鈴木悟の残響 - 骸の玉座に座してなおも人の夢を見る - 作:朝型人間
俺は、まだ生きているのか。
最初に浮かんだのは、そんな疑問だった。
全身が重い。
胸が焼けるように痛む。
指先に力が入らない。
それでも、音は聞こえた。
薪のはぜる音。
低く押し殺した泣き声。
誰かが祈る声。
そして、死者の名を呼ぶ声。
ガゼフ・ストロノーフは、ゆっくりと目を開いた。
視界はまだ霞んでいる。
だが、自分が村の広場近くに寝かされていることは分かった。
部下の一人が、こちらに気づいて顔を寄せる。
「戦士長!」
「……村は」
声がかすれた。
「村は、どうなった」
部下は一瞬だけ言葉に詰まった。
その表情だけで、全てが救われたわけではないと分かる。
「多くが、亡くなりました。ですが……全滅は免れました」
「そうか」
ガゼフは目を閉じた。
全滅は免れた。
それは勝利ではない。
だが、完全な敗北でもない。
「ゴウン殿は」
「あの魔法詠唱者殿なら、村長と話をされています。村人たちは……皆、あの方に救われたと」
部下の声には、畏怖が混じっていた。
無理もない。
あの者は、人間の尺度で測れる存在ではなかった。
法国の兵を退け、天使を打ち砕き、自分たちが抗えなかった死を、いとも容易く押し返した。
味方であったから救われた。
敵であれば、どうなっていたか。
ガゼフは痛みに顔を歪めながら、身体を起こした。
「戦士長、まだ動いてはなりません!」
「礼を欠くわけにはいかん」
「ですが……!」
「王国の民を救われたのだ。俺が寝たまま礼も言わぬなど、あってはならん」
部下の制止を片手で退け、ガゼフは立ち上がる。
視界が揺れた。
膝が崩れかける。
それでも、歩いた。
広場では、死者への弔いが始まっていた。
燃える薪の前で、村人たちは頭を垂れている。
家族を失った者。
友を失った者。
声を上げずに泣く者。
その向こうに、黒いローブの魔法詠唱者が立っていた。
アインズ・ウール・ゴウン。
隣には、黒い鎧をまとった騎士が控えている。
ガゼフは部下に支えられながら、アインズの前まで進んだ。
「ゴウン殿」
痛みに耐えながら、深く頭を下げる。
「このたびは、王国の民を救っていただき、感謝する」
敗者としてではない。
救われた者として。
そして、王国戦士長として。
ガゼフは、できる限りの礼を尽くした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
アインズは、目の前の男を見下ろしていた。
ガゼフ・ストロノーフ。
重傷でありながら、自らの足で礼を言いに来た男。
傷つき、血を流し、それでも背筋を曲げきらない姿には、
ただの現地人として片づけられない何かがあった。
「礼は聞いた」
アインズは短く答えた。
長く話させるつもりはなかった。
ガゼフの傷は浅くない。
立っているだけでも無理をしているのは明らかだった。
すでにアインズは、ガゼフが意識を失っている間に村長から最低限の情報を聞いていた。
この村がリ・エスティーゼ王国の辺境にあること。
近くにトブの大森林が広がっていること。
最寄りの大きな都市がエ・ランテルであること。
商人や冒険者が、その都市を通じて行き来すること。
距離も方角も曖昧だったが、今のナザリックにはそれだけで十分だった。
アインズはその内容について、ガゼフに軽く確認した。
村長から聞いた地理が大きく間違っていないこと。
エ・ランテルが周辺の情報や依頼が集まる都市であること。
今回の襲撃者が、スレイン法国の特殊部隊、陽光聖典である可能性が高いこと。
ガゼフの反応から、それらはほぼ確かだと判断できた。
王国。
法国。
エ・ランテル。
トブの大森林。
断片だった情報が、少しだけ形を持ちはじめる。
「十分だ。休め」
