鈴木悟の残響 - 骸の玉座に座してなおも人の夢を見る - 作:朝型人間
バレアレ薬屋の中には、まだ死の気配が残っていた。
倒れ伏した漆黒の剣だったもの。
荒らされた棚。
床に散らばる薬草。
そして、祈るように膝をつくリイジー・バレアレ。
モモンは、閉じたノートを静かに置いた。
アゼルリシア山脈。
ドラゴン。
果たされなかった約束。
それらの言葉は、もう持ち主の口から語られることはない。
「ここで待っていろ」
モモンはリイジーへ告げた。
リイジーは顔を上げる。
その目は、憔悴と恐怖で揺れていた。
「ンフィーを……頼むよ」
「もちろん。対価の分は働こう」
ナーベが、モモンの横へ静かに立つ。
「モモン様。ハムスケは連れて行かれますか」
「いや、置いていく」
モモンは即答した。
「市街地の墓地で、あの巨体を連れて行く利点は少ない。目立つ上、狭い場所では邪魔になる可能性もある」
「承知しました」
「今回は速さが必要だ。行くぞ」
ナーベが頭を下げる。
その姿を見て、リイジーは縋るようにもう一度口を開いた。
「モモン……」
モモンは振り返らない。
「待っていてください」
それだけを残し、モモンとナーベは夜のエ・ランテルへ出た。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夜の街は、すでに異変に呑まれ始めていた。
遠くで鐘が鳴っている。
警鐘だ。
人々は家の扉を閉ざし、窓から不安そうに外を覗いている。
兵士たちが慌ただしく走り、通りの奥から怒号が聞こえた。
墓地方面だ。
「アンデッドの気配が濃くなっています」
ナーベが低く言った。
「ああ」
モモンは短く答える。
死体操作。
墓地。
儀式。
いくつかの線が、アインズの中で繋がっていく。
ンフィーレアは、ただ殺されるために攫われたわけではない。
彼の異能を利用する目的がある。
ならば、まだ生きている可能性はある。
救出対象としても。
情報漏洩を防ぐ意味でも。
ポーション研究のための資源としても。
生きていてもらわなければ困る。
そして、それとは別に。
アインズは暗い薬屋で見た光景を思い出す。
動かされていたペテル。
ルクルット。
ダイン。
ゾンビ化されず、床に横たわっていたニニャ。
残されたノート。
不快だった。
その感情は、今も消えていない。
墓地へ続く通りに近づくにつれ、街の空気は明らかに変わっていった。
怒号。
悲鳴。
金属がぶつかる音。
そして、低く濁った呻き声。
人間のものではない声が、閉ざされた門の向こうから漏れていた。
墓地へ続く門は、固く閉ざされている。
その前では、兵士たちが必死に持ち場を守っていた。
扉の向こうから、何かがぶつかる音が響く。
一度。
二度。
三度。
まるで、死者の群れが門を押し破ろうとしているかのようだった。
「押さえろ!」
「絶対に開けるな!」
「ここを抜かれたら、市街地に流れ込むぞ!」
兵士たちの顔には、疲労と恐怖が浮かんでいた。
その中へ、漆黒の鎧をまとった冒険者が歩いてくる。
ナーベが、その半歩後ろに続いた。
門番の一人が顔を上げる。
「援軍か!?」
その声には、かすかな期待があった。
この地獄のような状況を変えられる誰かが来たのではないか。
そんな期待。
だが、門番はすぐにモモンの冒険者プレートを見た。
カッパー。
最下級の冒険者を示す色。
門番の顔から、希望が抜け落ちた。
「……カッパー級?」
彼の声には、隠しきれない落胆が滲んでいた。
「悪いが、ここは通せない。この先はアンデッドで溢れてる。カッパー級が入ったところで、犬死にするだけだ」
「門を開けろ」
モモンは短く言った。
門番は一瞬、言葉を失う。
