シスターさんのお秘め事 作:とろみ
モザイクの冷たい手を受け入れてどれくらい経ったのだろうか。
数秒、数十秒、あるいは数時間は経った気もする。
だが覚悟していた痛みはいつまでたっても来ない。
まだ譲渡は終わらないのか、それともすでに譲渡は終わっていて、気づかないままにもう死んでいたりするのか。
「ああ、良かった。てっきり寝ているのかと。」
「……え?」
堂々巡りの思案を打ち切って恐る恐る目を開けると、そこに死後の暗闇は無く、柔らかな月明りが網膜を迎えた。
見れば腕一本分の間近まで来ていたはずのモザイクは少し離れたところに移動していて、異形に変化していた腕もいつの間にか元に戻している。
「……終わり?」
「はい、『戒律』は受け取りましたよ」
意図せず口からこぼれた言葉はすぐさま肯定された。
想定していたことに比べ、ひどくあっけない終わりに拍子抜けする。
今更ながら胸元を見ると、指先が深々と刺さった感触があったはずの胸には、穴どころかわずかな出血も無かった。
心がふわふわとして未だ自分が生きてるという現実感が薄く、無意味に何度も胸元をさする。
「……てっきり私、死ぬんだと思ってた」
私が受け継いでいた『威厳』の『戒律』は血で継承されていたため、前任者が死んだ時に自動で『戒律』は次の継承者に移動していた。
だから、てっきり私は『戒律』を譲渡することは私自身が死ぬことと同義だと受け取っていた。
「『戒律』の継承はなにも前任者の死亡を絶対とはしていません。『戒律』によって死後の魂と肉体は縛り付けられているにもかかわらず、あなたがユスティナ聖徒会の肉体を顕現させられたように、『戒律』には意図的に残された脆弱性がありますから」
今回はそれを使いました、と続けるモザイクの話を未だ呆然としながら聞く。
「あなたが知らなかったのは、『戒律』を守護するため、どこかのタイミングであなたの祖先が知識の伝達をあえて断絶させたからでしょうね」
「……そう、なんだ」
頭が上手く回らず、モザイクが話し終えてからしばらくしてからやっと理解する。
こうして勘違いしていた私としては複雑な気分だけど、それは正しかったと思う。
実際ベアトリーチェに支配されて間接的にとはいえ『戒律』をいいように使われたのだ。
下手に知識を残していれば、私たちはも───
「あ、それでどうします?今から海行きます?」
「……」
(……ん?)
思考の途中に挟まれたモザイクの発言に、ふわふわしていた心が途端にスンと落ち着いた。
よくよく考えなくてもそういえばこの女、最初から分かっていたはずである。
「……ねえ、分かってたよね?」
「はい?」
「私が勘違いしてるってさ」
「なんのことでしょう……?」
半笑いでそうのたまうモザイクにアツコは思わず手が出た。
アツコは
「ああ、そうですね。この時期ですから海と言えばビーチかと思って、漁港を選択肢から外していました。近くに新鮮なサヨリが食べられる港を知ってるんです。そこ行きます?」
こちらが放った連続パンチをひょいひょいと避けながらそんなことをほざくモザイク。
行くわけないだろこの野郎。
「あ、サヨリは今の時期採れませんでした」
自分でも額に青筋が浮いたのが分かった。
───ぶちのめす。
✚ ✚ ✚
十分後。
奮闘するも拳を一発も当てられなかった私は、膝と手を地面について荒い息を吐いていた。
モザイクはそんな私の様子を見て愉快そうにくつくつと笑っている。
は、腹立つ。
「ふふ、申し訳ありません。こちらが継承の概要について伝える前にああも覚悟を示されてしまったものですから、話すタイミングを失ったのです」
「……。この事は絶対に忘れないけど、まあいいよ。まだ用があるんでしょ?なに?」
「あら、気づいていたんですね」
「あの日はやること終わったらすぐどこか行ってたでしょ。だからまだいるってことは何かやることが残ってるんじゃないかって思っただけ」
まあこれでからかうためだけに残っていたとか言われたら、今度こそ一発ブチ当てるまで拳を唸らせるけど。