アインズが告げると、ガゼフはもう一度深く頭を下げ、部下に支えられながら下がっていった。
アインズは、その背中を見送る。
弱い。
ナザリックの基準で言えば、ガゼフは弱い。
だが、ただの弱者ではない。
戦士としての芯のようなものがある。
それは、コキュートスあたりならば評価するかもしれない。
「アルベド」
「はっ」
隣に控えるアルベドが、恭しく頭を垂れる。
「村長から聞いた情報、そしてガゼフへの確認内容を記憶しておけ。帰還後に整理する」
「畏まりました。すべて記憶しております」
当然のように答えるアルベドに、アインズは小さく頷いた。
この村は、ただ救っただけで終わらせるには惜しい。
ナザリックに近い可能性が高い。
トブの大森林に近く、エ・ランテルへもつながっている。
さらに、法国がこの村を襲撃した。
偶然にせよ、意図があるにせよ、カルネ村は外界を知るための接点となり得る。
「村長」
「は、はい」
老人が震えながら前に出る。
「今後の話がある。落ち着いて話せる場所はあるか」
「で、では、私の家へ。狭いところではございますが……」
「構わん」
村長の家は、襲撃の被害を免れていた。
とはいえ、中は慌ただしい。
机の上には布や水差しが乱雑に置かれ、外からは弔いの声が微かに届いている。
アインズは椅子を勧められたが、座らなかった。
長居をするつもりはない。
村長は緊張した面持ちで立っている。
アルベドはアインズの斜め後ろに控え、静かな視線を村長へ向けていた。
村長は、その視線だけでさらに恐縮したようだった。
「この村は、しばらく混乱する」
アインズは切り出した。
「家を失った者、働き手を失った家、防衛に不安を抱える者。
放置すれば、村としての機能を失う可能性がある」
「……おっしゃる通りでございます」
村長の声は沈んでいた。
「そこで、私からストーンゴーレムを貸与しよう」
村長は言葉を失った。
「瓦礫の撤去、木材の運搬、柵の修復補助。その程度には使えるだろう」
「そ、そのような高価なものを、我らに……?」
「貸与だ。命令権限も限定する」
アインズは冷静に続ける。
「お前一人では足りまい。村の中で、信用でき、動ける者を数名選べ」
そこで、アインズの脳裏に一人の少女の姿が浮かんだ。
妹を背に庇い、震えながらも逃げなかった少女。
エンリ・エモット。
特別な力があるわけではない。
戦えるわけでもない。
それでも、あの場で妹を守ろうとした。
人間らしい、とでも言えばいいのか。
いや、違う。
単に村の中で信頼できそうな若い働き手として有用だというだけだ。
アインズはそう結論づけた。
「あの娘はどうだ」
「娘、でございますか?」
「妹を庇っていた娘だ。エンリ、といったか」
村長は少し驚いたように目を見開き、それから頷いた。
「エンリ・エモットでございます。若く、真面目な娘です。
今回のことで家族を失っておりますが……それでも気丈に振る舞っております」
「呼べるか」
「はい。すぐに」
しばらくして、エンリが村長の家に入ってきた。
その後ろには、ネムが不安そうに姉の服を掴んでいる。
エンリはアインズを見るなり、慌てて頭を下げた。
「あ、あの、ゴウン様……」
「顔を上げよ」
エンリは恐る恐る顔を上げる。
アインズは、できるだけ威圧しないよう声を落とした。
「お前に一つ頼みがある」
「わ、私に、ですか?」
「ああ。この村の復旧に、ストーンゴーレムを使わせる。
だが、村長一人では細かな指示が回らない。村の中をよく知る者が必要だ」
エンリは戸惑ったように村長を見た。
村長は静かに頷く。
「エンリ。お前に手伝ってほしい」
「でも、私……そんな、ゴーレムなんて……」
「難しいことをさせるつもりはない」
アインズは言った。
「動かす。止める。運ばせる。置かせる。まずはそれだけでいい」
