鈴木悟の残響 - 骸の玉座に座してなおも人の夢を見る - 作:朝型人間
朝の森には、まだ夜の湿り気が残っていた。
焚き火はすでに小さくなり、灰の下でわずかに赤い火が息をしている。
ペテルは手早く周囲を確認し、ルクルットは寝起きとは思えない軽さで荷物をまとめていた。
ダインは黙々と火の始末をし、ニニャは魔法書の入った荷物を抱えながら、いつもより少しだけ口数が少ない。
前夜の出来事が、完全に消えたわけではなかった。
モモンは、それを感じ取っていた。
ニニャに悪意はなかった。
それは分かっている。
そして、自分が過剰に反応したことも分かっていた。
謝るべきだろうか。
いや、改めて謝罪を重ねれば、かえってニニャに気を遣わせる。
それは、アインズにとっても賢いやり方ではない。
自然に、会話へ戻すべきだ。
人付き合いというものは、実に難しい。
そう思いながら、モモンは黙って一行の後方を歩いた。
しばらく進むと、道が少し開けた。
木々の隙間から、遠くに山並みが見える。
朝の光を受け、薄く霞んだ山脈が空の端に横たわっていた。
ンフィーレアが、荷物を背負い直しながらそちらを見る。
「あの辺りが、アゼルリシア山脈方面でしたっけ?」
ニニャが顔を上げた。
「はい。正確にはもっと北寄りですが……あちらの方角です」
魔法や伝承に関わる話題になったからか、ニニャの声に少しだけ色が戻る。
「古い話だと、あの山脈にはドラゴンがいると言われています。もちろん、どこまで本当かは分かりませんけど」
「ドラゴンねえ」
ルクルットが肩をすくめる。
「そんなのに出くわしたら、俺たちなんか飯になる前に終わりだな」
「だからこそ、遭遇しないためにも情報は大事だ」
ペテルが真面目に返す。
「伝承だとしても、冒険者が無視していい話ではありません」
ニニャは小さく頷いた。
「ドラゴンは、ただ強い魔物というより、古い知識や魔法に関わる存在として語られることも多いんです。
文献によっては、山脈そのものを支配しているように書かれているものもあります」
そこへ、モモンが静かに口を挟んだ。
「ドラゴン、ですか」
ニニャの肩が、ほんの少しだけ跳ねた。
モモンはそれに気づきながらも、声色を変えずに続ける。
「ニニャさん。もしよろしければ、その話をもう少し聞かせていただけませんか」
「え……ドラゴンの話、ですか?」
「ええ。私はこの周辺の伝承に詳しくありません。強大な魔物やドラゴンについて知ることは、冒険者として必要でしょう」
ニニャは一瞬、モモンの兜を見上げた。
昨日のことを、まだ気にしているのだろう。
だが、モモンの声に怒りはない。
ただ、知識を求める静かな響きがあった。
「僕が知っているのは、本当に断片的なものだけです」
ニニャは少し遠慮がちに言った。
「アゼルリシア山脈に棲むドラゴンについては、王国でも詳しい記録は多くありません。
冒険者の噂話とか、古い本に残った記述くらいで」
「それでも構いません」
モモンは頷く。
「断片でも、積み上げれば役に立つことがあります」
その言葉に、ニニャの表情が少し和らいだ。
ペテルは横目でその様子を見て、何かを察したように小さく息を吐く。
ルクルットも、口元だけで笑った。
「あ、でも……エ・ランテルに戻れば、少し調べられるかもしれません。
冒険者組合にも古い報告が残っているかもしれないですし」
「では、もし機会があれば調べていただけませんか」
「僕でよければ……もちろんです」
その小さな約束で、朝から続いていた硬さが少しだけ解けた。
アインズは兜の奥で、それを静かに記録する。
会話による関係修復。
覚えておくべき手法だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
昼前、一行はカルネ村が見える場所までやって来た。
最初に足を止めたのは、ンフィーレアだった。
「……カルネ村が」
彼の声には、驚きと不安が混じっていた。
モモンも視線を向ける。
村の周囲には、防壁が築かれていた。
ただの木柵ではない。
外敵の襲撃を意識した、実用的な防備だった。
木材を組み合わせ、要所には補強がされている。
