しんしんと冷える冬の夜だった。
壁の奥深く、人里離れた山奥に佇む一軒の家。そこには、世界から爪弾きにされた東洋人の血を引く母と、その家族が静かに暮らしていた。ミカサ・アッカーマンの体の中には、彼女自身もその正体を知らない「特別な存在」が息を潜めていた。
(……ミカサ、外が騒がしいよ。浅ましい人間の、嫌な匂いがする)
脳裏に直接響くのは、鈴の音のように澄んだ、けれど酷く冷徹な少年の声。ミカサの精神の奥底に棲まう鬼――『阿朱羅丸』だ。幼いミカサにとって、彼は自分だけの秘密であり、誰よりも心を許せる唯一無二の相棒だった。
「……え?」
ミカサが小さく呟いた瞬間、現実の平穏は音を立てて崩壊した。けたたましい音を立てて扉が蹴破られる。
突如として侵入してきた、三人組の男たち。彼らの目的は、希少価値の高い東洋人の女を攫い、地下街で売り飛ばすことだった。
「な、なんだお前たちは――がはっ!?」
応対しようとした父親の胸に、無慈悲な斧が叩き込まれる。鮮血が飛び散り、父は一言の断末魔も残せず床に倒れ伏した。
「あなた! 嫌……ミカサ……逃げて――!」
母親がミカサを庇うように立ちはだかるが、男たちの一人が容赦なくその脳天へ手斧を振り下ろした。
肉が裂け、骨が砕ける生々しい音が狭い部屋に響き渡る。温かかったはずの母親の体が、冷たい床へと崩れ落ち、またたく間に絨毯を赤黒く染めていった。
「あ……あ……」
喉が恐怖で震え、声にならない。
さっきまで笑い合っていた両親が、一瞬にして物言わぬ肉塊に変えられた。世界はこれほどまでに残酷で、理不尽に満ちている。恐怖と絶望に支配され、ミカサの小さな体がガタガタと震えだす。
「おいおい、母親の方は死んじまったか。まあいい、このガキだけでも上等な値がつく」
「へへ、大人しくしな、お嬢ちゃん」
下卑た笑みを浮かべ、汚れた手がミカサへと伸びる――その時だった。ミカサの脳内で、阿朱羅丸の冷ややかな、しかし激しい怒りを孕んだ声が爆発した。
(――不愉快だ。僕のミカサに、そんな汚い手で触ろうとするな)
ミカサの胸の奥から、ドクン、と熱い衝撃が突き抜けた。
(ミカサ、僕を呼びなよ。お前の血を、肉を、魂を僕に寄越しな。そうすれば、あの虫ケラどもを一人残らず引き裂いてあげる)
阿朱羅丸の声に、ミカサの心が呼応する。恐怖は消え去り、代わりにドス黒い殺意と、絶対的な依存心が頭をもたげた。
そうだ、私には阿朱羅丸がいる。阿朱羅丸さえいれば、何も怖くない。
「……阿朱羅丸」
ミカサがその名を口ずさんだ瞬間、彼女の細い身体から、禍々しいまでの黒と紫のオーラが吹き出した。
男たちが「な、なんだ!?」と怯む。ミカサの右手の中に、虚空から染み出すようにして「それ」が現れた。
漆黒の刀身に、妖しく輝き放つ緑色の刃紋。冷徹な美しさと、圧倒的な死の気配を纏った一本の日本刀。阿朱羅丸が己の身を具現化させた、呪いの刃。
その刀を握り締めた瞬間、ミカサの脳内で何かが『カチリ』と音を立てて繋がった。アッカーマンの血に眠る、戦いへの衝動。
かつて一族が蓄積してきた、気の遠くなるような戦闘経験の全てが、一瞬にして幼いミカサの肉体に流れ込んでくる。
(あぁ……これだ。これだよ、ミカサ! お前は素晴らしい! 僕の主として、これ以上ないほどに最高だ!)
