鈴木悟の残響 - 骸の玉座に座してなおも人の夢を見る -   作:朝型人間

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人として戦う者、骸として勝つ者

ガゼフ・ストロノーフは、村人を下がらせる命令を出したあと、

あらためてアインズへ向き直った。

 

その顔には、すでに死地へ向かう者の覚悟があった。

 

「ゴウン殿」

 

泥と血に汚れた戦士長は、それでも礼を失わない声音で言った。

 

「あなたほどの力を持つ魔法詠唱者は、王国にとっても得難い存在だ」

 

アインズは仮面の奥から、ガゼフを見た。

 

「もし仕官の意思があるなら、私から陛下へ取り次ごう」

 

王国に仕える。

それは、外界へ接触する手段としては悪くない。

 

王国という国家の内側から情報を得ることができる。

ガゼフほどの人物が取り次ぐのであれば、一定の信用も得られるだろう。

 

だが、今ではない。

 

この世界の国家がどれほどの力を持つのか。

魔法がどのように扱われているのか。

人間たちが、ナザリックのような異形の存在をどう見るのか。

 

まだ何も分からない。

 

アインズ・ウール・ゴウンとして名乗ったばかりの自分が、

いきなりどこかの国に属する。

それは、ナザリックの主としてあまりにも軽率だ。

 

「ありがたい申し出だ」

 

アインズは静かに答えた。

 

「だが、今は断る」

 

「理由を聞いても?」

 

「私はまだ、この世界を知らなすぎる。仕える国を決めるには、情報が足りない」

 

ガゼフは短く目を伏せた。

 

「……それは残念だ」

 

無理に食い下がることはしなかった。

それが、アインズには少し意外でもあった。

 

力ある者を前にして、媚びない。

断られても、怒らない。

 

ただ相手の判断を受け止める。

この男は、やはり真っ直ぐだ。

 

ガゼフは顔を上げる。

 

「ならば、もう一つ頼みがある」

 

「何だ」

 

「この村の者たちを守ってほしい」

 

その言葉は、先ほどの仕官の誘いよりも、ずっと重かった。

ガゼフは続ける。

 

「敵の狙いが私であるなら、私が出る。それが最も村に被害を出さない道だ」

 

「勝算はあるのか」

 

「高くはない」

 

部下の一人が息を呑んだ。

だがガゼフの声は揺れない。

 

「だが、退くわけにはいかん。王国戦士長として、

民を斬らせて自分だけが生き残る道は選べない」

 

アインズはガゼフを見た。

合理的に見れば、危うい判断だ。

 

王国戦士長という立場を思えば、彼一人の命には大きな政治的価値がある。

辺境の村ひとつと天秤にかけるべきではない、という考え方もあるだろう。

だが、ガゼフはそうしない。

 

自分が狙われていると知ったうえで、なお村人を先に置いている。

それを愚かと切り捨てるには、その目はあまりにも真っ直ぐだった。

 

「分かった」

 

アインズは短く答えた。

 

「村人は私が守ろう」

 

ガゼフの表情が、ほんのわずかに緩んだ。

 

「感謝する、ゴウン殿」

 

「礼は生き残ってから言え」

 

「……そうだな。では、生きて戻るとしよう」

 

そう言って、ガゼフは一度だけ深く頭を下げた。

アインズは懐から小さなアイテムを取り出す。

 

「これを持っていけ」

 

ガゼフの視線が、アインズの掌へ落ちる。

 

「これは?」

 

「退避用の道具だ。危険だと判断した時に使え」

 

ガゼフはすぐには受け取らなかった。

 

「そのような貴重なものを、私に?」

 

「貴様に死なれては困る」

 

アインズはそう言った。

口にした直後、胸の奥に小さな引っかかりが生じる。

 

死なれては困る。

情報源として。

王国との接点として。

この世界の戦士の基準として。

 

そう説明できる。

だが、それだけではない気もしていた。

 

「お前には、まだ聞きたいことがある」

 

言い訳のように付け足す。

ガゼフはしばしアインズを見つめ、それから静かにアイテムを受け取った。

 

「分かった。預かろう」

 

「使うかどうかは、お前が決めろ」

 

「ああ。そうさせてもらう」

 