見張り台もあり、門も整えられつつある。
小さな村にしては、明らかに過剰なほどの守り。
ンフィーレアは呆然と呟く。
「こんな防壁、前はありませんでした。いったい、何が……」
その声に、エンリを心配する感情が滲んでいた。
アインズは、防壁を見ながら内心で評価した。
思ったより、しっかりしている。
これは一時しのぎの柵ではない。
襲撃を受けた村が、次に備えるための防備だ。
自分が与えた角笛。
そこから呼び出されたゴブリンたち。
それが、ただ村に戦力を置いただけではない。
村人たちの意識そのものを変えたのだろう。
自分の介入は、無駄ではなかったらしい。
その事実に、アインズは静かな満足を覚えた。
強い感動ではない。
アンデッドとなった今の彼に、そうした感情は長く続かない。
だが、評価としては明確だった。
この村は、思った以上に持ち直している。
村の入口へ近づくと、漆黒の剣の面々が一斉に警戒した。
門の近くに、ゴブリンたちが立っていたからだ。
武装したゴブリン。
だが、その様子は野生の魔物とは違う。
粗野ではあるが、秩序がある。
門番として、外から来る者たちを確認していた。
「おいおい、ゴブリンが門番かよ」
ルクルットが低く呟く。
「珍しいどころではないのであるな」
ダインも目を細めた。
「だが、村人が怯えている様子はない。敵ではないと見るべきであろう」
ペテルは剣に手を置いたまま、周囲を見る。
村人たちは逃げていない。
むしろ、ゴブリンたちを頼りにしているようにさえ見えた。
ニニャは、興味深そうにゴブリンたちの装備を見ている。
「統率されていますね。普通のゴブリンとは、かなり違います」
モモンは初めて見るように沈黙していた。
内心では、ゴブリンたちの働きを確認している。
武装。
警戒。
村人との距離感。
悪くない。
むしろ、この規模の村としては十分な防衛戦力だ。
その時、村の奥から一人の少女が駆けてきた。
「ンフィー!」
エンリ・エモットだった。
ンフィーレアの表情が一気に緩む。
「エンリ!」
二人は久しぶりの再会を喜ぶように声を交わした。
アインズは、その様子を静かに見ていた。
エンリ・エモット。
以前見た時は、ただ必死に妹を守ろうとしていた村娘だった。
今は違う。
服装は村娘のままだ。
だが、周囲の村人やゴブリンたちが、自然に彼女の判断を待っている。
危うさは残っている。
だが、そこには確かな信頼があった。
エンリはンフィーレアと短く言葉を交わした後、モモンたちに気づき、慌てて姿勢を正した。
「こちらが護衛の冒険者さん?」
モモンは静かに頭を下げる。
「モモンと申します。依頼により、バレアレさんの護衛を務めています」
「エンリ・エモットです。ンフィーがお世話になります」
エンリは緊張した様子で頭を下げた。
その時、ほんの一瞬だけ、彼女の目がモモンの兜に留まる。
声。
立ち方。
何かが引っかかったような、そんな顔。
だが、すぐにその表情は消えた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
エンリは一行を村の中へ案内した。
村には、まだ襲撃の傷跡が残っていた。
修復された家。
新しく組まれた木材。
畑の端に残る焦げ跡。
それでも、村は死んでいない。
人々は働き、子供たちは走り、ゴブリンたちは見張りや運搬を手伝っている。
ンフィーレアは、防壁とゴブリンたちを見ながら、堪えきれずに尋ねた。
「エンリ、何があったの? こんな防壁まで……」
エンリは少し俯いた。
そして、ゆっくりと話し始めた。
村が襲われたこと。
王国の騎士に見える者たちが、村人を殺して回ったこと。
自分とネムも殺されかけたこと。
そして、そこへアインズという魔法詠唱者が現れたこと。
「アインズ様がいなかったら、私もネムも、村も……きっと残っていませんでした」
エンリは胸の前で手を握った。
「助けてくださっただけじゃないんです。小鬼将軍の角笛という道具までくださって……」
「小鬼将軍の角笛?」
ンフィーレアが聞き返す。
エンリは、門の方に立つゴブリンたちへ視線を向けた。
「あのゴブリンさんたちは、その角笛で呼び出されたんです。アインズ様は、同じものを二つくださいました」
