鈴木悟の残響 - 骸の玉座に座してなおも人の夢を見る - 作:朝型人間
ナザリック地下大墳墓は、今日も完璧だった。
黒曜石めいた艶を帯びる床は、どこまでも磨き抜かれ、
壁面を飾る意匠は過剰なほどに荘厳で、
灯火一つとっても「豪奢」という言葉では足りないほどの計算が施されている。
ギルド《アインズ・ウール・ゴウン》が誇った本拠地。
かつて侵入者たちを幾度となく絶望させ、
そして同時に、仲間たちの笑い声で満たされていた場所。
けれど今夜、その完璧さは、ただ静かだった。
静かすぎる、とモモンガは思った。
自分の足音すら立てていないのに、耳が痛いほどの静寂がある。
いや、正確には無音ではない。遠くで燃える魔法灯のかすかな揺らぎ、
衣擦れ、装備の僅かな鳴動。
そういうものは確かに存在している。それでも、足りないのだ。
ここにあるべき音が、決定的に欠けている。
雑談。
馬鹿話。
攻略会議。
どうでもいい自慢話。
新しいアイテムの考察。
くだらない口喧嘩。
それらが消え去った場所で、豪奢さだけがそのまま残っている。
モモンガは画面を開いた。
ギルドメンバー一覧。慣れきった操作だった。
指が考えるより先に動く。癖のようなものだ。
完全に意味を失ってなお、止められなかった。
表示された名前のほとんどは灰色だ。
最初から期待などしていない――つもりだった。
ユグドラシルは終わる。人気はとっくに下火になり、仲間たちにもそれぞれ現実がある。
仕事もあるだろう。家庭だってあるかもしれない。学生だった連中も、
今では忙しい大人だ。
終わるゲームのために、わざわざ時間を合わせて最後の夜を過ごそうなんて、
そんな殊勝な人間ばかりじゃない。
いや、むしろそんなことを期待する方が、ずっと子供じみている。
わかっていた。
わかっていたはずだった。
それでも、モモンガは数分おきに一覧を更新してしまう。
誰か一人くらい。最後の最後に、ひょっこり顔を出す者がいてもいいのではないか。
「よー、終わるな」
その一言だけでも、十分ではないか。
そんな期待が、自分の内にまだ残っていることに気づくたび、
モモンガは小さく苦笑した。
「馬鹿みたいだな……」
口に出した声は、思ったより乾いていた。
返事はない。当然だ。誰もいないのだから。
玉座の間の外、九階層の一室。
モンガはそこに一人で腰掛けたまま、視線だけを時計へ向けた。
サービス終了まで残り僅か。刻一刻と削れていく時間を眺めながら、
彼はまた、ありもしない通知を待っていた。
かすかに、何かが鳴った気がした。
反射的に視線を走らせる。
チャット欄、メンバー一覧、メッセージログ――どこにも新しい反応はない。
ただの気のせいだった。
それが妙に恥ずかしくて、モモンガは眉を寄せた。
「末期だな。ほんとに」
誰に聞かせるでもない独り言。
こうして一人でゲームの最後に張り付いている自分は、
客観的に見ればずいぶん滑稽なのだろう。
いい歳をした男が、終わるオンラインゲームにしがみついて
、来るはずのない仲間を待っている。
会社から帰宅し、食事も風呂も済ませ、眠気を押して最後の夜を過ごしている。
別に誰かに責められるようなことではない。だが胸を張って誇れることでもなかった。
ふと、現実の部屋を思い出した。
蛍光灯の白い明かり。
決して広くないワンルーム。
最低限の家具。
仕事の資料と、食べかけのチューブ飯。
そこにいるのは、鈴木悟という、どこにでもいる一人の社会人だった。
その男が、今はこんなにも広い大墳墓の主を演じている。
あまりに釣り合わなくて、笑えてくる。
だが、笑いは長く続かなかった。
残り時間が、もう笑ってごまかせないところまで減っていたからだ。
モモンガはもう一度だけ一覧を見た。
変化はない。
誰も来ない。
最後まで。
その事実を、ようやく受け入れた瞬間、不思議なことに、激しい絶望は来なかった。
胸を掻きむしるような痛みも、喉を詰まらせる悲しみもない。
ただ、乾いた諦めが音もなく沈んでくるだけだった。
こんなものか、と彼は思う。
ユグドラシルも。
ギルドも。
自分という人間の終わり方も。
何か劇的なものを期待していたわけではない。
