「ああニーア、君だけだよ。俺のことを分かってくれるのは。」
エルステ帝国の首都アガスティア、繁栄を極める都の外れにあるバーのテーブル席で、一人のヒューマンの男が黒いドレスを着た黒髪のエルーンの女、ニーアに膝枕されている。ニーアは蘇芳色の瞳から視線を男の閉じられた瞼の上に一心に注ぎながら、スプーンで机の上のストロベリーサンデーを掬い、男の口元に運ぶ。男が雛鳥のようにそれを口にすると、ニーアは口の端を歪ませながら男の頭を撫でた。
「うふふ・・・私のユウちゃん・・・。私はあなたのもの。誰も、私たちを別つことは出来ない・・・。」
「失礼する。この店にユウガオという男は訪れていないだろうか。」
バーの扉を力強く開きながら店に入った白髪に褐色肌の少女の声が、静かなジャズの流れる店内に響いた。穏やかな時間を邪魔されたニーアは蘇芳の瞳を一層暗くして入り口の方に顔を向けるが、男がニーアの手に触ると直ぐに視線を戻し、テーブルからピザを一切れ取って男に食べさせた。
「エルーンの少女よ。私はユウガオというヒューマンの男を探しているんだ。彼を見かけてはいないか。・・・むっ。」
ニーアに近付いてきた少女ゾーイは、うら若い乙女の膝の上に男が頭を乗せて、食べ物を口に運ばせているといういかがわしい光景に眉を顰めた。それにエルーンはゾーイの方を一瞥すらせず、ピザを食べ進める男の頭を愛おしげに撫でている。男の顔はテーブルの陰になって見えない。男がニーアの手を撫でて合図を送ると、ニーアはメロンソーダの入れられたグラスを持ち、ストローを男に咥えさせてやる。
なんと不埒なやつなんだ!と更にムッとしながらも、ゾーイは何も言わずに店を出ようとする。どうやらここには彼女が追う存在は居ないらしい。世の風紀を正したい所だが、彼女にはより重要な、世界の均衡を乱すものを滅するという使命があるのだ。
「どうして?どうしてクーリエの名前を呼ぶの?あの子があなたを誘惑したのかな。あなたが居ないと、私・・・。」
どこか底冷えするような響きを持つその声に、店の扉に手をかけていたゾーイは足を止める。振り返るとあのエルーンに男が何か余計な言葉を吐いたらしい。
(あれは、星晶獣?)
エルーンの背後に立ち上る黒い靄に、ゾーイは目を細める。禍々しく強力な力の気配にゾーイは身構えるが、エルーンに膝枕されている男は意に介さず、女の手を撫でている。
「色々快楽を試してみたが、やっぱりしっくりこないな。ストロベリーサンデーもピザも、美味いが心が躍るというほどじゃない。それとニーア、クーリエは君のただ一人の妹だ。憎たらしい奴だが、可愛い所もあると俺は思うよ。」
「消え失せろ!ガンマレイ!」
先程まで女の膝の上でスライムのように蕩けていた男がベラベラと喋りながら突然立ち上がる。その顔を見た瞬間、ゾーイはいつの間にか手にしていた青い剣から極光を放った。激しい閃光と音にあらゆるものが呑み込まれたが、攻撃が終わると店には傷一つ無く、ジュークボックスから流れるジャズがゾーイの耳に聞こえる。しかしゾーイは動じない。男と何度も戦い、ガンマレイが彼に防がれることは知っていた。不意打ちならば或いはと思ったが、やはり効かないらしい。
「ユウガオよ、晩蝉を渡せ!それは世界の均衡を崩すものだ!」
「いいよ、はい。」
怜悧な顔立ちの男はゾーイに近付き、腰に下げていた刀をあっさりとゾーイの手の上に置いた。呆気に取られるゾーイを置いて男は店の扉を開いた。
「ありがとうニーア、楽しかったよ、さよなら。クーリエと仲良くね。」
扉が閉まる音にゾーイが我に返ると、手の中にあった刀がいつの間にかなくなっていた。ゾーイは前にも同じやり口で煙に巻かれたことを思い出して、目を尖らせながら男の後を追う。
「待て!邪魔をしたな、すまなかった人の子達よ。さらばだ!」
バーのマスターと数人の客はしばらく呆然とした後、それぞれの世界に戻る。不気味な笑みを浮かべながら財布を取り出して会計を済ませるニーアに、マスターは冷や汗をかきながらお釣りとクーポンを渡した。
ユウガオはアウギュステの蒼い海に向かって、一人釣竿を垂らしていた。魚を釣り上げては海に返し、魔物を釣り上げては刀で一閃し、傘を差したハーヴィンの少女を釣り上げては海に返す。
「わーい。」
釣り上げられた少女は空中で万歳して、海の中に消えていった。ユウガオは少女の残した波紋が波にかき消され、海の蒼を波が白く泡立てるのを見つめた。海面は日の光にキラキラと輝き、波の音がリズムを刻む。糸が張り詰め、ユウガオはまた釣り竿を引いた。
「ふぃーっしゅ。」
少女がまた波の中に消えていく。遥か彼方の水平線では、空と海の青が交わっている。海の方が色の濃い紺色で、空に浮かぶ太陽からユウガオの方に向かって光の道が海の上に伸びていた。
「おおものだー。」
少女が海から飛び出して、また水の中に戻る。それから太陽が海に触れて、海を夕焼けに染めるまで魚も魔物も釣れなかった。オレンジ色の海の上を少女がイルカのように跳び、空中に真珠のような水滴を幾つもばら撒いた。
「ちょっと、君。」
ユウガオが呼びかけると自分の顔を指差した少女に頷いてやると、少女は宙をプカプカと浮かびながら近付いてきた。
「ども。ワムだよー。ようじはなに。」
「こんにちは、ユウガオです。ワムちゃん、恐縮だけど、俺は今釣りをしているんだ。それで君が来てから魚が全く釣れなくなったんだけど、もしかして君が俺の垂らしてる釣り針の近くにいるから、魚が寄って来ないんじゃないか?」
「わあ、そうかも。これはきょーしゅく。そーりー。」
「いや、分かってくれれば良いんだ。」
ユウガオは再び海面に目を向ける。海水は夜が近付くにつれ、空と共に暗く染まり、太陽が沈む瞬間、空と海は一瞬鮮やかな緑色に輝く。
「おー。」
ユウガオの隣で宙を上下左右にくるくると回っていたワムデュスが感嘆の声をあげ、ユウガオは全身に浴びたその光に温もりを感じた。
空はやがて星で満たされて、海の上にも星が映って波の上を揺蕩う。ユウガオは月が空を登り切るまで、釣り糸を垂らした。