そう言って、エンリは胸元へ手を添えた。
首から下げた紐の先に、小さな角笛があった。
飾りというには無骨で、道具というには奇妙な存在感がある。
しかしエンリは、それをとても大切なもののように、そっと指で包んだ。
「ひとつは、あの時使いました。もうひとつは……何かあった時のために、大事に持っています」
彼女の声には、恐れよりも親しみと敬意があった。
「最初は私も驚いたんです。でも、今では村を守ってくれていて……
だから、今、村がこうして立て直せているのも、アインズ様のおかげなんです」
モモンは黙って聞いていた。
過大評価だ。
そう思う。
自分は、あの時、状況判断として動いた。
この世界の情報を得るため。
そして、目の前で殺されようとしていた人間を、鈴木悟だった頃の感覚で放っておけなかっただけだ。
だが、防壁と村人たちを見ると、その評価を完全には否定できない。
生き残っただけではない。
彼らは、次の襲撃に備えようとしている。
その事実は、悪くなかった。
ナーベはアインズへの感謝を聞いて、どこか満足げな気配がある。
もちろん表情にはほとんど出ないが、アインズには分かった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
少しして、エンリとンフィーレアは家の前で二人になった。
漆黒の剣は村の防壁やゴブリンたちに気を取られ、モモンとナーベは少し離れた場所で休んでいる。
ンフィーレアは、エンリの顔をじっと見た。
「怪我はしなかったの?」
エンリは苦笑する。
「少しだけ。でも、アインズ様が薬をくださって」
「薬?」
「うん。赤いポーション。すごく綺麗な色で、傷がすぐ治ったの」
ンフィーレアは、息を止めた。
赤いポーション。
その言葉だけで、頭の中のいくつもの線が繋がり始める。
それでも、彼はすぐには踏み込まない。
「その、アインズ様って……どんな方だったの?」
「すごい魔法詠唱者の方。顔は、仮面みたいなので隠していて……でも、とても落ち着いた方だったよ」
顔を隠していた。
ンフィーレアは、その言葉を胸の内で繰り返した。
赤いポーションを持つ者が、二人。
一人は、エンリを救ったという魔法詠唱者アインズ。
もう一人は、漆黒の冒険者モモン。
偶然だろうか。
ンフィーレアは、胸の内で一つずつ並べていく。
アインズは、顔を隠していたという。
モモンもまた、常に兜で顔を隠している。
黒髪。
黒い瞳。
出身を追求しないでほしいという言葉。
常識外れの戦闘力。
第3位階魔法を扱うナーベが、当然のように従う態度。
そして、赤いポーション。
偶然と考えるには、あまりにも重なりすぎていた。
「ンフィー?」
エンリが心配そうに覗き込む。
ンフィーレアは慌てて笑みを作った。
「あ、いや……すごい人なんだなって思って。後で、もう少し詳しく聞かせて」
「うん。私に分かる範囲でなら」
エンリは素直に頷いた。
ンフィーレアは、胸の中の動揺を押さえ込む。
まだ口にしてはいけない。
だが、確かめなければならない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
短い休憩の後、一行はトブの大森林へ向かうことになった。
エンリはンフィーレアを心配そうに見ていた。
「本当に大丈夫? 森に入るんでしょ?」
「大丈夫。モモンさんもいるし、漆黒の剣の皆さんもいるから」
ンフィーレアはそう言って笑った。
けれど、その視線は一瞬だけ、漆黒の鎧をまとった冒険者へ向く。
モモン。
赤いポーションを持っていた男。
そして、エンリの話に出てきたアインズ・ウール・ゴウン。
まだ確信はない。
だが、その名は、ンフィーレアの胸の奥で静かに重なり始めていた。
エンリは少し迷った後、モモンへ向き直った。
「モモンさん。ンフィーを、よろしくお願いします」
「依頼を受けた以上、できる限りのことはします」
モモンは静かに答えた。
その声に、エンリはほんの少しだけ不思議そうな顔をした。
どこかで聞いたような声。