だったら最後の夜に全員揃って大騒ぎしよう、
などと柄にもなく夢見ていたわけでもない。
それでも、心のどこかでは、もう少しだけ温かい終わりを望んでいたのだと、
その時になって分かった。
自分でも呆れるほど、ささやかな期待だった。
だからこそ、かなしかった。
「……終わり、か」
その呟きは、ゲームに向けたものだったのか。
あるいはもっと別の何かに向けたものだったのか。自分でも分からなかった。
しばしの沈黙の後、モモンガは立ち上がった。
どうせ誰も来ない。
どうせ終わる。
なら最後くらい、少しはそれらしくしてもいいだろう。
彼はそんなふうに考えた。いや、考えたというよりも、
半ば自棄になって、そう思い込むことにした。
せめて最期くらいは、玉座の間で迎えよう。
ナザリックの主らしく。
魔王らしく。
そう決めると、わずかに気分が軽くなった気がした。
自嘲に近い軽さだったが、それでも先ほどまで椅子に沈み込んでいた時よりはましだった。
モモンガは静かな回廊を歩き出した。
広い。
やはり、広すぎる。
こんな回廊を、かつては何人もの仲間と歩いたのだ。
攻略の相談をしながら、
くだらない話をしながら、
あるいは大勝利のあとに酔った勢いで騒ぎながら。
今となってはもう、どれも途切れ途切れの記憶だ。
鮮明に思い出せる顔もあれば、声の輪郭だけが残っている者もいる。
けれど、そのいずれも今はここにいない。
灯りに照らされた壁が、妙に白々しかった。
豪華で、美しくて、完璧で。
それなのに、今夜のナザリックは、どこか墓のようだった。
玉座の間の扉が開く。
荘厳な空間。
高みに置かれた王座。
並ぶ装飾と威圧感を煮詰めたような意匠。
そして、その傍らに立つ守護者統括――アルベド。
モモンガは足を止めた。
白いドレス。黒髪。女神じみた微笑。意図的に作り込まれた美貌。
その全てが、ゲーム内のデータであるはずなのに、
今夜は妙に“そこにいる”ものとして感じられた。
もちろん、この時点ではまだ、ただのNPCだ。
ただの、――はずだった。
モモンガはアルベドの設定欄を呼び出す。
長い設定文が並ぶ。
タブラ・スマラグディナらしい、凝りに凝った文章。
こだわりと悪趣味と愛情が同居したような記述が延々と続いている。
それを眺めていると、自然と苦笑が漏れた。
「悪いな、タブラさん」
誰もいない玉座の間で、彼は小さくそう言った。
もちろん返事はない。
最後の一文を見て、モモンガは鼻で笑う。
これもタブラらしい。真面目に作り込んだ設定の最後に、
ああいうひどく俗っぽい一文を差し込むあたりが、いかにも彼らしい。
普段なら、そのまま閉じていただろう。
だが、今夜は違った。
誰も来なかった。
終わるゲームの最後の夜。
一人きりの玉座の間。
そんな場所に立っていると、ほんの少しだけ、
自分の痕跡を残したいような気持ちになる。
どうせ終わるのだ。
どうせ消えるのだ。
なら最後に、少しだけ馬鹿をしてもいいではないか。
モモンガは一文を消した。
そして、少しだけ迷ったあと、新しい文字列を打ち込む。
――モモンガを愛している。
打ち終えてから、彼は一度だけ目を細める。
「くだらないな」
自分でもそう思う。
だが、そのくだらなさが、今夜は妙に心地よかった。
最後の最後まで真面目でいる必要などない。
どうせ終わるのだ。誰にも見られない。誰にも咎められない。
……たぶん。
「これでいいか」
呟いて設定欄を閉じる。
ほんの僅かではあるが、何かをやり遂げたような気分になった。
笑ってしまうほど些細なことなのに、それでも完全な空白の夜よりはましだった。
モモンガはゆっくりと玉座へ向かった。
階段を上がり、その中央に腰を下ろす。
高い。
見下ろせる。
威厳に満ちた位置のはずだった。
だが座ってみて最初に思ったのは、王の誇りなどではなく、ひどく単純な感想だった。
一人きりだ。
王座とは、こんなにも孤独なものだったのか。
見下ろす相手もいない。
跪く仲間もいない。
称賛も歓声もない。
ただ、自分一人が、広い空間の中心に取り残されている。
これではまるで、王座ではなく、孤独そのものの形ではないか。
