入学してから一週間が経った。
最初こそ右も左も分からなかった学校生活だが、人間というのは案外慣れる生き物らしい。
授業を受け、昼休みを過ごし、放課後は寮へ帰る。
そんな生活を繰り返しているうちに、この高度育成高等学校という特殊な環境にも少しずつ馴染み始めていた。
……まあ、馴染んだといっても周囲から見た俺は相変わらず変な奴かもしれないが。
というのも、この一週間の放課後、俺はほぼ毎日校内を歩き回っていた。
目的はただ一つ。安全確認である。
学生証に入っていた校内地図を印刷し、非常口、消火器、保健室、防災設備、避難経路などを細かく書き込んでいった結果――。
「よし」
机の上に広げた紙を見ながら小さく頷く。
我ながらなかなかの出来だ。
校内の危険箇所や避難経路を書き込んだオリジナルハザードマップ。
普通の高校一年生が作るものではない自覚はある。
だが安心感は段違いだった。
どこで何か起きても、どこへ向かえばいいかが一目で分かる。
素晴らしい。
ちなみに監視カメラの位置も書き込んであるが、これはついでだ。
本来の目的は安全確認である。
さらに校内だけでは飽き足らず、島全体も歩いて回った。
避難場所。
医療施設。
交番。
大型商業施設。
災害時に使えそうな場所。
結果として島の簡易ハザードマップまで完成してしまった。
我ながら何をやっているんだろうとは思う。だが、まぁこういう性分なのだから仕方がない。
そういえば校内を散策してる際にちょっと驚く出来事もあった。
小学校の時の同級生を見つけたのだ。
まさか彼女もこの学校にいるなんて思わなかった。
随分久しぶりに会うし、気のせいかもとも思ったが、一緒に歩いていた友人達から呼ばれていた名前は自分が知る彼女の名前と一致していた。
ただ、どうやら向こうは俺の事を覚えてはいないようだった。
それを悲しいとは思わない。
特別仲が良かったわけでもないし、自分が勝手に憧れていただけなのだから。
下手にこちらから声を掛けて、当時の事を思い出させるのもなんだか気の毒だった。
だから何も気付かぬフリをして彼女の横を通り過ぎた。
一瞬だけ目が合ったような気がしたが、多分気のせいだろう。
その出来事も今となっては一週間前の話だ。
それ以降も彼女を見かける事は度々あったが、相変わらず声をかける事もないし、今後もそんな馬鹿な事をするつもりはなかった。
それと入学前から抱いていた不安があったのだが、これについてもこの1週間で杞憂だった事を知った。
授業についてだ。
高度育成高等学校。
全国から優秀な生徒が集まる学校。
そんな説明を聞いていたから、授業も大学受験レベルの内容を初日から叩き込まれるのではないかと警戒していた。
だが実際は違った。
もちろん難易度は高い。
中学よりレベルが上がっているのは間違いない。
しかし授業についていけないほどではなかった。
むしろ拍子抜けしたくらいだ。
だからこそ少しだけ引っ掛かる。
この学校は本当に実力主義なのだろうか。
そんな違和感を抱えながらも、今日の午前最後の授業である水泳の準備の為に更衣室へ向かった。
更衣室に着き、水着に着替えながらなんとなくに周囲を見回す。
男子達の雰囲気がどこか浮ついていた。
理由は分かる。
女子も同じ授業だからだ。
まあ俺だって健全な男子高校生だ。
気にならないと言えば嘘になる。
そんなことを考えながら着替えていると、不意に神崎がこちらを見ていた。
「三条」
「ん?」
「お前、中学の頃は運動部だったのか?」
言われて自分の身体を見る。
特別筋肉質ではない。
だが運動をしていない人間に見えるほどでもないらしい。
「ああ。部活には入ってなかったけど、合気道を習ってたんだ」
「合気道か」
神崎は少し意外そうな顔をした。
「それはまた珍しいな」
「護身目的だよ」
「護身目的?」
「ほら、世の中何があるか分からないし」
そう答えると神崎は数秒黙り込んだ。
そして。
「……そこまでくると逆に感心するな」
苦笑した。
最近よく見る反応だった。
どうやらBクラスの面々も、俺の心配性には少しずつ慣れてきたらしい。
その後の水泳授業は特に問題なく終わった。
ただ。
一之瀬さんがプールサイドに現れた瞬間、男子達の空気が変わったのは印象的だった。
歓声こそ上がらない。
だが誰もが目で追っている。
男子って分かりやすいな。
……いや、俺も人のことは言えないか。
普通に綺麗な人だと思う。
ただ。
恋愛感情とかそういうものはよく分からなかった。
女子と付き合う。
恋人になる。
そういう話はまるで別世界の出来事みたいに感じる。
中学時代に友達すらまともにいなかった人間なのだから当然かもしれない。
そんなことを考えているうちに放課後になった。
ハザードマップ作りも一段落した事だし、入学初日から気になっていた図書室へと向かう。
初日は軽く見ただけだった場所。
改めて訪れてみると、やはり凄い。
本棚が並ぶ光景だけで圧倒される。
専門書。
参考書。
歴史書。
小説。
まるで小さな図書館都市だった。
しばらく歩き回りながら本棚を眺める。
サバイバル術。
護身術。
防災知識。
興味を惹かれる本も多い。
だが今日は小説を借りようと思っていた。
せっかくならミステリーがいい。
そう思いながら本棚を見ていると。
「もしかして」
後ろから声が聞こえた。
「ミステリーがお好きなんですか?」