「聞こえなかったのか? 開けられないんだ。今この門を開けたら、アンデッドが街へ流れ込む!」
「依頼で来た」
「依頼だと?」
「人を救出する」
門番は険しい顔で首を振った。
「無理だ。どんな理由があろうと今は門を開けられない。開けた瞬間、こっちが終わる」
モモンは、門を見上げた。
厚い木材と金具で補強された門。
その向こうからは、なおも死者の呻き声が響いている。
「そうか」
モモンは静かに言った。
「では、仕方ない」
次の瞬間。
門番の視界から、漆黒の鎧が消えた。
「なっ――」
見上げた時には、モモンの身体はすでに門の上にあった。
常人ではありえない跳躍。
重い鎧をまとっているはずの身体が、羽のように高く舞い上がっていた。
ナーベもまた、当然のようにその後へ続く。
二人は門の上を越え、アンデッドの群れが蠢く墓地側へ降り立った。
門番たちは、しばらく声も出せなかった。
直後。
門の向こうで、鈍い衝撃音が響く。
続いて、何かが砕ける音。
アンデッドの呻き声。
剣が骨を断つ音。
魔法が夜を裂く音。
兵士たちは息を呑んだ。
「何が……起きてるんだ……?」
誰かが呟いた。
門の向こうの呻き声が、少しずつ減っていく。
絶え間なく門を叩いていた衝撃も、いつしか止まっていた。
一人の兵士が、震える声で言う。
「まさか……倒してるのか?」
門番は、閉ざされた門を見つめた。
さきほどまで、最下級のカッパー級だと思っていた冒険者。
漆黒の鎧をまとい、死者の群れへ飛び込んでいった男。
その背中が、脳裏に焼きついて離れなかった。
「漆黒の……」
彼は、思わず呟いた。
「英雄……」
まだ、それは噂ですらなかった。
ただ一人の門番が、恐怖と畏怖の中で漏らした言葉に過ぎない。
だが、その夜を境に、その名は少しずつ形を持ち始めることになる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
門の向こう側は、死者の濁流だった。
墓地から溢れ出したアンデッドが、門へ群がっていた。
腐敗した肉を引きずるゾンビ。
白骨を鳴らすスケルトン。
生者への憎悪だけを宿したような、濁った眼窩。
それらが、一斉にモモンとナーベへ向いた。
「雑魚に時間をかけるな」
「承知しました」
ナーベの声は冷たかった。
モモンは大剣を抜く。
一振り。
たったそれだけで、数体のアンデッドがまとめて砕けた。
ナーベの魔法が闇を走る。
低位のアンデッドが、まとめて吹き飛ぶ。
門を叩いていた死者たちは、あっという間に数を減らしていった。
アンデッドは恐怖しない。
痛みも知らない。
怯むこともない。
だが、圧倒的な力で粉砕されれば動けなくなる。
それだけのことだった。
モモンは墓地の奥へ進む。
目的は、門前の雑魚を掃討することではない。
ンフィーレア。
死体を操った魔法詠唱者。
そして、もう一人。
漆黒の剣の死体に残されていた刺突痕。
ゾンビ化は死霊術師の仕業だろう。
だが、殺害そのものには別の手が入っている。
刺突武器を扱う者。
近接戦闘に長けた者。
それも、漆黒の剣を全滅させられるだけの実力者。
モモンは、それを頭の片隅に置いたまま、墓地の奥へ進んでいった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
墓地の奥。
石造りの古い霊廟の一角に、異様な光が満ちていた。
黒ずんだ魔法陣。
その周囲に立つ、ローブ姿の者たち。
低く響く詠唱。
儀式の中心には、不気味な老人のような男がいた。
痩せこけた身体。
落ち窪んだ目。
死者に近づきすぎた生者のような、淀んだ気配。
男はモモンたちの侵入に気づき、詠唱を止めた。
「何者だ」
「冒険者だ」
モモンは淡々と答える。