エンリは唇を結んだ。
怖い。
分からない。
自分にできるとは思えない。
それでも、村は壊れていた。
動ける者は少ない。
誰かがやらなければならない。
「……私にできるなら」
エンリは小さく、だがはっきりと言った。
「やります」
アインズは頷いた。
「よい返事だ」
ネムが不安げにエンリの服を握りしめていた。
アインズはその小さな手を見た。
あの時も、この少女は姉の後ろにいた。
「妹を心配させたくないなら、生き残るだけでは足りない」
エンリが顔を上げる。
「村を立て直せ。お前たちが暮らせる場所としてな」
エンリは目を伏せ、それから強く頷いた。
「はい」
アルベドは無言でそのやり取りを見ていた。
アインズ様が、人間の娘に直々に役割を与えられた。
さらに、柔らかな言葉までかけられた。
胸の奥に、ほんのわずかな棘のような感情が刺さる。
だが、それを表に出すことはない。
これは嫉妬などではない。
アインズ様は、この娘を村の復旧の要として使おうとしておられるのだ。
恩義を与え、役割を与え、自ら動かす。
ただ守るのではなく、働かせる。
なんという深謀。
アルベドは静かに頭を垂れた。
もちろん、アインズにそこまで明確な意図があったわけではない。
「それと、死の騎士は村内には置かん」
村長は一瞬だけ安堵した表情を見せ、すぐにそれを隠した。
アインズは気づいていたが、指摘しなかった。
「村人が恐怖で動けなくなっては意味がない。
村外の警戒に回す。異常があれば知らせるようにする」
「お、お心遣い、感謝いたします」
「勘違いするな」
アインズは低く言った。
「この村には、今後も働いてもらう。
周囲で何が起きたか、商人が何を話したか、森で何を見たか。
そういった情報を集め、伝えろ」
村長は深く頭を下げた。
「承知いたしました。必ずや」
「ゴウン様……このご恩、カルネ村は決して忘れません」
「ゴウン、か」
アインズはわずかに沈黙した。
「そうだな。これから私を呼ぶときは、アインズでよい」
村長は驚いたように顔を上げた。
「アインズ……様、でございますか」
「ああ」
それ以上は言わなかった。
村長は、胸に刻み込むように深く頭を下げた。
「承知いたしました、アインズ様」
エンリもまた、ネムの手を握ったまま頭を下げる。
「ありがとうございます、アインズ様」
悪くはない。
アインズは、ほんのわずかにそう思った。
話は終わった。
カルネ村は小さい。
戦力としては無価値に等しい。
だが、ナザリックの近傍にあり、トブの大森林に近く、周辺最大の都市エ・ランテルへつながる。
ならば、今は残す価値がある。
アインズは村長宅を出る前に、もう一度だけエンリとネムを見た。
妹を庇った姉。
姉に縋る妹。
その姿は、鈴木悟だった頃の記憶のどこかを、わずかに揺らした。
「戻るぞ、アルベド」
「はっ」
カルネ村の夜に、静かな風が吹いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ナザリック地下大墳墓。
第十階層、玉座の間。
玉座の前には、階層守護者たちが跪いていた。
守護者統括、アルベド。
第一から第三階層守護者、シャルティア・ブラッドフォールン。
第五階層守護者、コキュートス。
第六階層守護者、アウラ・ベラ・フィオーラ。
同じく第六階層守護者、マーレ・ベロ・フィオーレ。
第七階層守護者、デミウルゴス。
そして後方には、執事セバス・チャンが控えている。
誰一人として声を発しない。
ただ、玉座に座す主の言葉を待っていた。
アインズは彼らを見下ろした。
モモンガ。
それは、自分の名だった。
長く使ってきた名だ。
だが、このナザリックは自分一人で築いたものではない。
この玉座も、この大墳墓も、目の前に跪く者たちも。
