黒鬼の呪縛   作:鉅鹿

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2話:仄暗い箱庭の終焉

あの凄惨な夜から、一年が経った。

イェーガー家に引き取られたミカサは、シガンシナ区の穏やかな木漏れ日の中で、静かに日々を過ごしていた。

 

しかし、彼女の心は一年前と変わらず、イェーガー家の誰にも開かれてはいなかった。彼女の精神の拠り所は、常にその身の内に潜む、冷酷で美しい鬼――阿朱羅丸だけだった。

 

(……ミカサ、またあの生意気なガキが、くだらない夢を語っているよ。本当に人間という生き物は、身の程を知らないね)

 

頭に響く阿朱羅丸の呆れたような声。ミカサは薪を背負ったまま、隣を歩くエレン・イェーガーを盗み見た。

エレンはいつも通り、輝かんばかりの瞳で、高すぎる壁の向こう側について熱弁を振るっている。

 

「なぁミカサ、いつまでもこの狭い壁の中に閉じこもってちゃ、家畜と同じだろ!? 俺はいつか、調査兵団に入って、外の世界に行くんだ!」

 

エレンの言葉は熱を帯びていたが、ミカサの心には一滴も響かなかった。

 

(外の世界、か。何があるっていうんだろうね? 巨人が溢れ、血と泥に塗れただけの荒野さ。そんな場所に命を懸けるなんて、滑稽の極みだ。ミカサ、君はそんな無駄死にの場所、興味ないだろう?)

 

(うん。阿朱羅丸が言うなら、きっとそう。私は、外なんてどうでもいい。阿朱羅丸がここにいてくれれば、それだけでいいの……)

 

ミカサは心の中で、愛しい相棒の言葉に深く深く依存するように頷いた。

 

彼女にとって、世界を定義するのは阿朱羅丸だった。彼が価値がないと言うものは、ミカサにとっても塵芥に等しい。

エレンがどれほど熱弁しようとも、彼女の関心は、体内で甘やかに自分を支配する鬼の存在、ただ一つに収束していた。

 

その時、街の広場がにわかに騒がしくなった。

 

「調査兵団が帰ってきたぞ!」「壁外調査からの帰還だ!」という声が響く。

 

エレンが「おい、見に行こうぜ!」とミカサの腕を引いて走り出す。ミカサは拒むこともせず、ただ人形のようにエレンに連れられて人だかりへと向かった。

 

しかし、そこに現れた光景は、エレンが夢見るような英雄の凱旋とは程遠いものだった。

ボロボロに裂けた自由の翼の外套。血に染まった包帯を巻き、四肢を失ってうめく兵士たち。馬車に積まれた大量の遺体袋からは、赤黒い血が滴り落ちている。

 

ある母親が、息子の形見として渡された「ただの一部」を抱きしめ、狂ったように泣き叫んでいた。

 

「これだけですか……!? 息子の死は、人類の反撃の糧になったと言えるのですよね!?」

 

「いえ……今回の調査でも……我々は、何の成果も得られませんでしたッ!!」

 

団長の悲痛な叫びが、シガンシナ区の青空に虚しく響き渡る。群衆は落胆し、不吉な囁きが広場を満たしていく。エレンはその光景にショックを受け、拳を固く握りしめて震えていた。

 

だが、ミカサは冷めた瞳でその惨状を見つめるだけだった。その脳内では、阿朱羅丸の容赦のない笑い声が響いていた。

 

(ハハッ! 見事なザマだね、ミカサ。あれが人間の『希望』の結末さ。鳥籠から飛び出そうとした哀れな小鳥たちが、羽を毟られて叩き落とされた。あんな玩具みたいな鉄の刃を腰にぶら下げて、一体何ができるっていうんだい? 滑稽すぎて涙が出るよ)

 

(超硬質ブレード……。あんなの、ただの鉄くず。阿朱羅丸の足元にも及ばない)

 

ミカサは心の中で、阿朱羅丸の言葉に完全に同調していた。兵士たちの腰にある、頼りない二振りの刃。あんな鈍色に光るだけの鉄塊に、自分の最愛の存在が劣るはずがない。

 

ミカサにとって、最強の武器は自分の体内にいる阿朱羅丸だけであり、他の一切の武器は見る価値すらないゴミだった。

 

「……帰ろう、エレン。これ以上見ても、意味はない」

 

ミカサはエレンの袖を静かに引き、その場を離れようとした。エレンは悔しさに唇を噛み締めながら、俯いて歩き出す。

 

 

しかし、その日の夕方。世界は本当の「残酷さ」を突きつけられる。

 

ドンッ――――!!!!