「依頼を受けて人を探している。対象は……言わなくても分かるな」
男の目が細くなる。
「ふんっ、冒険者風情が。ここまで来るとはな」
周囲にいたローブ姿の者たちが、警戒して前へ出る。
死霊系の魔法詠唱者。
それなりの訓練は受けているのだろう。
だが、モモンにとっては邪魔でしかない。
「ナーベ」
「はい」
「邪魔だ。排除しろ」
「承知しました」
ナーベが一歩前に出る。
ローブ姿の者たちが詠唱を開始するより早く、彼女の魔法が放たれた。
雷光。
闇の中を裂く白い光。
彼らの身体が、何が起きたか理解する前に崩れ落ちた。
儀式の中心にいた男の顔に、初めて警戒の色が浮かぶ。
「ほう……ただの冒険者ではないか」
「ナーベ。そっちの魔法詠唱者は任せる」
「承知しました」
ナーベはその男へ向かう。
男は不快そうに舌打ちし、杖を掲げた。
モモンは、その光景を一瞥した後、静かに言った。
「もう一人いるはずだ」
男の眉が動く。
「何?」
「漆黒の剣を殺した者だ。死体の傷から見て、刺突武器を使う者がいる」
その言葉が、闇の中に落ちた。
一瞬の沈黙。
そして。
「あっれぇ? そこまで分かっちゃうんだ」
甘い声がした。
場違いなほど明るく、楽しげで、歪んだ声。
霊廟の柱の陰から、一人の女が姿を現す。
金色の短い髪。
猫のような笑み。
軽装の鎧には、無数の冒険者プレートが飾られている。
戦利品。
そう理解するのに、時間はかからなかった。
女は指先で、そのプレートの一枚を弾いた。
乾いた音が、墓地の闇に響く。
「あたしのコレクション、見てくれた?」
女は嬉しそうに笑う。
「さっき増えたばっかりなんだ。ぴかぴかじゃないけど、まあ記念品にはなるよね」
そのプレートが誰のものか。
モモンには、考えるまでもなく理解できた。
女は首を傾げる。
その口調は軽い。
だが、その瞳にはまともな人間の熱がない。
殺すことを楽しむ者の目。
壊すことを楽しむ者の目。
モモンは、その女を見た。
人間。
だが、まとっている空気が尋常ではない。
遊んでいる。
この状況で、心底楽しんでいる。
目の前の女が危険な戦士であることだけは、すぐに分かった。
「立派な鎧に、大剣2本。いいねぇ。壊しがいがありそう」
女は舌なめずりするように笑った。
「あっちはカジっちゃんとお姉さんに任せてさ。こっちはこっちで遊ぼっか」
彼女は軽やかに後ろへ跳び、少し離れた空間へ移動する。
モモンは黙って後を追った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
女は、両手のスティレットを抜いた。
細く、冷たい刃。
刺すための武器。
「あたしね、人殺しが好きなの」
彼女は笑顔で言った。
「恋してるって言ってもいいくらい。どうすればいい声が出るかなとか、
どこから刺せば長く遊べるかなとか、そういうの考えるの、すっごく楽しいんだ」
モモンは構えを取る。
二本の大剣。
重い刃。
だが、その動きは武人の流麗さとは違う。
女は、それを見て目を細めた。
「ふうん。2本同時に使うんだ。力任せって感じ」
「試してみるといい」
「うん。試す。壊れるまでね」
次の瞬間、彼女の雰囲気が変わった。
「武技――疾風走破」
言葉と同時に、女の姿が沈む。
そして消えた。
いや、消えたように見えただけだ。
彼女はすでに、モモンの懐へ入っていた。
速い。
モモンは大剣を下ろす。
だが、その刃が届く前に、女は横へ抜けていた。
金属音。
スティレットの刺突が、鎧の継ぎ目を狙って弾かれる。
「へえ。硬い」
女は嬉しそうに言った。
「じゃあ、もっと足してあげる」
「武技――能力向上。能力超向上。流水加速」
一つ。
また一つ。