アインズには分かっていた。

この男は、まず間違いなく自分だけ助かるためには使わない。

部下を置き、村人を置いて逃げる道を選べる男ではない。

 

それが愚かなのか、尊いのか。

アインズにはまだ判別できない。

ただ、その愚かしさを見捨てにくいと思っている自分がいた。

ガゼフは剣の柄へ手をかけ、部下たちへ向き直る。

 

「行くぞ。敵の狙いが私ならば、村から引き離す」

 

「戦士長!」

 

「村を戦場にするな。負傷者と村人を逃がす時間を稼ぐ」

 

部下たちは一瞬だけ言葉を詰まらせた。

しかし、誰も逃げろとは言わなかった。

 

恐怖はある。

勝算が薄いことも分かっている。

それでも彼らは、ガゼフの背に続いた。

 

アインズはその背を見送る。

 

弱い。

 

少なくとも、ナザリックの基準からすれば、あまりにも弱い。

だが、その背中は軽くなかった。

 

「アインズ様」

 

アルベドの声が背後から届く。

 

「本当に、あの者たちだけで向かわせるのですか?」

 

完全武装に包まれたアルベドは、アインズのすぐ後ろに控えていた。

 

漆黒の全身鎧。

腰から伸びる黒翼。

手にしたバルディッシュ。

 

その姿は、闇の中に立つ守護そのものだった。

 

だが、声には感情が滲んでいる。

ガゼフたちへの憐れみではない。

 

アインズが彼らを気にかけていることへの、わずかな不満。

そして、アインズが危険へ近づくかもしれないことへの警戒。

 

「まずは見る」

 

アインズは言った。

 

「この世界の戦士がどう戦うか。敵が何を使うか。知る必要がある」

 

「であれば、私が敵を一体ずつ捕らえ、吐かせます」

 

「それでは戦い方が分からない」

 

「アインズ様にご不便をおかけする戦い方など、知る価値があるのでしょうか」

 

アインズは少しだけ黙った。

従者としてなら、正しい。

護衛としてなら、当然の発想だ。

アインズに危険が及ぶ前に全てを潰す。

それがアルベドの最優先なのだろう。

 

「ある」

 

短く答える。

アルベドは沈黙した。

 

「御意に」

 

返答は従順だった。

だが、完全な納得はない。

それでも彼女は従う。

アインズの命令であるからだ。

 

その従順さは、忠誠であり、信仰であり、そして愛なのだろう。

その重さを、アインズはまだ上手く受け止められなかった。

 

村の外で戦闘が始まった。

黒衣の部隊は、統制が取れていた。

 

王国兵のような鎧姿ではない。

金属糸を思わせる衣装。

信仰系魔法詠唱者らしき気配。

杖。

召喚される天使。

 

彼らはガゼフたちを包囲し、一定距離を保ち、

召喚体を壁として使いながら後方から魔法を撃つ。

 

アインズはその戦いを見た。

 

召喚された天使たちは、村を襲っていた騎士たちとは明らかに質が違う。

飛行し、光の翼を広げ、炎を帯びた武器を振るう。

それでも、ナザリックの基準では低位の存在に過ぎない。

 

だがガゼフたちにとっては違った。

王国戦士団はよく戦っていた。

 

一人一人の戦闘力は決して低くない。

装備の質も悪くはない。

何より、ガゼフを中心にした動きには練度があった。

 

ガゼフは突出しすぎない。

部下を見捨てない。

かといって、守ることに意識を取られすぎて足を止めもしない。

 

剣を振るう。

踏み込む。

受け流す。

 

天使の一撃を避け、敵詠唱者へ圧力をかける。

部下が危険に晒されれば、そこへ割って入る。

 

華麗ではない。

泥臭い。

剣だけではない。

 

肩も、足も、体重も、呼吸も、全てを戦いに使っている。

貴族の観賞に耐えるような剣舞ではなく、生き残るための実戦だった。

これが、この世界の戦士の戦いか。

 

アインズは観察する。

ガゼフは強い。

この世界では、間違いなく強者に入るのだろう。

 

だが、それでも届かない。

 

黒衣の部隊は数で押す。

召喚天使が盾となる。

魔法詠唱者が後ろから支援する。

王国戦士団は、少しずつ削られていった。

 

