鈴木悟の残響 - 骸の玉座に座してなおも人の夢を見る - 作:朝型人間
魔力を起動する直前、モモンガは一つの違和感に足を止めた。
このまま行くのか。
《遠隔視の鏡》に映っていた少女たちは、今まさに命を奪われようとしている。
猶予はほとんどない。迷っている時間などない。
それは分かっている。
だが、転移した先に現れるのが、骨だけの顔を晒した死の支配者でよいのか。
自分は助けに行くつもりだ。少なくとも、今この瞬間だけはそう決めた。
だというのに、助けられる側の目に最初に映るものが、骸骨の怪物であっていいはずがない。
そう判断した瞬間、モモンガは手早くアイテムを取り出した。
《嫉妬する者たちのマスク》。
禍々しい意匠を持つ仮面を顔に当てる。
続けて、骨の手を隠すために黒いガントレットを装着した。
完全に人間に見えるわけではない。だが、露出した頭蓋と骨の指を晒すよりは遥かにましだ。
仮面越しに世界を見る。
視界がわずかに狭まる。
それだけのことなのに、自分と世界の間に薄い壁ができたような感覚があった。
隠したのは顔だけではない。
自分が今、何者であるかという事実そのものを、一枚の仮面で覆った気がした。
「……これで、少しはましか」
呟いた声は、自嘲に近かった。
人間らしく振る舞うために、怪物が仮面を被る。
その滑稽さを笑えない程度には、今の彼は追い詰められていた。
考えるのは後だ。
モモンガは魔法を発動する。
「《転移門》」
空間が裂けた。
黒々とした門が開き、闇の向こうに森の景色が揺らぐ。
つい先ほどまで鏡の中にあった光景が、今は手を伸ばせば届く場所にある。
モモンガは一歩、門をくぐった。
湿った夜気が周囲を満たす。
鼻腔はない。
呼吸もしていない。
けれど、空気の温度と、木々の密度と、地面のやわらかさだけは妙に鮮明に伝わってきた。
その目前で、兵士の剣が振り下ろされようとしていた。
年若い娘が、もう一人の少女を庇うように身体を倒し込んでいる。
震えた肩。
押し殺しきれない恐怖。
死を覚悟しながらも、背後の誰かを守ろうとする細い背中。
モモンガは腕を上げた。
そこに怒りはなかった。
激情もなかった。
ただ、間に合う距離に来たから、間に合わせる。
それだけだった。
「《心臓掌握》」
低く告げた瞬間、兵士の身体がびくりと跳ねた。
振り下ろされるはずだった剣は、その途中で力を失う。
男は何が起きたのか理解する間もなく膝をつき、糸を切られた操り人形のように地面へ崩れ落ちた。
もう一人。
反射的に剣を構え直した兵士が、こちらへ向き直る。
恐怖よりも先に訓練が身体を動かしたのだろう。
そこまで見て、モモンガは別の魔法を選んだ。
「《竜雷》」
光が奔る。
放たれた雷撃は、兵士の胸を正確に貫いた。
金属の触れ合う音。
短い断末魔。
地に倒れる重量感。
それらは確かに、「人が死んだ」音だった。
モモンガは、その二つの死を見下ろした。
人を殺した。
そう認識する。
だが、胸は異常なほど静かだった。
助けるために殺した。
必要な排除だった。
理屈は通る。
通るからこそ、不気味だった。
仮に鈴木悟であった頃の自分が、目の前で人を殺したならどうなっていただろう。
たとえ相手が極悪人で、自分が誰かを救うために動いたのだとしても、
少なくとも膝が震えるか、吐き気の一つくらいはあったはずだ。
手の感触を思い出して眠れなくなる程度の、まともな後味の悪さくらいは。
だが今は違う。
「殺した」という理解だけがあり、その理解に伴うべき感情の波が、ひどく遠い。
奇妙だった。
気味が悪かった。
なのに、冷静さだけは少しも損なわれていない。
「……間に合った、か」
そう口にした声すら、驚くほど平坦だった。
助けられた娘は、地面に手をついたまま目を見開いていた。
背の後ろで守られていた少女もまた、姉の服を掴んだまま硬直している。
当然だ、とモモンガは思う。
深夜の森。
いきなり現れた《転移門》。
そこから出てきた仮面の魔法詠唱者。
そして一瞬で兵士を殺した力。
助けられたからといって、安心できるはずがない。
仮面をつけていても、怪物は怪物だ。
モモンガは二人へ近づきかけて、一瞬だけ足を止めた。
不用意に距離を詰めれば、かえって怯えさせる。