けれど、それが誰のものかまでは、まだ分からなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
トブの大森林に入ると、空気が変わった。
木々は深く、光は枝葉に遮られて薄い。
湿った土の匂いと、草木の匂いが濃く漂っている。
ここでは、街道での軽口も少し減る。
ルクルットは先行し、足跡や枝の折れ方を確認している。
ペテルは隊列を整え、ニニャは魔法的な警戒を行う。
ダインとンフィーレアは目的の薬草を探していた。
「こちらであるな」
ダインが低い声で言い、草むらの一角を指した。
「根を傷つけぬように採るのである」
「はい。これなら状態も良さそうです」
ンフィーレアは慣れた手つきで採取道具を取り出す。
漆黒の剣は、弱い。
だが、依頼において役割を果たしている。
アインズはその点を評価した。
ナザリックの圧倒的な力とは違う。
だが、これはこれで、有機的な連携だった。
しばらく採取を進めた時だった。
ルクルットが、唐突に手を上げた。
「……待て」
軽口のない声だった。
全員が動きを止める。
「何かいる。でかい。こっちに近い」
ペテルの顔が引き締まる。
ダインも周囲を見渡した。
「森の空気が変わっているのであるな」
モモンは、すでにその気配を捉えていた。
現地基準では強い。
少なくとも、漆黒の剣やンフィーレアを近くに置くべき相手ではない。
「皆さん、ここから離れてください」
ペテルが目を細める。
「何か来ますか?」
「おそらく。皆さんでは危険です。バレアレさんを連れて、いったん下がってください」
ペテルは一瞬、迷った。
だが、ルクルットがすぐに言う。
「ペテル、モモンさんの言う通り俺達は退いた方がいい」
その声は真剣だった。
そして、ペテルは即断した。
「分かりました。全員、下がります。モモンさん、無理はしないでください」
「ご心配なく」
モモンは短く答える。
漆黒の剣はンフィーレアを守るように隊列を組み、森の外側へ後退していった。
ナーベだけが、当然のようにモモンの後ろに残る。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
漆黒の剣たちの気配が遠ざかる。
それを確認してから、モモンは森の奥へ歩き出した。
ナーベが後に続く。
しばらく進むと、木陰から小柄な影が現れた。
「アインズ様」
アウラだった。
森の中に溶け込むように、気配なく立っている。
「この先に、大きな魔獣がいます。たぶん、この森で一番偉そうにしてるやつです」
「そうか」
現在、アウラはこの森で、別の任務を進めている。
偽ナザリック。
外部の敵を誘い込むため、ナザリック地下大墳墓を模して築かせている囮の拠点。
アウラには、その周辺の探索と整備を命じていた。
マーレも地形の調整や隠蔽に関わっている。
森の中にアウラがいること自体は、予定の範囲内だった。
アインズは頷く。
「案内しろ」
「はい!」
アウラは嬉しそうに先導した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
森の奥で、それは待っていた。
巨大な魔獣。
確かに大きい。
現地人が見れば、恐怖と畏敬を抱くだろう。
その体躯だけでも、人間にとっては十分な脅威だ。
だが。
アインズは、兜の奥で無言になった。
丸い体。
短い四肢。
ふさふさとした毛並み。
そして、どこか愛嬌すら感じさせる顔。
森の賢王。
その名から、アインズは多少なりとも強大な存在を想像していた。
未知の強敵。
この世界特有の能力。
ユグドラシルの知識では測れない、特別な魔獣。
そういったものを、ほんの少しだけ期待していた。
だが、目の前にいるのはどう見ても、巨大なハムスターに近かった。
いや、現地基準では恐ろしい魔獣なのだろう。
実際、漆黒の剣がこの場にいれば、膝を折っていたかもしれない。
だが、アインズの内心に最初に浮かんだ感想は、どうしてもそれだった。
……ハムスターではないか。
期待値が高すぎたのかもしれない。
アインズは、静かに落胆した。
ナーベは淡々と言った。
「この周辺の魔獣としては、多少は力があるようです」
そして、少し間を置いて続ける。
