暁の水平線に勝利を刻むアカデミア   作:スーパースタリオン

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プロローグ:オリジン

 

 

──もう大丈夫、私が来た。

 

 

 その一言で、どれだけの人が安心したのだろう。

 その一言が、どれだけの人の心を救ってきたのだろう。

 

 幼かった彼女には、その言葉の重みなど分からなかった。ただ、テレビの向こうに映るその人から、どうしても目を離すことができなかったのだ。

 

 茶色の髪が頬にかかる。母に抱きかかえられた小さな身体は柔らかな温もりに包まれていたが、それでも彼女の視線は画面の向こうへと釘付けになっていた。

 

 そこにいたのは誰よりも大きく、誰よりも頼もしく笑う一人の男だ。

 

「──SMASH!!!」

 

 轟音とともに振るわれた拳が悪を打ち砕き、次の瞬間には、まるで何事もなかったかのような笑みを浮かべる。

 

 英雄、ナチュラルボーンヒーロー、ナンバーワンヒーロー。国民は様々な呼び名で彼を称えた。だが、そのどれよりも多くの人々の心に刻まれていた名こそが──“平和の象徴”。

 

 もちろん、幼時の彼女にそんな言葉の意味など理解できるはずもなかった。漢字はおろか、平仮名ですら満足に読めない年頃だった。ただ毎日のようにテレビから流れてくるその響きを聞き、「へいわのしょうちょう」という音だけを漠然と覚えていただけだった。

 

 優しい母が聞かせてくれる童歌や子守唄。堅苦しい父がたまに口ずさむ少し古いポップス。家の景色、窓の向こうに広がる空の色、絵本に描かれた動物たちの形。

 生まれて間もない真新しい脳は、目に映るもの、耳に届くもの、そのすべてをスポンジのように吸収していく。

 

 そして、その小さな世界の中に。

 その日初めて、彼──オールマイトという存在が、誰よりも何よりも鮮烈な輝きを伴って確かに刻み込まれたのだ。

 

 

 

 

 ジャパン・アドミラルズ。

 日本有数の造船会社として、日々シーレーンを行き交うタンカーや商船、護衛艦、巡視船に至るまで多種多様な船舶の建造を手掛け、その信頼に応え続けてきた老舗企業である。

 

 その創業家に生まれ、筆頭株主の家系に名を連ねる少女──舵原渚は、物心がつく前に抱いた漠然とした憧れを、成長してからも一度として忘れたことがなかった。

 

 そして、その想いを否定する者は誰もいなかった。

 富裕層と呼ぶに不足ない財を有する父は、娘の将来を家業によって縛ろうとはしなかった。

 会社を継がせるつもりもなければ、創業家の人間だからと進むべき道を定めることもしない。質素倹約を是とする家風もあって、周囲が想像するような贅沢を与えられて育ったわけではなかったが、その代わりに与えられたものがあった。

 

 娘に夢があるのなら、それを本気で目指すというのなら──家族として全力で支える。

 それが舵原家の在り方だった。

 

 だからこそ、幼い頃に抱いた憧憬が確かな夢へと輪郭を帯びるのに、そう長い時間は必要なかった。問題は、それがいつ形になるのかというだけの話だったのである。

 

 混沌に満ちた超常黎明期はとうに過ぎ去り、幾年もの歳月を経て、現代はヒーロー飽和社会と呼ばれる時代となっていた。プロヒーローを志す子供は決して珍しくなく、その原点に貧富の差はない。

 

 本気で理想を追いかけ、その道を歩もうとする者もまた数え切れないほど存在している。真新しいランドセルを背負うようになった渚も、そのひとりだった。

 

 ヒーローになりたい。

 理想の未来に胸を膨らませる、ごくありふれた子供のひとりとして、彼女もまた憧れを抱いていた。

 

「渚は、どんなヒーローになりたいの?」

 

 ある日、母は優しく微笑みながらそう尋ねた。

 

 ヒーローになる。

 なりたい、ではなく、なる。

 幼いながらも疑いなくそう言い切った娘に向けられた問いだった。

 