すべては、かつて共にいた仲間たちが残したものだった。
ならば、この世界で掲げるべき名は一つしかない。
アインズ・ウール・ゴウン。
アインズは、ゆっくりと口を開いた。
「面を上げよ」
守護者たちは一斉に顔を上げた。
「まず、お前たちに告げることがある」
玉座の間の空気が張り詰める。
アインズは一拍置き、重々しく告げた。
「私は名を変えた」
守護者たちの表情が、わずかに強張る。
アルベドの瞳が揺れた。
シャルティアは息を呑み、マーレが不安げに身を小さくする。
アインズは続けた。
「これより、私の名はアインズ・ウール・ゴウン」
その名が、玉座の間に響いた。
「私を呼ぶ時は、アインズと呼べ」
誰も動かない。
誰も声を発しない。
アインズは守護者たちを見渡した。
「この名は、かつてナザリックを築いた者たちの名だ。
お前たちを創造した者たちが残した名だ」
玉座の間に、重い沈黙が落ちる。
「彼らがこの場にいないのであれば、私がその全ての代わりとなろう」
アインズは立ち上がった。
黒きローブが静かに揺れる。
「私こそが、アインズ・ウール・ゴウン」
声が低く響いた。
「このナザリック地下大墳墓、唯一の主人である」
守護者たちは微動だにしない。
アインズはさらに言葉を重ねる。
「異論がある者は、立ってそれを示せ」
その一言で、玉座の間の空気が凍りついた。
だが、誰一人として立ち上がらない。
アルベドは、深く、深く頭を垂れた。
「何一つございません」
その声は震えていた。
恐怖ではない。
歓喜だった。
「我らが主は、ただお一人。アインズ・ウール・ゴウン様のみでございます」
アルベドは床に額が触れんばかりに頭を下げる。
「この身、この魂、この忠誠の全てを、アインズ様に捧げます」
そして、彼女は顔を上げた。
その瞳には、抑えきれない熱が宿っていた。
「アインズ・ウール・ゴウン様、万歳!」
声が玉座の間に響く。
次の瞬間、守護者たちが一斉に続いた。
「アインズ・ウール・ゴウン様、万歳!」
「アインズ・ウール・ゴウン様、万歳!」
「アインズ・ウール・ゴウン様、万歳!」
歓呼が、玉座の間を震わせる。
シャルティアは頬を紅潮させ、恍惚とした表情で声を上げていた。
コキュートスは武人らしく重々しく頭を垂れ、デミウルゴスは深い理解を得たかのように微笑んでいる。
アウラは胸を張り、マーレは慌てながらも必死に声を合わせていた。
アインズは、その全てを受け止めた。
内心では、想像以上の反応に少しだけ圧倒されていた。
重い。
あまりにも重い。
だが、ここで怯むわけにはいかない。
この名を名乗ると決めたのは、自分なのだから。
アインズはゆっくりと右手を上げた。
歓呼は、一瞬で止んだ。
「よい」
静寂が戻る。
「この名は、過去を懐かしむためのものではない」
アインズは言った。
「これより、この世界に掲げる旗印だ」
守護者たちは、さらに深く頭を垂れた。
「アインズ・ウール・ゴウンは、ここに在る」
その言葉を最後に、玉座の間は再び静寂に包まれた。
だが、その静寂は先ほどまでのものとは違う。
今この瞬間、ナザリック地下大墳墓の主は、新たな名を掲げた。
モモンガではなく。
アインズ・ウール・ゴウンとして。
アインズは再び玉座に腰を下ろした。
「では、報告に移る」
守護者たちの姿勢が、改めて引き締まる。
「今回、私は人間の集落であるカルネ村において、外界勢力と交戦した」
その言葉に、守護者たちの間でわずかな気配が揺れた。
人間の集落。
それはナザリックの者たちにとって、守るべき対象として真っ先に思い浮かぶものではない。
シャルティアの眉がわずかに動く。
アウラも小さく首を傾げた。
マーレは姉の反応を見て、不安げに視線を伏せる。
アルベドだけは表情を変えなかった。
彼女はすでに現地でそれを見ている。