モモンガは肘掛けに手を置き、わずかに背を預けた。
視界の端にアルベドがいる。
だがそれは、人の気配とは少し違う。
少なくとも、この瞬間の彼にとってはそうだった。
時刻が、終わりへ近づいていく。
数える必要もないほど、数字は少なくなっていた。
モモンガは何もせず、その時を待った。
サービス終了。
強制ログアウト。
暗転。
それで終わり。
長く続いた遊びも、仲間との時間も、この場所への執着も、
そこで綺麗に切れるはずだった。
それでよかった。
それで、よかったのだ。
だが――
時刻が零を刻んでも、何も起きなかった。
暗転しない。
視界は残っている。
システムメッセージも出ない。
操作不能にもならない。
代わりに、何かが変わった。
空気だ。
ナザリックを満たす空気の質が、ほんのわずかに変化した。
それは気のせいと切り捨てるには奇妙で、
しかしはっきり言語化するには曖昧すぎる変化だった。
まるで、長いあいだただ美しく存在していた空間が、
突然、息を吸い込み始めたかのような。
モモンガはゆっくりと前を見た。
玉座の間は相変わらず静かだ。
だが、先ほどまでの「物の静けさ」ではない。
何かが、そこにいる。
そう思った瞬間、アルベドの存在感が不意に濃くなる。
そこに立つ白い女は、たしかに今までも視界の中にいた。
だが今は違う。ただ配置されたオブジェクトではなく、
“こちらを意識しうるもの”として、異様な現実味を帯びていた。
モモンガは息を呑もうとして、そこで自分が呼吸していないことを思い出した。
心臓はない。
脈もない。
それでも確かに、緊張に似た何かが、自分の内側を走った。
「……なんだ」
呟いた声は、さっきまでより少しだけ低かった。
返事はまだない。
だがその沈黙は、もう先ほどまでの世界の沈黙ではなかった。
終わるはずだった世界は、終わらなかった。
そしてその瞬間から、モモンガはただのプレイヤーではいられなくなる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
終わるはずだった世界は、終わらなかった。
そしてその瞬間から、モモンガはただのプレイヤーではいられなくなる。
玉座の間を満たす沈黙は、もはや先ほどまでのそれとは質が違っていた。
静かなのではない。
息を潜めているのだ。
そう思わせる何かが、確かにそこにある。
モモンガはゆっくりと視線を動かした。
玉座の傍らに控えるアルベドは、相変わらず完璧な微笑をその顔に乗せている。
白いドレス、艶やかな黒髪、意図的に神話的な美を寄せ集めたような造形。
配置されたNPCとして見れば、あまりにも出来が良すぎる女。
だが今は違う。
違ってしまっている。
「……アルベド」
試すように、その名を呼ぶ。
それは確認だった。
ただの音声入力に、定型文が返ってくるだけかもしれない。
そうであってほしい気持ちと、そうではないと直感している自分が、
胸の内で奇妙にせめぎ合っていた。
「はい、モモンガ様」
返ってきた声は、あまりにも自然だった。
流暢な発音。
声色の抑揚。
自分の言葉を待ち受けていた者の応答。
決められた台詞を再生しているだけではない、とモモンガは一瞬で理解した。
理解してしまった。
そこには間があった。
呼ばれたから応える、という単純な反応ではない。
主に呼ばれたことへの喜びと、次に求められる言葉を待つ緊張と、
その両方を抱えた生き物の間だった。
モモンガは、知らず指先に力を込めていた。
骨だけの手は白くもならないし、震えもしない。
そんな変化さえ起こらないことが、かえって今の自分を現実から遠ざける。
「今の状況について、何か分かるか」
できるだけ平坦に、そう問うた。
アルベドはわずかに目を伏せ、すぐに顔を上げた。
まるで本当に考えた上で返答を選んでいるように。
「恐れながら、モモンガ様のお言葉の意味を正確には把握しかねます」
「ですが、このナザリック地下大墳墓の全ては、モモンガ様の御意のままにございます」
その言葉は、内容よりも言い方が重かった。
忠誠。
それも、ただ与えられた機能としての忠誠ではない。
心から信じている者の口調だった。
モモンガは玉座の肘掛けを見つめた。
