鈴木悟の残響 - 骸の玉座に座してなおも人の夢を見る - 作:朝型人間
空が、わずかに白み始めていた。
夜の底に沈んでいたエ・ランテルが、少しずつ朝へ向かっている。
だが、街は眠っていなかった。
墓地から戻った漆黒の鎧の冒険者。
死者の群れを越え、攫われた少年を連れ帰った者。
その噂は、夜明けよりも早く、兵士たちの囁きから街へ広がり始めていた。
閉ざされた窓の隙間。
通りの端。
門から戻ってきた兵士たちの間。
誰もが声を潜め、しかし確かにその名を口にしていた。
漆黒の英雄。
モモンは、その囁きを背に受けながら歩いていた。
その腕には、意識を失ったンフィーレアが抱えられている。
ナーベは半歩後ろに控え、周囲へ冷たい視線を向けていた。
「モモン様」
ナーベが小さく言った。
「周囲の者たちが、何か申しております」
「放っておけ」
モモンは短く答える。
今は噂に付き合う時ではない。
依頼対象を戻す。
リイジー・バレアレとの契約を処理する。
それが先だった。
バレアレ薬屋の前に着く。
扉は開いたままだった。
中には、まだ夜の暗さと死の匂いが残っている。
リイジーは、店の奥で待っていた。
眠ってはいない。
座っているだけで、いつ崩れ落ちてもおかしくないほど憔悴している。
扉の前に立つ漆黒の鎧。
そして、その腕の中にいる少年。
それを見た瞬間、リイジーは息を呑んだ。
「ンフィー……!」
彼女は崩れるように駆け寄った。
モモンは無言で、抱えていたンフィーレアを寝台へ横たえる。
リイジーは震える手で孫の顔に触れた。
呼吸がある。
体温がある。
まだ、ここにいる。
それだけで、彼女の目に涙が浮かんだ。
「生きている。傷も処置した」
モモンは短く告げた。
「額に付けられていた危険な道具は破壊してある」
「危険な道具……?」
リイジーが顔を上げる。
「詳しい話は後でいい。今は休ませろ」
「……ああ。そうだね。今は、休ませないと」
リイジーは何度も頷いた。
彼女は、薬師としてンフィーレアの状態を確認する。
細かな傷。
消耗。
魔力的な疲労。
だが、命に別状はない。
目も、ひどい傷を負っていた痕跡はあるが、すでに治療されている。
「ありがとう……ありがとう、モモン……!」
リイジーは深く頭を下げた。
その声は、ただの感謝ではなかった。
孫を取り戻した者への、心の底からの祈りに近かった。
モモンは、それを受け流すように見下ろした。
「約束は覚えているな、リイジー・バレアレ」
リイジーは顔を上げた。
その目には、迷いはない。
「もちろんだよ。金も、薬も、知識も。私が持つものは、すべて差し出す」
「今は孫を休ませろ」
モモンは言った。
「後日、使いを出す。その時、ポーションについて協力してもらう」
「分かった。何でも言っておくれ」
リイジーは即答した。
取引は成立している。
報酬は確保した。
この世界の薬学、ポーション体系、そしてンフィーレアの異能。
それらを調べるための足場はできた。
だが、モモンはそれ以上を口にしなかった。
今この場で長く話す必要はない。
「モモン……さん……」
かすれた声がした。
ンフィーレアが、うっすらと目を開けていた。
焦点はまだ合っていない。
それでも、彼は目の前の漆黒の鎧を認識した。
モモン。
そして、アインズ。
その両方を知る少年は、何かを言おうとして口を動かした。
だが、声にはならなかった。
「今は休んでください、バレアレさん」
モモンは静かに言った。
「話は後でよい」
ンフィーレアは、小さく頷いた。
その顔には、恐怖と安堵と感謝が混ざっていた。
モモンは踵を返そうとして、床に置かれた小さなノートへ視線を落とした。
ニニャのノート。
アゼルリシア山脈。
ドラゴン。
調査候補。
約束ですから。
その声は、もう聞こえない。
モモンはノートを拾い上げ、一度だけ開いた。
そして、すぐに閉じた。
仲間ではない。
だが、共に歩いた者たちだった。
それ以上、言葉にはしなかった。
「ナーベ」
「はい」
「行くぞ」
「承知しました」
モモンはリイジーへ背を向ける。
「後日、使いを出す」
「待っているよ」
リイジーの声が、背後から小さく届いた。
