「はぁ。」
「喫驚。(どうしたのですか、溜め息など吐いて)」
ユウガオは宿のベッドにうつ伏せに寝転んで、顔だけを傍に立つガレヲンに向けた。ユウガオの視線の高さの場所には、長い前掛けのようなスカートの裾から伸びた白い太ももが見える。
「ガレヲンさん、膝枕してくれませんか。」
「受容。(ひざまくら…とは、何かは分かりませんが、私は貴方の望みを叶えてあげたい。何をすれば良いのでしょう)」
「靴を脱いで、このベッドの上に正座で座って下さい…。あ、少し高いので足を崩して。」
言われるがままに割り座となったガレヲンの足の間にユウガオは顔を乗せる。彼の両頬を柔らかな太ももが包み込んだ。
「恵愛。(あら、甘えたかったのですね。ふふ、愛おしい子。心ゆくまで甘えなさい)」
ガレヲンは桃の香りの残る男の後ろ髪を撫でながらキスを落とそうとするが、胸が邪魔になって唇が届かない。仕方なく変わりにだらんとシーツの上に投げ出されていた腕を手に取り、その指先や手の甲に何度も口付けた。
「なんと!ガレヲン、そこで章魚のようにふにゃふにゃとしておるのが担い手かえ?」
「疑義。(何故貴方がここに、フェディエル)」
ユウガオの借りる宿の一室の扉を開いたのは、ドラフの角を持ちながら二メートル以上の身長を誇る褐色肌の女、六竜のフェディエルだった。
「此方も担い手がどのような灯であるのか気になった。ガレヲン、ここからは此方が担い手の監視をするぞよ。そちはどこへなりともゆくがよい。」
「抗拒。(それは出来ません。担い手の監視は当分私が行う、これはイーウィヤを除く六竜皆で決定したこと)」
「うむ?何故だガレヲン、あの場ではそのような取り決めなどしなかったと此方は記憶しておる。ただワムデュス以外のものも担い手のことを知る必要があるという話の中で、そちが手を挙げたにすぎぬ。此方と交代しても何の問題もなかろ?」
「役儀。(この子はこのように私を必要としています。大地の母である私の愛を)」
ガレヲンはフェディエルと話している間も、絶えずユウガオの手にキスをし続けている。フェディエルがガレヲンの言動と行動どちらにも首を傾げていると、今までガレヲンの足に顔を埋めてピクリとも動かなかったユウガオが突然立ち上がり、ベッドの上に放っていた晩蝉を帯に差した。
「ありがとうガレヲンさん。そろそろ時間だ。行こうかフェディエルさん。」
「悲壮。(ああ、何故ですか愛しい子よ)」
「おお!担い手は話が分かる男であるな。」
ユウガオは晩蝉を振るい生み出した空間の裂け目に消えていく。ガレヲンはベッドの上に左手を突き、右手をその背中の方へ伸ばした。
「ほう、これが理を断つという力か。ふむふむ、なる程分からぬ!」
「兄貴ィ!しゃらくせェ御託は、アタイと兄貴の間には不要でェ。これより兄貴は不倶戴天の仇、それでも妹を愛してるってんなら、黙ってそのホンを読んどくれ!」
晩蝉を使って卯神宮へと転移したユウガオを出迎えたのは、大きなうさ耳を持った長身のエルーン、マコラだった。彼女はユウガオの手に台本と衣装を押し付けると、ぴょんぴょんと飛び跳ねて離れていく。辺りを見回すとどうやらここはマコラが座長を務める兎屋一座の芝居小屋の舞台袖らしい。マコラは幕の閉じられた舞台の上に静かに立っている。
台本を流し読みすると、幼少期に天下人、真柴久吉に育ての親を殺された大泥棒、石川五右衛門は、久吉への復讐のために生き、宣戦布告として久吉の宝である千鳥の香炉を盗み出す。その帰り道、満開の桜を眼下にした五右衛門が寺の山門の上からそれを見下ろす。ここから幕が開くらしい。ユウガオが台本を読み終えない内に、太鼓の音と共に浅葱色の幕が落とされ、拍手の音が建物に響き渡る。
