鈴木悟の残響 - 骸の玉座に座してなおも人の夢を見る -   作:朝型人間

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冒険者モモン

ナザリック地下大墳墓、第十階層。

玉座の間に、静かな緊張が満ちていた。

アインズ・ウール・ゴウンは玉座に座し、

その前には守護者統括アルベドが跪いている。

 

彼女の表情はいつも通り完璧だった。

穏やかで、恭しく、主の命を待つ者として一点の乱れもない。

 

だが、アインズにはなんとなく分かっていた。

不満がないわけではない。

エ・ランテルへ向かう。

人間社会へ入り込む。

冒険者という立場を得る。

 

その任務に、アルベドは同行を望んでいた。

だがアインズは、それを許さなかった。

 

理由は明白だった。

 

まず、目立ちすぎる。

どれほど姿を隠そうとも、アルベドの存在感は人間社会に溶け込むには重すぎた。

彼女がただそこに立つだけで、周囲の視線を集める。

それは潜入調査には向かない。

 

なにより、彼女にはナザリックの運営を任せている。

アインズが外へ出る以上、ナザリックの中枢を預ける者が必要だった。

それは守護者統括であるアルベド以外にない。

 

だが。

 

そこまで理屈を並べた後で、アインズは自分の中にある別の感情にも気づいていた。

少しだけ、離れたかったのかもしれない。

 

玉座。

守護者たちの視線。

アインズ・ウール・ゴウンという名。

ナザリック唯一の支配者として振る舞う重圧。

 

それらは、常に彼の肩に乗っている。

もちろん、逃げるつもりはない。

投げ出すつもりもない。

 

だが、冒険者という立場には、どこか気楽さがあった。

依頼を受け、街を歩き、酒場で噂を聞き、時に魔物を倒す。

それは支配者ではなく、一人の旅人として外界に触れるための仮面だった。

 

情報収集のため。

潜入のため。

ナザリックを守るため。

 

それらは全て正しい。

だが、それだけではない。

アインズは、その自由さに少しだけ惹かれていた。

 

「それで、選定は済んだか」

 

「はっ」

 

アルベドは深く頭を下げた。

 

「プレアデスより、アインズ様の御供に相応しき者を選定いたしました」

 

「言え」

 

「ナーベラル・ガンマにございます」

 

その名を聞き、アインズは内心で小さく頷いた。

悪くない。

いや、条件だけを見るなら、かなり適任だった。

 

ナーベラル・ガンマ。

 

戦闘能力は十分。

魔法戦力としても申し分ない。

外見も人間に近く、従者として連れて歩くにも不自然ではない。

プレアデスの中から選ぶなら、確かに妥当な人選だろう。

 

問題があるとすれば、ただ一つ。

人間への態度である。

 

「ナーベラルを呼べ」

 

「畏まりました」

 

ほどなくして、黒髪のメイドが玉座の前へ進み出た。

ナーベラル・ガンマ。

美しい顔立ち。

感情を抑えた冷ややかな眼差し。

完璧な礼法。

彼女は床へ膝をつき、頭を垂れる。

 

「お呼びにより参上いたしました、アインズ様」

 

「面を上げよ」

 

「はっ」

 

ナーベラルは顔を上げた。

その表情は従順そのものだ。

アインズはしばし彼女を見る。

 

やはり外見は問題ない。

人間社会に連れていくには十分だ。

少し整いすぎている気もするが、従者としてなら許容範囲だろう。

 

「ナーベラル。お前には、私と共にエ・ランテルへ向かってもらう」

 

「この身に余る光栄にございます」

 

ナーベラルはさらに深く頭を下げた。

 

「私は冒険者として人間社会へ入る。名はモモン。お前はナーベと名乗れ」

 

「御意に」

 

「人間社会では、目立つことを避けろ。余計な発言もするな」

 

「承知いたしました。下等な人間どもを前にしても、必ずや――」

 

「その言い方をやめろ」

 

ぴたり、とナーベラルの言葉が止まった。

アルベドの眉がほんのわずかに動く。

ナーベラルは一瞬だけ困惑したように見えたが、すぐに頭を下げる。

 

「失礼いたしました」

 

「人間を侮辱するな。睨むな。殺すな。必要以上に威圧するな。分かったな」

 

「御意に」

 