さっきまで自分は、一人だった。
誰も来なかった。
最後の夜に顔を出す者すらいなかった。
それなのに今、目の前の存在は、自分の一言に全てを委ねるような目をしている。
嬉しい、という感情は来なかった。
代わりに来たのは、重さだ。
息苦しいほどの重さ。
心臓などないはずなのに、胸のあたりが詰まるような感覚だけがあった。
「……そうか」
短く返す。
それだけでアルベドの表情が、ほのかに明るくなる。
その変化に、モモンガはぞっとした。
自分の一言で変わる。
喜びも、不安も、安心も。
冗談ではない。
視線が自然とアルベドに戻る。
そして、先ほど悪ふざけで書き換えた一文が脳裏をよぎった。
――モモンガを愛している。
たったあれだけの、孤独の夜の気紛れ。
終わるゲームだから許されると思った、最後の悪戯。
誰にも見られず、誰にも咎められず、朝になれば消えてなくなる類の、軽い行為。
そのはずだった。
だが今、目の前にいるアルベドは、まぎれもなくその一文の結果を宿している。
もし本当に、彼女たちが意思を持っているのだとしたら。
自分は他人が作った存在の心を、冗談半分で捻じ曲げたことになる。
しかも、本人の寂しさを埋めるためだけに。
モモンガは、喉の奥にひどく苦いものがこみ上げる感覚を覚えた。
もちろん実際に吐き気などはない。胃も喉もない身体だ。
それでも確かに、不快だった。
「……悪いな」
思わず漏れた小さな声に、アルベドがそっと首を傾げる。
「何かおっしゃいましたか、モモンガ様」
「いや。何でもない」
即座に否定する。
何でもないはずがない。
だが説明できるわけもなかった。
モモンガは意識を切り替えるように、玉座に背を預け直した。
まず状況確認だ。
混乱している時ほど、順序を守れ。
現実の仕事でもそうだった。予想外のトラブルが起きた時、
焦って手当たり次第に動く人間ほど致命傷を広げる。
まずは確認。
切り分け。
情報収集。
そうだ。
これはゲームの延長ではなくても、やること自体は変わらない。
「アルベド。各階層守護者、および必要な者たちを招集せよ」
一瞬だけ、自分の声がやけに低く響いた気がした。
慣れない偉ぶった口調だ。
内心では頬が引きつりそうになる。
だが顔には出ない。骸骨に表情筋はないのだから当然だ。
アルベドは深く一礼した。
「御意に」
その返答にためらいは一切なかった。
やがて玉座の間に、守護者たちが集う。
アルベドをはじめ、シャルティア、コキュートス、アウラ、
マーレ、デミウルゴス、セバス。
ナザリックの中枢を担う者たちが、次々と姿を見せ、そして一様に主へ頭を垂れた。
その光景は壮観だった。
100レベルNPCたち。
かつてモモンガたちが手間も時間も、そして大量の金まで注ぎ込んで作り上げた、
ギルドの守護者たち。
ユグドラシルの中では、誇りであり、遊びであり、仲間たちの創作の結晶だった存在。
それが今、ただ一人の主へ、絶対の忠誠を向けている。
重い。
やはり、重すぎた。
さっき感じた孤独には、まだ逃げ道があった。
寂しいと思うだけなら、自分の中で耐えればいい。
だがこの忠誠は違う。
受け止めるしかない。
自分が何かを返さなければ、形にならない。
守護者たちは皆、主が次に何を言うのかを待っていた。
その視線に含まれるのは、期待、敬意、畏怖、信頼――いや、信仰に近いものだ。
誰にも見送られなかった男が、たった今、全員の未来を背負わされている。
皮肉が過ぎる、とモモンガは思った。
だが皮肉だろうと何だろうと、現実は現実だ。
「面を上げよ」
まずそれだけを告げる。
声音を崩さないよう、意識して低く保つ。
この玉座の上にいる間だけは、自分は鈴木悟ではいられない。
それを本能で悟っていた。
守護者たちが一斉に顔を上げる。
その中で、アルベドの視線だけがどこか熱を持っているようで、
モモンガは一瞬だけ視線を外したくなった。
だが逃げるわけにはいかない。
ここで弱さを見せれば、全てが壊れる気がした。
「状況は不明だ。だが、慌てる必要はない」
口が勝手に動く。
いや、勝手ではない。必死に捻り出しているのだが、声だけは妙に堂々として聞こえた。