「……まだ、わかんない」

 

 しかし、その答えだけは彼女も持っていなかった。

 幼い頃からテレビ越しに見続けてきた平和の象徴への憧れはある。それだけではない。渚が生まれ育ったこの横須賀でも、多くのプロヒーローたちが活動していた。

 

 小学校への登下校で顔を合わせれば挨拶を交わすヒーローがいた。チンピラ崩れのヴィランを取り押さえる姿を見かけたことも、一度や二度ではない。

 

 強い人もいた。優しい人もいた。格好いい人もいた。

 様々なヒーローを知っていたからこそ、渚は自分が目指す理想の姿を明確に言葉にすることができなかった。

 

 ああなりたい、あの人みたいになりたい──その先にある輪郭は、まだ曖昧だった。平和の象徴と呼ばれるあのヒーローが、彼女の夢に最も近しい存在だったのかもしれない。

 けれど、それでも答えには届かなかった。

 

 

──転機が訪れたのは、彼女が小学校へ入学したその年の冬のことだった。

 

 

 

「なあ、ほんとにコイツの親は金持ってんのか? 家を見たけど、ただの古民家にしか見えなかったぞ。狙うなら私立に通ってるガキの方が良かったんじゃないのか。ただの一般家庭攫っても仕方ねぇだろ」

「馬鹿野郎、ありゃ見かけだけだ。舵原っつったら、あそこの造船会社の創業者の家だぞ。家は古臭くても、金はたんまりあるに違いねぇ」

「──! ──っ──!」

 

 下校中のことだった。

 友人たちと別れ、家へと続く見慣れた道をひとり歩いていた、その帰り道。突然視界が暗くなり、身体が宙に浮いたと思った次の瞬間には、渚は車内へと放り込まれていた。

 何が起きたのか理解する間もない。

 目隠し代わりの布が乱暴に被せられ、手足には紐状の何かが食い込むように巻きつけられる。

 

 身代金目的の誘拐。

 舵原渚は、その標的として不幸にも選ばれてしまったのだ。

 

「ほーん。……しっかし、随分と可愛い顔してたなぁ、このガキ。目隠し取ってもいいか?」

「アホ、俺たちの顔を見られたらどうすんだ。それに分かってると思うが、そのガキには手ぇ出すなよ。車が汚れるから」

「ちょっと顔が気になっただけで俺をペド扱いするんじゃねぇよ! 小一のガキなんざ乳臭くて無理だ無理!! ……まぁ、こいつがもっと育っててくれりゃ言うことなしだったんだがなぁ、クソ」

 

 耳元で交わされる下卑た話し声。顎先に触れた無骨な指先に、ぞわりとした嫌悪感が背筋を這い上がる。しかし、それすらも何をされるか分からないという純粋な恐怖には及ばず、渚は小刻みに身体を震わせることしかできなかった。

 

 どれほどの時間が経ったのだろう。

 それを確かめる術を、渚は持っていなかった。車の揺れだけを頼りに時間の流れを数えていたが、恐怖に支配された幼い感覚は曖昧だった。それでも体感では、一時間ほど経った頃だったと思う。

 

 不意にエンジン音が止まった。

 乱雑に開閉される扉の音に、渚の肩がびくりと跳ねる。

 

 肩を掴まれながら車外へ引きずり出された瞬間、鼻腔をついたのは淀んだ空気の臭いだった。

 

 何かが腐敗したような甘ったるさと、鼻の奥を刺激する揮発臭。思わず息を止めたくなるような不快な臭気が漂っている。しかし男たちは慣れているのか、ライターの火を鳴らしながら離れた場所で雑談を続けている。

 

 少し歩かされた後、渚は地面へ座るよう乱暴に命じられた。

 

 泣き叫ぶことも、暴れることもしていない。

 大人しく従う子供だと判断したのか、男たちの警戒は幾分薄れていた。それでも逃げられては困るのだろう。手足を拘束する紐は近くの古びた鉄柱へ結びつけられ、子供の力では到底動かせないよう固定されていた。

 