モモンは答えず、薬屋を後にした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
朝日がエ・ランテルの屋根を照らし始める頃、冒険者組合はすでに騒然としていた。
墓地で起きたアンデッドの大量発生。
それを鎮めた漆黒の鎧の冒険者。
攫われた薬師の少年の救出。
そして、前日には森の賢王を従えて帰還したという噂。
それらが一晩のうちに混ざり合い、組合へ流れ込んでいた。
モモンとナーベが組合へ入ると、受付嬢や冒険者たちの視線が一斉に集まる。
昨日までとは違う視線だった。
疑いではない。
値踏みでもない。
畏れと期待が混ざった視線。
「モモン君」
奥から現れたのは、エ・ランテル冒険者組合長、プルトン・アインザックだった。
歴戦の冒険者だったことを思わせる体格。
荒くれ者たちを束ねてきた者特有の、油断のない目。
だが、その表情には隠しきれない興奮もあった。
「よく来てくれた。まずは、墓地の件について礼を言わせてほしい」
「依頼を果たしたまでです」
モモンは静かに答えた。
アインザックは、その返答に小さく笑う。
「それで済ませられる話ではないのだがな」
彼は机の上に置かれた報告書へ視線を落とした。
「森の賢王の従属。薬草採取依頼の完遂。墓地で発生したアンデッドの鎮圧。
依頼対象であるンフィーレア・バレアレの救出。さらに、骨の竜と、それを操っていた魔法詠唱者の排除」
アインザックは、そこで一度言葉を切る。
「どれ一つ取っても、カッパー級の冒険者が成し遂げる実績ではない」
周囲の空気がざわめいた。
それは、誰もが思っていたことだった。
だが、組合長の口から明言されると、重みが違う。
「本来なら」
アインザックは、少しだけ声を低くした。
「私は君たちをアダマンタイト級に推したい」
その言葉に、組合内が大きく揺れた。
アダマンタイト級。
冒険者としての最高位。
国を代表する英雄たちが立つ領域。
そこに、登録からわずかな日数しか経っていない冒険者を上げる。
それは、前代未聞に近かった。
アインザックは続ける。
「実力だけを見れば、それだけの価値がある。少なくとも、私はそう判断している」
モモンは黙っていた。
ナーベもまた、表情を変えない。
ただし、彼女の内心では、それでも低すぎると考えているだろう。
「だが、横槍が入った」
アインザックは、苦々しげに言った。
「登録から日が浅すぎる。素性が不明。実績の確認が必要。既存の高位冒険者への説明がつかない。そういった声がな」
彼は肩をすくめる。
「組合というものは、実力だけで動けるほど単純ではない。特に、ミスリル級以上の者たちには顔がある。
彼らは長年、命を賭けて今の等級まで上がってきた。そこへ突然現れた者が、一夜で同じ場所へ並ぶ。
面白く思わない者もいるだろう」
その言葉に反応するように、組合の奥で一人の男がわずかに表情を歪めた。
整った装備。
鍛えられた身体。
自分が高位冒険者であるという自負を隠そうともしない態度。
だが、その目にあったのは称賛ではなかった。
嫉妬。
そして、敵意に近い対抗心。
モモンは、その視線に気づいていた。
だが、顔を向けることはしない。
今は、その程度の感情に付き合う必要はなかった。
ナーベの視線が、ほんの一瞬だけ男へ向いた。
冷たい。
人間を見る目ではない。
モモンはそれに気づいたが、何も言わなかった。
この場で問題を起こす必要はない。
「そのため、今回の正式な扱いとしては、ミスリル級への特例昇格とする」
アインザックは言った。
「君たちを軽く見ているわけではない。むしろ逆だ。急ぎすぎれば、余計な敵を作る」
「理解しました」
モモンは短く答えた。
「組合の判断に従います」
アインザックは、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「助かる。正直に言えば、君たちをこの街に留めたい。エ・ランテルに、
これほどの冒険者がいるという事実は、それだけで大きな意味を持つ」
モモンは兜の奥で考える。
名声。
信用。
高位冒険者としての活動権。
それらを得るには、ミスリル級は十分に有用だ。