「このナザリック地下大墳墓が存在し、諸君らがここにいる以上、
まずは現状の確認を優先する」
それらしい。
自分で思ってしまう程度には、それらしく聞こえた。
だが内心は冷や汗ものだった。
そんなものは出ないが、気分としては近い。
守護者たちの反応は、予想以上に良かった。
「さすがでございます、モモンガ様」
「至高の御方に相応しき冷静なご判断」
「全ては御意のままに」
そんな言葉が返ってくる。
やめろ、とモモンガは心の中で思った。
そんなに持ち上げるな。
いま言ったのは、パニックを起こさないための当たり障りのない台詞にすぎない。
だが彼らにとっては、それで十分だった。
主が落ち着いている。
ならば問題はない。
そう信じきっている。
この時、モモンガははっきり理解した。
軽口は許されない。
自分が何となく口にしたことでも、彼らは意味を読み込み、方針として形にする。
それが褒め言葉として返ってくるほど、状況は危うい。
中でも、デミウルゴスの視線が妙に印象に残った。
恭しく頭を垂れてはいるが、その双眸の奥には静かな知性が宿っている。
ウルベルトが、ナザリック最高の頭脳を持つ存在として作ったNPC。
その設定を思えば不思議なことではないはずだった。
だが今のそれは、単に賢そうに見える、というだけではない。
こちらの言葉を待ち、その端々から意図を拾い上げようとしているように見える。
もちろん気のせいかもしれない。
そう思う一方で、モモンガは軽々しい言葉を飲み込んだ。
下手なことは、もう言わない方がいい。
何となく、そう思った。
「ではモモンガ様、今後の大方針につきましても、既にご思案の内にございますか」
そして、その嫌な予感を裏づけるように、デミウルゴスが恭しく問いかけてくる。
モモンガは心の中で頭を抱えた。
今後の大方針?
そんなもの、あるわけがない。
こちらはまだログアウト不能という現象を、現象として受け止めきれてすらいないのだ。
だが沈黙は許されない。
皆が見ている。
先ほどの孤独とは真逆の息苦しさが、玉座の間に充満していた。
「……まずは情報だ」
半ば反射的にそう言う。
それならまだ間違っていない。
現状把握は大事だ。
少なくとも、ふわっとした理想論よりは安全だろう。
「現状も、外界も、不明なことが多すぎる。闇雲に動く愚は犯さぬ」
よし、これはそれっぽい。
デミウルゴスが深く頷いた。
やはり、妙に納得の早い頷き方だった。
「なるほど。つまり、先に盤面全体を見極めた上で動く、と」
「……そうだ」
「さすがでございます」
だからやめろ、とまた思う。
だがもう遅い。
自分の言葉は、確かに“方針”になってしまった。
モモンガはそこで、ようやく腹を括るしかないと理解した。
王になりたいわけではない。
支配者然として振る舞うのが好きなわけでもない。
だがこの場で曖昧さを見せれば、守護者たちは不安になり、混乱するだろう。
あるいは、もっと悪い方向へ勝手に整合を取り始めるかもしれない。
それだけは避けたい。
壊したくない。
誰も来なかった夜の後で、ようやく手にしたこの場を、
今度は自分の弱さで壊したくなかった。
「よい。諸君は引き続き待機せよ。こちらで順次確認を進める」
まるで最初からそう決めていたかのような口調で告げる。
守護者たちは一斉に恭順の意を示した。
その規律正しさに、モモンガは救われるどころか、かえって息が詰まりそうになる。
会議めいたものを終え、守護者たちが散っていく。
玉座の間は再び静かになった。
だが、先ほどの静けさとは違う。
あれは空っぽの静寂だった。
今は違う。
重すぎる期待が、一時的に姿を消しているだけだ。
モモンガは、深く息を吐こうとして、また呼吸していないことを思い出した。
奇妙だった。
不便ではない。むしろ楽なはずなのに、そのたびに自分が人間ではないことを
突きつけられる気がする。
視線を巡らせ、モモンガは玉座の間の一角にあるマジックアイテムへ思い至った。
《遠隔視の鏡》。
まずは外を見よう。
ここがユグドラシルなのか、それともまったく別の何かなのか。
ナザリックの外に何があるのか。
そして、今の自分がどこに立っているのか。