アインズがその村に価値を見出したことも、理解していた。
「敵はスレイン法国の特殊部隊。陽光聖典と呼ばれる集団だった」
その名が響いた瞬間、場の空気が冷たく研ぎ澄まされた。
「問題は、陽光聖典そのものの強さではない」
アインズは続ける。
「彼らの用いた魔法だ」
デミウルゴスの眼鏡が、かすかに光を返した。
「奴らは信仰系魔法を使用した。さらに天使召喚も確認している。
そして、その内容はユグドラシルのものと一致していた」
玉座の間に、わずかな緊張が走る。
一致している。
アインズがそう判断したという事実は、守護者たちにとって重かった。
「加えて、魔法を封じた水晶も確認した」
アルベドが静かに口を開いた。
「恐れながら、アインズ様。その水晶は、ユグドラシルに存在した
魔法封入系アイテムと同種のものでございましょうか」
「そう見ている」
アインズは答えた。
「効果そのものは、世界級アイテムのような規格外なものではない。
ユグドラシルにも存在した、魔法を封入し発動する類のアイテムだ」
シャルティアが、不快感を隠さずに眉を寄せた。
「では、なぜ人間どもがそのようなものを持っていたのでありんすか?」
「そこが問題だ」
アインズは頷く。
「スレイン法国は、ユグドラシルと同一の魔法、召喚、そしてアイテムを保有している。
ならば、それを得る手段、あるいは継承している経路が存在する可能性がある」
デミウルゴスが、わずかに目を細めた。
「恐れながら申し上げます。法国がそれらを自力で生み出したのか、
あるいは何らかの形で受け継いだのか。現時点では判断材料が不足しております」
「そうだ」
アインズは答えた。
法国がユグドラシルと同一の魔法とアイテムを持っている。
その事実は、アインズの中に一つの疑念を生んでいた。
だが、それを今ここで口にするつもりはない。
確証のない推測を広げれば、守護者たちは過剰に反応する。
今必要なのは、断定ではなく情報だった。
「由来はまだ分からない。だが、無視できるものではない」
アインズは守護者たちを見渡した。
「法国は警戒対象だ。陽光聖典一つを退けたからといって、軽視してよい相手ではない」
「はっ」
守護者たちは一斉に頭を垂れた。
アインズは次に、後方へ視線を向ける。
「セバス」
「はっ」
「例のものを」
「畏まりました」
セバスは一歩前へ出ると、手にしていた羊皮紙を恭しく広げた。
それは、ナザリックへ帰還した後、アルベドが記憶していたカルネ村周辺の情報を、
セバスが整理したものだった。
正確な地図ではない。
村長の生活圏としての知識と、ガゼフから確認した最低限の軍事的情報を照合した、
粗い位置関係にすぎない。
だが、今のナザリックにはそれで十分だった。
羊皮紙には、いくつかの名が記されている。
トブの大森林。
カルネ村。
エ・ランテル。
リ・エスティーゼ王国。
バハルス帝国。
スレイン法国。
そして、その一角に、ナザリック地下大墳墓の推定位置が印されていた。
アインズは羊皮紙を見下ろす。
「ナザリックの地表部は、トブの大森林の近傍に出現している」
守護者たちは静かに耳を傾けた。
「カルネ村は、その森に近い王国辺境の村だ。
そして村人たちの話によれば、最寄りの都市がエ・ランテルとなる」
デミウルゴスが口を開く。
「つまり、ナザリック、トブの大森林、カルネ村、エ・ランテル。
この四点は比較的近距離に位置している、ということでございますね」
「そうだ」
アインズは頷いた。
「ゆえにエ・ランテルは、我々が外界を知る上で最初に押さえるべき都市となる。
流通、人の移動、冒険者、軍事、魔法、噂。周辺情報の多くは、そこへ集まるはずだ」
アルベドが静かに言葉を添える。
「カルネ村をこの世界の足がかりとし、エ・ランテルを情報集積地として把握する。