いや、もう十分に怯えさせてはいるのだろうが、
それでもまだ“制御できる恐怖”と“壊れる恐怖”には差がある。
そう判断して、彼は声の調子を落とした。
「安心しろ、と言っても無理だろうな」
仮面越しの声は、いくらかくぐもっている。
だが、むしろその方がよかった。
骨の口腔から直接響く異様さは薄れている。
「少なくとも、今この場でお前たちを害する気はない」
それでも娘たちの警戒は解けない。
年長の娘――エンリは、なおも少女を庇ったままこちらを見上げていた。
その細い背が、痛々しいほど必死に見える。
その姿に、モモンガはほんの僅かに目を細めた。
さっき鏡越しに見た時と同じだ。
この娘は、自分が死ぬかもしれない状況でも、背後の誰かを庇おうとする。
それは立派だとか美しいだとか、そういう綺麗な言葉以前に、
あまりにも生々しい“人間の生”の形だった。
「怪我をしているな」
エンリの背から血が流れている。
致命傷ではない。だが、放置していい傷でもない。
モモンガは懐からポーションを取り出した。
赤く透きとおる液体。
ユグドラシルでは見慣れた回復アイテムだが、
この世界の常識からすれば異様な色味に見えるだろう。
予想どおり、エンリの肩が強張る。
ネムに至っては、姉の袖を引きながら小さく首を振った。
「飲め。治療薬だ」
短く言う。
だが、いきなり見ず知らずの仮面の男に差し出された赤い液体を信用しろという方が無理だ。
エンリの喉が小さく鳴る。
唇が震えている。
それでも彼女は、ネムを背にかばったまま、こちらを睨むように見上げてきた。
その時、背後に重い気配が降りた。
「モモンガ様」
声はアルベドのものだった。
だが振り返った先にいたのは、普段の白いドレスを纏った守護者統括ではない。
漆黒の全身鎧。
女性的な曲線をほとんど覆い隠す、重厚な装甲。
腰から伸びる黒い翼。
そして、その手に握られた三日月型の斧。
アルベドの完全武装だった。
闇の森に降り立ったその姿は、美しいというより、まず恐ろしい。
白い衣を纏う女神ではない。
王の傍らに立つ、暗黒の重騎士。
ナザリックの主を守るために作られた、最強の盾。
エンリとネムは、今度こそ声も出せないほどに硬直した。
無理もない、とモモンガは思う。
仮面をつけた自分だけでも十分に怪しい。
その上、全身を漆黒の鎧で覆った異形の女騎士が舞い降りたのだ。
助けられたという事実より先に、恐怖が来る。
アルベドは二人を一瞥した。
兜の奥から向けられた視線に、わずかな冷気が宿る。
「恐れ多くもモモンガ様に対し、そのような態度を――」
「アルベド」
モモンガは即座に制した。
アルベドの言葉はそこで止まる。
完全武装の重々しさに反して、その反応は従順だった。
「この者たちが怯えるのは当然だ。咎めるな」
「……御意に」
わずかに不服そうな響きがあった。
だが、アルベドはそれ以上何も言わない。
自分の一言で止まる。
自分の一言で、怒りも忠誠も方向を変える。
その事実は、やはり重かった。
モモンガはエンリへ視線を戻す。
「これは治療薬だ。怯えるのも無理はないが、放っておけば傷は悪化する」
モモンガは赤いポーションを差し出した。
「選べ。私を信じて飲むか、そのまま出血に耐えるかだ」
選択肢を与えたつもりだった。
だが口にしてみると、半分脅しのようでもある。
人を安心させる言葉の選び方を、自分は案外知らないのかもしれない。
いや、知っていたとしても、今の自分では上手く使えないのかもしれない。
エンリはしばらく躊躇った末、震える手でポーションを取った。
ネムが慌てて止めようとする。
だがエンリは妹へ小さく首を振り、覚悟を決めたように一気に飲み干した。
次の瞬間、傷が塞がり始める。
引き裂かれていた背の布が修復されるわけではないが、
皮膚と肉がみるみる元へ戻っていく。
エンリは驚きに息を呑み、背中へ手をやった。
血の感触は消えている。
「……治った」
その呟きは、奇跡を前にした人間のものだった。
モモンガは、その反応を少しだけ遠く感じながら見つめる。
ユグドラシルでは当たり前の回復アイテム。
だがこの世界では、たぶん違う。
自分の常識は、もう人間の側の常識ではない。