一人が倒れる。

ガゼフが名を呼ぶ。

 

だが、足は止めない。

別の兵が膝をつく。

 

それを庇った隙に、ガゼフの肩を光の刃がかすめる。

それでも、ガゼフは前へ出た。

 

アインズは二つのことを同時に考えていた。

 

一つは、戦況の分析。

 

敵の召喚天使の強度。

信仰系魔法の階層らしきもの。

詠唱の長さ。

術者同士の連携。

魔法防御の有無。

近接戦闘能力。

 

もう一つは、ガゼフという人間のこと。

 

ガゼフは退避用のアイテムを持っている。

逃げる選択肢がある。

少なくとも、自分の命だけは拾える可能性がある。

それでも使わない。

使えないのではない。

使わないのだ。

やはり、この男は逃げない。

 

「アインズ様」

 

アルベドが低く言った。

 

「このままでは、あの人間は死にます」

 

「分かっている」

 

「救われますか?」

 

その問いには、わずかな棘があった。

アインズがガゼフに関心を向けていることを、彼女は理解している。

 

それが恋慕に類する嫉妬ではないとしても、

アルベドにとって面白いものではないのだろう。

アインズは静かに答えた。

 

「まだだ」

 

「……御意に」

 

アルベドは下がった。

ガゼフの部下がまた一人倒れた。

 

黒衣の部隊の後方から、指揮官らしき男が前へ出る。

平凡な顔立ち。

無機質な黒い瞳。

 

その口元には、勝利を確信した薄い笑みが浮かんでいた。

ガゼフは息を荒げながらも、剣を構え直す。

 

その身体はすでに傷だらけだった。

だが目は死んでいない。

 

アインズは、そこで決めた。

 

これ以上は不要だ。

この世界の戦士の基準。

信仰系魔法を扱う集団の戦い方。

召喚天使の強度。

 

そして、ガゼフ・ストロノーフという男の選択。

必要なものは見た。

 

このまま見続ければ、彼は死ぬ。

アインズはそれを望まなかった。

 

「アルベド」

 

「はっ」

 

「行くぞ」

 

「御意に」

 

その返答は早かった。

アインズは魔力を動かす。

 

ガゼフが最後の踏み込みをしようとした瞬間。

アインズが渡したアイテムが反応した。

 

位置が入れ替わる。

傷だらけの戦士長がいた場所に、仮面の魔法詠唱者が立った。

 

そして、その半歩後ろには、漆黒の全身鎧を纏ったアルベドがいた。

黒翼を畳み、バルディッシュを構え、アインズの背を守るように立つ。

戦場が、一瞬だけ凍った。

 

「ゴウン殿!」

 

背後でガゼフの声が上がる。

アインズは振り返らない。

 

眼前には、黒衣の部隊。

召喚天使。

指揮官らしき男。

信仰系魔法の気配。

 

そして、自分の背後にはアルベド。

王の盾。

その配置は、あまりにも自然だった。

 

「何者だ、貴様」

 

指揮官らしき男が言う。

アインズはしばし、その男を見た。

 

黒衣の部隊。

召喚天使。

信仰系魔法。

 

そして、ガゼフを狙う罠。

 

どれも、この世界を知るための手がかりだった。

 

「私の名はアインズ・ウール・ゴウン」

 

仮面越しの声が、夜の戦場に落ちる。

 

「魔法詠唱者だ」

 

黒衣の部隊に、わずかなざわめきが走った。

聞いたことのない名。

聞いたことのない響き。

 

だが、その名を告げた者が、ただの魔法詠唱者でないことだけは、

誰の目にも明らかだった。

指揮官らしき男が、その名を反芻するように呟いた。

 

「アインズ・ウール・ゴウン……」

 

「では、次は私の質問だ」

 

アインズは周囲へ視線を巡らせる。

見覚えがある。

完全に同じではない。

 

だが、似ている。

 

天使召喚。

魔法の位階。

詠唱。

術式の構成。

 

ユグドラシルで蓄積した知識のどこかに、引っかかる。

この世界の魔法は、ユグドラシルと無関係なのか。

それとも、何らかの形で繋がっているのか。

 

アインズは静かに口を開いた。

 

「お前たちは、なぜその魔法を知っている」

 