そういうことでございますね」
「その通りだ」
アインズは重々しく答えた。
実際には、そこまで綺麗に整理していたわけではない。
だが、アルベドの補足は正しい。
カルネ村をただ守るだけでは足りない。
ナザリック周辺の危険を把握するには、近隣都市エ・ランテルを押さえる必要がある。
「カルネ村への支援は継続する」
アインズは告げた。
「ストーンゴーレムを貸与し、復旧と防衛を補助する」
その言葉に、シャルティアがわずかに眉を寄せた。
「恐れながら申し上げるでありんす、アインズ様」
「許す」
「なぜ、そのような人間の村にまで御慈悲をお与えになるのでありんすか。
守るだけならば、死の騎士を一体置けば済む話ではありんせんか?」
アウラもわずかに首を傾げる。
「恐れながら、アインズ様。村を残す意味は分かります。
でも、復旧まで手を貸す必要があるのでしょうか。見張りだけ置けば、情報は取れると思います」
「防衛力だけならば、それで足りる」
アインズは静かに答えた。
「だが、恐怖で村人が動けなくなれば、村としての機能は失われる」
守護者たちの視線が、再びアインズへ集まる。
「情報を得るには、人が動く必要がある。畑に出る者、道を行く者、商人と話す者、噂を聞く者。
死の騎士だけでは、それはできない」
「なるほど……」
アウラは小さく呟いた。
「村人自身に周囲と接触させて、自然に情報を集めるんですね」
「そうだ」
アインズは頷く。
「見張るだけでは、得られる情報に限界がある。
村人が生活を取り戻し、周囲と関わり続けることで、初めて情報が流れ込む」
アルベドが静かに続ける。
「カルネ村は、王国、法国、トブの大森林。その三つを測るための接点となり得ます。
アインズ様は、村を単なる保護対象ではなく、外界観測の拠点としてお考えなのでしょう」
違う。
そこまで明確に考えていたわけではない。
アインズは内心でそう思った。
だが、アルベドの言葉は理にかなっている。
ならば、それを自分の考えとして採用しない理由はない。
「理解しているならよい」
その一言に、アルベドは深く頭を垂れた。
「はっ」
デミウルゴスが穏やかに微笑む。
「恐れながら、アインズ様。カルネ村への限定的支援は、恐怖によらぬ統治実験としても有用かと存じます。
恩義と利益によって人間がどの程度自発的に動くか。今後、外界に影響力を広げる際の貴重な試金石となりましょう」
また話が大きくなった。
アインズは内心でそう思った。
だが、否定する理由はない。
「その通りだ」
「はっ。さすがはアインズ様」
デミウルゴスは深く頭を下げた。
会議の方向性は固まった。
アインズは玉座の肘掛けに指を置く。
「今後、我々は外界情報の収集を本格化する」
守護者たちの姿勢が、さらに引き締まった。
「まず、私はエ・ランテルへ向かう」
その瞬間、玉座の間の空気が揺れた。
アルベドが顔を上げる。
「恐れながら、アインズ様」
「言え」
「その任、どうか私にお命じくださいませ。
エ・ランテルがナザリック周辺情報の集積地であるならば、危険もまた集まりましょう。
アインズ様自ら赴かれるには、あまりにも危険が大きすぎます」
「ならん」
アインズは即座に答えた。
「人間社会の内部を知るには、私自身が見るのが最も早い。
冒険者という立場を得る。」
「では、せめて私をお連れくださいませ」
アルベドの声は静かだった。
しかし、その奥には強い懇願があった。
続いて、シャルティアも身を乗り出す。
「恐れながら、アインズ様。わたしもお供いたしたいでありんす。
御身に仇なす者が現れたならば、即座に始末してみせるでありんす」
「ならん」
アインズは二人を見下ろした。
「アルベド、お前は目立ちすぎる。シャルティア、お前もだ。
これは潜入調査だ。力を示す任務ではない」