振り返るとそこには一人の女子生徒が立っていた。
肩まで伸びた灰色の髪。
どこか眠たげな瞳。
小柄な体格。
そして何より、本を抱きしめている姿が妙に印象的だった。
「えっと……そうだけど」
そう答えると。
彼女の目が少しだけ輝いた気がした。
「そうでしたか」
嬉しそうに微笑む。
「実は私も好きなんです」
そう言って彼女は抱えていた本を少し持ち上げた。
タイトルを見ると海外の有名な推理小説だった。
残念ながら未読だ。
「へぇ」
「お好きな作家さんはいらっしゃいますか?」
間髪入れずに質問が飛んできた。
「えっと……」
「海外作品は読まれますか?」
「いや、どちらかと言うと国内の作品を……」
「古典作品は?」
「それなら少しは」
「密室者はお好きですか?」
「まぁ、好きかな」
「では館物は?」
「それも好き」
「叙述トリックは?」
「面白いよね」
「そうですか」
どこか満足そうに頷かれた。
どうやら何らかの試験には合格したらしい。
そうして彼女は今度は自身が好きな作家やジャンルについて語り出した。
まだお互いの名前を名乗るより先に好きな作家やミステリージャンルの話をする。
普通こういうのは自己紹介から始まるものじゃないだろうか。
いや、俺も友達付き合いに詳しいわけじゃないから分からないけど。
彼女の話がひと段落する隙を窺って、ようやく口を挟む事に成功する。
「えっと、ところでどちら様でしょうか?」
「あ」
そこで初めて彼女はお互いの名前すらまだ知らない事に気付いたらしい。
彼女は小さく瞬きをした。
「失礼しました」
ぺこりと頭を下げる。
「一年Cクラスの椎名ひよりです」
他クラスの生徒だったのか。
「Bクラスの三条司です」
「三条さんですね」
椎名さんは頷く。
そして。
「やはり本がお好きなんですね」
何故か確信したように言った。
「いや、まあ好きだけど」
「図書館に来る方は沢山いますが、本棚の前であんな風に悩む方はあまりいません」
「そうかな」
「はい」
断言された。
そんなものだろうか。
俺としてはただ普通に本を探していただけなのだが。
「三条さんは何か借りる予定だったんですか?」
「えっと、まぁミステリーで何か面白いのをと」
「でしたらこちらがおすすめです」
すかさず一冊差し出される。
迷いがない。
プロの書店員か何かだろうか。
「これは?」
二冊。
「ではこちらは?」
三冊。
「こっちはどうでしょう」
四冊。
気付けば俺の両腕には本が積み上がっていた。
なんだこれ。
図書館の貸し出し上限に挑戦する企画か何かだろうか。
但し彼女は真剣そのもので、押し売りしている自覚はないらしい。
「全部おすすめ?」
「はい」
椎名さんの雰囲気に気圧されながらも尋ねると即答される。
少しだけ圧を感じるが、不思議と嫌な気はしなかった。
本当に本が好きなのだろう。
さっきまでどこか眠たそうだった瞳が、今は生き生きとしていた。
本の話になると人が変わるタイプなのかもしれない。
思わず苦笑してしまう。
「そんなに面白いの?」
「はい」
また即答。
「どれも読み終わったあとにもう一度最初から読み返したくなる素晴らしい作品です」
そこまで言われて、借りないというのも気が引けたので俺は渡された本の中で特に気になった1冊を選ぶ。
「じゃあ借りてみようかな」
そう答えた瞬間。
「本当ですか!?」
椎名さんはまるで花が開いたような嬉しそうな笑顔を浮かべてくる。
「ありがとうございます」
「いや、別にお礼を言われるようなことじゃ」
「あります」
きっぱり言い切られる。
「好きな本を読んでもらえるのは嬉しいことですから」
そう言って彼女は胸に抱えている本をぎゅっと抱きしめる。
確かに、自分が面白いと思った作品を誰かに勧めて、その人も気に入ってくれたら嬉しいかもしれない。
「そういうものかな」
「そういうものです」
椎名さんは満足そうに頷いた。
そして少しだけ躊躇ったあと、遠慮がちに口を開く。
「あの」
「ん?」
「迷惑でなければ、読み終わったあと感想を聞かせてもらえませんか?」
そのお願いは予想外だった。
おすすめされた本の感想を伝える。
それ自体は別に難しいことではない。
ただ。
入学してまだ一週間。
しかも今日初めて会った相手である。
距離を詰める速度が若干おかしい気がする。
だが椎名さん本人は全く気付いていない様子だった。
純粋に感想を聞きたいだけなのだろう。
「……別にいいよ」
「本当ですか?」
「うん」
そう答えると、彼女はぱっと表情を明るくした。
「では連絡先を交換しませんか?」
「え?」
「感想を聞くために必要です」
理屈は分かる。
分かるのだが。
普通はそこに至るまでにもう少し段階があるんじゃないだろうか。
そんな疑問を抱きつつも、結局俺は学生証を取り出した。
椎名さんも同じように生徒手帳を操作する。
数秒後。
連絡先の交換が終わった。
「ありがとうございます。実はわたしこうやってお友達に本を紹介するのが夢だったんです。
感想、楽しみにしてますね」
お友達認定されてしまった。
こんな風に真正面から友達と言われるのは初めてだった。
彼女は俺を、いや俺が持つ本を期待を込めて見つめてくる。
なんだか思った以上にこちらの感想に対するハードルが上がっている気がする。
冷や汗を浮かべながら俺はいつも以上に集中して読まないと決意する。