豪奢な金蘭褞袍を身に纏ったマコラが、赤い欄干に足を掛け、銀の煙管に煙を燻らしている。その前でマコラの式神である四羽の兎が桜吹雪を舞い散らす。
「絶景かなァ絶景かなァ!春の眺めはァ値千金と言うがァ、小せェ小せェ!この五右衛門の目には値万両、万々両!陽はもはや西に傾きてェ、日没の鐘に花ぞ散る!はて麗かな眺めじゃなァ…。」
夜桜を見下ろすマコラの元に、白い鷹が一羽、血で濡れた白い袖の切れ端を咥えて持って来た。そこに血で書かれた文章に、マコラは顔を憤怒の色に染める。
「我が養父に飽き足らず、産みの父にまで手にかけるたァ、おのれ久吉、例え油で煮られようとも、父の無念、貴様に思い知らせてくれん!」
「よっ!兎屋ァ!」
マコラが見栄を切ると客席から屋号が叫ばれる。三味線と共にマコラの立つ山門のセットは競り上がり、舞台の下から煙と共に白い巡礼服を来たユウガオが現れ、豪奢な服を着たマコラは真下に立つ清らかな服のユウガオを見下ろした。
憤怒の形相のマコラとは対照的に涼しい顔をしたユウガオは筆を取り出し、山門の柱に「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」と書きつける。寺を占拠する大泥棒を前にしても動じないその不遜な態度を見て、マコラは相手の正体に気付き、懐から無数の手裏剣を投げつけた。それをユウガオは晩蝉で全て弾き、二人は刀を抜きながら桜吹雪の中睨み合って見栄を切る。太鼓の音と共に幕が閉じて、観客は大きな拍手を鳴らした。
「最高だったよ兄貴!よっ、苦み走った良い男!」
マコラはセットの上からぴょんとはねて、ユウガオの胸に飛び込んで頬擦りした。彼女の額を滴る汗がユウガオの白い衣装を濡らす。
「いつもやってるのとはちょいと毛色が違うンだけど、兄貴と一緒に芝居をやりたくてね。五幕ある芝居の一番美味しいところを切り抜いたってわけサ。」
「芝居は初めてだったが、マコラが喜んでくれて良かったよ。」
「お目見得であれだけできりゃァ大したモンだ!なあ兄貴、アタイと一緒に兎屋一座で芝居をやらないかい?兄貴なら千両役者間違い無し、億が一売れなくても、アタイが食い扶持は稼ぐからサァ。」
顎に手をやるユウガオにマコラは彼の体に回した両腕の力を強める。そこに舞台袖で芝居を見ていたフェディエルが近づいた。
「そちは担い手よりも若干年増に見えるが、何故担い手を兄と呼ぶのかや?それに先ほどの芝居、灯は既に受け継がれておるのに、何故五右衛門は父を殺されて怒ったのか分からぬ。」
「なんだいアンタ?兄貴は盃を交わした時から兄貴サ、アタイより歳下でもね。兄貴、このネエさんは兄貴のツレかい?」
マコラはユウガオの胸に顔をくっつけながらフェディエルに胡乱な目を向ける。彼女の足元では式神の兎が跳ねたり寝転んだりしていた。
「俺もさっき会ったんだが、今日は縁が多い日でな。」
二人に視線を向けられたフェディエルは体から禍々しい力を溢れさせる。
「名乗りが必要かえ?此方こそは闇より出でて尚暗きもの、あらゆるものを黒く染め上げるもの。死を、安寧を、終焉を、絶望をーー闇を統べる六竜の『黒』、フェディエルぞ!」
「そうかい。ねえ兄貴ィ、それでどうなんだい。兄ィだって反対しないよ。」
マコラはフェディエルから興味を無くしたように視線を外し、ユウガオの胸を衣装越しに指でグリグリと押し始め、気合いの入った名乗りをスカされたフェディエルは頬を膨らませてむくれた。
「ねえ兄貴ィー。」
