鈴木悟の残響 - 骸の玉座に座してなおも人の夢を見る - 作:朝型人間
朝のカルネ村には、昨日とは違う静けさがあった。
一晩明けた村は、いつも通りに動き出している。
だが、防壁の上には見張りが立ち、門の近くでは武装したゴブリンたちが周囲へ目を配っていた。
トブの大森林で起きている異変。
森の賢王だったハムスケが語った、森の奥から広がる不穏な気配。
それは、ただの薬草採取の帰り話として流してよいものではなかった。
エンリは門の前で、ンフィーレアたちを見送っていた。
胸元には、小さな角笛が紐で下げられている。
アインズから与えられた二つの小鬼将軍の角笛。
そのうち一つは、すでにゴブリンたちを呼び出すために使われた。
もう一つは、今もエンリの胸元で大切そうに揺れている。
モモンは、それを一瞥した。
まだ使っていない。
そしてエンリは、それをただの道具ではなく、村を守るための最後の手段として扱っている。
悪くない。
アインズは内心でそう評価した。
「ンフィー、気をつけてね」
エンリが心配そうに言う。
ンフィーレアは、少し困ったように笑った。
「うん。また来るよ。エンリも、村のこと、無理しすぎないで」
「うん……でも、森のこともあるし、気をつける」
エンリの視線が、モモンへ向いた。
彼女は少しだけ姿勢を正し、頭を下げる。
「モモンさん。ンフィーを守ってくださって、ありがとうございました」
「依頼を果たしたまでです」
モモンは静かに答えた。
その声に、エンリはまた小さな違和感を覚えた。
どこかで聞いたような声。
あの時、村を救ってくれた魔法詠唱者の声と、似ているような気がする。
だが、目の前にいるのは漆黒の鎧をまとった冒険者だ。
アインズは、顔を隠した魔法詠唱者だった。
違う人のはずだ。
そう思いながらも、エンリはモモンの背を見送った。
一行は、エ・ランテルへ向けて歩き出す。
ハムスケは、どこか誇らしげにモモンの後ろを歩いていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
エ・ランテルへの帰路は、驚くほど静かだった。
昨日のような魔物の気配はほとんどない。
森の賢王と呼ばれていたハムスケが同行しているため、野生の獣や魔物が本能的に避けているのだろう。
漆黒の剣の面々は、時折ハムスケへ視線を送っていた。
畏怖。
好奇心。
そして、どこか現実味のないものを見るような表情。
ハムスケはそれに気づいているのか、いないのか、鼻を鳴らして胸を張った。
「拙者がいれば、この程度の道中など楽なものでござるな」
「油断はするな」
モモンは短く言った。
「森の異変は、すでに始まっているのだろう」
「承知したでござる」
ハムスケは途端に背筋を伸ばす。
その様子を見て、ルクルットが小さく息を漏らした。
「本当に従ってるんだな……」
「目の前で見ても信じ難いのである」
ダインが低く呟く。
モモンは答えなかった。
アインズは、昨日のことを思い出していた。
巨大なハムスターにまたがる自分。
外から見れば、伝説の魔獣に騎乗する冒険者だったのかもしれない。
しかし、内側から見れば、いい年をした男がデカいハムスターにまたがっているだけだ。
とんだ羞恥だ。
思い出すだけで、何とも言いがたい感覚が蘇る。
アンデッドでなければ、顔が熱くなっていたかもしれない。
そんなモモンの内心など知るはずもなく、ニニャが横に並んだ。
少しだけ迷った後、彼女は口を開く。
「モモンさん」
「何でしょう」
「アゼルリシア山脈のドラゴンの件、戻ったら調べてみます」
モモンは、兜の奥でニニャを見た。
「お願いします」
「はい。約束ですから」
ニニャはそう言って、小さく笑った。
前日の気まずさは、完全に消えたわけではない。
だが、少なくとももう怯えたような顔はしていなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
エ・ランテルに到着したのは、夜になってからだった。
街門の灯りが闇の中に浮かび、石造りの外壁が夜気の中に重く佇んでいる。
門番たちは、最初こそ一行を普通の帰還者として見ていた。
だが、ハムスケの姿を認めた瞬間、明らかに空気が変わった。
「な、何だあれは……」
「魔獣か?」
「いや、でも大人しくしてるぞ」
「誰が連れてるんだ?」
視線が、漆黒の鎧をまとったモモンへ集まる。
ハムスケは堂々と歩いていた。
いや、本人は堂々としているつもりなのだろう。
巨大な丸い魔獣が、夜の街門を抜けていく。
当然、周囲の者たちは距離を取る。
だが恐怖だけではない。
好奇心もある。