男の眉が動いた。

 

「何?」

 

「召喚天使。信仰系魔法。そして、その術式の構造。

私には見覚えがある」

 

黒衣の部隊にざわめきが走る。

 

「誰に教わった。どこから得た。お前たちの神か、国か、それとも別の何かか」

 

男の顔に怒りが浮かんだ。

 

「不敬な。これは我らが神々より授けられた正しき力。

スレイン法国に伝わる聖なる術だ」

 

スレイン法国。

アインズはその名を心に刻む。

 

法国。

神々。

信仰系魔法。

天使召喚。

 

王国兵への偽装。

ガゼフを狙う罠。

 

情報が繋がりかける。

だが、まだ不十分だ。

 

「なるほど」

 

アインズは低く言った。

 

「ならば、その神々とやらが何を知っているのか、実に興味深い」

 

「殺せ」

 

男が命じた。

召喚天使たちが動く。

同時に、後方の魔法詠唱者たちが一斉に術を放った。

 

光弾。

聖なる矢。

拘束の魔法。

衝撃波。

 

複数の魔法がアインズへ殺到する。

 

「アルベド」

 

「はっ」

 

短い呼びかけだけで十分だった。

アルベドが一歩前へ出る。

漆黒の鎧が軋み、バルディッシュが弧を描く。

 

「《ミサイル・パリィ》」

 

飛来する魔法の一部が、見えない壁へ触れたように軌道を歪める。

 

「《カウンター・アロー》」

 

弾かれた光が反転し、放った術者たちへ突き返された。

悲鳴が上がる。

陽光聖典の者たちが動揺した。

 

自分たちの魔法が、まるで玩具のように弾かれ、跳ね返されたからだ。

アインズはその様子を淡々と見ていた。

 

防御は十分。

アルベドはやはり、盾として完璧に近い。

 

召喚天使が斬りかかる。

アインズは動かない。

 

一撃目。

弾かれる。

 

二撃目。

通らない。

 

三撃目。

装備と耐性によって、ほとんど意味を失う。

 

アインズは攻撃を受けながら、淡々と確認していた。

 

速度は遅い。

威力は低い。

属性は神聖寄り。

近接攻撃能力は低位から中位召喚相当。

 

この世界の一般的な戦士には脅威でも、自分にとっては脅威ではない。

それでも、情報ではある。

 

「《魔法の矢》」

 

アインズが短く告げる。

光の矢が放たれ、天使の一体を貫いた。

 

続けて別の天使へ飛び、さらにもう一体を撃ち抜く。

召喚天使たちは、あっけなく消えた。

黒衣の部隊が息を呑む。

 

「馬鹿な……」

 

指揮官の声から、余裕が消えた。

 

「天使が、あのような魔法で……」

 

アインズはその反応を見た。

やはり、彼らには位階の概念がある。

 

低位、高位、最高位。

その分類も、どこかこちらの知識に似ている。

 

「お前たちは、どこまで知っている」

 

アインズは一歩進む。

 

「その魔法を。召喚を。位階を。誰から受け継いだ」

 

「黙れ!」

 

男は叫び、懐に手を入れた。

取り出されたのは、水晶だった。

アインズの意識が、一瞬でそこへ集中する。

 

水晶。

封じられた魔法。

一度きりの発動。

魔力の圧縮。

 

その形式には覚えがあった。

 

ユグドラシルに存在した、魔法を封入し発動する類のアイテム。

少なくとも、アインズの知る範囲では同じ系統のものと判断してよい。

 

この世界にも、それが存在する。

その事実が問題だった。

 

この世界には、ユグドラシル由来の物品が存在するのか。

それとも、同じ仕組みに到達した文明があるのか。

あるいは、かつてここへ来た誰かが残したのか。

 

プレイヤー。

ギルド。

世界級アイテム。

 

いくつもの可能性が脳裏をよぎる。

 

「アルベド」

 

アインズの声は低かった。

 

「防御態勢を取れ。何が来るか分からん」

 

「御意に」

 

アルベドの姿勢が変わる。

先ほどまでの護衛ではない。

 

アインズの全身を守るため、あらゆる攻撃を受け止める盾の構えだった。

漆黒の全身鎧がわずかに沈み、バルディッシュの刃が斜めに構えられる。

 

