黒鬼の呪縛   作:鉅鹿

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3話:阿鼻叫喚の船、鎧の絶望

シガンシナ区の城門が破られたあの日、世界は一瞬にして血の海へと変わった。人間という生き物は、いとも容易く壊れる。

 

巨人の大きな手に掴まれ、骨を砕かれ、内臓をぶちまけながら貪り食われていく有象無象の群れ。悲鳴と、怒号と、肉を咀嚼する悍ましい音が、初夏の青空の下に響き渡っていた。

 

避難の波に揉まれながら、ミカサはエレンの手を引いて走っていた。エレンの瞳は、目の前で母親を食い殺された怒りと絶望で、完全に正気を失いかけている。だが、ミカサの心は、酷く冷静だった。いや、冷え切っていた。

 

(あはは! 見てよミカサ、あの無様な人間達を。まるで籠から逃げ惑う家畜だ。滑稽だねぇ)

 

脳内で、阿朱羅丸が鈴を転がすような声で無邪気に笑う。その声は、周囲の凄惨な地獄絵図とは完全に乖離しており、だからこそミカサにとっては唯一の、絶対的な安らぎだった。

 

(……阿朱羅丸)

 

(なぁに? ミカサ。僕を呼びたい? あんな大きな木偶の坊共、僕の刃なら簡単に細切れにしてあげられるよ? さあ、あの兵士達の目を盗んで、僕を抜いてよ。お前の全てを僕に委ねて、一緒にあの虫ケラどもを狩ろう?)

 

阿朱羅丸の囁きは、甘い蜜のようにミカサの理性を溶かそうとする。ミカサの右手は、いつでも阿朱羅丸の本体――漆黒の刀身を具現化できるよう、微かに震えていた。

 

けれど、彼女はそれを理性で抑え込んだ。まだ人が多すぎる。ここで正体不明の『呪いの武器』を顕現させれば、自分達が人間にどう扱われるか分からない。エレンを守るためには、まだ目立つわけにはいかなかった。

 

(……だめ。今は、隠れていて)

 

(ちぇ、つまんないの。まあいいさ。君が僕だけに頼る瞬間を、僕はいくらでも待てるからね)

 

脳内の鬼は、不満げに、けれどどこか愉しそうにふっと気配を潜めた。

 

人々の濁流に押し流されるようにして、二人はウォール・マリアの内門へと続く避難船の乗り場へとたどり着いた。そこは、まさに地獄の縮図だった。

 

「乗せてくれ! 頼む、子供だけでも!」

 

「押すな! 落ちるだろ!」

 

駐屯兵団の兵士達が必死に群衆を制止しているが、死への恐怖に狂った人間たちには何の効果もない。船はすでに定員を大幅に超過し、今にも沈みそうなほどに傾いていた。

 

ミカサはエレンの体を庇いながら、なんとか避難船の一角へと乗り込む。船がゆっくりと岸を離れ、内門へと向かって動き出した。

 

取り残された人々が、岸辺で泣き叫び、手を伸ばす。その背後に、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた巨人の影が迫るのが見えた。

 

「う、あああ……! 嘘だ、嘘だろ……!」

 

エレンが船の縁に縋りつき、涙を流しながら叫ぶ。その瞳に映っているのは、故郷の崩壊と、守れなかった母親の面影。彼の世界は、この日完全に壊れてしまったのだ。

 

ミカサはそんなエレンの隣に立ち、そっとその肩に手を置いた。だが、その視線はエレンを見ていながら、心は別の場所にあった。

 

(ねえ、ミカサ。あそこにいる君の『弟分』、もう完全に心が折れてるよ? 人間なんて、一突きで死ぬ脆い肉体に、ちょっと小突かれただけで壊れる弱い心しか持っていない。……そんな奴らのために、君が傷つく必要なんてないんだよ)

 

阿朱羅丸の言葉は、冷酷だが真実だった。ミカサ自身、エレンへの執着はある。しかし、それは「家族を失いたくない」という強迫観念に近い。本当に彼女の魂の深い部分を満たし、肯定してくれるのは、体内にいるこの残酷な鬼だけなのだ。

 

(私は、エレンを守る。……でも、私の本当の居場所は、あなたの中だけ、阿朱羅丸)

 

(くく、嬉しいことを言ってくれる。愛しているよ、ミカサ。だから、もっと僕に依存して、僕だけを見てよ……)

 

二人が脳内で歪な愛を確かめ合っていた、その時だった。

 

――ズシン。世界が、大きく揺れた。

 

避難船に乗っていた全員の動きが止まる。内門の向こう側から、地響きのような、重苦しい足音が近づいてきていた。

 

「な、なんだ……? 何が来るんだ……?」

 

兵士の一人が、恐怖に震える声で門を見上げる。次の瞬間、内門の奥から「それ」が現れた。

 

これまで見たどの巨人とも違う。全身を強固な岩のような皮膚――いや、「鎧」で覆われた、筋骨隆々の巨体。

 

その巨人は、凄まじい勢いでこちらに向かって突進してくる。狙いは、ウォール・マリアの最後の砦である、内門。

 

「止めろーーッ! 大砲を撃て!!」

 

内門前の兵士たちが必死に叫び、砲撃を開始する。しかし、放たれた砲弾は、巨人の皮膚に当たった瞬間に弾け飛び、傷一つ負わせることができない。

 

(へえ、あれは少し硬そうだね。まあ、僕の呪いの刃なら、あの皮膚ごと消し飛ばせるけど)

 

阿朱羅丸が、退屈しのぎの玩具を見つけたかのように、脳内でくすくすと笑う。だが、現実の人間たちにそんな術はなかった。

 

突進する鎧の巨人は、その圧倒的な質量と速度を保ったまま、頭から内門へと激突した。

 

――轟音。

 

凄まじい衝撃波が走り、巨大な石造りの門が、まるでガラス細工のように粉々に砕け散った。飛び散った巨大な瓦礫が、逃げ惑う人々を押しつぶし、血の雨を降らせる。

 

「門が……破られた……」

 

誰かが絶望に満ちた声で呟いた。それは、人類の生活圏の3分の1である「ウォール・マリア」が、完全に巨人の領域と化したことを意味していた。

 

人類は、負けたのだ。

 

避難船の中は、阿鼻叫喚の地獄と化した。祈る者、狂ったように笑い出す者、ただ涙を流す者。誰もが、人類の未来が完全に閉ざされたことを確信していた。

 

エレンは、砕かれた門の向こうを見つめながら、血がにじむほどに拳を握りしめていた。「駆逐してやる……! 一匹残らず……!」と、呪詛のような言葉を吐き散らしている。

 

ミカサは、そんなエレンの横顔を見つめながら、自分の胸にそっと手を当てた。冷え切った絶望の世界。しかし、彼女の胸の奥だけは、ドクドクと熱い脈動を打っている。

 

(可哀想に。これで人間は、ますます追い詰められた。……でも、いいことじゃないか。世界がどれだけ壊れても、君が僕を握りしめてくれれば、そこが僕たちの楽園だ)

 

阿朱羅丸の、優しく、そしてこの上なく邪悪な囁き。

 

「うん……」

 

ミカサは、周囲の絶望から切り離されたかのように、微かに微笑んだ。

 

世界が滅びようとも、私にはこの鬼がいる。

彼が求めてくれるなら、私は喜んで、この残酷な世界を黒き刃で切り裂いていこう。

 

人類が真の絶望を知ったその日、ミカサ・アッカーマンの心は、完全に阿朱羅丸という底なしの沼へと沈み込んでいったのだった。

 

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