脳内で阿朱羅丸が歓喜の声をあげる。ミカサの瞳から光が消え、完全に「捕食者」のそれへと変貌した。
「……死ね」
地を這うような低い声。次の瞬間、ミカサの姿が消えた。
「ひっ――」
一番近くにいた男が声をあげるより早く、黒き刃がその首を真横に一閃した。抵抗など微塵も許さない。バターをナイフで切り裂くかのように、男の首が宙を舞い、血の噴水が天井を濡らす。
「な、なんだこのガキは!? 化け物――」
もう一人が懐からナイフを抜こうとしたが、遅すぎた。ミカサは音もなく踏み込み、阿朱羅丸の刃を男の心臓へと突き立てた。衣服を貫き、肋骨を砕き、心臓を正確に貫通する。
刀身から伝わる生々しい人間の死の感触。しかし、ミカサの心は微塵も揺るがない。むしろ、阿朱羅丸と一体になっているという全能感と、彼が喜んでいるという事実に、歪んだ恍惚感すら覚えていた。
「ひ、あ、悪魔だ……!」
最後に残った一人が、腰を抜かして部屋の隅へと這いずる。ミカサは血に濡れた阿朱羅丸を静かに引き抜き、一歩、また一歩と男へ近づいていく。その足取りは、幼子のものではなく、百戦錬磨の死神のそれだった。
「助け……」
命乞いの言葉は最後まで紡がれなかった。容赦なく振り下ろされた黒き刃が、男の身体を斜めに両断する。
静寂が戻った部屋には、三つの死体と、飛び散った大量の血痕。ミカサは息一つ乱さず、愛おしそうに黒い刀身を見つめた。
「凄いよ、阿朱羅丸……。あなたのおかげで、勝てた」
ミカサが囁くと、刀身が嬉しそうにキィンと鳴いた。
(当然さ。僕は君だけの武器であり、君の半身なんだから。……さあ、誰か来るよ。一度、君の中に隠れるね)
阿朱羅丸の気配が霧のように消え、刀はミカサの体内に吸い込まれるようにして姿を消した。同時に、張り詰めていたアッカーマンの覚醒状態が解け、ミカサはその場にへたり込んだ。
両親を失った悲しみはある。けれど、不思議と心は冷え切っていた。私にはまだ、阿朱羅丸がいる。彼だけが、私の世界の全てだ。
――どれほどの時間が経っただろうか。バタバタと激しい足音が近づき、家の扉が開け放たれた。
「ミカサ! 無事か!?」
飛び込んできたのは、ウォール・マリア最南端のシガンシナ区に住む医師、グリシャ・イェーガーだった。その後ろには、彼に連れられてきた息子のエレン・イェーガーが、部屋の惨状を見て息を呑んでいる。
「これは……一体、何が起きたんだ……」
グリシャは、床に転がる男たちの無惨な死体と、返り血を浴びて虚空を見つめるミカサを見比べ、戦慄した。
男たちの傷口は、この世界にある「超硬質ブレード」とも、通常のナイフとも違う、見たこともない鋭利な刃物で一刀両断されたものだったからだ。
しかし、グリシャは深く追及することをしなかった。目の前の少女が、あまりにも過酷な現実によって心を閉ざしかけているように見えたからだ。
グリシャはミカサの前に膝をつき、優しくその肩に手を置いた。
「……ミカサ。辛いだろうが、ここはもう危険だ。私の家へ来なさい。これからは、私たちが君の家族だ」
家族。その言葉に、ミカサは反応しなかった。ただ、体内の奥深くで、阿朱羅丸が不機嫌そうに鼻を鳴らすのが聞こえた。
(家族だって? くだらない。ミカサ、あんな弱そうな人間に馴れ馴れしく触らせるなよ。君の家族は、君を本当に理解できるのは、この僕だけだ)
(……うん。分かっているよ、阿朱羅丸)
ミカサは心の中で、愛しい相棒にそう答えた。しかし、これ以上ここに留まる意味もない。ミカサは静かに立ち上がり、グリシャの差し伸べた手を取った。
エレンが隣で、「お前、大丈夫か……?」と心配そうに顔を覗き込んできたが、ミカサの瞳には映っていない。
ミカサの心を満たしているのは、悲しみではなく、体内で妖しく微笑む鬼の存在だけだった。どんなに世界が残酷でも、阿朱羅丸が中にいてくれる限り、自分は生きていける。
こうしてミカサは、内に秘めた「黒き刃」と共に、イェーガー家へと引き取られることとなった。それが、さらに大きな運命の歯車を回すことになるとも知らずに。