もしも、リゼロキャラがIFルートまたは本編から帰ってきたら(スバル主人公)   作:ああ

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※残酷な描写注意です


ついにエミリアを取り戻す

 橋の石柱の裏に縮こまっていたスバルは、ついにその最悪の視線に捕まってしまった。

 標的を補足したエミリアが、迷いなくスバルの顔面に向かって右拳の一撃を突き出す。脳裏に肉体が破裂するイメージがよぎり、スバルは本能的に身を縮めたが――その瞬間に放たれた暴力の質量に、ある種の驚愕を抱いた。

 

「なっ……!」

 

 遅い。いや、遅いだけでなく、あまりにも威力が弱い。

 それはかつて世界を滅ぼしかねない神話を紡いでいた鬼神のそれではなく、まるで、ただの傷ついた少女が全力で振るう拳のようだった。

 それでも、大火傷を負った素の肉体にはあまりに酷な、無理をして何とか躱せるかという紙一重の一撃。スバルが頭をねじ切るようにして避けた拳は、対象を捉えることなく、背後にあった頑強な橋の石柱にまともに命中した。

 

 ――バキッ、という骨の砕ける嫌な音が大気に響く。

 

 石柱の圧倒的な強度に耐えられず、粉砕されたのはエミリアの拳の方だった。彼女の白い皮膚が無残に裂け、そこから赤黒い鮮血がじわりと滲み出して草むらに飛び散った。

 

 スバルは瞬時に理解した。今のエミリアは、恐ろしい速度で弱体化している。そして何より、先ほどまでならシュウシュウと音を立てて傷口を塞いでいた、あの超回復すらも、今の彼女にはもう始まっていなかった。

 間違っていなかった。俺の、俺たちの傲慢な大博打は完全に成功している。

 スバルが『魂の鎖』のバルブを開き、エミリアの内側からあの憤怒の呪いを我が身へと一方的に引き受け、吸い出し続けた結果が、この明確な弱体化として現れているのだ。

 

 呪いの根源を毟り取られるたびに、彼女は怪物から、ただの無力な少女へと引き戻されていく。

 そもそも、エミリア本来の強力な氷の魔法は、憤怒の呪いに感染してからは一度も発動していなかった。ただむき出しの憤怒に突き動かされ、無意識の最適化だけで襲い掛かってくることしかしていなかったのだ。ならば、その根源さえ魂の鎖で奪い尽くしてやれば、エミリアは間違いなく、元の心優しい少女に戻る。

 

「あああ、今だッッ!!!!」

 

 チャンスだ。死を重ね続けた地獄の果てに掴み取った、これまでにない最大の勝機。

 スバルは残された全ての気力を振り絞り、力いっぱいに両手を伸ばしてエミリアの細い肩を掴みに行こうとした。

 もしも、今のスバルの肉体が五体満足の万全な状態であったなら、ここで泥臭い人間同士の喧嘩が成立し、彼女を力任せに押さえ込めていたはずだった。だが、今のナツキ・スバルは、何の力の補助も持たない、ただの満身創痍の引きこもりだ。

 

 例え彼女の肉体がただの少女に近づいているとはいえ、無意識の最適化の残滓は、まだ消え去ってはいない。スバルの遅すぎる鈍重な両手は、その瞬間の彼女には通用しなかった。

 

「おおっ!? ――しまっ、」

 

 掴みかかろうとした右腕を逆にガチリと捕らえられ、スバルの身体が強引に背負い投げの体勢へと引きずり込まれる。

 背後にあった橋の石柱とは逆の方向。すなわち、川沿いへと向かって低く傾斜している、草むらの激しい坂の下側へと、落下の重力も味方に引き連れて、スバルの身体は派手に投げ飛ばされた。

 

 ズササササッ!!! と、生い茂る草むらの坂道へと背中を激しく叩きつけられる。だが、エミリアはスバルの腕を掴んだまま、決してその手を離そうとはしなかった。

 そのまま、二人の身体はもつれ合うようにして、草の坂の上をゴロゴロと激しく転がり落ちていく。ただの少女の体重とはいえ、無防備なスバルの爛れた肉体の上には容赦なくのしかかり、固くホールドされていた右腕が、転がった衝撃の弾みで曲がってはいけない方向へとボキリと無残に折れ曲がった。