 冬の寒さは容赦なく渚の身体を蝕んでいた。視界は閉ざされたまま、頼れる者は誰ひとりいない。吹き抜ける風は、冷えきった頬を撫でるたびに体温を奪っていった。

 

 恐怖と寒さでガタガタと震える身体を抱えながらも、それでも渚は希望を捨ててはいなかった。

 

 何故なら、ヒーローが来るのを彼女は信じていたからだ。

 

 車内で、渚が座っていた席の足元にはランドセルが置かれていた。その中には交通安全のお守りと共に、リアルタイムで家族に位置情報を共有するスマートタグが入っている。

 

 盗み聞きした男たちの会話からしても、ランドセルの中身までは確認していない。そして下車してからここまで歩いた感覚を思い返す限り、車からそれほど離れてはいないはずだった。

 少し離れた場所で煙草を吸っている男たちは三人。多くても四人。車のエンジン音は聞こえないことから、車も移動はしていない。

 

 つまり、まだ間に合う。

 

「(……お母さん、お父さん……!)」

 

 叫び出したかった。助けて、と泣き叫びたかった。

 けれど、それをすればどうなるのかも分からない。だからこそ、渚は必死に息を整えた。半ば涙を浮かべながらも、恐怖に呑まれ切らないよう、自分に言い聞かせていたのだ。

 

 落ち着いて状況を確認する。ヒーローか警察が、そのうち来る。大丈夫、そうすれば私は助かる──そう何度も心の中で繰り返しながら、震える心をどうにか繋ぎ止めていた。

 

 渚は無個性ではなかったが、こんな危機的状況に陥ってなお、自分ひとりで何とかできると思えるほど、幼稚な万能感を抱いてはいなかった。

 一か八かで個性を使い、この拘束を解けたとしても、その先がない。恐怖と寒さに晒され続け、気力も体力も削られつつあるこの身体で、大人の男たちを振り切って逃げ切れるとは到底思えなかった。まして相手は車を持っている。仮にその場から逃げ出せたとしても、再び捕まってしまえば、今度こそ何をされるか分かったものではない。

 

 少なくとも、男たちの目的は身代金だ。

 だから殺しはしない──そう信じたかった。

 

 もちろん、だからといって無事が保証される訳ではない。痛めつけられるかもしれないし、恐怖を植え付けるために暴力を振るわれる可能性だってある。

 それでも、無謀な行動に出て状況を悪化させるよりは、遥かに生存の可能性は高いはずだった。

 

 そこまで明確な言葉として状況を整理できていた訳ではなかったが、それでも渚は本能的に理解していた。

 

 スマートタグの入ったランドセルは車内に残されていること。男たちがその存在に気付いていないこと。そして、ここはまだ車からそれほど離れていないこと。

 

 ならば、自分がすべきことはひとつしかない。

 この場所で拘束されたまま、助けを待つことである──と。

 

 大人しくしていれば手は出さない。

 そんな誘拐犯の言葉を素直に信じていた訳ではないが、いずれにせよ今の自分にできることはほとんど存在しないことを、渚は理解していた。

 

 だからこそ、泣き叫びたい衝動を押し殺し、少しでも心を落ち着かせながら、離れた場所で交わされる男たちの会話に耳を澄ませ続けたのである。

 

 

 小学一年生にしては異常なほどの冷静さだった。

 昔気質でやたらと厳しい父の下で育ち、何かをする度に「周りをよく見ろ」と、幾度となく言い聞かされてきた影響もあったのだろう。あるいは、幼い頃から憧れ続けたヒーローたちの存在がそうさせていたのかもしれない。

 

 怖くても、泣きたくても、助けを待つ間にできることがあるのなら、それを諦めない。いつかテレビの向こうで見たヒーローたちもまた、きっとそうしていたのだと、幼い渚は無意識のうちに信じていた。

 

 

──その決断が正しかったことを、彼女が理解するのは、それから体感で更に数十分ほどが経過した頃のことだった。

 

 

「車の音…………!? パトカーだ!!」

「なに!? 何で……っ、ここがバレた!? 尾行はされてなかっただろ!?」

 