その断絶が、思っていた以上にくっきりしていた。
「これを持っていろ」
モモンガは次に、小さな角笛を取り出してエンリへ差し出した。
「吹けば守りになる。使い方は単純だ。追い詰められた時に吹け」
角笛を受け取るエンリの指先は、まだ震えている。
彼女はそれを大事そうに抱え、しかし理解できないものを前にした怯えも隠しきれていない。
その様子を見ながら、モモンガは思う。
助けている。
間違いなく、助けている。
それなのに、心の底から“救った”という実感が来ない。
やるべきことを処理している。
必要な手順を踏んでいる。
負傷者を治療し、自衛手段を与え、次の行動へ移る準備を整える。
感謝されれば嬉しいはずなのに。
目の前の少女が助かったと知れば胸を撫で下ろすはずなのに。
そのどちらも、薄い。
代わりにあるのは、静けさと、ひどく冴えた観察だけだった。
「村の方へ行く」
モモンガは二人に背を向けかけ、そこで足を止めた。
エンリがこちらを見上げている。
怯えと感謝と、戸惑いが入り混じった目だ。
敵を見る目ではない。
だが、安心しきった目でもない。
当然だろう。
仮面で顔を隠そうが、二人の兵士を一瞬で殺した男に完璧な安心など抱けるはずがない。
それでも、彼女は震えた声で言った。
「ま、待って……ください」
モモンガは振り返る。
「あなたは……」
そこで一度、エンリは言い淀んだ。
何と言えばいいのか分からないのだろう。
恩人か、怪物か、あるいはそのどちらでもない何かか。
「あなたは、誰なんですか」
その問いに、モモンガは一瞬だけ沈黙した。
森の夜は静かだった。
村の方からはまだ炎の光が見える。
怒号も悲鳴も、ここまでは届かない。
けれど今も誰かが死んでいることだけは分かる。
急がなければならない。
それなのに、彼はその問いの前で足を止めてしまった。
誰なのか。
モモンガか。
鈴木悟か。
それとも、この仮面の下に骸骨を隠した何者かか。
「モモンガ」と名乗るのは、違う気がした。
それは確かにゲームでの自分の名だ。
だが今この世界で、その名だけを差し出しても足りない。
鈴木悟など論外だった。
現実の名前を、この骨の怪物に重ねることはできない。
ならば何を名乗る。
内側に残っているもの。
今の自分をかろうじて形作っているもの。
誰も来なかった夜のあとでも、まだ失いたくなかったもの。
答えは、ひどく自然に浮かんだ。
自分一人の名ではない。
もういない仲間たちごと背負うしか、今の自分は立てないのだと、
半ば本能のように理解していた。
「……アインズ・ウール・ゴウン」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが微かに軋んだ。
それは誇りでもあり、痛みでもあった。
仲間たちの名。
かつて笑い合った者たちの証。
本来なら、玉座の上から一人で好きに使うだけのものではない。
それでも今は、それを借りなければ、自分はこの世界で輪郭を持てない気がした。
「私の名は、アインズ・ウール・ゴウンだ」
エンリは、その名を呑み込むように繰り返した。
「アインズ……ウール・ゴウン……」
たぶん意味など分からないだろう。
ただ、忘れられない響きとしてだけ、彼女の中に残る。
その時だった。
「アインズ・ウール・ゴウン様……!」
背後でアルベドの声が震えた。
モモンガは、いや、アインズはわずかに振り返る。
兜の奥の表情までは見えない。
だが、その声だけで十分だった。
忠誠。
感激。
そして、どこか蕩けるような熱。
アルベドにとって、その名はただの新しい呼称ではない。
主が仲間たちの名を背負うと宣言した瞬間であり、同時に彼女が愛する“モモンガ”という個人が、
より大きなものへ変わる瞬間でもあった。
アインズは短く言った。
「長い」
「は……?」
「アインズでよい。今後はそう呼べ」
「……御意に。アインズ様」
今度の声には、先ほどとは違う熱があった。
フルネームを許されなかった寂しさ。
それでも新しい名を最初に呼ぶことを許された喜び。
そして、その全てを忠誠へ変えて捧げるような響き。
アインズは仮面の奥で目を細めた。
彼女の感情は、重い。
それは自分が最後の夜に刻んだ一文の結果でもある。