考えるのはその後だ。
――いや、違う。
考えるのが怖いから、まず仕事に逃げようとしているだけかもしれない。
そう思ったが、否定はしなかった。
逃避だとしても、方向が前ならまだいい。
モモンガはゆっくりと立ち上がる。
誰も来なかった夜は終わった。
代わりに始まったのは、あまりにも重く、あまりにも現実味のない支配だ。
その重みから一旦目を逸らすように、彼は外の世界を見ることを選んだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
《遠隔視の鏡》は、音もなく光を湛えた。
玉座の間を出たばかりの静けさが、まだ身体の――
いや、身体と呼んでいいのかも曖昧なこの骨の器の内側に、
薄い膜のように張りついている。
誰も来なかった夜は終わった。
だが、その代わりに始まったものを、モモンガはまだ上手く飲み込めていなかった。
忠誠。
期待。
責任。
先ほどまで、一人で終わっていくはずだった世界にいた。
それが今は、何百、何千という存在の主であることを当然のように求められている。
その落差は、嬉しさより先に鈍い疲労を呼んだ。
だからまず、外を見ることにした。
考えるよりも先に、確認する。
現実でもそうだった。理解しきれない出来事にぶつかった時、
人はとりあえず作業を始める。
手を動かしている間だけは、取り乱さずに済むからだ。
この行動は冷静な情報収集であると同時に、
思考を先延ばしにするための逃避でもあった。
鏡面に魔力を流し込む。
揺らいだ光が、ひとつの景色を結ぶ。
最初に目に入ったのは、深い夜の森だった。
木々の黒い輪郭。風にざわめく枝葉。
月明かりの届かない地表には濃い影が溜まり、
その間を、点々と小さな灯が散っている。
村だ、とモモンガは思った。
小さい。
ナザリックから見れば、あまりにも頼りない規模だった。
柵も低く、建物も貧相で、ユグドラシルでなら初心者エリアに置かれた
背景オブジェクトにさえ見劣りする。
だが、その小さな村は、既に壊れ始めていた。
火が上がっている。
一軒、また一軒と、夜に赤い色がにじんでいく。
黒い煙が立ちのぼり、村の上空に濁った蓋のように広がっていた。
人影が走る。
逃げる者。
追う者。
倒れる者。
鏡の向こうから悲鳴は聞こえない。
音を切り離された光景は、余計に現実味が薄かった。
まるで、誰かが悪趣味な映像資料を流しているような感覚がある。
だが、実際に死んでいるのだろう。
武装した者たちが、村人を追い立てている。
規律はある。完全な盗賊の動きではない。
甲冑の揃い方や、集団としての動きに、訓練の匂いがある。
――兵士。
そう結論づけた瞬間、画面の端で、一人の女が槍に貫かれた。
モモンガは目を細める。
小さな子供を庇うようにしていた。
次の瞬間には、その子供も足をもつれさせて地に倒れ、
追い付いた兵士の剣が振り下ろされる。
村全体を襲っている。
略奪のついでに何人か殺す、という程度ではない。
最初から、住民を生かす気が薄い襲撃だった。
「……惨いな」
声に出して初めて、自分がそう判断していたことに気付く。
惨い。
ひどい。
外道だ。
そういう言葉は浮かぶ。
倫理の尺度は消えていない。
目の前の行為を残酷だと認識するだけの判断力は、まだちゃんとある。
だが。
それだけだった。
胸がざわつかない。
怒りが燃え上がらない。
目の前で女や子供が殺されているというのに、不快感の中心が、
行為そのものではなく“その行為に対して自分が冷静すぎること”へ向いている。
モモンガは、鏡面に映る炎を見つめたまま、自分の内側を探った。
昔の自分なら――鈴木悟なら、こんな光景を見て、
少なくとも胸が塞がるくらいの感覚はあったはずだ。
ニュースで事故や事件を見た時だって、助からなかった人間を思って
気持ちが沈んだことくらいはある。
それは立派な善人だったからじゃない。
ただ、普通の人間だったからだ。
だが今、自分の中にあるのは観察に近い。
村の規模、襲撃側の練度、武装、住民の反応、地形。
そういう情報ばかりが、やけに整理されて頭へ入ってくる。
血が流れている。
人が死んでいる。