 

「……う、うぅううっ……っ!!」

 

 上下の感覚すら分からないまま、泥と草を噛み締めて転がり落ちていく二人。このまま遮るものがなければ冷たい川の中にまでドボドボと突っ込んでいきそうだったが、何とか水面に到達する寸前、岸辺の湿った砂と砂利の堆積する手前で、ようやくその回転の勢いは止まった。

 

 今のエミリアは酷く弱い。全盛期の狂気に比べれば、スバルの命を奪う難易度は確実に跳ね上がっているはずだ。

 だが、それはそれとして――今のナツキ・スバルという男は、あまりにも弱すぎた。

 全身を苛む重度の大火傷は、この命の限界を競う泥仕合において、あまりにも残酷な足枷として働き、スバルの体力を秒単位で奪い去っていく。さらに、先ほどの無理な落下によって、右腕は骨折して完全に使い物にならなくなっていた。そればかりか、脳髄の全神経は、いまだエミリアの心から『魂の鎖』を通じて憤怒の呪いを取り込むという超集中に割かれており、五体に割ける余力は残り僅かだった。

 

「あと……少しだ……ッ! ちょっとだけ待ってろ、エミリア……っ!」

 

 スバルは仰向けに倒れた体勢のまま、残った左足に力を込め、のしかかってきていたエミリアの細い肩を全力で蹴飛ばした。

 呪いの消えかけている彼女の身体は、本来の少女の軽さへと戻っている。蹴り飛ばされたエミリアの華奢な肉体は、後ろへと大きくよろめき、そのまま湿った泥の上に派手にひっくり返った。

 

「はぁっ、はぁ……っ、クソ、ハァ……っ!」

 

 ここで距離を取り、この憤怒の取り込みを完全に終わらせる。エミリアの心が正気に戻りさえすれば、この生き地獄は完全に終わるのだ。

 少しでも時間を稼ぎ、この絶体絶命の窮地を脱出するため、スバルは折れた右腕を庇いながら四つん這いになり、砂利を掻き毟って少しでも前へと進もうとした。

 最悪、このまま川の中にまで飛び込んでしまえば、弱体化した今のエミリアの筋力なら、水中でスバルを捕まえるのには苦労するかもしれない――そんな考えが一瞬脳裏をよぎったが、全身の傷口が冷たい川水に染みる恐怖と、何より今の衰弱した体力では強烈に溺死するリスクの方が高いと、単純に心がビビって決断を下せなかった。だからこそ、スバルはどこまでも無様に、砂利の上を這い回って逃げ惑う。

 

「――って、簡単にいかせてくれねえのが、お約束だよなっ!!」

 

 大体、こういう風にエミリアから一瞬でも視線を外して、脳内に都合の良い希望を抱いた瞬間に、最悪の痛い目を見るのがいつものナツキ・スバルという男の人生だ。だから、油断なんて一ミリだってしてやるものか。

 視界から外れたエミリアが、泥を蹴ってすでに立ち上がり、背後から牙を剥いて飛びついてきている――そんな最悪の未来を脳内で強制的に創造し、スバルはまだ視界に入っていない真後ろの空間に向かって、残された左腕で思い切り『裏拳』を放った。

 今のスバルの貧弱な裏拳など、例えクリーンヒットしたところで、殴った側の拳を心配しなければならないほどにお粗末極まりない威力だ。けれど、躊躇している暇なんてない。

 

 ――そして、スバルの予想通り、まさにその背後からエミリアの身体が弾丸のように飛びついてきていた。

 

 必死に振り抜いたスバルの左腕の裏拳は、にじり寄っていたエミリアの両腕によって正面からガチリと受け止められ、そのお粗末な威力はあっさりと殺されてしまう。

 だが、もしこの裏拳を本能で放っていなければ――スバルはそのか細い首筋を、彼女の両腕によって背後から完全に絞め落とされ、そのまま窒息死を迎えさせられていただろう。

 