「……はっ。仰せのままに従うでありんす」
シャルティアは悔しそうに頭を下げた。
だが、アルベドはなおも動かない。
「アインズ様。ならば、せめて護衛を一名。単独行だけは、お許しくださいませ」
アインズは黙った。
本音を言えば、一人の方が動きやすい。
余計な振る舞いを気にせずに済む。
人間の街で失敗しても、自分一人なら取り繕いやすい。
だが、法国がユグドラシルと同一の魔法やアイテムを持っている以上、
未知の危険を完全に否定することはできない。
「……よかろう」
アルベドの気配がわずかに和らいだ。
「ただし、守護者は連れていかない。プレアデスから一名、任務に適した者を選べ」
「承知いたしました。人間社会への潜入に適し、
なおかつアインズ様の護衛として不足のない者を選定いたします」
「任せる」
アインズは短く告げた。
「ただし、目立つ者は避けろ。冒険者として不自然でないことを第一とせよ」
「はっ」
アインズは続けて、アルベドを見た。
「アルベド」
「はっ」
「私が冒険者として外に出ている間、ナザリックの運営はお前に任せる」
アルベドは一瞬、目を見開いた。
同行を許されなかった失望とは別の、重い命令だった。
「各階層の防衛、守護者間の連絡、捕虜管理、情報の集約。すべてを統括せよ」
「……はっ」
アルベドは深く頭を下げた。
「このアルベド、アインズ様の御留守を、一片の乱れもなく守り抜いてみせます」
「期待している」
その一言に、アルベドの肩がわずかに震えた。
アインズは次に、後方に控える老執事へ視線を向けた。
「セバス」
「はっ」
「お前には王国での情報収集を命じる」
「畏まりました」
「表向きは商人として振る舞え。人の流れ、物の流れ、貨幣、治安、噂。まずは人間社会の基本を探れ」
「ご命令、確かに承りました」
「単独では動くな。必要であれば、プレアデスから一名を伴え。人選はお前とアルベドに任せる」
「畏まりました。任務に適した者を選定し、準備を整えます」
セバスは静かに頭を下げた。
アインズは続けて、デミウルゴスへ視線を移す。
「デミウルゴス」
「はっ」
「捕虜から得た情報の分析と、今後の諜報計画の立案を任せる。
王国、帝国、法国。それぞれに異なる接触方法を用意せよ」
「承知いたしました」
「特に法国については慎重に扱え。奴らはユグドラシルと同一の魔法とアイテムを保有している。
陽光聖典だけで全体を判断するな」
「仰せのままに」
デミウルゴスは深く頭を下げた。
アインズは次に、第六階層守護者の双子へ視線を移した。
「アウラ、マーレ」
「はい、アインズ様!」
「は、はいっ」
「お前たちはトブの大森林を調査せよ。魔獣、資源、地形、隠れた勢力。
カルネ村へ危険が及ぶものは全て把握する」
アウラは胸に手を当て、明るくも礼節を保った声で答えた。
「お任せください、アインズ様。森の中で動くものは、必ず見つけ出してみせます」
隣でマーレが慌てて頭を下げる。
「ぼ、僕も……お姉ちゃんと一緒に、全力を尽くします」
アウラが小さく横目で見る。
「マーレ、声が小さい」
「ひゃ、ひゃいっ。が、頑張ります!」
わずかに空気が緩みかける。
だが、アインズはすぐに続けた。
「ただし、森を無闇に荒らすな。ナザリック、カルネ村、エ・ランテルはいずれも近い。
余計な変化は周囲の警戒を招く」
「はい、アインズ様」
「は、はい……」
「コキュートス」
「ハッ」
「ナザリック防衛を維持しつつ、捕虜やガゼフの戦闘記録から、現地戦力の基準を整理しろ」
「承知シマシタ」
そこで、コキュートスはわずかに間を置いた。
「恐レナガラ、申シ上ゲマス」
「言え」
「ガゼフ・ストロノーフ。力コソ弱キ者ナレド、戦士トシテノ気概ハ見事デアリマシタ」
玉座の間に、静かな沈黙が落ちた。