返事は完璧だった。

完璧だったが、アインズの不安は消えない。

本当に大丈夫か、こいつ。

内心でそう思う。

 

もちろん、ナーベラルは優秀だ。

忠誠も疑いない。

命じれば従うだろう。

 

だが、人間を見た瞬間に、虫けらを見るような目をしないか。

あるいは、会話の合間に「下等生物」などと言わないか。

不安要素は多い。

 

「アルベド」

 

「はっ」

 

「私が外に出ている間、ナザリックの運営は任せる。

報告は定時にまとめろ。緊急時は即座に連絡せよ」

 

「畏まりました」

 

アルベドは頭を垂れた。

 

「どうか、ご無事で」

 

その声は静かだった。

だが、奥に抑え込んだ不安がある。

アインズはそれに気づきながらも、支配者として頷くに留めた。

 

「心配はいらん」

 

実際には、心配しかない。

だが、それを口にするわけにはいかなかった。

アインズは立ち上がる。

 

漆黒の鎧。

大剣。

身を包む重厚な装備。

冒険者モモン。

 

それは、アインズ・ウール・ゴウンが人間社会へ入り込むための仮面だった。

 

「行くぞ、ナーベ」

 

「はい、モモン様」

 

その呼び名に、アインズはわずかに違和感を覚える。

 

モモン。

かつての名、モモンガから切り取ったような偽名。

アインズ・ウール・ゴウンを世界に示すために名を変えた自分が、今度は別の名をかぶる。

 

奇妙な話だ。

だが、必要なことだった。

 

ナザリックを守るため。

外界を知るため。

そして、人間社会を内側から見るため。

アインズは転移の魔法を発動した。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

エ・ランテルは、うるさかった。

まず、そう思った。

 

ナザリックとはまるで違う。

黒曜石の床を踏む規律ある足音もない。

しもべたちの恭しい沈黙もない。

計算され尽くした照明も、完璧に整えられた空間もない。

 

あるのは、雑多な音だった。

商人の声。

荷車の軋む音。

馬の嘶き。

兵士の指示。

子供の高い笑い声。

酒場から漏れる酔客の怒鳴り声。

 

どこかで誰かが値切り、別の誰かが怒り、さらに別の誰かが笑っている。

無秩序だ。

効率だけを考えれば、ひどく無駄が多い。

 

だが、その無駄が少しだけ懐かしかった。

鈴木悟だった頃、会社帰りに見た駅前。

人が多く、音が多く、匂いが多く、ただ歩くだけで疲れる場所。

 

あるいは、ユグドラシルの街区でプレイヤーたちが勝手に集まり、

露店を開き、会話を流し、無意味に動き回っていた画面の中の街。

 

今、目の前にあるのは、そのどちらとも違う。

だが、どこか似ていた。

人がいる。

生活がある。

不規則で、予測しにくく、そして生々しい。

 

ナザリックにはないものだった。

 

「……騒がしいな」

 

アインズが小さく呟く。

隣のナーベラルが、低く答えた。

 

「耳障りでございます」

 

「そういう意味ではない」

 

「失礼いたしました」

 

ナーベラルはすぐに頭を下げる。

アインズは仮面の奥で、内心ため息をついた。

 

やはり不安だ。

ナーベラルの気配は、明らかに冷たい。

人間たちを見る目に、隠しきれない侮蔑がある。

 

もっとも、人間たちはそれを「無口で冷たい美女」と受け取るかもしれない。

美貌というものは便利だ。

多少態度が悪くても、神秘的だとか、気位が高いとか、勝手に解釈されることもある。

いや、油断は禁物だ。

 

「ナーベ」

 

「はい」

 

「表情を抑えろ。特に、道端の人間を見る時だ」

 

「……はい」

 

少し間があった。

アインズは内心で思う。

今、何を考えた。

 

どうせ「なぜ人間に表情を配慮しなければならないのか」とか、そんなところだろう。

人間社会への潜入は、想像以上に気が抜けない。

 

アインズは周囲を観察しながら歩いた。

モモンの体格は、漆黒の全身鎧を着ているため威圧感はある。

 

だが、極端に大柄というほどではない。

人間社会で目立たないとは言えないが、冒険者としてなら許容範囲だろう。

 

黒い鎧。

無口な男。

美しい従者。

 

それは目を引く組み合わせだったが、街の中にはもっと奇妙な者もいた。

 