アダマンタイト級まで一気に上がれば、逆に目立ちすぎる。
「問題ありません」
モモンは言った。
「こちらにはこちらの目的があります。等級は、そのために使えるなら十分です」
「そう言ってもらえるとありがたい」
アインザックは書類を差し出した。
「では、改めて。モモン君、ナーベ君。エ・ランテル冒険者組合は、君たちをミスリル級冒険者として推薦する」
周囲の冒険者たちが、静かにざわめく。
「一夜でミスリルかよ……」
「漆黒の英雄、ね」
その言葉は、称賛だけではなかった。
羨望。
嫉妬。
警戒。
そして、対抗心。
モモンはそれらをすべて背に受けながら、ただ静かに頷いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
組合での手続きが終わると、モモンは魔獣用の厩舎へ向かった。
そこには、巨大な丸い魔獣が鎮座していた。
「殿!」
ハムスケが、ぱっと顔を上げる。
「お戻りでござるな!」
妙に誇らしげだった。
「大人しくしていたか」
「もちろんでござる。拙者、主の命には忠実でござるからな」
ハムスケは胸を張った。
モモンは近くの職員を見る。
「迷惑はかけませんでしたか」
「い、いえ……大人しくは、しておりました」
職員はそう答えた。
ただし、その顔は一晩中、巨大な魔獣の横で眠れなかった者の顔だった。
ハムスケは、それにまったく気づいていないらしい。
「拙者、礼儀正しく待っていたでござる」
「そうか」
モモンは短く答える。
「では行くぞ」
「承知したでござる!」
ハムスケが嬉しそうに立ち上がる。
その動きだけで、職員たちが一斉に身を引いた。
モモンは、少しだけ職員たちへ頭を下げる。
彼らは慌てて首を振った。
組合を出る頃には、噂はさらに広がっていた。
黒い鎧の冒険者。
森の賢王を従えた者。
死者の墓地から少年を救い出した者。
漆黒の英雄。
いつしか、人々は彼をそう呼び始めていた。
モモンは、街の囁きを聞きながら歩く。
大げさだ。
そう思う。
だが、名声は必要だ。
この世界で動くための仮面として、冒険者モモンは十分な価値を持ち始めている。
それは、悪い流れではなかった。
そう判断した、その時だった。
アインズに《伝言》の魔法が届いた。
声はアルベドのものだった。
『アインズ様。至急、ナザリックへお戻りください』
いつもの甘さはない。
陶酔もない。
硬い声だった。
「何があった」
アインズは、内心で即座に警戒を強める。
『シャルティア・ブラッドフォールンに関する重大な報告がございます』
シャルティア。
その名を聞いた瞬間、アインズはわずかに沈黙した。
「……分かった。すぐ戻る」
モモンとしての処理は済んだ。
あとは、どうにでもなる。
アインズはナーベに短く指示を出し、ハムスケの扱いを整え、外から見て不自然にならないだけの手配を済ませる。
そして、誰にも見られない場所へ移動した。
次の瞬間、彼はナザリック地下大墳墓へ戻っていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ナザリックへ戻ったアインズを待っていたのは、深く頭を垂れるアルベドだった。
普段のような熱を帯びた視線はない。
そこにいるのは、アインズを恋慕する女ではなく、ナザリックの守護者統括だった。
「報告せよ」
「はっ」
アルベドは顔を伏せたまま、感情を削ぎ落とした声で告げた。
「シャルティア・ブラッドフォールンが、命令系統から外れました」
アインズは動かなかった。
少なくとも、外からはそう見えた。
「……命令系統から外れた、だと?」
「はい。呼びかけに応答せず、通常の指揮命令を受け付けません。所在は確認されておりますが、
現在、ナザリックの管理下にはない状態です」
「死亡ではないのだな」
「死亡ではございません」
「拘束、または外部からの妨害は」
「その可能性もございます」
アルベドはそこで一度言葉を切った。
そして、冷たいほど平坦な声で続ける。
「ですが、最悪の場合、シャルティア・ブラッドフォールンが裏切った可能性も否定できません」
「……裏切り、だと?」
アインズは、思わず聞き返した。