それを見てもなお、まず先に「敵の装備はどの程度か」「統制は」
「魔法詠唱者はいるか」と考えてしまう。
気味が悪かった。
「モモンガ様」
静かな声がかかる。
振り返らなくても分かる。
セバスだ。
呼んだ覚えはないが、彼が控えていること自体は不自然ではなかった。
守護者会議を終えたあとも、しばらく近くで待機していたのだろう。
それを咎める気も起きなかった。
「何だ」
「失礼ながら、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「言ってみろ」
セバスは一礼した。
老人の姿を模した執事。
背筋の通った立ち方。
無駄のない所作。
老いの柔らかさと武人の芯を同時に感じさせる佇まい。
そのどれもが、ゲーム内で何度も見た“セバス・チャンの立ち絵”の延長にあるはずなのに、
今こうして現実のように隣へ立たれると、奇妙な圧がある。
「どうなさいますか」
短い問いだった。
どうするのか。
村を見つけた。
襲撃が起きている。
自分はそれを見ている。
では、どうするのか。
モモンガは鏡へ視線を戻した。
村人がまた一人、倒れる。
炎が屋根を舐める。
逃げ惑う人影が、暗闇へ散っていく。
関わる理由はない。
その結論は驚くほどすぐに出た。
自分たちは今、何も分からない場所にいる。
ここがユグドラシルなのか、別世界なのかすら確定していない。
そんな中で、自ら未知の勢力へ接触するのはリスクでしかない。
見たところ、襲っているのは訓練された集団だ。国の兵か、
それに準ずる組織かもしれない。
もし不用意に手を出せば、この世界における自分たちの立場を
自ら危うくすることになる。
助ける義理もない。
この村の人間を知っているわけでもない。
襲撃者たちと敵対する理由もない。
合理的に考えるなら、観察のみに留めるべきだ。
「見捨てる」
その言葉は、思った以上にするりと口から出た。
躊躇が、なかった。
言ってから、モモンガはほんの少しだけ目を細める。
判断そのものが間違っているとは思わない。
むしろ正しい。
未知の世界では、最初の選択を誤る方がよほど致命的だ。
それでも、その結論に到るまでの速さがひどく胸触り悪かった。
「かしこまりました」
セバスは静かに頭を下げた。
反論はない。
異議もない。
主の判断に従う。それだけだ。
その姿は、いかにもセバスらしかった。
いや、違う。
いかにも“あの人が作ったNPCらしい”のだ。
モモンガは、ふと視線を上げる。
頭を垂れたセバスの向こうに、別の姿が重なった。
銀の鎧。
風もないのに翻る赤いマント。
馬鹿みたいに眩しい正義感を、本人だけが少しも恥ずかしがらずに掲げていた男。
たっち・みー。
一瞬だった。
本当にそこにいたわけではない。
ただ、セバスの立ち姿に、その面影が重なっただけだ。
けれどその一瞬で、胸の奥に沈んでいたものが、鈍く揺れた。
誰かが困っていたら助けるのは当たり前。
たっち・みーなら、たぶんそう言う。
いや、迷いなくそうする。
損得ではなく、危険の有無でもなく、目の前で弱いものが蹂躙されているなら手を出す。
それが彼の、ある意味では救いようもなく真っ直ぐなところだった。
モモンガは、鏡の向こうの炎を見る。
かつての自分は、その背中に救われた。
ユグドラシルの初期。異形種狩りの連中に執拗に狙われ、
ゲームそのものに嫌気が差しかけていた時、
助けてくれたのが彼だった。
もしあの時、たっち・みーが現れなければ。
もしあの時、彼が当然のように手を差し伸べなければ。
今の《アインズ・ウール・ゴウン》はなかったかもしれない。
仲間たちも。
ナザリックも。
ついさっきまで、誰も来ない夜の中で痛いほど思い知らされた、あの場所の全部も。
モモンガは、ゆっくりと眼窩の奥に力を込める。
何を考えている。
これは感傷だ。
たっち・みーはもういない。
仲間たちもいない。
目の前の村は、彼らとは関係ない。
それに、自分はもうあの頃のプレイヤーでもない。
世界そのものが変質し、自分自身も骨の化け物へと成り果てている。
なのに今さら、昔の英雄譚に引きずられて動くのか。
――だが、本当にそれだけか?