彼女の動きが変わっていく。
踏み込みが鋭くなる。
刺突の軌道が細くなる。
反応が速くなる。
アインズは兜の奥で、その変化を観察していた。
魔法ではない。
ユグドラシルのスキルとも違う。
発動の言葉と同時に、肉体の一部が強化される。
神経の加速。
身体能力の底上げ。
移動速度の増加。
これが、この世界の戦士が使う武技。
ユグドラシルには存在しない、現地固有の技術。
興味深い。
モモンは防御する。
大剣で刺突を弾く。
鎧で受ける。
一歩下がり、また受ける。
受けることはできる。
だが、攻め返そうとすると遅れる。
大剣を振る。
しかし女は、まるでそこに攻撃が来ることを知っていたかのように身体を滑らせた。
「武技――超回避」
刃は空を切る。
女が笑う。
「やっぱり」
彼女は、心底楽しそうだった。
「力はあるね。反応も悪くない。鎧もすごい。たぶん、普通の戦士なら今ので終わってる」
スティレットが、くるりと回る。
「でも、それだけ」
モモンの大剣が振るわれる。
女は紙一重で外す。
「足の運びが雑。剣の振りが重い。攻撃の後が遅い。武技の気配もない」
彼女の笑みが、さらに深くなる。
「あんた、力任せに武器を振り回してるだけじゃん」
刺突。
防御。
また刺突。
「戦士としては、素人レベルだよ?」
正しい。
アインズは内心で認めた。
モモンという仮面は、身体能力と装備で成立している。
だが、戦士として積み上げた技量があるわけではない。
足運び。
間合い。
武器の戻し。
相手の呼吸を読む感覚。
それらは、目の前の女の方が明らかに上だった。
そして、武技。
この世界の戦士たちが使う、未知の技能。
観察価値は高い。
「ねえ」
女は刺突を重ねながら、甘い声で言った。
「あの子たち、あんたの仲間だったの?」
「仲間ではない」
モモンは大剣で一撃を弾く。
「じゃあ、いいじゃん」
女は笑った。
「弱い子ってさ、壊れる時の顔が面白いんだよね。何が起きたか分からないって顔。
助けてって顔。特に、あの魔法使いの子」
一瞬、モモンの剣が止まった。
女の目が、嬉しそうに細まる。
「あ、反応した」
「不快だ」
モモンは低く言った。
「それだけだ」
「不快?なにそれ。怒ってるの?怒ってるんだ?
変なの。仲間じゃないんでしょ?」
「仲間ではない」
モモンは静かに返した。
「だが、共に歩いた者たちだった」
女は、きょとんとした顔をした。
そして、次の瞬間には腹を抱えるように笑い出す。
「あはっ。何それ。中途半端。いいねぇ、そういうの。もっとぐちゃぐちゃにしてあげたくなる」
彼女の刺突が、さらに速くなる。
「武技――不落要塞」
モモンの重い一撃を、女はスティレットで受ける。
普通なら、武器ごと砕かれてもおかしくない。
だが、衝撃は奇妙に散らされた。
防御の武技。
アインズは、その現象を記録する。
攻撃だけではない。
防御にも使える。
実に興味深い。
――だが。
離れた場所で、骨の竜が咆哮した。
ナーベの戦場だ。
二体の骨の竜が、彼女の魔法を受けてもなお崩れずに動いている。
儀式の中心にいた男の笑い声が響いた。
「無駄だ! スケリトルドラゴンには魔法に対する絶対的な耐性がある!」
ナーベは表情を変えなかった。
だが、モモンには分かる。
彼女が手間取っている理由は、敵が強いからではない。
許可された範囲の魔法では、相性が悪いだけだ。
今のナーベは、モモンの指示に従い、力を抑えている。
モモンは女の刺突を大剣で弾きながら、わずかに視線を動かした。
「ナーベラル・ガンマよ」
その声は、墓地の闇を低く貫いた。
「ナザリックの威を示せ」
返答は聞こえなかった。
距離がある。
それに、向こうも戦闘中だ。
だが次の瞬間、離れた戦場の空気が変わった。