 突如として慌ただしくなる男たちの声に、遅々として訪れない救助へ希望を失いかけていた渚は、反射的に顔を上げた。

 もちろん、目隠しをされたままの視界は依然として暗い。しかし、ずっと変わらなかった空気が、信じ続けていた通りに変わり始めたことだけは分かった。

 

 張り詰めた緊張、焦燥、怒号。先ほどまで余裕すら滲ませていた男たちの声音からは、それらが一瞬で消え失せていた。

 

「地面に伏せろ、ヴィラン共!」

「この場所は既に包囲している! 抵抗はせず、速やかに降伏しろ!」

 

 このとき、時刻は十九時を回ろうとしていた。

 当然ながら、小学校の最終下校時刻などとっくに過ぎている。普段であれば帰宅しているはずの時間になっても戻らない娘を案じた母親は、スマートフォンを用いて渚の位置情報を確認し、その異常に気付いた。

 そして、ほぼ同じ頃だった。

 ジャパン・アドミラルズ本社には、誘拐犯から身代金を要求する電話が掛かってきたのである。

 

 双方から警察へ通報が入ったのは、下校時に渚が誘拐されてからおよそ三十分後ことだった。

 

 通報を受け、神奈川県警は直ちに動いた。母親から提供された位置情報をもとに、速やかに招集可能な警察官を現場へ向かわせていた。

 

 本来であれば、対策本部を設置し、人質の安全を最優先に慎重な対応を取るべき案件だ。犯人を刺激せず、時間をかけて交渉と情報収集を重ねる。それが常道である。

 

 だが、この一件に限っては事情が違った。

 警察へ協力を申し出た、ある男の存在。その存在が、「一刻も早い被害者の救出」という決断を誰にも躊躇わせなかった。

 

「クソッ!? ……おい! 何をボサっとしてる! あのガキを連れてこい!! 人質にするぞ!!」

「お、おう!」

「────っ!」

 

 怒鳴り声と共に、こちらへ駆け寄ってくる足音。

 拘束された肩を乱暴に掴まれた瞬間、渚の全身が強張った。

 助かった。

 

 そう安堵しかけた心が、一転して恐怖に塗り潰される。男たちもまた、このまま大人しく捕まるつもりなどなかったのだ。

 引きずられるようにして立たされる。

 細い腕に食い込む指先は痛いほど強く、乱暴に扱われるたびに小さな身体はぐらついた。

 

「止まれ!!」

「それ以上近付くな!!」

「うるせぇ!! このガキがどうなってもいいのか!?」

 

 怒号が飛び交う。

 何人いるのかも分からない。どれだけ近くまで来ているのかも分からない。しかし、その場にいる誰もが躊躇っていることだけは分かった。自分が人質になっている。その事実を、渚はようやく実感する。

 

 怖かった。今すぐ泣き叫びたかった。

 お母さん、お父さん、助けて──そんな言葉が何度も喉元まで込み上げる。それでも、震える唇は小さく結ばれたままだった。泣き声を上げれば何かが壊れてしまうような気がして、ただ細い肩を震わせながら耐えることしかできない。

 

 それでも、顔を伏せることだけはしなかった。震える身体を必死に支えながら、幼い少女は目隠しの向こう側を見つめるように顔を上げる。

 

 大丈夫。

 そう信じたかった。信じる他なかった。

 

「──ヴィランよ、大人しくした方が身のためだぞ」

 

 テレビの向こうで、いつだって笑っていたあの人の姿を思い浮かべる。

 物心ついた頃から何度も耳にしてきた、あの言葉を待ち侘びながら。

 

「なぜって?」

 

 震えは止まらない。恐怖も消えない。それでも渚は顔を上げたまま、その声の続きを待った。

 

「──私が来た!!!!」

 

 震える幼い少女の耳に届いたその声は、テレビの向こう側にあった憧れではなく、自分を救うために差し伸べられた希望そのものだった。

 

 貴方が居るなら、もう大丈夫。

 

 

 

 それが、舵原渚という少女の起源(オリジン)。

──生涯忘れることのない、ある冬の日の記憶である。

 

 

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