 

突如として、天を引き裂くような轟音が轟いた。それは雷鳴のようでありながら、大地そのものが悲鳴をあげたかのような、凄まじい衝撃波。

 

地響きがシガンシナ区を襲い、ミカサとエレンは激しい揺れに足元をすくわれ、その場に倒れ込んだ。

 

「な、なんだ!? 爆発か!?」

 

エレンが周囲を見回す。街中がパニックに陥り、人々が空を見上げた。ミカサもまた、砂埃が舞う空へと視線を向ける。

 

五十メートルの高さを誇り、百年もの間、人類を守り続けてきた絶対の障壁――ウォール・マリア。その巨大な壁の向こう側から、何かが「生えて」きた。

 

バチバチと赤黒い蒸気を激しく噴き上げながら、壁の頭頂部にかけられた、巨大な『手』。皮膚がなく、剥き出しの筋肉が赤く蠢く、人間の常識を遥かに超えた巨大な手だ。

 

「嘘、だろ……」

 

誰かの絶望的な呟きが、静まり返った街に響く。ゆっくりと、壁の向こうからその「顔」が姿を現した。

 

壁の全高を超える、推定六十メートル。超大型巨人。皮膚のない悍ましい頭部が、眼下の街を見下ろしている。その巨大な眼球には、怯え惑う人間たちの姿が、ただの餌として映っているようだった。

 

「あ……ああ……」

 

エレンの顔から血の気が引き、完全に硬直する。百年間の平穏が、一瞬にして消し飛んだ瞬間だった。だが、その絶対的な絶望の渦中にあっても、ミカサの心だけは凍りついたように冷静だった。

 

彼女の胸の奥で、阿朱羅丸の気配が妖しく、そして愉悦を孕んで膨れ上がる。

 

(へえ……面白いじゃないか。人間を家畜に変えていた籠が、ようやく壊されるわけだ)

 

阿朱羅丸は、迫り来る人類の終焉を、まるで極上の見世物でも見るかのように楽しんでいた。

 

 

ゴオォォォンッ!!

 

 

空気を、大地を、そして人間の尊厳を木っ端微塵に打ち砕く、凄まじい爆音。超大型巨人の放った蹴りが、百年もの間、人類を護り続けてきたウォール・マリアの門を容赦なく破壊した。

 

猛烈な爆風がシガンシナ区を駆け抜け、巨大な壁の破片が流星のように街へと降り注ぐ。悲鳴、怒号、そして家々が押し潰される絶望の音が、一瞬にして平和な日常を地獄へと塗り替えていった。

 

「嘘だ……門が、破られた……?」

 

エレンは呆然と、破壊された門の向こうから這い入ってくる巨人の群れを見つめていた。だが、次の瞬間、彼の顔が恐怖で完全に凍りついた。

 

「母さん……っ! 家の方に、破片が落ちたッ!!」

 

エレンは狂ったように走り出した。ミカサもまた、彼の後を追って地を蹴る。

 

(あはは! 傑作だね、ミカサ。ほら見ろ、あっという間に地獄絵図だ。あの哀れな人間共が、まるで踏み潰される蟻のように逃げ惑っているよ)

 

脳内で響く阿朱羅丸の声は、鈴を転がすように軽やかで、酷く愉しげだった。

 

(エレンの母親? どうでもいいじゃないか、そんな他人のこと。ミカサ、君の本当の家族は僕だけだろう? 逃げるなら僕の力で、君一人だけでも安全な場所へ連れて行ってあげるよ?)

 

(……でも、エレンを一人にはできない。イェーガー家には、恩があるから)

 

ミカサは心の中で阿朱羅丸にそう語りかけながら、エレンの背中を追い続けた。阿朱羅丸は「ふーん、相変わらず律儀だね」と、退屈そうにつまらない鼻を鳴らした。

 

角を曲がり、イェーガー家があった場所に辿り着いた瞬間、二人は息を呑んだ。

 

家は完全に崩壊していた。そして、その無残な瓦礫の隙間から、エレンの母親、カルラの姿が見えた。彼女の下半身は、巨大な梁と崩れた壁の下敷きになり、ぴくりとも動かせない状態だった。

 

「エレン! ミカサ! 来ちゃダメ、逃げなさい!」

 

カルラは血を吐きながらも、必死に子供たちを遠ざけようと叫ぶ。しかし、エレンがそんな言葉を聞くはずがなかった。

 

「嫌だ! 早くそこから出るんだ! ミカサ、そっちを持ってくれ!」

 

「うん……!」

 

エレンとミカサは必死に梁を持ち上げようとする。アッカーマンの力が宿るミカサの筋力を持ってしても、家屋の重みに耐える太い梁はびくともしない。

 

(ねえミカサ、無駄なことはやめなよ。僕を出しなよ。僕の刃なら、そんな木切れも岩屑も、一瞬で細切れにしてあげられるのに。どうして僕を呼ばないんだい?)