「弱い……っ! 呪いの切れかかったお前じゃ……今の、魔法を捨てた俺すらも、簡単には殺せねえよ……っ!」

 

 これは、世界を滅ぼす魔女の災厄なんかじゃない。ただの、泥まみれの格好悪い人間の喧嘩だ。エミリアは決して、怪物なんかじゃない。

 

 ここで、決める。今、この最悪のループの底で、すべてを終わらせてやる。

 こんな、ただの華奢な少女に格下げされたお前が、一体どうやってこの往生際の悪いナツキ・スバルを殺しきれるというのだ。

 人間が、たった一人の大切な少女を救うために、本気で殺されまいと泥をすすって抵抗し続ければ――ただの少女の筋力では、その泥臭い抵抗を突破して相手の命を刈り取るまでに、ルグニカの陽がとっくに暮れてしまうはずなのだから。

 

「あああああああああああッッッ!!!!」

 

 大通りの喧騒を吸い込んだ川のせせらぎを完全に掻き消すように、ナツキ・スバルの狂おしい絶叫が岸辺に響き渡った。

 無意識のなかの、ただスバルを殺害するためだけの残虐な最適化。痛覚を喪失したエミリアの行動には、一欠片の躊躇も慈悲も存在しない。

 スバルの左手の指が二本か三本か――もはや脳が激痛の処理限界を超えていて判別すらできないが、無残にも肉ごと骨を噛み砕かれ、食いちぎられていた。

 神経がずたずたに引き裂かれ、大地をのたうち回るほどの激痛。だが、それはあまりにも「死」から遠い負傷であるがゆえに、残酷な生存の苦しみとなってスバルの魂を鋭く刺し貫いた。

 

「やめろっ!! いい加減にしろって言ってんだよぉおおおッッ!!」

 

 スバルは指を食いちぎられた血まみれの左手のままでエミリアの顔に押し込み、その顔を力任せに遠ざける。

 だが、その必死の抵抗を試みるためにエミリアの方へと身体を振り返ってしまったことが、致命的な隙となった。すぐさま体重を浴びせられ、完全にマウントポジションを取られてしまう。

 それでも、エミリアの顔を無理にでも遠ざけなければ、次の瞬間にはそのまま喉笛を剥き出しの歯で噛み千切られるという、確信に満ちた生々しい恐怖があったのだ。喉をやられたら、そこでナツキ・スバルは確実に殺されてしまう。ここまで泥をすすって進めてきた希望の道が、またしても完全なゼロへと巻き戻ってしまう。

 

 スバルの魂から相殺され、削り取られ続けた『傲慢の因子』や、すでに再起不能なほどに使い物にならなくなった『ゲート』は、もしスバルがここで死を迎えれば、次のループで元通りに復活しているかもしれない。

 だが――ここまで弱体化させ、怪物からただの人間同士の泥仕合へと引きずり下ろしたはずの相手に、それでもなお敗北して殺されたナツキ・スバルの『心』は一体どうなる。

 今度こそ、二度と立ち上がれないほどに完全にポッキリと折れてしまうかもしれない。ここで殺されることの恐怖だけは、今のスバルには到底受け入れられるものではなかった。

 

「早くっ、早く!! 終わってくれよ!! なんでまだ……なんでまだ戻ってくれないんだよぉおッ!!」

 

「――あああああああああああああああッッッ!!!!」

 

 その時だった。これまでずっと、一切の感情を排して無機質な自動人形のようだったエミリアが、ここにきて初めて、獣のような咆哮を上げて声を張り上げた。

 そのあまりに恐ろしく、けれどどこか悲痛な叫び声の風圧に気圧され、スバルは一瞬、脳の芯が白くなって力が抜けてしまった。

 

「まっ――っ!?」

 

 ドンッ、と凄まじい衝撃が顔面に走り、スバルの視界が歪む。

 左目から見える世界の景色が、どろりとした赤黒い血の色へと一瞬にして変色した。

 

「あああああ!!!! あああああああッッ!!!!」

 