巨大な斧を背負った男。

派手な羽飾りを付けた女。

顔中に傷のある老兵。

魔法詠唱者らしきローブ姿。

 

冒険者というのは、奇抜さを許す職業らしい。

その点はありがたい。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

冒険者組合は、人の出入りが多かった。

 

依頼を受ける者。

帰還報告をする者。

報酬について揉める者。

仲間を探す者。

酒場へ流れる前に掲示板を眺める者。

 

ここには情報がある。

アインズはそう判断した。

 

周辺の魔物。

行商路。

護衛依頼。

採取地。

村や都市の名。

冒険者同士の評判。

 

金と危険のあるところに、人は集まる。

人が集まれば、噂も集まる。

昨晩、自室で地図を見ながら考えた通り、エ・ランテルは情報の集積地として使える。

そして冒険者組合は、その入口として都合がいい。

 

手続きは思ったより事務的だった。

 

名を問われ、モモンと答える。

同行者はナーベ。

武器、得意分野、活動目的。

アインズは必要以上のことを話さず、寡黙な冒険者を装った。

 

幸い、無口な強者という印象は、ある程度受け入れられやすいらしい。

最初のランクは低い。

当然だ。

 

いきなり高位の冒険者として扱われるわけがない。

ユグドラシルならば、初期装備で最初のフィールドへ出るようなものだろう。

 

そう考えると、少し妙な感じがした。

レベル100の自分が、人間社会では新人冒険者として登録される。

 

滑稽だ。

 

だが、不快ではなかった。

何かを最初から始める感覚。

それは、鈴木悟だった頃には遠くなっていた感覚でもある。

 

「モモン様」

 

ナーベラルが小声で呼ぶ。

 

「このような低い扱いを受け入れる必要があるのでしょうか」

 

「ある」

 

アインズは短く答えた。

 

「潜入とは、相手の仕組みに入ることだ。最初から上に立とうとすれば、目立つ」

 

「御意に」

 

ナーベラルは従順に頷いた。

だが、内心では冒険者組合ごと見下していそうだ。

アインズは、もう考えないようにした。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

宿に併設された酒場は、組合以上に騒がしかった。

 

酒の匂い。

焼いた肉の匂い。

笑い声。

怒鳴り声。

椅子を引きずる音。

木の杯が乱暴に置かれる音。

 

冒険者たちは、思っていた以上に粗野だった。

もちろん、すべての者がそうだとは限らない。

 

だが、少なくともこの場にいる何人かは、力を持つ者というより、

力を得たことで気が大きくなった者たちに見えた。

 

安酒を煽り、声を張り上げ、周囲を威嚇するように笑う。

隣の席の者が不愉快そうにしても、気にする様子はない。

アインズはその光景を眺めながら、内心で少しだけ落胆した。

 

冒険者。

未知へ挑み、危険を越え、己の力で道を切り開く者。

そういう響きには、多少なりとも期待があった。

 

だが、低位の冒険者ともなれば、実態はこういうものなのかもしれない。

力を持つ者が、必ずしも気概を持つわけではない。

危険な仕事をしている者が、必ずしも高潔であるわけでもない。

 

考えてみれば当然だった。

人間社会とは、そういうものだ。

高潔な者もいれば、卑しい者もいる。

勇敢な者もいれば、ただ力を笠に着るだけの者もいる。

 

ならば、自分はそれを見極めなければならない。

問題は、ナーベラルの機嫌が目に見えて悪くなっていることだった。

 

「ナーベ」

 

「はい、モモン様」

 

「顔に出すな」

 

「……出ておりましたか」

 

出ていた。

かなり出ていた。

アインズは内心でそう思ったが、口には出さなかった。

 

その時だった。

酒場の一角で、明らかにこちらを見ている冒険者がいた。

 

顔は酒で赤い。

口元には、品のない笑みが張りついている。

目つきは濁っており、獲物を見つけた野犬のような卑しさがあった。

 

男の周囲にいる冒険者たちも、似たような顔でこちらを見ている。

止めるつもりはないらしい。

むしろ、何か面白いことが起きるのを待っているようだった。

 

男は大げさに椅子を鳴らして立ち上がると、モモンの進路へ足を伸ばした。

 

わざとだ。

アインズには当然見えていた。

避けることは簡単だった。

足を踏み砕くことも、気づかぬふりで通り過ぎることもできる。

 