「担い手よ、何故五右衛門はあれほど怒ったのだ?このエルーンはそちの番かや?…なんぞあの生き物達は!?」
ユウガオはマコラの両肩を持って引き離し、抜刀した晩蝉を空中に走らせる。
「マコラ、すまないがこの後も用事があるんだ。この衣装は、あー。」
「アタイが洗濯するから脱いで良いよ。それにしても兄貴、随分と忙しないねェ。今夜は十五夜、兄貴と月見酒と洒落込みたかったのにサ。」
「俺は酒を飲めないよ。」
ユウガオが入って行った裂け目が閉じ、手に持った衣装を見下ろすマコラの後ろで、フェディエルに捕まった一兎を助けようと三羽の兎がぴょんぴょん跳ね回っている。
「お前さん、兄貴について行かなくて良かったのかい?」
「ん?おお、忘れていたぞよ。担い手は〜、そこか。さらばだエルーンの娘。」
フェディエルは手の中でひっくり返して観察していた兎を手放し、体から溢れ立した紫の魔力の中に消え、打ち捨てられてぴくぴくと震える一兎に兎達が寄り添った。
瞬間移動したフェディエルの顔に大粒の雨が降りかかる。辺りは竜巻に包まれ、幾度も閃光と雷鳴が轟き、その度にユウガオは晩蝉を振るって雷を断ち切った。
「妾の雷を切るその刀、そして雷に刃を通す兄上。どちらも我が宝としてくれようぞ。」
天候を操る力を持つ十二神将ハイラは飛翔術で空中に腰掛けながら、ユウガオに向かって四方から雷を放つ。暴風の中にいながらもその煽情的な服には一粒の水滴もつかず、風に揺れることもない。
「お前が辰神宮の外に出るのは珍しいな、ハイラ。」
「兄上の為ならば、妾はどこへなりともいこう。天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、其の体膚を餓えしめ、其の身を空乏にし、行ふとして其の為すところを乱さしむ。所以に心を動かし性を忍ばせ、その能わざるところを曾益せしむるなり。兄上を得ることは我が天命、その道のりの中での苦難は、必ずや我が益となるだろう。」
ユウガオは雷を切り、雨に濡れながら、ハイラの生み出した暗雲を見上げていた。空に果てしなく広がる暗黒の中で、ハイラに招来された雷が蠢く。そろそろ日が沈む頃だろう。ユウガオは晩蝉を納刀し、抜刀と共に縦一文字に切り払う。
「落暉晩照。」
刃から炎が燃えいづり、その熱と光が全てを飲み込んでゆく。ハイラの生み出した嵐は蒸発し、真っ二つに裂けた黒雲の間には、赤い夕日とそれに染められる空が現れた。
吹き飛ばされたハイラが彼女の生み出した人型の式神に受け止められる。ユウガオは夕日に照らされながら、ハイラの元へと歩いた。
「ああ兄上、もっと近う寄れ。その美しい顔を妾に見せろ。」
ハイラが立ち上がろうとすると式神、ヒトハはそれを支え、さっと彼女から離れた。
「その刀にあのような力があったとは。しかし兄上ならば妾の攻撃など、その様なものに頼らずともどうとでも出来たはず。なにゆえあの太陽のような輝きを露わにされたのか。」
「周りを見てみろハイラ。嵐が来た日の夕暮れ、空も地上も全てが真っ赤に染まって見えることがある。お前の嵐で同じことが出来るのかとやってみたが、上手く行ったみたいだ。」
夕日の光を空気中に霧散した水分が散乱させ、見渡す限りの景色は殆ど太陽と見紛うほど深い紅に染まっている。
「美しい…。天もまた兄上と同じように、手に入らぬ宝よ。」
赤の中を物珍しそうに歩きながら、フェディエルがユウガオ達の元まで来た。
「凄まじい力ぞよ。あの炎、或いはウィルナスすらも超えるものかも知れん。理の内に理を超えるものがある、何とも面妖なものよな。」