「ですが、アインズ様の御前に立つには足りません」
アウラも頷く。
「森の中だと、まあまあ強い方だと思います。でも……」
そこでアウラは、巨大な魔獣を見上げた。
「見た目は、ちょっと丸いですね」
「丸い、か」
アインズは短く返した。
それ以上は言わなかった。
言えば、森の賢王という名への評価がさらに下がりそうだった。
森の賢王は、低く唸った。
その威圧は、確かに現地の魔獣としては強い。
ただし、丸い体が毛を逆立てているせいで、どこか膨らんだ毛玉のようにも見える。
アインズは、その印象を意識から追い払った。
今は観察が先だ。
「アインズ様。どうなさいますか」
ナーベが問う。
「少し見る」
アインズが答えた直後、森の賢王が地を蹴った。
巨体からは想像しにくい速度で迫る。
牙。
爪。
質量。
それらが一塊となってモモンへぶつかる。
モモンは、それを真正面から受けた。
衝撃が走る。
土がわずかに抉れ、周囲の葉が揺れる。
だが、モモンは一歩も動いていなかった。
森の賢王の方が、驚いたように目を見開く。
その顔が、やはり少しハムスターに似ていた。
「……今ので終わりか?」
モモンが静かに言った。
森の賢王の威圧が、目に見えて揺らいだ。
アウラが、森の賢王の毛並みをじっと見つめる。
「アインズ様」
「なんだ」
「もし殺しちゃうなら、皮を剥いでもいいですか?」
実に無邪気な声だった。
森の賢王の体が、びくりと震えた。
「皮?」
「はい。これだけ大きいなら、使い道がありそうですし。いい毛皮が取れそうですよ」
アウラは悪意なく言った。
ただ、そういう素材として見ているだけなのだろう。
森の賢王は、先ほどまでの威厳を完全に失い、丸い体を小刻みに震わせた。
「ま、待つでござる!」
その叫びは、森の主というより、命乞いをする小動物に近かった。
「拙者、従うでござる! 心から従うでござる! だから皮は、皮だけはご容赦を!」
森の賢王は必死だった。
アインズは、わずかに沈黙する。
森の賢王。
その名を持つ存在が、ここまで分かりやすく命乞いをするとは思わなかった。
アインズは、絶望のオーラをわずかに強めた。
空気が重く沈む。
森の賢王の体が、さらに小さくなったように見えた。
「従うというなら、生かしておいてやろう」
「ありがたき幸せ!」
森の賢王は地面に伏せた。
巨大な体でやるものだから、土がわずかに弾む。
「つ、つきましては……」
「まだ何かあるのか」
「臣下の印として、名を賜りたいでござる!」
「名?」
「はいでござる! 主君より名をいただくことこそ、臣下としての誉れでござる!」
アインズは、森の賢王を見た。
丸い体。
ふさふさの毛。
どこか愛嬌のある顔。
そして、先ほどから頭の片隅に残っている単語。
ハムスター。
さすがに、そのままではあまりにも安直か。
アインズは少しだけ考えた。
「ハムスケ」
アウラの表情が一瞬だけ止まった。
ナーベは何も言わなかった。
森の賢王は、感極まったように頭を下げる。
「おお……ハムスケ! ありがたき名でござる!」
アインズは、わずかに満足した。
少なくとも、本人は気に入ったらしい。
アウラはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、賢明にも口には出さなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
アインズはハムスケから森の様子を聞くことにした。
「最近、この森に変化はあるか」
ハムスケは鼻を動かしながら答える。
「最近、森の奥の気配が変わったのでござる。強き者の匂いが増え、弱き者どもが逃げておるのでござる」
「続けろ」
「森の縁にも、普段は来ぬものが出るようになったのでござるよ。獣も魔物も、落ち着きを失っているでござるな」
アインズはアウラへ視線を向けた。
「アウラ」
「はい」
「偽ナザリック建設の影響か」
「たぶん、そうだと思います。周辺の探索と整備を進めていますから、弱い魔物が外側へ逃げているのかもしれません」
アインズは短く考えた。
偽ナザリック。
外部の敵を誘い込むために、ナザリック地下大墳墓を模して築かせている囮の拠点。