だが、ここは人間社会だ。

力を見せすぎるのは避けたい。

かといって、舐められたままにしておくのも面倒だった。

 

モモンは、あえてその足に軽く触れた。

鎧の足先が、男の足に当たる。

痛みなど、男にとっても大したものではなかったはずだ。

だが男は、待ってましたと言わんばかりに顔を歪めた。

 

「痛てぇじゃねえか!」

 

大声だった。

酒場の視線が集まる。

男の仲間らしき連中が、ニヤニヤと笑った。

 

「おいおい、どこ見て歩いてんだよ、兄ちゃん」

 

「新人がいきなり先輩冒険者に喧嘩売ってんのか?」

 

「謝っといた方がいいんじゃねえの」

 

周囲の声には、明らかな悪意が混じっていた。

アインズは黙って男を見た。

謝るべき状況ではない。

 

だが、ここで理屈を説いても意味はないだろう。

この手の者は、正しさで動いていない。

絡む理由が欲しいだけだ。

 

モモンが沈黙していると、男はそれを弱気と受け取ったらしい。

下卑た笑みを深めた。

 

「なんだ、だんまりかよ。鎧だけは立派なくせに、口は利けねえのか?」

 

アインズは答えない。

男の視線が、モモンの隣へ移った。

 

ナーベラル。

その瞬間、空気がわずかに冷えた。

ナーベラルの目が、完全に人間を見るものではなくなる。

 

虫を見る目。

いや、虫ならまだ生物として認識している分、少しはましかもしれない。

 

まずい。

アインズは内心で警戒した。

男は、その危険にまったく気づいていない。

むしろ、ナーベラルの美貌に気をよくしたのか、さらに下卑た顔で笑った。

 

「まあ、そっちの嬢ちゃん一晩貸して、楽しませてくれるってなら、許してやってもいいぜ」

 

酒場の一部から、低い笑い声が上がる。

止める者はいない。

不快そうに眉をひそめる者はいても、立ち上がる者はいなかった。

 

アインズは、その反応も記憶した。

冒険者とは、なるほど。

こういう空気もあるのか。

 

男がナーベラルへ手を伸ばす。

次の瞬間。

モモンの手が、その腕を掴んでいた。

 

「え?」

 

男の口から、間抜けな声が漏れる。

アインズは本気で力を込めたつもりはなかった。

少なくとも、殺す気はない。

砕く気もない。

 

ただ、ナーベラルに触れる前に払いのけただけだった。

だが男の身体は、軽々と宙へ浮いた。

 

「うおっ!?」

 

短い悲鳴。

男は酒場の奥へ吹き飛び、机へ派手に突っ込んだ。

 

木製の机が軋む。

杯が跳ねる。

皿が転がる。

座っていた冒険者たちが慌てて身を引く。

 

そして、ひときわ甲高い音が響いた。

ガラス瓶が割れる音だった。

 

「ちょ、ちょっと! 私のポーション!」

 

声を上げたのは、女冒険者だった。

床には、青い液体が広がっている。

割れた瓶の破片が、酒場の灯りを受けてきらりと光った。

 

青いポーション。

 

アインズは、その色を見て、改めてこの世界の常識を記憶する。

この世界のポーションは青い。

 

ユグドラシルのものとは違う。

小さな差異だ。

だが、こういう差異こそ油断ならない。

 

女冒険者――ブリタは、床に広がる液体を見て肩を落としていた。

 

「嘘でしょ……高かったのに……」

 

周囲の冒険者たちも、からかうような、同情するような声を上げる。

 

「運が悪かったな」

 

「いや、今のは巻き込まれ事故だろ」

 

「あいつが絡みに行ったのが悪いんじゃねえのか?」

 

「でも割れたもんは戻らねえな」

 

アインズは少し考えた。

自分が直接割ったわけではない。

 

だが、男を振り払った結果、瓶が割れたのも事実だ。

ここで揉めるのは得策ではない。

新人冒険者として、最初から悪評を立てる必要もない。

 

それに、ユグドラシル由来の赤いポーションがこの世界でどう扱われるかを知る機会にもなる。

アインズは懐から一本の瓶を取り出した。

赤い液体が、酒場の光を受けて揺れる。

 

「代わりだ」

 

ブリタは顔を上げた。

 