そう思うと、喉の奥にまた鈍い苦さが広がった。
だが、もう進むしかない。
モモンガでは足りない。
鈴木悟では立てない。
ならば今は、アインズ・ウール・ゴウンとして歩くしかない。
「アルベド、村の方へ向かう。遅れるな」
「はっ、アインズ様」
エンリとネムは、角笛を抱えたままこちらを見ている。
助けられた相手を見る目ではある。
だがそれ以上に、理解できないものを見上げる目でもあった。
アインズはその視線を、真正面から受け止めることができなかった。
助けたはずだ。
たしかに今、自分は誰かを救った。
それなのに、胸の中に広がるのは達成感ではなく、妙に冴えた静けさと、
説明しきれない違和感だけだ。
この静けさが、彼にはたまらなく不気味だった。
森の向こうでは、まだ炎が揺れている。
村は救われていない。
やるべきことは終わっていない。
アインズは村の方へ視線を向けた。
自分が今、何者なのか。
その答えはまだ出ない。
だが少なくとも一つだけ、はっきりしていることがある。
考えるのは後だ。
いまはまだ、進むしかない。
彼はローブを翻し、燃えさかるカルネ村へと歩き出した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
アインズは燃えさかる村へ向かう途中で、一度だけ足を止めた。
村はまだ救われていない。
森の奥でエンリとネムを助けた。
兵士を殺し、傷を癒やし、身を守るための角笛を渡した。
だが、それはあくまで二人だけの話だ。
村の中では、まだ剣が振るわれている。
逃げ遅れた者がいる。
助けを求める者がいる。
そして、その者たちを追い立てる騎士たちがいる。
アインズは仮面越しに、村の炎を見た。
このまま自分が直接動いてもいい。
だが、未知の世界で不用意に前へ出すぎるのは得策ではない。
敵の力を見る。
この世界で不死者がどう動くかを確認する。
そして村を救う。
その三つを同時に満たす手段がある。
アインズの視線が、先ほど殺した兵士の死体へ落ちた。
死体。
そう認識した瞬間、次に浮かんだのは“使える”という判断だった。
そのことに、かすかな嫌悪が走る。
人が死んでいる。
さっきまで動いていた人間が、今は地面に転がっている。
本来なら、そこで一度は立ち止まるべきなのかもしれない。
だがアインズの思考は、それより早く能力と用途を結びつけていた。
不死者の素材。
戦力。
検証対象。
そういう単語が、あまりにも自然に頭へ浮かぶ。
「……合理的だ」
呟いた声は、やはり静かだった。
合理的である。
それは間違いない。
だが、合理的であることと、それを気味悪く思わないことは別の話だ。
アインズはその不快感を胸の奥へ押し込み、右手を掲げた。
「来い」
死が、形を取った。
地面に伏していた兵士の死体が、音もなく歪む。
骨格が軋み、肉が変質し、闇が鎧のようにまとわりつく。
血の臭いを押し潰すように、冷たい死の気配が周囲へ広がった。
やがて、そこに一体の不死者が立っていた。
巨大な黒い鎧。
禍々しい盾。
大剣。
顔の奥で燃える、生命とは異なる光。
デスナイト。
ユグドラシルでは見慣れた存在だ。
だが、ゲーム画面越しではなく、夜の森の湿った土を踏んで立つ姿は、まるで別物だった。
エンリとネムが見ていたら、どう思っただろう。
助けてくれた者が、殺した兵士の死体から、さらに恐ろしい怪物を作り出す。
村人たちからすれば、騎士たちよりもこちらの方がよほど悪夢に見えるに違いない。
それでもアインズは命じた。
「村を襲っている者を殺せ。ただし、村人には手を出すな」
デスナイトが低く唸る。
それは返事というより、命令を受け取ったという現象に近かった。
次の瞬間、死の騎士は村へ向かって走り出した。
重い鎧を纏っているとは思えない速度だった。
地面が踏み砕かれ、草が裂け、夜の闇を黒い塊が突き進む。
アインズはその背を見送る。
守るために死を使う。
理屈としては正しい。
自分一人で村中を走り回るより効率的だ。
敵の抵抗能力を測るにも都合がいい。
だが、その正しさはあまりにも冷たかった。
「アインズ様」
背後のアルベドが声をかける。
漆黒の全身鎧に包まれた彼女は、完全武装のまま控えている。