アウラには、その周辺の探索と整備を命じている。
マーレもまた、地形の調整や隠蔽に関わっている。
その余波が、森の生態に出始めているということだろう。
想定外ではない。
だが、カルネ村方面に影響が出るのは好ましくない。
「計画は必要だ。だが、カルネ村方面への影響は抑えろ」
「はい、アインズ様。マーレにも伝えておきます」
アウラは真剣に頷いた。
アインズはハムスケを見る。
「お前からも、知っていることは後で聞く」
「承知したでござる!」
アウラは役目を終えると、再び森の中へ姿を消した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
モモンがハムスケを連れて戻ると、漆黒の剣とンフィーレアは完全に言葉を失った。
森の奥から現れた巨大な魔獣。
しかも、それがモモンの後ろを従順に歩いている。
ペテルは目を見開いていた。
ルクルットは口を開けたまま固まっている。
ニニャは恐怖と興味の入り混じった顔でハムスケを見ていた。
ダインは低く呻くように言う。
「これは……伝説の魔獣を従えたということであるか」
そして、ゆっくりと続ける。
「信じ難いのである」
ルクルットがようやく声を出す。
「冗談だろ……モモンさん、これ、何なんだよ」
「森の賢王と呼ばれていた魔獣です」
モモンは淡々と答えた。
その声があまりにも平静だったため、かえって周囲の困惑は深まった。
ペテルが信じられないものを見るように、ハムスケとモモンを見比べる。
「倒した、のですか?」
「いえ」
モモンは首を横に振った。
「こちらに従う意思を示しましたので、討つ必要はないと判断しました」
その瞬間、ハムスケが誇らしげに胸を張った。
「拙者、ハムスケでござる! 殿に名を賜り、臣下となった身でござる!」
その場に、妙な沈黙が落ちた。
森の賢王。
巨大な魔獣。
そのはずなのに、口調は妙に礼儀正しく、しかも自慢げだった。
ニニャが小さく瞬きをする。
「……しゃべるんですね」
「しゃべるのでござる!」
ハムスケは、なぜかさらに胸を張った。
ルクルットは乾いた笑いを漏らす。
「いや、そこ誇るところなのかよ……」
ハムスケは真顔で頷いた。
「もちろんでござる。拙者、ただの獣ではないのでござるからな」
「ただの獣じゃないのは、見りゃ分かるけどさ」
ルクルットは頭をかいた。
「森の賢王を倒すどころか、従えて、しかも名前まで付けて従えたってわけかよ……」
「そういうことになります」
モモンが平然と答える。
ペテルは何も言えなかった。
倒すことさえ困難な魔獣を、殺さずに従える。
それは、単に強いという言葉では足りない。
その時、ルクルットが恐る恐る口を開いた。
「なあ、モモンさん」
「何でしょう」
「その……乗れるんですか、それ」
「乗る?」
モモンが聞き返す。
ルクルットはハムスケを見上げた。
「いや、森の賢王なんだろ。そんな魔獣を従えてるなら……騎獣みたいにできるのかなって」
「ルクルット」
ペテルがたしなめる。
だが、その視線もまた、ハムスケの背へ向いていた。
ニニャも小さく呟く。
「森の賢王に騎乗する冒険者……まるで伝承みたいですね」
ダインは重々しく頷いた。
「騎獣として扱えるなら、森での移動において大きな利点となるのである」
「おお!」
ハムスケが誇らしげに胸を張った。
「主君を背に乗せるなど、臣下としてこの上なき誉れでござる!」
モモンは沈黙した。
現地人の目には、確かに威厳ある姿に映るのかもしれない。
だが、アインズの内心に浮かんでいた絵は違った。
巨大なハムスターにまたがる、いい年をした男。
とんだ羞恥だ。
……しかし、ここで断るわけにもいかない。
「……試してみましょう」
モモンは、極めて落ち着いた声で言った。
少なくとも、外面だけは保てていたはずだ。
ハムスケはすぐに地面に伏せ、背を低くする。
「どうぞでござる、殿!」
モモンはゆっくりとハムスケの背に乗った。
ふさふさしていた。
想像以上に。
鎧越しでなければ、座り心地は悪くなかったかもしれない。
だが、それが余計に問題だった。