「黒い鎧の冒険者が従えてるらしい」
「あれ、森の魔獣じゃないのか」
「まさか、討伐じゃなくて連れて帰ってきたのか?」
ざわめきが広がる。
モモンはそれを聞きながら、内心で計算していた。
名声は広がる。
これは目的に合致する。
ただし、目立ちすぎることには注意が必要だ。
ナーベは人混みに不快そうな気配を漂わせている。
ハムスケは、なぜか少し嬉しそうだった。
門を抜け、エ・ランテルの大通りへ入ってからも、ざわめきは収まらなかった。
ハムスケを連れた一行の周囲には、自然と距離を取った人だかりができていく。
その中で、ペテルがモモンへ向き直った。
「では、俺たちはバレアレさんの荷物を店まで運びます」
ンフィーレアも、薬草の入った荷物を抱え直して頷いた。
モモンは冒険者組合の方角へ目を向ける。
「こちらは組合で、ハムスケの登録と依頼完了の報告を済ませます」
ペテルが頷いた。
「では、再集合はバレアレさんの店で」
「終わり次第、店へ向かいます」
「分かりました。では後ほど」
その背中を、モモンは静かに見送った。
後ほど。
それは、ごく普通の別れの挨拶だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
冒険者組合の前には、すでに人だかりができていた。
夜にもかかわらず、森の賢王らしき魔獣を連れた冒険者が戻ってきたという噂は、
あっという間に広がっている。
組合の職員たちは、ハムスケを見て言葉を失った。
受付嬢も、書類を持ったまま固まっている。
「こちらの魔獣を登録したい」
モモンが淡々と言う。
受付嬢は、何度か瞬きをした。
「ま、魔獣登録……ですね。ええと、その……名前は?」
「拙者、ハムスケでござる!」
ハムスケが胸を張った。
受付嬢の筆が、一瞬止まる。
「……ハム、スケ……様?」
「様は不要でござる」
「いえ、あの、そういう問題では……」
受付嬢は困惑しながらも、どうにか書類へ記入していく。
周囲の冒険者たちは遠巻きに見ていた。
モモンは、淡々と報告した。
トブの大森林で目的の薬草を採取したこと。
護衛依頼は完了したこと。
森の賢王と呼ばれる魔獣と遭遇し、現在は従属していること。
そして、森の奥で魔物の動きが乱れている可能性があること。
組合側は、その報告を重く受け止めた。
特にハムスケを従えたことは、ただの依頼達成以上の意味を持つ。
モモンという冒険者の実力を、組合は改めて見直さざるを得なかった。
ただし、手続きは手続きだ。
魔獣の街中移動には制限があり、管理方法の確認も必要になる。
ひとまずハムスケは、組合の管理する厩舎兼魔獣用の囲いに預けられることになった。
「殿、拙者はここで待っていればよいのでござるな」
「大人しくしていろ」
「承知したでござる!」
ハムスケは妙に元気よく返事をした。
それを見た職員が、怯えと困惑の入り混じった表情で固まる。
ナーベはそれを興味なさそうに眺めていた。
モモンは、書類処理を終えると組合の外へ出る。
人だかりはまだ残っていた。
その中から、一人の老婆が歩み出る。
「お前さんが、モモンかい?」
モモンはそちらを見る。
小柄な老女。
だが、その目には年齢を感じさせない鋭さがある。
「そうですが」
「私はリイジー・バレアレ。ンフィーレアの祖母だよ」
「……バレアレさんの祖母でしたか」
モモンはここで初めて、目の前の老婆がリイジーであると知った。
リイジーはモモンを上から下まで眺める。
「孫が世話になったね。それにしても、森の賢王を連れて戻ってくるとはね。とんでもない冒険者を雇ったもんだよ」
「依頼を果たしたまでです」
「謙遜かい? まあいいさ」
リイジーは小さく笑った。
「ンフィーレアたちは先に店へ?」
「はい。採取した薬草を運ぶため、漆黒の剣の皆さんと共に向かいました」
「そうかい。なら、うちに戻っているはずだね」
「私も、手続きが済み次第、店へ向かうつもりでした」
「なら一緒に来るといい。孫に礼も言わせたいしね」
モモンは頷いた。
「分かりました」
ナーベが無言で横に並ぶ。
彼女の表情はいつも通りだったが、人混みから離れられることには不満はなさそうだった。
三人は、夜の街をバレアレ薬屋へ向かって歩き出した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夜のエ・ランテルは、昼とは違う顔を見せる。
人通りは少なく、店の明かりもまばらになっていた。
組合前の騒ぎから離れるにつれ、街の音は遠ざかっていく。
リイジーは歩きながら、軽くンフィーレアのことを話した。
孫は薬師としてはよくやっている。