ヘルメス・トリスメギストスは森の闇の中で、まるで夜そのものが形になったように見えた。
腰から伸びる黒翼。
手にしたバルディッシュ。
暗黒の重騎士。
守りとしては心強い。
だが、人を安心させる姿ではない。
「何だ」
「私が直接、村の敵を駆逐してまいりましょうか。アインズ様のお手を煩わせるまでもございません」
その言葉に含まれる敵意は、村を襲う騎士たちへ向けられている。
いや、正確には“アインズの視界を煩わせた者”への敵意かもしれない。
アインズは少し考え、首を横に振った。
「いや、まずはデスナイトの反応を見る。あれで十分ならそれでいい」
「御意に」
アルベドは即座に従う。
その従順さに、アインズはまたわずかな重さを覚えた。
命じれば従う。
疑わない。
迷わない。
それは支配者としては理想的なのだろう。
だが、鈴木悟だった頃の感覚からすれば、どこか危うい。
アインズはその思考を切った。
今は村だ。
村の中で、悲鳴が上がった。
遠くからでも分かる。
それは村人のものではなく、騎士たちの声だった。
デスナイトが到達したのだ。
アインズとアルベドは、村へ入った。
燃える家屋。
倒れた柵。
転がる死体。
血の臭い。
仮面の奥で、アインズはその光景を見た。
村人たちは家の陰や物陰で固まっている。
騎士たちは逃げ惑っていた。
その中心で、デスナイトが大剣を振るう。
一撃。
ただそれだけで、騎士の身体が吹き飛ぶ。
鎧ごと叩き潰され、地面へ投げ出される。
別の騎士が槍を突き出した。
槍先は黒い鎧に当たる。
だが、傷らしい傷はない。
デスナイトは抗議するような反応すら見せず、盾を振り抜いた。
騎士は壁際まで転がり、そのまま動かなくなる。
圧倒的だった。
この世界の一般的な兵士の力は、予想以上に低い。
少なくとも、デスナイト一体に対してまともな勝負になる水準ではない。
アインズは冷静にそう判断する。
冷静に。
あまりにも冷静に。
目の前で人が殺されている。
自分が命じた不死者が、村を襲っていた騎士を殺している。
それなのに、アインズの頭の中には、まず戦力評価が浮かんでいた。
敵の攻撃力。
防御力。
士気。
連携。
恐怖への耐性。
人間を殺しているという事実は、確かに理解している。
だが、それは観察項目の一つとして整理されてしまう。
アインズは仮面の奥で目を細めた。
救っている。
村人を守っている。
だが、村人たちの目に映っているものは、救いなのか。
物陰に隠れた女が、小さな子供を抱きしめている。
その目は、騎士ではなくデスナイトを見ていた。
恐怖に引きつった顔。
逃げたいのに、どこへ逃げればいいのか分からない顔。
無理もない。
騎士の暴力から救われた村に、今度は死の騎士が走っているのだから。
「助けるとは、難しいものだな」
小さく呟く。
アルベドが僅かに反応したが、何も言わなかった。
やがて、騎士たちの抵抗は崩れた。
逃げる者が出る。
武器を捨てる者が出る。
デスナイトから距離を取りながら、村の出口へ殺到する者たちがいる。
アインズはそこで手を上げた。
「止まれ」
デスナイトの動きがぴたりと止まる。
命令どおりだった。
一歩先に逃げていた騎士の背中を斬る寸前で、大剣が空中に止まっている。
その光景に、騎士たちが凍りついた。
アインズはゆっくりと前へ出た。
仮面の魔法詠唱者。
その背後に控える漆黒の重騎士。
そして、命令ひとつで動きを止めた死の騎士。
騎士たちは、誰一人として声を出せなかった。
アインズは彼らを見下ろす。
全員殺すことはできる。
だが、それでは情報が途切れる。
背後に主がいるなら、そこへ警告を届ける者が必要だった。
慈悲ではない。
戦略だ。
その判断があまりにも自然に出てきたことへ、アインズはまた微かな不快感を覚える。
「戻って伝えろ」
仮面越しの声は低く、闇に沈んだ。
「お前たちの主、いや――飼い主に伝えろ。この村に手を出すな」
騎士の一人が息を呑む。
侮辱された怒りか。
命を拾った安堵か。
それとも、目の前の存在への恐怖か。
そのどれであっても、アインズには構わなかった。
「次は警告では済まさない」
騎士たちは動けない。
アインズはわずかに声を落とした。
「行け」