心の中で別の声がした。
たっち・みーへの未練だけではない。
もっと冷たい理由もある。
この世界の人間の強さを測れる。
自分の魔法がどれだけ通じるかも分かる。
介入した時、この世界がどう反応するか見られる。
また、守る側に立つことで、自分が何を感じるのかも確かめられる。
利益はある。
そう整理した瞬間、モモンガはそれが言い訳であることにも気付いた。
確かに理屈は通る。
情報収集として有効なのも事実だ。
だが、理屈だけで動くのなら、最初に「見捨てる」と答えた時点で終わっていたはずだ。
今こうして迷っている理由は、別のところにある。
セバス越しに見た、たっち・みーの残像。
誰も来なかった夜の痛み。
仲間たちの名残。
そして、目の前の惨劇を前にしてなお感情が動かない自分への、ひどく嫌な違和感。
もしこのまま見捨てたら、どうなる。
村は燃えるだろう。
住民は死ぬだろう。
それ自体は、自分に直接の損失をもたらさない。
だが、その後で自分は何を思う。
何も思わないのではないか。
それが、一番怖かった。
「……助ける義理はない」
モモンガは小さく呟く。
自分に言い聞かせるように。
「関われば余計なリスクも増える。最初の判断としては、見捨てる方が正しい」
理屈は崩れない。
正しい。
たぶん、支配者としてもその方が相応しい。
だが、正しすぎる。
冷たすぎる。
今の自分は、それをほとんど迷わず選べてしまう。
そこにこそ、得体の知れない不気味さがあった。
モモンガは鏡へもう一度目を向ける。
村の端、暗い森の入り口近くで、二人の少女が映った。
片方は年上だろう。もう片方を庇うようにして走っている。
後ろから兵士が追い、剣を振り上げる。
魔法で拡大した視界の中で、少女の顔がこちらを向いた。
怯え。痛み。必死さ。
その表情が、今までの遠景と違ってやけに近く見えた。
村全体の被害は、数字になる。
損耗や結果として整理できる。
だが、一人の人間の表情は、そうならない。
ほんの僅かに、何かが引っかかった。
「……セバス」
「はい」
「今の判断は、合理的には正しい」
「左様でございます」
「だが、合理的であることと、それを選ぶことが同じとは限らん」
セバスは何も言わなかった。
ただ、静かに待つ。
その沈黙が、またたっち・みーを思わせた。
押しつけはしない。
だが、逃げ場も与えない。
自分で選べ、と背中だけ見せてくるような沈黙。
まったく、困った男だったとモモンガは思う。
いなくなってなお、こんな形で判断に食い込んでくる。
「この世界の住人の練度を確認する。ついでに、こちらの戦力がどこまで通用するかもな」
口にした瞬間、自分でも分かる。
半分は本音で、半分は言い訳だ。
だが、それでいいとモモンガは思った。
最初から純粋な正義など持っていない。
今さら英雄の真似事をしたいわけでもない。
これは未練だ。
仲間の残した理想の残骸に引きずられた、みっともない感傷だ。
けれど、それでも。
少なくとも今、自分が完全に空っぽではないことを確かめられるかもしれない。
「行く」
短くそう告げる。
セバスが深々と一礼した。
「御意に」
その返事は、先ほどの「見捨てる」を受けた時と同じく、静かだった。
肯定の熱も否定の圧もない。
ただ主の命に従う執事の声。
だがモモンガには、その変わらなさが妙にありがたかった。
「アルベドを呼べ。完全武装で来いと伝えろ。それと、転移先の座標調整も必要だ」
「すぐに」
セバスが動く。
その所作を見送りながら、モモンガは再び《遠隔視の鏡》を見る。
追い詰められた二人の少女。
振り下ろされようとする刃。
燃える村。
倒れていく人々。
胸が熱くなることはない。
怒りで身体が震えることもない。
英雄ならここで、もっと分かりやすく燃え上がるのかもしれない。
だが自分にはそれがない。
あるのは、薄く冷えた理性と、その下で消え残っている未練だけだ。
それでも十分だ、とモモンガは思った。
大義ではない。
正義でもない。
ただ、見捨てるには少しばかり、自分の中に残っているものが邪魔をした。
そしてもう一つ。
この選択が、自分にとって何を意味するのかを確かめたかった。
自分はオーバーロードなのか。
それともまだ、人間だった鈴木悟の欠片を持っているのか。
答えは分からない。
分からないまま、モモンガは転移魔法の準備に入る。
鏡の向こうで、剣が振り下ろされる。
それよりわずかに速く、彼は魔力を起動した。
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