 また、あの耳を劈く叫び声が頭上で轟く。

 振り下ろされるエミリアの拳は、あの橋の石柱を殴って粉砕した瞬間から、弱体化のせいで何一つ再生していなかった。骨が砕け、肉が裂けたままの無残な拳。それでも、彼女には痛覚がないからこそ、容赦なくその質量をスバルの顔面へと振り下ろし続け、彼の頭蓋骨へと残酷な脳震盪の振動を与え、左目の視覚を文字通り破壊していく。

 

 一撃、また一撃と肉が潰れるたびに、スバルの意識は奈落の底へ飛びかける。拳が天へと振り上げられるその僅かな瞬間にだけ、息継ぎのように生々しい激痛と焦燥が戻ってきて、何とかしなければ、死んでしまうと、ボロボロの理性でスバルを急がせる。

 

「ぐっ!! ……うぅ、あ、がっ……!!」

 

 骨折して動かせない右腕は、すでにただの肉の重りでしかない。今スバルが使えるのは、指が数本足りない、血まみれの左腕だけだ。

 だが、その左腕にもう情けないほどに力が入らなくて、スバルは迫り狂うエミリアの砕けた右拳を正面から受け止めることを、完全に諦めざるを得なかった。残された左手を、己の頭部の左側にただ覆い被せるように乗せる。もう、迫る衝撃を少しでも和らげるための、肉のクッション代わりにするしかなかったのだ。

 

 スバルは死にたくない。ここまで泥をすすってきて、今さら死ねるわけがない。ここで死んではいけないと、魂のすべてが叫んでいた。

 一秒、ほんの一秒の経過が、恐ろしいほどに遠く、長い。

 ここへきてエミリアが狂ったように叫び出したのは、彼女の内側で『憤怒の呪い』が消えかけ、最終局面に達していることの、何よりの証明であるはずだった。それでも、その終わりの瞬間を迎えるまでの数秒が、あまりにも遠すぎた。

 

「や……やめ、っ……!」

 

 だが、頭部を覆っていた頼りない肉のクッションに、その後、新たな鈍い衝撃が加えられることはなかった。

 その刹那、ついにこの地獄が終わったのかと、スバルはまたしても浅ましく希望を胸に抱いてしまった。

 

 ――いいや、違った。

 最適化する。どこまでも、冷酷に、躊躇なく変化していく。

 ただただ、目の前のナツキ・スバルの息の根を、確実に止めるためだけに。

 

 エミリアの砕けた右拳は、度重なる石柱への強打とスバルの頭蓋への打撃によって、もうこれ以上スバルを撲殺できるだけの筋力が、物理的に入らなくなっていたのだ。それは、どれほど精神に痛覚がなかろうとも、「肉体の限界」によってスバルを殺す力が失われたという冷徹な物理的事実だった。

 

 となれば、まだ無傷で動かせる彼女の左腕による撲殺に切り替えることも、選択肢としては十分にあり得たはずだ。だが、彼女の壊れた脳内で最適化され続ける『憤怒の呪い』は、撲殺よりも遥かに簡単で、遥かに残酷な殺害の手を選択した。

 

「ごおっ!! げほっ、おおぅ……っ、――ッ!?」

 

 終わり際を勘違いし、その直後に再開された新たな恐怖に、もうスバルは目をつぶって、なるべく広い面積の顔を左手で隠すことしかできなかった。

 もしもここで目を開ければ、その無防備な眼球という弱点を的確に突かれ、そこから脳髄を破壊されてしまうのではないか――そう本能的に怯えてしまうほど、彼女の躊躇のなさが、何よりも恐ろしかった。

 

 もしも言葉の通じる相手なら、例え今の弱体化した彼女とは違ってどれほど圧倒的に強かったとしても、そこにはまだ『理性』がある。理性があれば、その暴力の選択には、必ず「人の心」のブレーキが加わるのだ。攻撃する側だって、人間である以上、自分が不快になるような、目を背けたくなるような手は無意識に避ける。

 言葉が通じるのなら、命懸けの交渉だって、泣き落としだってできたかもしれない。

 だが、それが一切できない。人と同じ姿をした、自分にとって世界で一番大好きな相手と全く同じ美しい容姿をした『憤怒の怪物』は――恐ろしいという言葉では、あまりにも、あまりにも足りないほどにおぞましい存在だった。