その一言で、彼らは弾かれたように逃げ出した。
誰も振り返らない。
背後に死の騎士がいることを、本能で理解している走り方だった。
アインズはその背を見送った。
脅すことに、ためらいがなかった。
守るためなら威圧も合理的だ。
敵を退け、背後勢力へ危険を伝える。
それは正しい判断だ。
だが、正しい判断を取る声が、自分の中に妙に馴染んでいることが不快だった。
支配者らしい声。
弱者を守るために、より大きな恐怖を突きつける声。
それは、鈴木悟の声ではない。
アインズ・ウール・ゴウンの声だった。
逃げていく騎士たちが見えなくなるころ、アインズはデスナイトへ視線を向けた。
村人たちはまだ硬直している。
彼らの視線の多くは、仮面の魔法詠唱者ではなく、黒い死の騎士へ吸い寄せられていた。
当然だ。
村を救ったものは、彼らにとって同時に恐怖そのものでもある。
「下がれ。村の外縁で待機しろ。許可なく動くな」
デスナイトは無言で従った。
重い足音が遠ざかっていく。
その姿が村の闇へ沈んでいくにつれ、村人たちの張り詰めた呼吸がわずかに戻った。
救うために放ったものが、救われた者たちを怯えさせている。
その事実を、アインズは静かに受け止めた。
正しい手段だった。
だが、優しい手段ではなかった。
村に、沈黙が下りる。
燃える家屋の音だけが残る。
木材が爆ぜる音。
遠くのすすり泣き。
誰かが名前を呼ぶ声。
村人たちはまだ動けないでいた。
助かった。
だが、何から助かったのか。
そして今、目の前にいるのは何なのか。
その答えを、誰も出せずにいる。
やがて、一人の老人が震えながら前へ出た。
村長だろう。
足元はおぼつかない。
それでも、村人たちの代表として出るしかないと理解している顔だった。
老人はアインズの前で深く頭を下げる。
「こ、この村を……お救いいただき、まことに……」
言葉が震えている。
感謝している。
だが恐れてもいる。
その両方が声に混ざっていた。
アインズはそれを自然な反応として受け止めた。
「礼は不要だ」
そう言ってから、自分でも少し冷たいと思った。
礼を不要とするなら、何も求めない英雄のように聞こえるかもしれない。
だがアインズは、実際には求めるものがある。
情報だ。
「だが、対価はもらう」
村長の肩が跳ねる。
周囲の村人たちの緊張が増した。
何を奪われるのか。
何を要求されるのか。
その恐怖が空気に混じる。
アインズは短く続けた。
「金品ではない。この周辺の情報が欲しい」
村長が顔を上げる。
「じょ、情報……でございますか」
「そうだ。この国の名。近隣の都市。通貨。魔法の扱い。
今回の襲撃者に心当たりがあるか。知っている範囲でよい」
村長は一瞬、呆気に取られたようだった。
命を救った存在が、報酬として金でも食料でもなく、情報を求めた。
それがどれほど奇妙に聞こえるのか、アインズにも何となく分かった。
だが、今もっとも必要なのはそれだ。
この世界がどこなのか。
誰が支配しているのか。
どの程度の文明なのか。
ナザリックは、この世界でどう振る舞うべきなのか。
村人の感謝よりも、そちらを優先している自分がいる。
合理的だ。
合理的すぎる。
「わ、分かりました。私どもの知ることであれば、何なりと」
村長は慌てて頷いた。
アインズは淡々と質問を続けた。
ここはリ・エスティーゼ王国の端にある村だという。
近くにある都市の名。
流通する貨幣。
王国と帝国、法国と呼ばれる国の存在。
この地域に騎士が現れる理由は分からないが、彼らが王国の正規兵とは思えないこと。
村長の説明は断片的だった。
恐怖で混乱しているせいもある。
村人として知る範囲には限界もある。
それでも、アインズにとっては十分に価値があった。
この世界には国家がある。
貨幣がある。
魔法も存在するが、ユグドラシルの常識とはおそらく異なる。
武装集団が国を偽装して村を襲う程度には、政治的な思惑もある。
情報が整理されていく。
その間にも、村の別の場所では死者が集められていた。
アインズはふと視線を向ける。
布をかけられた遺体。
その前で泣き崩れる女。
声を出せずに立ち尽くす子供。
歯を食いしばりながら、仲間の亡骸を運ぶ男。
村は助かった。