「シャルティアが、か」
あり得ない。
その言葉が、最初に浮かんだ。
シャルティアが裏切る。
ナザリックの第一から第三階層を守護する、至高の仲間が遺したNPCが。
そんなことがあるはずがない。
だが、アルベドがその可能性を口にした。
ナザリックの守護者統括である彼女が。
冗談や誇張で、その言葉を選ぶはずがなかった。
アインズの思考が、急速に回り始める。
シャルティアに何が起きた。
誰が干渉した。
命令系統を外すほどの力が、この世界に存在するのか。
それとも、本当に裏切りなのか。
いや、違う。
違ってほしい。
その瞬間、アインズの脳裏にひとつの記憶が蘇った。
シャルティアに外部任務を与えることを許可したのは、自分だ。
セバスたちの任務に同行させることを認めたのも、自分だ。
一人だけ待機させるのも可哀想だ。
戦力活用としても悪くない。
その程度の判断だった。
その安易な命令の結果、シャルティアが何かに巻き込まれたのだとしたら。
アインズの内側に、冷たい後悔が広がった。
だが、表情は変わらない。
感情が高ぶりかけた瞬間、アンデッドの精神がそれを強制的に均す。
焦燥は薄れる。
恐怖は押し潰される。
だが、消えたわけではない。
冷たい危機感だけが残った。
「アルベド」
「はっ」
「お前は、シャルティアが自ら裏切ったと考えているのか」
アルベドは一瞬も迷わなかった。
「可能性の一つとして、排除しておりません」
冷たい声だった。
「ナザリックに害をなす存在となったのであれば、たとえ守護者であろうと、処分対象です」
処分対象。
その言葉に、アインズの内心がわずかに揺れた。
アルベドの判断は正しい。
守護者統括として、ナザリックの安全を最優先に考えるなら、そうなる。
だが、即座に頷くことはできなかった。
シャルティアは、ただの兵ではない。
至高の仲間が創った、ナザリックの一部だ。
「早計だ」
アインズは静かに言った。
「裏切りと断定するには情報が足りない」
「仰る通りでございます」
アルベドは深く頭を下げた。
「ゆえに、アインズ様のご判断を仰ぐため、帰還を要請いたしました」
「情報を集める」
アインズは告げた。
「シャルティアの現在位置、周囲の状況、最後の報告内容、同行していた者たちの状態。すべてを整理しろ」
「はっ」
「裏切りと断定するな。だが、最悪の事態にも備えろ」
「承知いたしました」
アルベドが深く頭を下げる。
アインズは、彼女を見下ろしながら、内心で問うていた。
なぜ、シャルティアは外に出ていたのか。
なぜ、彼女に任務が与えられていたのか。
その答えは、少し前に遡る。
モモンが漆黒の剣と共に護衛依頼を進めていた、あの夜へ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
少し、時間は遡る。
それは、モモンが漆黒の剣と共に護衛依頼を進めていた夜のことだった。
野営地には、静かな寝息が落ちていた。
ペテル。
ルクルット。
ダイン。
ニニャ。
そして、ンフィーレア。
焚き火は小さくなり、灰の下で赤い火がわずかに息をしている。
夜の森は静かだった。
眠る必要のない者は、二人だけだった。
「ナーベ」
「はい、モモン様」
「少し離れる。周囲を警戒しろ。何かあれば、適当に誤魔化せ」
「承知しました」
ナーベは疑問を挟まなかった。
至高の御方の行動に、説明を求めるなどあり得ない。
モモンは森の影へ入る。
誰にも見られていないことを確認し、転移した。
次の瞬間、彼はナザリック地下大墳墓の一室に立っていた。
モモンではない。
アインズ・ウール・ゴウンとして。
執務室の机には、すでにいくつもの報告書が積まれていた。
エ・ランテル周辺の情報。
トブの大森林の探索状況。
偽ナザリック整備の進捗。
法国に関する断片的な報告。
セバスとソリュシャンの外部任務に関する書類。
冒険者として外に出ている間も、ナザリックの運営は止まらない。
支配者とは、実に忙しいものだった。
アインズは椅子に腰を下ろし、報告書へ目を通す。
カルネ村。
エ・ランテル。
王国。
法国。
この世界は、まだ分からないことだらけだ。
だからこそ、情報が必要だった。