アインズと敵の間に立つその姿は、まさしく王の盾だった。

男はそれを勝機と勘違いしたのか、不敵に笑った。

 

「恐れたか、邪悪なる者よ」

 

「質問に答えろ」

 

「これは神より授かりし秘宝。貴様ごとき異端を滅ぼすための切り札だ」

 

水晶が砕けた。

光が溢れる。

夜の上空から、巨大な存在が降臨する。

 

輝く翼。

眩い威光。

人の身であれば、膝を折らずにはいられないような神聖な圧。

 

威光の主天使。

ドミニオン・オーソリティ。

 

黒衣の部隊が歓声を上げた。

ある者は祈るように膝をつき、ある者は勝利を確信して武器を掲げる。

指揮官の男――ニグンもまた、勝ち誇った顔で叫んだ。

 

「見よ! これぞ最高位の天使! 邪悪なる魔法詠唱者よ、神の裁きを受けるがいい!」

 

最高位。

アインズは、その言葉を聞きながら、出現した天使を観察した。

 

警戒はしていた。

未知の魔法媒体。

未知の国。

自分の知るものに酷似した術式。

 

それらがある以上、油断する理由はない。

だからアルベドにも防御を命じた。

何が出てくるか分からない以上、最大限の備えをするのは当然だった。

 

だが。

現れた天使の格を把握した瞬間、アインズの中に浮かんだのは、

安堵ではなかった。

 

落胆だった。

 

「……この程度か」

 

小さく漏れた声は、ニグンにも届いた。

 

「何?」

 

ニグンの顔が歪む。

アインズは威光の主天使を見上げたまま、淡々と言った。

 

「いや、がっかりしただけだ」

 

その言葉に、黒衣の部隊の空気が凍る。

彼らにとって、それは神聖な切り札だった。

法国の秘宝によって呼び出された、最高位の天使だった。

 

だがアインズにとっては違う。

 

大きい。

神々しい。

現地人にとっては、確かに圧倒的な存在なのだろう。

 

だが、ユグドラシルの記憶にある高位存在と比べれば、あまりにも弱い。

警戒していた自分が馬鹿らしくなるほどに。

 

これが最高位。

この世界では、そう呼ばれるのか。

アインズは、その事実に少しだけ冷めたものを感じた。

 

ニグンの頬が引きつる。

 

「強がりを……!」

 

その声には怒りがあった。

だが、その奥に、ほんの僅かな怯えも混じっていた。

 

「貴様は分かっていない! その御方は、魔神をも滅ぼした天使!

その一撃を受けて立っていられる者など存在しない!」

 

魔神。

アインズはその単語を記録した。

 

この世界には、魔神と呼ばれる存在の伝承がある。

そして、この天使はそれを殺した、あるいは殺せると信じられている。

ならば、確認する価値はある。

 

「アルベド」

「はい」

 

「下がれ」

 

「……は?」

 

アルベドの声が揺れた。

 

「私が受ける」

 

「なりません!」

 

即答だった。

それは命令への反射的な拒絶に近かった。

 

「アインズ様、そのような下等な者どもの攻撃を、御身に受けるなど――」

 

「検証だ」

 

「ですが!」

 

「アルベド」

 

アインズは声を落とした。

 

「これは命令だ」

 

沈黙。

アルベドの鎧が、僅かに軋む。

 

「……御意に」

 

彼女は一歩下がった。

だが、完全には下がらない。

いつでも割って入れる距離。

 

アインズが本当に危険だと判断した瞬間、命令すら破りかねない距離。

アインズはそれを感じながらも、前を向いた。

 

威光の主天使が杖を掲げる。

神聖な光が集まる。

空気が震え、夜の闇が白く押し広げられていく。

ニグンが叫ぶ。

 

「放て! 《善なる極撃》!」

 

光が落ちた。

ホーリー・スマイト。

神聖属性の一撃が、アインズの身体を正面から打つ。

 

白い光が骸の王を呑み込んだ。

黒衣の部隊が息を止める。

ニグンは勝利を確信した顔で目を見開いていた。

 

だが、光が消えたあと。

アインズは、そこに立っていた。

一歩も動いていない。

膝も折れていない。

 