魔力が膨れ上がる。
今まで抑えられていたものが、解き放たれる気配だった。
ナーベラル・ガンマ。
ナザリック地下大墳墓、戦闘メイド・プレアデスの一員。
その力が、解放される。
女の笑みが、わずかに歪む。
「……へえ。あの女、まだ本気じゃなかったんだ」
彼女の目が、モモンへ戻る。
「じゃあ、あんたも?まさか、あんたも手を抜いてるつもり?」
モモンは答えなかった。
ただ、静かに大剣を構え直す。
十分だ。
この世界の戦士が使う武技。
その効果と応用。
目の前の女の技量。
観察する価値はあった。
だが、これ以上続ける必要はない。
「さっさと終わらせるか」
モモンが呟いた。
女の笑みが止まる。
「……は?」
「もう十分だ」
「十分?」
彼女の声が低くなる。
「さっきから押されっぱなしだったくせに?素人みたいに大剣振り回してただけのくせに?何を言ってるの?」
モモンは答えない。
それが、さらに彼女の神経を逆撫でする。
「ふざけんな」
低い声だった。
「押されっぱなしだったくせに。素人のくせに。力任せに振ってるだけのくせに」
女の全身から、殺気が膨れ上がる。
「武技――能力超向上。流水加速。疾風走破。超回避」
彼女の輪郭がぶれた。
「バラしてあげる。中身が何か、ちゃんと見てあげる」
スティレットの刺突が、鎧の継ぎ目を狙う。
一撃。
二撃。
三撃。
金属音が連続する。
確かに鋭い。
速い。
戦士としての技量は、彼女が上だった。
だが、届いていない。
モモンは一歩、前へ出た。
女の目が細くなる。
「何、して――」
その言葉は最後まで続かなかった。
漆黒の腕が、彼女の身体を抱え込んでいた。
「なっ――」
女は即座に抜けようとした。
だが、動けない。
肩も。
腰も。
腕も。
身体ごと、鉄の枷に閉じ込められている。
「戦士としての技量では、君の方が上だった」
モモンは静かに言った。
「それは認めよう」
女の顔から、笑みが消える。
「何、これ……離せ、離せよ!」
「だが、それだけだ」
力が込められる。
骨が軋む音がした。
初めて、女の顔から余裕が消える。
「待っ――」
「不快だった」
モモンの声は変わらない。
「君は、不快だ」
墓地の夜に、悲鳴が裂けた。
やがて、その声は途切れた。
モモンはしばらくそのまま動かなかった。
そして、力を抜く。
女だったものが、力なく地面へ崩れ落ちた。
彼は兜を外さない。
顔を見せない。
魔法も使わない。
モモンという冒険者の姿のまま、戦闘は終わった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
少し離れた戦場では、雷光が竜の形を取っていた。
「第七位階魔法――《連鎖する竜雷》」
ナーベラルの声が、冷たく響く。
雷が、一体目のスケリトルドラゴンへ絡みついた。
骨の巨体が白く染まる。
そこから跳ねるように、雷は二体目へと連鎖した。
第六位階までの魔法を無効化する骨の竜。
だが、第七位階には届かない。
雷光が弾けた。
白骨の巨体が砕け、崩れ落ちる。
儀式の中心にいた男の顔から、余裕が消えた。
「馬鹿な……第七位階だと……?」
ナーベラルは、男を見下ろす。
「モモン様の命令です」
その声には、慈悲も怒りもない。
「終わらせます」
次の雷が、男を呑み込んだ。
やがて、霊廟には静寂が戻った。
黒ずんだ魔法陣は崩れ、儀式の気配は薄れていく。
死者たちを動かしていた力が、少しずつ失われていくのが分かった。
モモンが戻ると、ナーベラルはすでに戦闘を終えていた。
「モモン様。魔法詠唱者は排除しました」
「ンフィーレアは」
「まだ確認できておりません」
「探すぞ」
「はい」
儀式場は半ば崩れていた。