「え?」

 

「ポーションだ」

 

「いや、赤いんだけど」

 

当然の反応だった。

アインズは内心で、少しだけ失敗したかもしれないと思った。

 

この世界では青が普通。

赤は目立つ。

だが、もう出してしまった。

ここで引っ込める方が不自然だ。

 

「効果はある」

 

「……本当に?」

 

「心配なら、薬師にでも見せればいい」

 

その言葉に、ブリタは瓶をまじまじと見つめた。

怪しい。

かなり怪しい。

 

だが、割れたポーションの代わりとして受け取らない理由もない。

なにより、目の前の漆黒の鎧の男は、妙に堂々としていた。

 

「まあ……もらえるなら、もらっとくけど」

 

彼女は半信半疑のまま瓶を受け取った。

周囲の冒険者たちは、興味深そうに赤い液体を見ている。

だが、この時点では騒ぎになるほどではなかった。

 

珍しいもの。

変な色のポーション。

漆黒の鎧の冒険者が持っていた妙な薬。

 

その程度の認識だった。

アインズは、これ以上目立つ前に話を切ることにした。

「行くぞ、ナーベ」

 

「はい」

 

ナーベラルは静かに従った。

ただし、先ほどの男を見る目は、完全に死刑判決を下した後のそれだった。

アインズは小声で告げる。

 

「ナーベ」

 

「はい」

 

「顔」

 

「……失礼いたしました」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

酒場を出た後、アインズは宿の部屋へ戻った。

部屋に入り、扉を閉める。

ようやく少し静かになった。

 

もっとも、ナザリックの静寂とは違う。

安宿特有の薄い壁の向こうからは、まだ人の声が聞こえる。

廊下を歩く足音もある。

階下の酒場からは笑い声も響いている。

 

完全な静けさではない。

だが、それも人間の街らしい。

 

アインズは椅子に腰を下ろし、今日得た情報を整理した。

 

冒険者組合は使える。

酒場も情報源になる。

この世界のポーションは青い。

赤いポーションは珍しい。

冒険者たちには横のつながりがある。

評判はすぐ広まる可能性がある。

 

そして、ナーベラルはやはり危うい。

 

「ナーベ」

 

「はい、モモン様」

 

「今日の酒場で、お前は何度か人間を見下す顔をしていた」

 

「……申し訳ございません」

 

「謝罪はよい。次から抑えろ」

 

「はい」

 

ナーベラルは素直に頭を下げた。

アインズはその姿を見ながら考える。

 

彼女は悪気があるわけではない。

ナザリックの価値観として、人間を下に見ることは当然に近い。

それを今すぐ変えろという方が無理なのかもしれない。

 

しかし、潜入中にそれでは困る。

 

「人間を好きになれとは言わん」

 

「はい」

 

「だが、道具として扱うなら、壊さず使え」

 

ナーベラルの表情が引き締まった。

 

「承知いたしました」

 

その返答は、先ほどより少し理解が早かった。

 

なるほど。

人間を同等に見ろと言うより、任務上必要なものとして扱えと言った方が、

ナーベラルには通じやすいのかもしれない。

 

それはそれで良いのか悪いのか。

アインズは少しだけ複雑な気持ちになった。

まあ、任務に支障が出ないなら今はそれでいい。

 

彼は窓の外へ視線を向けた。

 

エ・ランテルの夜。

人間たちの灯り。

不規則に動く人影。

人間社会は、面倒だ。

 

雑で、予測しにくく、感情で動く者が多い。

高潔な者もいれば、卑しい者もいる。

勇敢な者もいれば、ただ力を笠に着るだけの者もいる。

 

冒険者という言葉に、アインズはどこか自由な響きを感じていた。

依頼を受け、未知へ向かい、腕一本で名を上げる。

そこには、支配者という立場にはない気楽さがあるように思えた。

 

だが、現実は当然ながら綺麗なものばかりではない。

低位の冒険者ともなれば、酒場で新人に絡み、女に手を出そうとし、

周囲もそれを笑って眺める。

そういう者たちもいる。

 

少しだけ、落胆した。

だが同時に、納得もした。

人間社会とは、そういうものだ。

 

一つの顔だけを見て判断するべきではない。

ならば、見なければならない。

 

もっと。

人間社会を。

冒険者を。

この世界の人間を。

 