ローブの一部が揺れ、仮面がわずかに光を反射しているだけだった。

 

「馬鹿な……」

 

ニグンの声が掠れる。

 

「《善なる極撃》を受けて……なぜ……」

 

アインズは答えなかった。

彼は、自分の内側に意識を向けていた。

 

痛み。

それは、確かに痛みだった。

 

薄い。

致命的ではない。

戦闘に支障をきたすほどでもない。

 

だが、痛い。

鈴木悟であった頃に感じていたような、生々しい痛みとは違う。

 

肉が裂け、神経が焼けるような恐怖ではない。

けれど、それは確かに身体へ届いた。

 

通った。

 

この世界の神聖属性は、自分に届く。

この世界の最高位と呼ばれる天使の攻撃は、

ゼロではないダメージを与える。

 

その事実に、アインズは興味を覚えた。

もう一撃受ければ、より正確に測れるかもしれない。

角度を変えれば、耐性の差も分かるかもしれない。

威力の上限も、痛みの質も、もっと把握できるかもしれない。

 

そして、その瞬間。

アインズは自分の内側に、ひどく不快なものを見つけた。

 

楽しい。

 

ほんの僅かに。

本当に、爪の先ほどの感覚だった。

 

だが、確かにあった。

未知の攻撃を受けること。

自分の耐久を測ること。

敵の切り札の限界を見極めること。

 

それを、楽しいと感じてしまった。

痛みがあるのに。

敵意が向けられているのに。

自分が傷を受けたというのに。

 

それでも、次を見たいと思った。

ぞっとした。

 

これは鈴木悟の感覚ではない。

怪物の感覚だ。

 

その直後だった。

背後の空気が凍った。

 

「……貴様ら」

 

アルベドの声だった。

低く、硬く、そして熱い。

兜の奥から漏れたその声は、守護者統括の冷静なものではなかった。

 

「私のアインズ様に、傷をつけたな」

 

ヘルメス・トリスメギストスの漆黒の装甲が、ぎしりと音を立てる。

黒翼がゆっくりと広がる。

 

「アインズ様が命じられたから、私は退いた」

 

アルベドの声が震える。

 

「ですが、貴様らが御身を傷つけることを許した覚えはない」

 

バルディッシュが持ち上がる。

 

「殺す」

 

一語。

その声だけで、戦場の温度が変わった。

 

「肉も、骨も、魂も、跡形もなく磨り潰す。

アインズ様の御身に触れた罪が、死だけで償えると思うな」

 

黒衣の部隊が後ずさる。

ニグンでさえ、言葉を失った。

 

「苦痛を与える。絶望を与える。己が何を害したのか、理解するまで何度でも壊す。

私の愛する御方に傷をつけたことを、魂の底に刻み込ませてから――」

 

「アルベド」

 

アインズの声が、それを遮った。

アルベドの動きが止まる。

 

「下がれ」

 

「ですが、アインズ様!」

 

その声は怒りだけではなかった。

悲鳴に近い痛みが混じっていた。

 

「あなた様の御身に、あのような下等な者どもが……!」

 

「下がれ。これは命令だ」

 

沈黙が落ちた。

アルベドの鎧が、わずかに震えた。

 

殺意を押し殺している。

怒りを抑えているのではない。

今すぐ全員を殺したいという衝動を、アインズの一言だけで封じ込めているのだ。

 

「……御意に」

 

アルベドは下がった。

だが、その視線は敵から外れない。

兜の奥の表情は見えない。

 

それでもアインズには分かる。

命令がなければ、彼女はこの場の全てを粉砕していただろう。

アインズは、その重い感情を背中に感じながら、自分の内側へ目を向けた。

 

アルベドを止めた。

理由はある。

 

敵の情報を得るため。

この世界の神聖属性を測るため。

水晶の正体を探るため。

黒衣の部隊の背後を知るため。

 

どれも正しい。

どれも必要だ。

だが、本当にそれだけか。

 

アルベドに任せれば、この戦いは今すぐ終わる。

敵は恐怖を噛み締める暇もなく消えるだろう。

それを止めた自分は、何を惜しんだ。

 

情報か。

検証か。

それとも、戦いの続きを惜しんだのか。

 