アインズの脳裏に、戦場で見た男の姿が浮かぶ。
傷つき、膝をつき、それでも民を守るために立っていた男。
「記録しておけ」
「ハッ」
短い返答。
それだけで十分だった。
最後に、シャルティアが顔を上げる。
「アインズ様、わたしは?」
「お前は待機だ」
シャルティアの表情に、明らかな不満が浮かぶ。
「恐れながら、わたしにも外界調査をお命じくんなまし。
御身に仇なす者どもを探し出すこともできるでありんす」
「ならん」
アインズは淡々と告げた。
「第一から第三階層は、ナザリック防衛の要だ。お前がそこを離れれば、防衛配置そのものに穴が生じる」
シャルティアは言葉を詰まらせた。
「加えて、お前は強すぎる。人間社会への潜入にも向かない。今回は待機し、ナザリック防衛に当たれ」
「……はっ。仰せのままに従うでありんす」
不満は消えていない。
だが、防衛の要と言われれば、シャルティアも引き下がるしかなかった。
アインズは守護者たちを見渡す。
「繰り返す。この世界は未知だ。しかし、完全な未知ではない」
声が低く響いた。
「法国の魔法、召喚、アイテムはユグドラシルと同一だった。
ゆえに、我々の知識が通じる部分がある。
同時に、なぜ同じものがこの世界に存在するのかは分からない」
守護者たちは、微動だにしない。
「敵を侮るな。弱く見えても、未知の経路で力を得ている可能性がある。
ナザリックの安全を最優先とし、情報を集めろ」
「はっ!」
返答が玉座の間を震わせた。
「以上だ。各自、準備に入れ」
守護者たちは一斉に深く礼をし、順に下がっていく。
アルベドだけが残った。
彼女は玉座の傍らで、しばらく沈黙していた。
「言いたいことがあるなら言え」
アインズが告げると、アルベドは静かに顔を上げた。
「恐れながら、申し上げます。カルネ村への支援、エ・ランテルへの進出、外界情報の収集。
そのすべてに異論はございません」
「そうか」
「ですが、アインズ様が自ら人間の街へ赴かれることだけは、やはり危険が大きすぎます」
アルベドの声が、わずかに揺れた。
「先の戦闘で、あなた様は傷を受けられました。私は、二度とあのようなことを許したくありません」
アインズは何も言わなかった。
アルベドの感情は重い。
重すぎるほどに、真っ直ぐだった。
それが自分の書き換えた設定から生まれたものだと思うたび、胸の奥がわずかに沈む。
「それでも、行く必要がある」
アインズは言った。
「ナザリックを守るためだ」
「……はっ」
アルベドは深く頭を下げた。
従う。
その姿は完璧だった。
だが、完璧であるほどに、痛々しくもあった。
やがてアルベドも下がり、玉座の間にはアインズだけが残る。
彼はセバスが広げていた羊皮紙を手に取った。
粗い位置関係。
不確かな方角。
曖昧な国境。
その中に、小さく記された名がある。
カルネ村。
エ・ランテル。
トブの大森林。
スレイン法国。
そして、ナザリック。
これらは遠くない。
自分たちのすぐ近くに、王国がある。
森がある。
村がある。
都市がある。
そして、ユグドラシルと同じ魔法とアイテムを扱う国家がある。
この世界は、ただの異世界ではない。
知らなければならない。
知らなければ、守れない。
ナザリックを。
自分に付き従う者たちを。
そして、完全には理由を説明できないまま気にかかる、あの小さな村を。
アインズは羊皮紙を静かに置いた。
「情報を集める」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
その言葉は、支配者としての命令であり、鈴木悟としての不安でもあった。
未知の世界に、ナザリックの手が伸び始める。
その最初の一歩は、カルネ村とエ・ランテルという、
ナザリックのすぐ近くにある二つの点から始まろうとしていた。