しかし、失われたものは戻らない。
当然のことだ。
だがその当然を前にしても、アインズの胸はやはり静かだった。
彼らには名がある。
家族がいる。
誰かにとって、ただ一人の親であり、子であり、伴侶だったはずだ。
それなのに、アインズの中では、まず“死者数”として見えてしまう。
村側の死体。
騎士側の死体。
利用可能なもの。
利用してはならないもの。
分類しようとしている自分に気づいて、アインズは内心で顔をしかめた。
嫌だった。
だが、嫌だと思えていることにだけ、少し安堵した。
完全に空っぽではない。
まだ不快だと思える。
その程度の確認に、かすかな救いを求めている自分もまた、情けなかった。
その時、アルベドがわずかに顔を動かした。
兜の奥の気配が変わる。
「アインズ様」
低い声。
アインズは村長との会話を止め、アルベドへ向く。
「何だ」
「後方に展開していた者より報告が入りました」
ナザリックの後詰め。
アインズは事前に、周囲の警戒と情報収集のために後方へ人員を置いていた。
自分が前に出る以上、背後と周囲の確認は当然必要になる。
アルベドは続ける。
「村へ接近する騎馬隊があります。数は少数。装備は先ほどの襲撃者とは異なります」
村長の顔色が変わった。
村人たちもざわめく。
アインズは片手を上げ、周囲を黙らせた。
「敵か」
「断定はできません。ただし、統制された部隊です。王国側の兵である可能性もございます」
「距離は」
「間もなく外縁に到達します」
アインズは少し考えた。
また敵かもしれない。
あるいは、救援かもしれない。
だが、どちらとも断定しない方がいい。
最悪を想定する。
それが正しい。
「村人を下げる。アルベド、私の後ろに控えろ。必要なら動け」
「御意に」
アルベドの返答は早い。
アインズは村長へ向き直った。
「村人を下がらせろ。騎馬隊が近づいている」
「は、はい!」
村長は慌てて指示を飛ばす。
村人たちは恐怖に駆られながらも、動き出した。
家の陰へ。
広場の奥へ。
負傷者を抱えながら、少しでも安全そうな場所へ。
その様子を見ながら、アインズは村の入口へ歩いた。
デスナイトはすでに村外縁へ下がらせている。
あまり前に出せば、接近してくる者が問答無用で敵対する可能性がある。
だが消す理由もない。
必要ならすぐに動かせる位置に置けばいい。
仮面の奥で、アインズは静かに息を整えようとして、
また呼吸していないことに気づいた。
奇妙な癖だ。
人間だった頃の動作だけが、まだ残っている。
ほどなくして、馬蹄の音が聞こえた。
夜の道を駆けてくる複数の影。
松明の明かり。
鎧の反射。
しかし、先ほどの襲撃者とは雰囲気が違う。
隊列が整っている。
そして何より、先頭の男の纏う空気が違った。
騎馬隊は村の入口で止まった。
先頭の男が馬から降りる。
鎧には泥がついていた。
顔には疲労がある。
髪も整ってはいない。
急いでここまで駆けつけたことが一目で分かる姿だった。
だが、目だけは曇っていなかった。
村の惨状を見た瞬間、その男の顔が険しくなる。
怒り。
悔恨。
焦り。
複数の感情が一瞬で浮かび、それを押し殺すように表情が引き締まる。
そして彼は、まず村人たちを見た。
生存者を。
負傷者を。
死者を。
アインズではなく、村を見た。
その順番が、アインズには印象的だった。
男はすぐにこちらへ向き直り、警戒を隠さずに、それでも礼を失わない態度で歩み寄る。
「私はリ・エスティーゼ王国戦士長、ガゼフ・ストロノーフ」
名乗りは簡潔だった。
王国戦士長。
村長が息を呑む気配がある。
村人たちの間にも小さなざわめきが走った。
おそらく、この世界では相応の名を持つ男なのだろう。
ガゼフはアインズを見た。
仮面の魔法詠唱者。
背後に控える漆黒の重騎士。
そして、村外縁に下がらせているとはいえ、気配だけは消えていない死の騎士。
警戒しない方がおかしい。
それでもガゼフは、剣に手をかけなかった。
「この村を救っていただいたこと、礼を申し上げる」
そう言って、頭を下げた。
真っ直ぐだった。
あまりにも真っ直ぐな礼だった。
アインズは一瞬、返答に迷った。
礼を受ける資格があるのか。
自分は、たっち・みーの面影に引かれて動いた。