アインズは静かに考える。

モモンという仮面は、ひとまず機能した。

だが、仮面を被れば被るほど、アインズは自分が人間ではないことを意識する。

 

人間社会に入る。

人間を知る。

そして、人間だった自分を思い出す。

そのための第一歩は、騒がしい酒場と、割れた青いポーションから始まった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

一方、その頃。

女冒険者ブリタは、手の中の瓶を何度も眺めながら夜道を歩いていた。

 

赤いポーション。

見たことがない。

ポーションといえば青だ。

 

少なくとも、彼女がこれまで見てきたものはそうだった。

だが、あの漆黒の鎧の冒険者は、妙に堂々としていた。

 

嘘をついているようには見えない。

それに、代わりとして渡してきた以上、本当に効果があるのかもしれない。

とはいえ、正体不明の薬をそのまま飲むほど、ブリタも無防備ではない。

 

「薬師に見せればいい、か」

 

そう呟いて、彼女はバレアレ薬品店へ向かった。

店に入ると、若い薬師が顔を上げる。

 

ンフィーレア・バレアレ。

この街では腕の良い薬師として知られている。

年のわりに落ち着いており、薬の知識も豊富だ。

 

「いらっしゃいませ、ブリタさん」

 

「ちょっと見てほしいものがあるんだけど」

 

ブリタはそう言って、赤いポーションを差し出した。

ンフィーレアは最初、何気なくそれを受け取った。

そして、固まった。

 

「……え?」

 

短い声。

そのまま、彼は瓶を目の高さへ持ち上げる。

赤い液体が、店の灯りを受けて揺れた。

 

「ブリタさん」

 

「何?」

 

「これ、どこで手に入れたんですか」

 

声が思ったより真剣だった。

ブリタは少し身を引く。

 

「え、えっと……酒場で。私のポーションが割れちゃって、

その代わりにって。漆黒の鎧を着た冒険者がくれたんだけど」

 

「名前は?」

 

「モモン、とか言ってたかな」

 

「モモン……」

 

ンフィーレアはその名を繰り返した。

彼の目は、瓶から離れない。

 

赤い。

ただ色が違うだけではない。

光に透かした時の透明度。

魔力の流れ。

液体の濃度。

香り。

 

そのどれもが、彼の知るポーションとは違っていた。

 

「……普通じゃない」

 

「やっぱり変なものだった?」

 

「変、というか……」

 

ンフィーレアは言葉を探す。

未知。

そう言うのが一番近い。

 

彼は薬師だ。

祖母リイジーからも学んできた。

エ・ランテル周辺で流通する薬品について、それなりに知識はあるつもりだった。

 

だが、これは知らない。

知らないだけでなく、知っている体系から少し外れている。

 

その時、奥の部屋から声がした。

 

「騒がしいねえ。何を見つけたんだい、ンフィーレア」

 

現れたのは、祖母のリイジーだった。

ンフィーレアは無言で瓶を差し出す。

リイジーは最初、面倒そうにそれを受け取った。

そして、固まった。

 

「……これは」

 

彼女の目が、みるみる見開かれていく。

 

「まさか……いや、そんな……」

 

ブリタは不安そうに眉を寄せた。

 

「あの、やっぱり変なものだった?」

 

リイジーは答えなかった。

瓶を光に透かし、蓋を開けて香りを確かめ、ほんのわずかに指先へつける。

そして、震える声で呟いた。

 

「神の血……」

 

「え?」

 

ブリタが聞き返す。

リイジーは瓶を抱きしめるように持った。

 

「これは神の血じゃ……!」

 

「おばあちゃん、落ち着いて」

 

「落ち着いていられるかい! こんなもの、王都の薬師どもが見たら腰を抜かすよ!」

 

ブリタは一歩下がった。

 

「え、そんなに?」

 

ンフィーレアも興奮を隠しきれない。

 

「ブリタさん。お願いがあります」

 

「な、何?」

 

「それ、譲ってもらえませんか」

 

「いや、これ一応、私がもらったものなんだけど」

 

リイジーが前に出る。

 

「金なら出す」

 

「え?」

 

「いや、金だけでは足りんか。薬でもいい。治療薬、毒消し、疲労回復薬、なんでもつける」

 

「ちょ、ちょっと待って」

 

「それでも足りないなら、今後しばらく店の商品を割引してもいい」

 