「ええ、あなたがそうであったように、私にもあなたへ話しておきたいことがありまして」
モザイクはそう答えながら、地面に座り込む私に手を差し出してきた。
それに応えて手を出すと、優しく引っ張り上げられ立ち上がらせられる。
そして私の裾についた砂や塵を払った。
……一連の動作があまりに自然だったためつい受け入れてしまっていた自分に、数秒遅れて驚く。
「今のあなたは『戒律』を手放したとはいえ、未だユスティナ聖徒会の後継者として正当な継承権があります。それはつまり、一応理論的にはユスティナ聖徒会の秘術に干渉することが可能ということです」
ほぼ不可能に近いですがね、と付け加えながらモザイクは話を続ける。
「しかし万が一面倒があっては困りますから、それを手放していただきたいのです。もちろんタダで、とは言いませんよ。実際のところあなたのそれはもはや形だけの継承権ですが、それに足る対価を用意しました。」
モザイクはどこからともなく大きなバックパックを取り出して、中を見るように促してくる。
バックパックを開くと、そこには大量の物資が収納されていた。
資金と銀行の口座、それに当面の食料に嗜好品、弾薬や衣類など、生活に必要なものが全て揃っている。
これから一月は余裕で過ごせそうな量だ。
どこで調べてきたのかヒヨリが好きそうな雑誌も何冊か入っている。
「そしてこれを」
バッグの中身の確認を終えると、モザイクが名刺のような長方形の紙切れを渡してきた。
見ると表面には数字と文字の羅列が書いてある。
「これは?」
「トリニティ辺境にある教会の住所です。のどかな田舎ですから、そこにいる者たちはきっと世俗に疎く、世間を騒がせた指名手配犯の顔など知らぬことでしょう。助けを求めれば寝床と食事を用意してくれるでしょうし、そこで真摯に働いて見せれば、学校へいけるよう手配をしてくれるかもしれません」
憶測のような口ぶりだが、モザイクの言っていることは事実なのだろう。
指名手配犯ではなく、ただの学生として。
生きるため必要になるのは超常の知識なんかじゃなく、よくある一般的な常識だけ。
そういった『普通』を手に入れられるのだと思う。
つまるところ、これはただの善意の申し出なんだ。
面倒がどうとか言っていたが、実際は私たちをしがらみから解放するための回りくどい助け船だった。
思えば最初からそうだった。
あの日儀式の遂行に手間取っていた私に手助けを申し出たのもそう。
超常の知識と技術に精通すればするほど、モザイクがわざわざ手を貸した理由には冷たい合理性以外の比重が多いことが分かった。
……でも。
「これはいらない」
バッグと住所が書かれたカードをモザイクに返す。
「ああ、提案を断るわけじゃないよ」
怪訝な表情を浮かべているであろうモザイクに断りを入れる。
「継承権の放棄だっけ、それは受け入れる。でも対価にするのはもっと別のものがいい」
「……何か不足がありましたか?希望があれば追加で取り寄せても構いませんが」
「いや、物資は十分過ぎるくらいだったよ」
「……では何を望むのというのですか?」
「私が対価に欲しいのはね、権利」
「権利?」
「『あなたが困っていると私が判断した時、私なりの方法であなたを助ける権利』。あなたが強引に私を助けてくれたように、私がいつかあなたを助ける、そのための権利」
「それは……」
「もちろんこれだけだと悪用できちゃうから、私の殺害権もあげる。あなたが不利益を被ったと判断した時即座に私を始末できる契約を重ねてすればいい。どうかな?」
「……そうまでする意義を感じられません。先ほども言いましたが、あなたが助かったのはあなたが決断した取引による妥当な……」
「それでも私は『助けてもらった』と思ってるよ。さっきも言ったけどね」
「……木っ端程度の対価で、無意味どころか明確なリスクのある契約をするのは賢いとは言えません。その契約は私であればいくらでも悪用が可能ですし、そも私が困るような事態において、あなたの力が役に立つとは思えませんから」