少し真面目すぎるところがある。
だが、薬草を見る目は確かだ。
モモンは相槌を打ちながら、その話を聞いていた。
リイジー・バレアレ。
この街で名の知れた薬師。
そして、ンフィーレア・バレアレの祖母。
アインズにとって、バレアレ家は利用価値が高い。
この世界のポーションは、ユグドラシルの赤いポーションとは明らかに異なる体系で作られている。
なぜ色が違うのか。
効果に差はあるのか。
素材。
製法。
魔法的処理。
それらを解析すれば、ユグドラシル由来の赤いポーションを、この世界の技術で再現できる可能性がある。
リイジーの薬学知識。
ンフィーレアの異能。
その二つは、今後の研究において価値が高い。
いずれ確保する必要がある。
そう判断していた。
その時、前を歩いていたリイジーが足を止めた。
「……妙だね」
「どうしました」
モモンが問う。
リイジーは、自分の店を見つめていた。
バレアレ薬屋。
しかし、その店には明かりがなかった。
「明かりがない。あの子が戻っているなら、こんなに静かなはずがない」
リイジーの声に、焦りが混じる。
モモンは店を見た。
確かに静かすぎる。
人の気配が薄い。
薬屋ならではの薬草の匂いはあるが、作業音も話し声もない。
ナーベがすっと前へ出る。
「モモン様」
「警戒しろ」
「はい」
リイジーは震える手で扉に触れた。
鍵はかかっていなかった。
扉が、ゆっくりと開く。
店内は真っ暗だった。
「ンフィー……?」
リイジーの声だけが、暗い店内に落ちた。
返事はない。
モモンは中へ足を踏み入れる。
棚が乱れていた。
薬瓶がいくつか床に転がり、薬草の束が散らばっている。
奥へ運ばれるはずだった荷物も、無造作に置かれたままだ。
襲撃。
そう判断するのに、時間はかからなかった。
奥の暗がりで、何かが動いた。
ぎこちない足音。
生きている者のものではない動き。
それは、ペテルだった。
だが、目に意思はない。
皮膚は血の気を失い、口元から濁った呻きが漏れる。
その後ろに、ルクルットとダインもいた。
彼らも同じだった。
死体。
いや、死体を無理やり動かしているもの。
ゾンビだった。
リイジーが息を呑む。
「な……」
「下がってください」
モモンは短く言った。
ナーベが一歩前へ出る。
「モモン様。魔法で処理いたしますか」
「いや」
モモンは店内を一瞥する。
薬瓶。
棚。
調合器具。
薬草の束。
ここで魔法を使えば、余計な被害が出る。
「剣でやれ。店内を荒らすな」
「承知しました」
その返答と同時に、ナーベの手が腰へ動いた。
鞘から剣が抜かれる音が、暗い店内に細く響く。
次の瞬間、彼女の姿がぶれた。
振るわれた剣は、必要最低限の動きだけでゾンビの関節を断ち、首を落とし、床へ沈めていく。
ペテルだったものが倒れる。
ルクルットだったものが崩れる。
ダインだったものが、声にならない音を漏らして動かなくなる。
それは戦闘ではなかった。
処理だった。
正確で、静かで、店の棚一つ揺らさないほどの処理。
ナーベは剣についた汚れを軽く払い、モモンの横へ戻った。
「完了しました」
「よくやった」
モモンは倒れた三人を見た。
仲間ではない。
そう、仲間ではない。
ナザリックの者ではない。
守るべき配下でもない。
だが、彼らは共に野営し、共に森を歩き、同じ依頼を果たした者たちだった。
その死体を、玩具のように動かしている。
それは、アインズにとって、明確に不快だった。
奥の部屋に、もう一つの気配があった。
ただし、それは動いていない。
モモンは歩を進める。
そこに横たわっていたのは、ニニャだった。
ニニャだけはゾンビ化されていなかった。
モモンは、その身体を見下ろし、一瞬だけ沈黙した。
そこで初めて気づく。
ニニャは、女性だった。
少年のように振る舞い、少年のように名乗り、少年のように笑っていた彼女は、本当はそうではなかった。
知らなかった。
何も知らなかった。
彼女の傍らには、荷物が散らばっていた。
魔法書。
筆記具。
小さなノート。
モモンはそれを拾い上げた。
開かれたページには、途中までの文字が残っている。
アゼルリシア山脈。
ドラゴン。
調査候補。
約束ですから。
ニニャの声が、記憶の中で静かに響いた。
モモンは、しばらくその文字を見つめていた。
「ンフィー……ンフィーはどこだい……?」
リイジーの声が震えていた。
店内を探しても、ンフィーレアの姿はない。
争った跡。
放置された薬草。
死者となった漆黒の剣。
そして、消えたンフィーレア。
連れ去られた。
そう判断するしかなかった。
「ンフィーが……ンフィーがいない……!」