しばらくして、扉の外から声がした。
「アインズ様。アルベドでございます」
「入れ」
扉が開き、純白の衣装をまとったアルベドが、深く頭を下げて入室した。
「失礼いたします」
「どうした、アルベド」
「外部任務について、ひとつ進言がございます」
アインズは、書類から視線を上げる。
「進言?」
「はい。現在、セバスとソリュシャンには王国方面への情報収集任務を命じております」
「そうだな」
「彼らの任務は順調です。しかし、目的が情報収集に偏っております。
武技使用者、未知の魔法知識を持つ者、有用な死体や捕虜の確保という観点では、戦力が不足しているかと存じます」
「続けろ」
「そこで、シャルティアを同行させてはいかがでしょうか」
アインズは、わずかに沈黙した。
「シャルティアを、か」
「はい。あの者であれば、戦闘、捕獲、殲滅のいずれにも適しております。
また、武技使用者を発見した際の対処にも向いております」
アルベドはそこで一度言葉を切った。
「それに……シャルティアだけが、外部任務から外れて待機を続けております」
「不満を漏らしているのか?」
「直接には。しかし、守護者たちは皆、アインズ様のお役に立つことを何よりの喜びとしております。
シャルティアのみ任務を与えられていない状況は、本人にとっても、守護者間の均衡という意味でも好ましくないかと」
アインズは考えた。
確かに、シャルティアだけを待機させ続けるのは、少し不公平かもしれない。
部下に仕事を割り振るなら、偏りは避けるべきだ。
それに、シャルティアの戦闘能力は高い。
任務に加えれば、得られる情報の幅も広がるだろう。
「よいだろう」
アインズは告げた。
「シャルティアにも任務を与える。セバスたちの経路に同行させ、武技使用者、未知の魔法知識を持つ者、有用な死体や捕虜の確保を命じろ」
「はっ。ありがたき幸せ」
アルベドは深く頭を下げた。
「ただし、無用な騒ぎは避けるよう伝えろ。シャルティアは少々……加減を誤ることがある」
「承知しております。厳命いたします」
「ならば任せる」
「すべてはアインズ様の御心のままに」
アルベドはもう一度礼をし、部屋を後にした。
扉が閉じる。
アインズは書類へ視線を戻す。
戦力の有効活用。
外部任務の補強。
守護者への公平な役割配分。
どれを取っても、悪い判断ではない。
少なくとも、この時のアインズはそう考えていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
王国領内。
エ・ランテルから王都へ向かう街道。
一台の馬車が、ゆっくりと道を進んでいた。
外から見れば、それは身分ある令嬢の旅だった。
バハルス帝国から来た裕福な令嬢。
それに仕える老執事。
そして雇われた御者。
だが、その実態はまるで違っている。
令嬢を演じるのは、ソリュシャン・イプシロン。
ナザリックの戦闘メイド、プレアデスの一員。
執事を演じるのは、セバス・チャン。
ナザリックの執事長。
彼らの任務は、人間社会の情報収集。
王国の流通。
裏社会。
権力者の動き。
人間の価値観。
表の顔を使い、外部から情報を探ることだった。
馬車の中、ソリュシャンは気怠げに窓の外を眺めていた。
完璧な令嬢の姿。
だが、その目の奥には、人間への興味などほとんどない。
「セバス」
ソリュシャンは、わざと少し不満げな声を作った。
「先ほどの宿の食事、あまり口に合いませんでしたわ」
「申し訳ございません、お嬢様」
セバスは、完璧な執事として頭を下げる。
「次の町では、より良いものをご用意いたしましょう」
「ええ。そうしてくださいな」
周囲に聞こえる者がいれば、わがままな令嬢と忠実な執事にしか見えないだろう。
だが、馬車の外で手綱を握る御者は、時折ちらちらと馬車の中へ視線を送っていた。
金目の匂い。
欲の匂い。
隠しているつもりなのだろうが、あまりにも分かりやすい。
ソリュシャンは薄く微笑んだ。
「人間とは、分かりやすいものですわね」
「ソリュシャン」
セバスが静かに言う。
「令嬢としての振る舞いを崩さぬように」
「承知しております、セバス様」