「……」
「……」
「じゃあもう一つ対価をちょうだい?それならいいでしょ?」
「いえ、そもそもそんな契約を結ぶのが」
「でもさ、私譲る気ないよ?」
「……」
あちらにも私が意見を変える気が無いことを、うすうす悟っていたのだろう。
私が無言になって少しして、モザイクはしぶしぶと言った様子で口を開いた。
「……なんですか」
「さっきのバックパックの中身からいくつか買い取りたいものがあるんだけど、いいかな?」
「……別にお金など払わなくても結構ですが」
「ああ、買い取りたいっていうのはただのお願い。もう一つの対価にして欲しいことは別にあるから」
「はい?」
「あっちょっと待ってて、お金取ってくるから」
✚ ✚ ✚
「……まったく、もはやあって無いような継承権の破棄契約を結ぶ程度で、ここまで面倒なことになるとは。とんだ時間を取られました」
モザイクはお金を取りにいった私を律儀に待っていて、その後、継承権の破棄と私の命を担保にすることで、私が望んだ二つの対価を叶えることを約束する契約を交わした。
「……それにしても、二つ目の望みはあれで良かったのですか?」
「うん、そのために貯めてたお金だったからね」
私の返答にモザイクは、そうですか、と一言つぶやいて私に背中を見せた。
「では、さようなら」
「うん、またね」
そのままモザイクは別れの言葉を言うと、現れた時と同様音も無く、忽然と姿を消した。
「……」
一人屋上に残された私は、端に設置されたボロボロの手すりに体を預け、遠くに見える空を見上げる。
月と星が瞬いているこの夜空も、あと数時間もすれば少しずつ明るくなって、太陽が顔を出すのだろう。
……もう迎えることは無いと思っていた朝。
それがそんなにも近くにあるのだと思うと、少し不思議な感じがする。
明日はどんな日になるのだろうかと、ふと考える。
漠然と、良い日になってくれるといいなあ、と思った。
「……いや、きっと明日は良い日になる」
物事の見たい側面だけを見て、都合の良い解釈を世界に押し付ける。
それでいい。
「それが
✚ ✚ ✚
「こ、これ雑誌で見たやつ!」
「うまい!あまい!うまい!」
「おいしい~!」
いくつもの歓声が響く室内。
ここアリウス生収容所では、少女たちが色めき立っていた。
なぜなら唐突に集合がかけられたかと思えば、全員にお菓子が詰まった袋が渡されたからだ。
しかも妙に高級そうな包装がされていて、実際に食べてみればそれに見合った味がするのだ。
この急に訪れた幸運にアリウス生たちは興奮し、笑顔を浮かべている。
「シスター、このお菓子どうしたの?今日は何かのお祝いの日なの?」
「いえ、ここにいるアリウス生の方々に、と先日有志の方にいただいたんですよ」
そんな喜びに満ちた空間の後方で、小柄な少女とシスター服の少女が話している。
「へー、変な人がいたもんだね。なんて人?名前は?」
「ああ、それは……あれ?そういえば名前を聞くのを忘れていました」
「えぇ~?しっかりしなよ~」
小柄な少女は呆れたような目をして、隣に座るシスター服の少女の脇腹をつつく。
「申し訳ありません、なにぶん突然のことだったので……。白いフード付きのジャケットを着て、薄紫色の髪をおさげにしていたのは覚えているのですが……。───あっ、いえ、もう一つ思い出しました。たしか周りにいた方たちに『姫』と呼ばれていましたね」
「えっ、それって……」
シスター服の少女の言葉を聞いた小柄な少女は、衝撃を受けたように少し目を見開いた。
「おや、知り合いの方でしたか?」
「ああ、いや、えっと……知らない。」
「そうでしたか、残念です。お礼ができればと思っていたのですが」
「……うん、そうだね。もし会えたらお礼しなきゃ」
そこまで話すと、小柄な少女はシスター服の少女に一言別れを告げ、他のアリウス生の集団の方へ向かう。
「……そっか。私たちのこと、覚えててくれたんだね」
もらったお菓子の袋を胸に抱きしめて、小柄な少女は少し頬をほころばせながら、静かにそう呟いた。