 

阿朱羅丸が耳元で甘く囁く。ミカサの胸の奥で、黒き刀身が早く血を吸わせろと飢えたように脈打った。阿朱羅丸を使えば、カルラを助けられるかもしれない。しかし、ミカサは躊躇った。

 

(ダメ……。今は、人が多すぎる。もしあの『黒い刀』を見られたら、私はエレンたちの傍にいられなくなるかもしれない……)

 

一年前、強盗を皆殺しにしたあの刃。もし今ここでそれを使えば、周囲にいる人間たちに「化け物」として扱われ、今の生活が壊れてしまう。

阿朱羅丸との秘密を守るため、そして人間としての暮らしを維持するため、ミカサは最凶の力を振るうことを躊躇ってしまったのだ。

 

「おい! お前ら、何をしてるんだ!」

 

そこへ、立体機動装置のワイヤー音を響かせて、駐屯兵団のハンネスが駆けつけてきた。

 

「ハンネスさん! お願いだ、母さんを助けてくれ! 巨人が来てるんだ!」

 

エレンが涙を流しながら叫ぶ。見れば、通りの向こうから、不気味な笑みを浮かべた一体の巨人が、こちらへと一歩一歩近づいてきていた。

 

「へっ、見くびるなよエレン。今日こそ、お前らの母親を助けて、借りを返してやる!」

 

ハンネスは威勢よく超硬質ブレードを抜き放ち、巨人に立ち向かおうと地を蹴った。その様子を、ミカサの体内から見ていた阿朱羅丸が、心底虫酸が走るというように冷たく吐き捨てた。

 

(ハッ、笑わせる。あの男の目、見たかいミカサ? 口では威勢のいいことを言っているけれど、膝がガタガタに震えている。あんな鈍色の鉄くずを握り締めて、本物の『恐怖』に勝てるわけがないのさ。人間なんて、所詮はその程度の生き物だよ)

 

阿朱羅丸の予言は、最悪の形で的中した。巨人と対峙した瞬間、ハンネスの身体がピタリと止まった。

 

圧倒的な死の圧迫感。巨人の濁った瞳に見下ろされた瞬間、ハンネスの心は恐怖に完全にへし折られたのだ。彼はブレードを収めると、踵を返してエレンとミカサの元へと走り狂った。

 

「すまない、カルラ……っ!」

 

「ハンネスさん!? 何を、何をしてるんだよッ! 放せ、放せよ!!」

 

ハンネスはエレンとミカサを両脇に抱え上げ、カルラを置き去りにして走り出した。エレンが暴れ、叫び、ハンネスの頭を殴りつける。

 

「エレン! ミカサ! 生き延びるのよ――!!」

 

遠ざかっていくカルラの叫び。ミカサは、ハンネスの腕の中で、ただじっとその光景を見つめていた。

 

巨人の大きな手が、瓦礫を取り除き、カルラの細い身体を掴み上げる。カルラは最期まで抵抗し、暴れたが、巨人の怪力の前には無力だった。

 

(ほら、ご覧。君が僕を拒んで、人間の『偽物の刃』なんかに期待するから、こうなるんだ。僕を頼っていれば、あんな女、簡単に救えたのにね?)

 

脳内を狂わす阿朱羅丸の嘲笑。それはミカサの不甲斐なさを責めると同時に、自分だけを頼れという歪んだ独占欲に満ちていた。

 

(……ごめんなさい、阿朱羅丸。私が間違っていた。やっぱり、人間なんて誰も信じられない。私には、あなただけがいればいい……)

 

ミカサが心の中で絶望と共にそう呟いた瞬間――バリ、ボキィッ……。肉がひきちぎられ、骨が砕ける生々しい音が響いた。

 

巨人の大きな口がカルラを噛み砕き、鮮烈な赤が、シガンシナ区の青空へ高く、高く舞い上がった。

 

エレンの絶叫が世界を震わせる。しかし、激しい返り血を浴びたミカサの瞳には、涙の一滴すら浮かんでいなかった。ただ、自らの躊躇いが招いた結末への冷徹な理解と、体内で「それ見たことか」と妖しく嗤う阿朱羅丸への、より深く昏い依存の鎖が、彼女の心を永久に縛り付けるのだった。

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