魔法陣は乱れ、儀式具は破壊され、負の魔力が薄く漂っている。
モモンとナーベは、周囲を確認しながら奥へ進む。
霊廟の裏手。
石棺の影。
崩れかけた祭壇の奥。
そこに、拘束された少年がいた。
ンフィーレアだった。
意識はない。
だが、生きている。
モモンは膝をつき、状態を確認した。
呼吸はある。
心音もある。
ただし、目をやられていた。
「生きている」
モモンは短く言った。
「だが、目を潰されている。それに……」
彼はンフィーレアの額に嵌められた冠を見た。
奇妙な冠。
装飾品に見えるが、そこから漂う魔力は尋常ではない。
少年の意思を奪い、儀式の一部として組み込むための道具。
これが、ンフィーレアの異能を利用するための媒介か。
不用意に外せば、本人に何が起こるか分からない。
ならば。
「破壊する」
モモンは淡々と告げた。
ナーベが一歩下がる。
モモンはアイテムを取り出し、冠へ向けて力を込めた。
魔力の結合が砕ける。
冠が軋み、ひび割れ、やがて細かな破片となって崩れ落ちた。
ンフィーレアの身体が、わずかに震えた。
だが、呼吸は安定している。
「治療なさいますか」
ナーベが問う。
「当然だ」
モモンは即答した。
「まだ使い道がある。それに、依頼対象だ」
少し間を置いて、彼は低く続ける。
「この程度なら、直してやる」
モモンは治癒の効果を持つ道具を取り出した。
この世界の基準では、十分すぎるほど貴重なもの。
柔らかな光が、ンフィーレアの顔を包む。
傷が塞がっていく。
潰された目が、少しずつ元の形を取り戻す。
ンフィーレアのまぶたが、わずかに震えた。
意識はまだ戻らない。
だが、命は繋がった。
モモンは立ち上がる。
「連れて戻る」
「承知しました」
ナーベがンフィーレアを支える。
モモンは、もう一度だけ儀式場を見渡した。
死者の儀式。
アンデッドの群れ。
漆黒の剣を弄んだ者たち。
処理は終わった。
だが、漆黒の剣は戻らない。
ニニャの約束も果たされない。
それでも。
ンフィーレアは救出した。
依頼は果たした。
「戻るぞ」
「はい、モモン様」
二人は、ンフィーレアを連れて墓地を後にした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
門の向こうから、足音が聞こえた。
兵士たちは一斉に息を呑む。
またアンデッドか。
そう思った者もいた。
だが、門の上にいた兵士が、震える声を上げた。
「違う……戻ってきた……」
墓地の闇の中から現れたのは、漆黒の鎧をまとった冒険者だった。
その横にはナーベ。
そして、救い出された少年。
ンフィーレア・バレアレ。
門番は、言葉を失った。
あれほど溢れていたアンデッドの声は、もう聞こえない。
門を叩く音もない。
死者の群れを越え、あの男は戻ってきた。
依頼対象を連れて。
「開けろ……」
門番は、掠れた声で言った。
今度は、拒否ではなかった。
「門を開けろ! 英雄のお帰りだ!」
兵士たちが門を開く。
夜明け前の冷たい空気の中、モモンは何も言わずに門をくぐった。
その背に向かい、誰かが小さく呟く。
「漆黒の英雄……」
今度は、一人だけの声ではなかった。
兵士たちの視線が、漆黒の鎧へ集まる。
恐怖ではない。
侮りでもない。
畏敬。
そして、救われた者が抱く、どうしようもない安堵。
モモンは足を止めなかった。
依頼は果たした。
敵は排除した。
救出対象は確保した。
ただ、それだけだ。
だが、その夜、彼の背を見た者たちは、そうは受け取らなかった。
漆黒の鎧をまとい、死者の墓地から人を救い出した冒険者。
その姿は、やがて一つの名で語られることになる。
漆黒の英雄。
夜明け前のエ・ランテルに、その名が静かに生まれた。