リイジーは膝をつきそうになりながら、必死に棚へ手をつく。
「どこだい。どこに連れて行かれたんだい……!」
モモンは、動転する老女を見た。
リイジー・バレアレ。
優れた薬師。
そして、ンフィーレア・バレアレの祖母。
バレアレ家は、利用価値が高い。
この世界のポーション体系。
赤いポーション再現の可能性。
ンフィーレアの異能。
リイジーの薬学。
ここで失うには惜しい。
いや、逃すべきではない。
そして、それだけではなかった。
床に転がる冒険者たち。
動かされていた死体。
途中で止まったニニャのノート。
不快だった。
「リイジー・バレアレ」
モモンの声が、暗い店内に落ちた。
リイジーが顔を上げる。
「私は冒険者だ」
短い言葉だった。
「依頼すればいい」
「依頼……?」
「そうだ」
モモンは静かに続ける。
「孫を助けたいのだろう。ならば、私に依頼しろ」
リイジーは震える唇で、何かを言おうとした。
だが、言葉にならない。
モモンはさらに告げた。
「ンフィーレアを助けられる冒険者は、この街で私だけだ」
その言葉は傲慢だった。
だが、今この場で、それを否定できる者はいない。
森の賢王を従えた冒険者。
ゾンビと化した漆黒の剣を、店を壊さず処理するナーベを従える男。
そして、何より。
この混乱の中で、ただ一人冷静に状況を見ている者。
リイジーは、縋るように言った。
「頼む……頼むよ、モモン。ンフィーを助けておくれ」
「報酬は」
「……」
「報酬として、何を差し出せる。リイジー・バレアレ」
リイジーは歯を食いしばった。
迷いは一瞬だった。
「すべてを!」
彼女は叫ぶように言った。
「金も、薬も、知識も!すべてを差し出す!だから、ンフィーレアを助けておくれ!」
モモンは、わずかに頷いた。
「いいだろう」
その声は静かだった。
「交渉成立だ」
リイジーは、祈るように頭を下げた。
モモンはそれを見下ろしながら、内心で判断する。
これでいい。
救出は必要だ。
ンフィーレアは、自分の正体に近づいている。
放置すれば情報漏洩の危険がある。
それに、彼の異能は貴重だ。
リイジーの薬学も、赤いポーションの研究には有用だろう。
バレアレ家をこちら側に引き込む口実として、これ以上のものはない。
だが、それだけではない。
この不快感を処理する意味でも、動く理由は十分だった。
「ナーベ」
「はい」
「来い」
モモンはリイジーに待つよう告げ、ナーベを連れて隣室へ入った。
扉を閉める。
外の声が遠ざかる。
誰にも聞かれていないことを確認してから、モモンは言った。
「スクロールを使え。ンフィーレアの位置を探る」
「承知しました、アインズ様」
ナーベは懐からスクロールを取り出した。
淡い光が、暗い室内に広がる。
魔法の文字が宙に浮かび、やがて一つの方向を指し示す。
ナーベは目を細め、魔法の示す方角を読み取った。
「位置を特定しました」
「どこだ」
「墓地方面です」
「そうか」
墓地。
死体操作。
ゾンビ化した冒険者。
いくつかの線が繋がっていく。
敵の全貌まではまだ見えない。
だが、向かう場所は決まった。
モモンは隣室を出た。
リイジーが縋るような目で見上げる。
「見つかったのかい?」
「場所の目星はつきました」
「ンフィーは……」
「まだ生きている可能性はあります」
保証はしない。
だが、可能性はある。
そして、依頼は成立した。
アンデッドであるアインズの感情は、一定以上に高ぶれば、すぐに均される。
だが、不快感は残った。
これは、わがままなのかもしれない。
効率でもない。
利益でもない。
漆黒の剣は仲間ではない。
ナザリックの配下でもない。
それでも、共に歩いた者たちだった。
彼らの死体を弄ばれたこと。
それが、不快だった。
かつて仲間に言われた言葉が、ふと蘇る。
――モモンガさんは、もっとわがままになってもいいんですよ。
誰の声だったか。
いや、誰の言葉であってもよかった。
かつて共に笑い、共に戦い、共にギルドを作った仲間の一人が、そう言った。
この感情は、わがままなのかもしれない。
だが、それこそが、自分が失いつつあった人間らしさなのかもしれない。
ならば。
この不快感に従うのも、悪くはない。
「ナーベ」
「はっ」
「ンフィーレアを救出する」
「承知しました」
モモンは暗い店内を見渡した。
死者となった冒険者たち。
弄ばれた約束。
奪われた薬師。
合理的にも、感情的にも、結論は同じだった。
これをした者は、敵だ。
「そして、これをした者を見つける」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
ただ、冷たかった。