ナーベは、真剣な顔でその光景を見ていた。
「さすがモモン様。森の魔獣すら騎獣として従えるとは」
その称賛に、モモンは何も返せなかった。
真面目に褒められるほど、内心の困惑が増していく。
ハムスケは鼻を鳴らし、誇らしげに言った。
「拙者、速さにも自信があるでござる! 殿を乗せ、森を駆けるなど朝飯前でござるよ!」
その丸い体でどれほど速いのか。
アインズは少しだけ疑問に思ったが、口にはしなかった。
ペテルは感嘆したように息を吐いた。
「森の賢王を騎獣にするとは……やはり、モモンさんは普通の冒険者ではありませんね」
ニニャも目を輝かせている。
「すごいです。こんな光景、普通なら一生見られません」
ダインも低く唸った。
「森の主に近い魔獣を従え、その背に乗る。これは、後世に語られてもおかしくないのである」
モモンは黙っていた。
後世に語られては困る。
かなり困る。
だが、外から見れば、彼はただ静かに伝説の魔獣に騎乗する英雄に見えていた。
ンフィーレアは、ハムスケを見ながら別の不安を抱いていた。
「モモンさん。その魔獣を森から連れ出して、本当に大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫、とは?」
「森の中で大きな役割を持っていたなら、いなくなることで周辺の魔物の動きが変わるかもしれません。
カルネ村に影響が出る可能性も……」
その問いに、ハムスケが顔を上げた。
さきほどまで誇らしげだった顔が、少しだけ真面目になる。
「それならば、すでに崩れ始めているでござるよ」
ンフィーレアが息を呑む。
「森の奥より、今までとは違う気配が広がっておるのでござる。獣も魔物も、落ち着きを失っているでござるな」
モモンは沈黙した。
原因は分かっている。
だが、ここで説明する必要はない。
「村には注意を促しておきましょう」
モモンは静かに言った。
「必要以上に恐れることはありません。ただ、警戒は怠らない方がよい」
ンフィーレアは真剣な顔で頷いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
薬草採取を終えた一行は、カルネ村へ戻った。
ハムスケを見た村人たちとゴブリンたちは大きく驚いた。
当然だろう。
森から出てきた巨大な魔獣が、漆黒の冒険者を背に乗せているのだ。
エンリも目を丸くしていた。
「そ、その子は……?」
「森で出会った魔獣です。危険はありません」
モモンは簡潔に答える。
ハムスケが胸を張った。
「拙者、ハムスケでござる!」
エンリは困惑したように瞬きした。
「あ、はい……よ、よろしくお願いします」
ゴブリンたちは警戒しつつも、モモンの態度とエンリの様子を見て剣を収めた。
モモンはエンリへ、森の近郊で魔物の動きが乱れている可能性を伝えた。
「必要以上に恐れることはありません。ただ、警戒は怠らない方がよいでしょう」
エンリの顔が引き締まる。
「分かりました。村のみんなにも伝えます」
その返答に、アインズは内心で頷いた。
やはり、この少女は変わりつつある。
守られるだけではない。
守ろうとしている。
カルネ村は、ただの村ではなくなりつつあった。
その夜、一行はカルネ村で休むことになった。
薬草採取を終えた疲労を癒すため、漆黒の剣たちは眠りについていた
そんな中、モモンは夜中の見張りを買って出た。
表向きは護衛としての責務。
実際には、眠らないことを不自然に見せないためでもある。
そして、村の様子を観察するためでもあった。
ナーベは当然のように付き従おうとしたが、モモンは一人でよいと告げた。
ナーベは不満そうだったが、命令には従った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夜のカルネ村は静かだった。
防壁の上には、村人とゴブリンが交代で立っている。
遠くで虫の声が鳴き、森の方から時折風が流れてくる。
モモンは村の端に立ち、森の方を見ていた。
カルネ村。
ゴブリン。
エンリ。
ンフィーレア。
赤いポーション。
偽ナザリックの影響。
思った以上に、物事が繋がっていく。
その時、背後から足音がした。