「待ってってば!」

 

ブリタは完全に引いていた。

ンフィーレアも、少しだけ我に返る。

 

「おばあちゃん、怖がらせてる」

 

「怖がらせている場合かい! これは歴史的な発見かもしれないんだよ!」

 

「いや、だから怖いんだって!」

 

ブリタは瓶を抱え直した。

 

「と、とりあえず今日は持って帰る! 飲むか売るかは考えさせて!」

 

「あっ、待ってください、ブリタさん!」

 

「逃がすんじゃないよ、ンフィーレア!」

 

「逃がすって何!? 私、客なんだけど!?」

 

ブリタはそのまま慌てて店を出ていった。

残されたンフィーレアとリイジーは、扉を見つめる。

 

しばし沈黙。

やがてリイジーが口を開いた。

 

「ンフィーレア」

 

「うん」

 

「そのモモンという冒険者を探しな」

 

ンフィーレアは赤いポーションの残像を思い浮かべる。

漆黒の鎧の冒険者。

モモン。

未知のポーションを、当然のように持つ男。

 

薬師としての好奇心が、静かに燃え上がっていた。

 

「会う必要があるね」

 

ンフィーレアは頷いた。

 

「絶対に」

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モモンガの惑星(作者:シャンティ・ナガル)(原作:オーバーロード)

▼DMMORPG『ユグドラシル』──▼2126年、世界を熱狂させたその舞台で伝説を刻んだギルドがあった。▼ギルドランク第1位《アインズ・ウール・ゴウン》。▼189個のワールドアイテムを独占し、不落の拠点を構える無敵の軍団。▼その頂点に君臨するのは、一人の男。▼ラグナロクを制覇し、ゲーム内唯一のLv200に到達した超越者・モモンガ。▼富、名声、そして神にも等し…


総合評価:240/評価:8/連載:5話/更新日時:2026年05月05日(火) 19:15 小説情報

魔導産業革命 ~エネルギーシフトと覇権通貨「エン」がもたらす軍事なき支配~(作者:Camel おさ)(原作:オーバーロード)

オーバーロード書籍第14巻『滅国の魔女』後のIFストーリーです。▼テーマは「産業革命」「復興」「経済成長」と、大人向けのお話になっています。▼第14巻『滅国の魔女』を読んだとき、太平洋戦争で焼け野原と化した日本を思い浮かべました。そして、オーバーロードの世界観に、戦後日本の経済成長を当てはめたらどうなるだろう――そんな想像をしました。いっそその想像を活字にし…


総合評価:554/評価:8.53/連載:54話/更新日時:2026年07月14日(火) 18:36 小説情報

スズキサトルの日常(作者:ふじら)(原作:オーバーロード)

モモンガが聖王国に何故か人化した状態で単独転移?して楽しむだけの話。


総合評価:1929/評価:8.62/連載:7話/更新日時:2026年05月23日(土) 12:52 小説情報

えっ凡人がアインズ様に憑依?!(作者:Revak)(原作:オーバーロード)

▼とある男は目が覚めたらなんと転移直後のモモンガ様になってしまっていた?!▼中身が別人だとバレるわけにはいかないとアインズ様ロールプレイをしながら原作を進めていく!▼その過程で原作知識を使い死亡キャラを救う、かもしれない。▼アンチ・ヘイトはモモンガ様になっているので原作ぶっ壊してるのでつけてます。▼寝取りは原作モモンガさんからアルベド寝取ってるのでつけてます…


総合評価:551/評価:6.86/連載:8話/更新日時:2026年06月07日(日) 15:12 小説情報

オーバーロード シャルティアになった一般人、洗脳ルートだけは全力で回避する(作者:グロはNG)(原作:オーバーロード)

ナザリック地下大墳墓が新世界へ転移したその瞬間、ひとりの一般人は目を覚ました。▼しかもその身体は、第一〜第三階層守護者シャルティア・ブラッドフォールン。▼アニメ版の流れを知る主人公は、自分がいずれ世界級アイテムによって洗脳され、主であるアインズと殺し合う未来を思い出して絶望する。▼中身が一般人だとバレれば終わり。けれど、残虐な吸血鬼を自然に演じられるほど肝も…


総合評価:1165/評価:7.39/連載:7話/更新日時:2026年07月04日(土) 21:17 小説情報


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