力を試す目的もあった。
情報を得る意図もあった。
純粋な善意ではない。
それでも、村人が生きているという結果だけを見れば、
ガゼフの礼は間違っていない。
「礼は不要だ」
アインズは低く答えた。
「こちらにも目的があった。結果として、この村を救っただけだ」
ガゼフは顔を上げる。
「それでも、生き残った者がいる。その事実に対して礼を述べたい」
その言葉は、アインズの胸に妙に残った。
この男は、結果を見ている。
理由を問う前に、救われた命を見ている。
自分がどれほど警戒すべき相手であっても、まず村人のために礼を言う。
人間らしい。
その言葉が、自然に浮かんだ。
泥にまみれ、疲れ、焦り、それでも立つ男。
自分の力が万能ではないことを知っている。
間に合わなかったことも、救えなかった命も理解している。
それでも、次の誰かを救うために動こうとしている。
強い、というより折れにくい男だ。
肉体ではない。
意志の話だ。
アインズは、ほんの少しだけ眩しいと思った。
「私はアインズ・ウール・ゴウン。魔法詠唱者だ」
「ゴウン殿、か」
ガゼフはその名を覚えるように繰り返す。
「重ねて礼を申し上げる。だが、状況を確認させていただきたい。この村を襲った者たちは?」
「一部は殺した。一部は逃がした。背後にいる者へ警告を伝えさせるためだ」
ガゼフの目が僅かに細くなる。
警戒ではなく、理解に近い反応だった。
「なるほど。敵の主に対する牽制、というわけか」
「そうだ」
アインズは短く肯定する。
ガゼフは少しだけ苦い表情をした。
「できれば、何者かを確認したかったところだが……
いや、村人が生き残っただけで十分すぎる」
その言い方に、疲労が滲んでいた。
彼は本当に、助けに来たのだ。
戦うためだけではなく。
功績のためでもなく。
村人を助けるために。
その事実が、アインズにはまた少し眩しかった。
その時、ガゼフの部下の一人が駆け寄ってきた。
「戦士長!」
声に緊張がある。
ガゼフが振り返る。
「どうした」
「周囲に人影があります。村を囲むように展開している模様。数は……かなり」
ガゼフの顔が険しくなった。
同時に、アルベドもわずかに動いた。
「アインズ様。後詰めからも同様の報告が入りました。
村外周に複数の集団。先ほどの襲撃者とは別働の可能性が高いとのことです」
アインズは黙って村の外を見た。
なるほど。
村を襲っていた騎士は、前座か。
あるいは誘導。
本命は別にいる。
ガゼフは一瞬で何かを悟ったようだった。
「……私が狙いか」
その声は低かった。
部下たちがざわめく。
村長が息を呑む。
村人たちには意味が分からないかもしれない。
だがアインズには分かった。
この男は、自分が罠にかかったことを理解したのだ。
そしてその上で、まず村人の安全を考えている。
「村人を避難させろ。負傷者を優先しろ」
ガゼフが部下へ命じる。
「しかし、戦士長!」
「急げ」
短い命令。
そこに迷いはなかった。
自分が死ぬかもしれないと、分かっている。
それでも、村人を先に動かす。
アインズはその横顔を見た。
合理的に見れば、危うい。
戦力差も分からない状態で、自分を囮にするような判断だ。
だが、人間としてはまっすぐだった。
たっち・みーとは違う。
あの男の眩しさとは別物だ。
ガゼフのそれは、もっと泥臭い。
もっと現実的で、疲れていて、血と土にまみれている。
それでも折れない。
だからこそ、ひどく人間らしかった。
アインズは、眩しいと思った。
そして同時に、これから始まる戦いの規模と力量差を、
冷静に測ろうとしている自分にも気づいていた。
その二つが、胸の中で気味悪く並んでいる。
人間らしさを眩しいと思う自分。
戦場を実験場のように観察しようとする自分。
どちらも、自分なのだろうか。
答えはまだ出ない。
村の外で、夜が静かに動いた。
陽光聖典。
その名を、アインズはまだ知らない。
だが、迫り来る集団が、この村とガゼフを呑み込もうとしていることだけは理解できた。
ガゼフは剣の柄へ手をかける。
アインズは仮面の奥で、その姿を見つめた。
この男は、人間として戦う。
ならば自分は何として戦うのか。
その問いだけが、静かに胸の奥へ沈んでいった。