その考えが浮かんだ瞬間、アインズは自分を嫌悪した。

 

違う。

 

そう思いたかった。

だが、神聖の光が自分を打った時、確かに興味を覚えた。

もう一撃、と考えた。

この身体がどこまで耐えるのか、確かめたいと思った。

 

痛みより先に。

恐怖より先に。

戦闘の続きへの関心があった。

 

それは鈴木悟の感覚ではない。

怪物の感覚だった。

 

「十分だ」

 

アインズは右手を上げた。

ニグンが叫ぶ。

 

「威光の主天使よ! もう一度だ! その邪悪を滅ぼせ!」

 

天使が再び光を集める。

アインズは、静かに告げた。

 

「《暗黒孔》」

 

空間に、黒い点が生まれた。

小さな孔だった。

だが、そこへ光が吸い込まれていく。

 

音が沈む。

空気が歪む。

威光の主天使の輪郭が揺らぐ。

 

光の翼も。

神聖な杖も。

現地人が最高位と崇めた威容も。

すべてが黒い孔へ引きずり込まれていく。

 

抵抗らしい抵抗はなかった。

ほんの数瞬。

それだけで、威光の主天使は消えた。

 

戦場が静まり返る。

ニグンの顔から、血の気が引いていた。

 

「馬鹿な……」

 

声が掠れる。

 

「威光の主天使が……最高位の天使が……」

 

アインズは、その言葉を聞いて、また小さな失望を覚えた。

 

最高位。

 

彼らにとっては、あれがそうだったのだ。

この世界の尺度では、あれが頂点に近いものだった。

 

だが、アインズにとっては違う。

それがまた、自分とこの世界との隔たりを示しているようだった。

 

アインズはニグンへ歩み寄る。

黒衣の部隊は動けない。

戦意は折れていた。

 

彼らの信仰の拠り所であり、切り札であった天使が、一瞬で消えた。

それは敗北以上のものだった。

 

自分たちの世界の法則が、目の前で否定されたようなものだ。

アインズは男の前で足を止めた。

 

「もう一度聞く」

 

仮面越しの声が落ちる。

 

「その水晶を、どこで得た」

 

ニグンは答えない。

答えられないのか。

答えたくないのか。

あるいは、答えれば何かが起こるのか。

いずれにせよ、ここで無理に口を割らせる必要はない。

 

「殺すな」

 

アインズは背後へ命じた。

アルベドがわずかに反応する。

 

「アインズ様」

 

声に不満が滲んでいた。

 

「捕らえろ。情報が要る。特に、その水晶についてだ」

 

「……御意に」

 

アルベドは従った。

だが、その声音の奥には、まだ煮え立つような殺意が残っている。

アインズを傷つけた者を生かしておくこと自体が、彼女には耐え難いのだろう。

 

それでも従う。

愛しているから怒り、愛しているから命令を守る。

その重さを、アインズはまた受け止めきれずにいた。

 

黒衣の部隊は拘束されていく。

抵抗する者は少ない。

ほとんどの者は、心を折られたまま膝をついた。

 

ニグンだけが、憎悪と恐怖の入り混じった目でアインズを睨んでいる。

その目を見ても、アインズの心は大きく揺れなかった。

 

勝った。

 

ガゼフを救った。

村への脅威を払った。

未知の敵を捕らえた。

 

この世界の魔法体系と、ユグドラシルに似た道具について調べる手がかりも得た。

結果だけ見れば、完璧に近い。

それなのに、胸に残ったのは達成感ではなかった。

 

神聖の光が自分に届いたこと。

その一撃に興味を覚えたこと。

もう一度受けてもいいと、ほんの一瞬でも思ってしまったこと。

そして、アルベドのあまりにも重い愛。

 

どれもが、仮面の奥で静かに沈んでいく。

 

ガゼフは人間として戦った。

傷つき、痛み、息を荒らし、それでも退かなかった。

 

自分は怪物として勝った。

痛みよりも先に検証を考え、恐怖よりも先に高揚を覚え、

敵を心ごと折った。

 

その二つは、重ならない。

アインズは夜の戦場で、しばらく動かなかった。

 

勝ったはずだった。

それなのに彼は、また少しだけ、自分が何者なのか分からなくなっていた。

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