「モモンさん」
ンフィーレアだった。
モモンは振り返る。
「バレアレさん。眠らなくてよいのですか」
「少し、聞きたいことがあります」
ンフィーレアの顔は緊張していた。
だが、逃げるつもりはないらしい。
モモンは静かに待つ。
ンフィーレアは、しばらく迷った後、口を開いた。
「モモンさんは……アインズ・ウール・ゴウン様なんでしょうか?」
夜の空気が、わずかに張り詰めた。
モモンはすぐには答えない。
「なぜ、そう思われるのですか」
「赤いポーションを持っていた人が、二人います」
ンフィーレアは震える声で言った。
「一人は、エンリを救ったアインズ・ウール・ゴウン様。もう一人は、モモンさんです」
モモンは黙っていた。
「それに、エンリは言っていました。アインズさんは顔を隠していたと」
ンフィーレアは、兜の奥を見ようとするように視線を上げる。
「モモンさんも、ずっと顔を隠している。出身についても、深く追求しないでほしいと言った」
「……」
「もちろん、それだけなら偶然かもしれません。でも、赤いポーションまで重なるなら……偶然だとは思えません」
モモンは、なおも答えない。
ンフィーレアは深く頭を下げた。
「もし、あなたがアインズ・ウール・ゴウン様なら……ありがとうございました!」
その言葉は、探りではなかった。
「エンリを救ってくれて、本当にありがとうございました」
モモンは黙っていた。
「それと、僕は……正直に言えば、赤いポーションの秘密を知りたくて、あなたに近づきました」
「……」
「下心がありました。薬師として、どうしても知りたかったんです。
でも、それでも、エンリを救ってくれたことへの感謝は本物です」
アインズは、兜の奥でンフィーレアを見た。
下心を隠さなかった。
感謝も偽らなかった。
若い。
未熟さもある。
だが、誠実ではある。
そして、何より。
この少年の生まれながらの異能は、危険であると同時に、利用価値が高い。
排除するには惜しい。
信用するには早い。
だが、少なくとも今この場で、敵と見る必要はない。
モモンは、しばらく沈黙した後、静かに答えた。
「いかにも」
その声が、夜の闇に落ちる。
「私が、アインズ・ウール・ゴウンだ」
ンフィーレアが息を呑んだ。
モモンは続ける。
「このことは、他言しないでいただきたい」
「分かっています。誰にも言いません」
「エンリさんにも、です」
ンフィーレアは少しだけ迷った。
だが、すぐに頷く。
「……はい」
「赤いポーションについては、今ここで全てを話すつもりはありません」
「分かっています」
「ですが、あなたの知識と異能には興味があります。いずれ、協力を求めることがあるかもしれません」
ンフィーレアは緊張した顔で頷いた。
「僕にできることなら」
モモンは静かに言った。
「その時は、誠実であることを期待します」
「はい」
ンフィーレアは深く頭を下げた。
その姿を見ながら、アインズは思う。
また一つ、仮面の内側を知る者が増えた。
それが吉と出るか、凶と出るか。
今はまだ、判断を保留するしかない。
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その頃。
エモット家では、ネムがすでに寝息を立てていた。
エンリは布団の中で、なかなか眠れずにいた。
今日出会った、漆黒の冒険者。
モモン。
その名を、胸の中で繰り返す。
声が、少し似ていた気がする。
立ち方も。
話す時の間も。
ネムを見る時の、あの静かな感じも。
でも、そんなはずはない。
アインズ様は、あの時のすごい魔法詠唱者で。
モモンさんは、漆黒の鎧を着た冒険者で。
違う人のはずだ。
そう思う。
そう思うのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
もし。
もし、あの人がアインズ様だったなら。
エンリは、布団の中で小さく目を閉じた。
今度こそ、ちゃんとお礼を言いたい。
その思いを抱いたまま、エンリは静かに眠りへ落ちていった。
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