないつもりでも、名前はすでに名簿に載っている。そういう意味だ。

 ファビオラが言った。

 

「これは、どういう意味ですか」

 

 ベニーが答える。

 

「キャスパーの海上秘密市場が近いってことだと思う。花輪完成版、ラブレス家の権限、買い手、売り手、妨害したい連中。全部が海の上に集まる」

 

 ガルシアが静かに言う。

 

「僕も、そこへ行く必要があるんですね」

 

 ロベルタがすぐに言う。

 

「いけません」

「ロベルタ」

「坊ちゃまをそのような場所へ連れて行くわけにはいきません」

「僕の署名が必要なら、僕がいない場所で話は終わりません」

「危険です」

「危険だから、僕がいないところで決められてはいけないんです」

 

 ロベルタは言葉を失った。

 レヴィが横から言う。

 

「坊ちゃん、海上の市場ってのは、屋敷の応接室とは違うぞ。相手は契約書だけじゃなくて銃も持ってくる」

「わかっています」

「わかってねえ顔だな」

「わかっていないかもしれません。でも、知らないふりはしません」

 

 レヴィはしばらくガルシアを見た。

 

「……面倒なガキになったな」

 

 ファビオラが怒る。

 

「坊ちゃまに向かって」

「褒めてんだよ」

「どこがですか」

「面倒な奴ほど生き残る」

 

 ダッチが立ち上がった。

 

「明日の朝までに動きを決める。ベニーは海上ノードの位置を絞れ。ロック、ココへ返信しろ。ガルシア、ラブレス家の権利関係を出せるだけ出してくれ。ロベルタとファビオラは屋敷の警備を固めろ。レヴィ」

「何だ」

「酒を控えろ」

「一番難しい注文が来たな」

「仕事だ」

「はいはい」

 

 ガルシアは契約書を見た。

 それは机の上で静かに待っている。

 銃口のように。

 あるいは、扉のように。

 開ければ、何かが始まる。

 開けなくても、外から誰かがこじ開けに来る。

 ロックはガルシアの隣に立った。

 

「怖いか」

 

 ガルシアは少し考え、正直に頷いた。

 

「怖いです」

「それでいい」

「いいんですか」

「怖いと思えるうちは、まだ自分が何を賭けているかわかっている」

 

 ガルシアは契約書を見たまま言った。

 

「僕は、守られるだけでは終われません」

「うん」

「でも、守るために何かを失うのも怖いです」

「それも当然だ」

「ロックは、失うのが怖くないんですか」

 

 ロックはポケットの中の記憶媒体に触れた。

 軽い。

 重い。

 まだ熱を持っているように感じる。

 

「怖い」

 

 彼は言った。

 

「でも、怖いからこそ、誰かに全部任せるわけにはいかない」

 

 ガルシアはゆっくり頷いた。

 窓の外では、南米の夜が深くなっていた。庭は静かだった。だが、その静けさの向こうで、海が動いている。白い船が動いている。キャスパーの市場が開こうとしている。花輪はまだ咲いている。そして、ラブレス家の古い権利は、その花の中心へ向かう鍵になっていた。

 

     *

 

 夜明け前、ロックは一人で廊下に出た。屋敷の中は静かだった。使用人たちは眠り、警備だけが静かに動いている。窓の外では、空がわずかに白み始めていた。長い夜だった。だが、本当の夜はこれから来るのかもしれない。

 

 彼はココへの返信をまだ送っていなかった。

 何を書けばいいのかわからなかった。

 兄を信じるな。

 契約書に署名するな。

 あなたはもう招待客。

 ココの言葉はいつも、忠告と挑発の境目にある。

 ロックは端末を開き、短く打った。

 

『キャスパーは来ました。契約書も。ガルシアは署名していません。海上ノードの情報が必要です。あと、あなたも全部は話していない』

 

 少し考え、最後に一文を足した。

 

『今回は、俺たちも選びます』

 

 送信。

 数秒後、返信が来た。

 早すぎた。

 

『いい答え。ようこそ、次の盤面へ。――ココ』

 

 ロックは小さく息を吐いた。

 その時、背後から声がした。

 

「眠れないのですか」

 

 ロベルタだった。

 いつからそこにいたのか、気配はほとんどなかった。

 

「ロベルタさん」

「さんは不要です」

「……ロベルタ」

 彼女は窓の外を見る。

 

 

「坊ちゃまは変わりました」

「そうですね」

「それが良いことなのか、時々わからなくなります」

 

 ロックは彼女の横顔を見た。

 

「守る相手が変わるのは、怖いですか」

「はい」

 

 ロベルタは即答した。

 

「坊ちゃまが幼いままでいてほしいとは思いません。ですが、坊ちゃまがご自身で危険へ向かわれる時、私は止めるべきなのか、支えるべきなのか、わからなくなる」

「たぶん、両方です」

「難しいですね」

「ええ」

 

 ロベルタは静かに言った。

 

「あなたは、坊ちゃまに似ています」

 

 ロックは驚いた。

 

「俺が?」

「はい。自分が巻き込まれたと思っていながら、いつの間にか自分の意思で残っている」

 

 ロックは苦笑した。

 

「それは、褒め言葉ですか」

「半分は」

 

 ロックは思わず笑った。

 

「この言い方、本当に広がっていますね」

 

 ロベルタは少しだけ口元を緩めた。

 

「もう半分は、警告です」

「警告」

「坊ちゃまを盤面に乗せるなら、あなたも責任を持ってください」

 

 ロックはまっすぐ彼女を見た。

 

「わかっています」

「本当に?」

「完全には、まだ。でも、逃げるつもりはありません」

 

 ロベルタは頷いた。

 

「なら、お願いします」

 

 それは命令ではなかった。

 脅しでもなかった。

 一人の守る者から、もう一人の見届ける者への、重い依頼だった。

 ロックは頷いた。

 

「はい」

 

 夜明けの光が、屋敷の廊下に差し込み始めていた。古い庭が淡く照らされていく。美しい朝だった。だが、その美しさの下で、戦争の準備は静かに進んでいる。

 

 遠い海の上では、白い船が動いている。

 別の海域では、キャスパーの市場が開こうとしている。

 そしてラブレス家の机の上には、まだ署名されていない契約書が置かれていた。

 銃声はない。

 だが、すでに撃ち合いは始まっていた。

 

 弾ではなく、言葉と書類と情報で。

 

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