ソリュシャンは上品に微笑む。
「ただ、欲の匂いが隠せておりませんので、少し面白く思っただけですわ」
セバスは小さく目を細めた。
御者。
彼がただの御者ではないことは、セバスも察している。
むしろ、そうした者を引き寄せるための偽装でもあった。
金を持つ令嬢。
護衛らしい者は老執事ひとり。
これほど分かりやすい餌もそうない。
だが、その馬車の中にいるものが何かを、御者は知らない。
その時、馬車が一度止まった。
セバスが視線を向ける。
道の脇に、小さな影が立っていた。
赤い瞳。
白い肌。
幼い少女のような姿。
だが、そこから漂う気配は、人間のそれではない。
セバスは馬車を降り、静かに頭を下げた。
「シャルティア様」
少女は、楽しげに目を細めた。
シャルティア・ブラッドフォールン。
ナザリック地下大墳墓、第一から第三階層の守護者。
その背後には、二人のヴァンパイア・ブライドが控えていた。
「ごきげんよう、セバス」
シャルティアは優雅に微笑んだ。
「こちらへ来られるとは伺っておりませんでした」
「ええ。わたくしにも、ようやく外での役目が与えられましたの」
シャルティアは嬉しそうに胸を張った。
だが、次の瞬間、少しだけ不満げに唇を尖らせる。
「もっとも、アインズ様から直接ではなく、アルベド経由で伝えられましたけれど」
「左様でございましたか」
「ええ。アインズ様から直々に『シャルティア、行け』と命じていただけたなら、もっと胸が躍りましたのに」
その言葉は不満げではあったが、任務を得た喜びは隠しきれていなかった。
セバスは穏やかに頷く。
「アインズ様のご命令であれば、私から申し上げることはございません」
「もう、セバス」
シャルティアは小さく笑った。
「そのように畏まる必要はありませんわ」
「と、申されますと?」
「わたくしたちは、至高の御方々によって創られた者同士。役目や守る階層に違いはあれど、その根は同じでありんす」
シャルティアは赤い瞳を細める。
「名目上の上下はありましょう。けれど、創造主たる至高の御方々に仕えるという一点において、わたくしたちに優劣などありませんわ」
セバスは一瞬だけ沈黙した。
それは反論ではない。
シャルティアの言葉を、静かに受け止めるための間だった。
「お言葉、ありがたく」
セバスは深く頭を下げる。
「ですが、礼を失するわけにはまいりません。シャルティア様は階層守護者。私は執事でございます」
「真面目ですこと」
シャルティアはくすりと笑った。
「まあ、それがあなたらしいところですわね、セバス」
馬車の中から、ソリュシャンが柔らかく微笑む。
「まあ、シャルティア様までいらっしゃるとは。随分と賑やかな旅になりそうですわ」
「退屈よりはよろしいでしょう?」
シャルティアは唇を吊り上げた。
「待機ばかりでは、わたくしの牙も鈍ってしまいますもの」
彼女は続ける。
「わたくしの役目は、武技を使う者、珍しい魔法を知る者、それから……使い道のある人間や死体を集めること」
シャルティアは楽しげに微笑んだ。
「アインズ様のお役に立てるなら、多少荒っぽくなっても構いませんでしょう?」
「無用な騒ぎは避けるよう、命じられているはずでございます」
セバスが静かに釘を刺す。
「分かっておりますわ、セバス。必要な分だけ、ですの」
その「必要な分」が、シャルティアにとってどの程度を意味するのか。
セバスは、あえて問わなかった。
シャルティアとヴァンパイア・ブライドたちは馬車へ合流した。
御者は、美しい少女が増えたことに一瞬だけ顔を緩ませた。
だが、その視線に含まれる下卑た色を、セバスは見逃さなかった。
ソリュシャンもまた、微笑んだまま何も言わない。
やがて、馬車は再び動き出す。
王都へ向かう街道。
その先に待つものを、御者は知っている。
そして、セバスたちもまた、ある程度は察していた。
道の先で、鳥の声が止んだ。
馬車の車輪が、乾いた音を立てる。
セバスは静かに目を細めた。
ソリュシャンは微笑んだまま、指先を膝の上で重ねる。
そして、シャルティアは嬉しそうに唇を吊り上げた。
「ようやく、退屈せずに済みそうですわね」
その言葉と共に、馬車は闇の待つ道へ進んでいった。