 

 エミリアは万全な状態であるはずのその左腕を、スバルの顔を殴るためには使わなかった。

 彼女は岸辺の湿った砂を、砂利を、どろどろとした泥を手で乱暴にすくい上げると――身動きの取れないスバルの口のなかへ、容赦なく、一気に詰め込んできたのだ。

 

 恐怖のあまり固く目をつぶっていたせいで、スバルは最初、自分の身に何が起こっているのかすら理解できなかった。

 スバルの口内のなかに、突如として広がる、重く、冷たい異物の塊。

 鼻腔の奥までを容赦なく埋め尽くしていく土臭さと窒息の苦しみに、スバルは激しく咳き込んで吐き出そうとしたが、すぐさま上から二の矢、三の矢となる泥の塊が、細い喉の奥まで無理やり指で押し込まれ、すべての逃げ道を完璧に塞がれた。

 

 今まで、死のどん底で必死に開こうとしていた未来の希望の光。

 その微かな光が、二度と見えなくなるように分厚いシャッターで蓋をされるかのように。

 ただ淡々と泥を詰め込まれ、呼吸を、生命の維持を根本から閉ざされることの――それは、これまでのどんな損壊よりも、圧倒的に冷徹で、底の知れない暗黒の恐怖だった。

 

「あ……っ……、――ッ!!」

 

 もはや、満足に声を上げることも許されない。

 恐怖と窒息のあまり目玉が眼窩から飛び出しそうなほど大きく見開かれているというのに、破壊された左目と溢れる涙のせいで、視界には何一つとして意味のある景色は映らなかった。

 全身のなかで、辛うじて力を込められたのは己の首の筋肉だけだった。もし今、この首に入る力を一瞬でも弱めてしまえば、その瞬間に気道が完全に圧壊して即死するという、本能的な恐ろしい直感があった。いや、もはや脳細胞のすべてが酸素欠乏に悲鳴を上げており、そんなまともな思考を巡らせることすら、今のスバルには許されていなかった。

 

 エミリアは、スバルの口内へ左手ですくい上げたそこら辺の砂泥を容赦なく詰め込み、そのまま開いた手のひらで彼の細い喉元を上から無慈悲に締め上げていた。

 本来、ただの華奢な少女の左手一本の握力だけで、スバルの首を窒息死させるのは解剖学的に不可能に近い。だからこそ――憤怒の呪いによって最適化された彼女の行動は、口内を異物で物理的に密閉した上で喉を潰すという、最も確実で逃げ場のないこの猟奇的な手順を選び取ったのだ。

 

「――あああああああああああああああッッッ!!!!」

 

 血のように濁った赤い瞳が、昏い戦場のなかで獰猛に光り輝く。

 引き裂かれるような咆哮とともに、エミリアは残された全存在を懸けて、ナツキ・スバルの命の燈火を完全に絶ちにかかっていた。

 スバルは残された左手の爪を彼女の二の腕のあたりに必死に立て、肉に食い込ませ、何とかその拘束を外そうと最後の抵抗を試みた。だが、食いちぎられて指が三本も足りない手では、満足に力を込めることすら叶わない。酸素の供給が完全に途絶えた少年の肉体からは、すでに生命の拒絶反応が始まっており、自らの指に力が入っているのかどうかすら、感覚としては怪しかった。

 

 いまや、新しい綺麗な空気を吸いたいという欲求よりも、肺の奥底に溜まったどす黒い二酸化炭素のガスを今すぐすべて吐き出したいという、激烈な生理的衝動だけがスバルの全神経を支配していた。

 全身の血液が、生命活動を維持するための最後の燈火となって限界まで沸騰する。しかし、口内には湿った冷たい泥が容赦なく詰め込まれ、熱がこもり、外気との接続を完全に断たれたその空洞は、ナツキ・スバルにとっての「生の道」を徹底的に閉ざし続けていた。

 

 次第に頭上で響いていたはずのエミリアの狂った叫び声が遠のき、完全に聞こえなくなる。

 静寂に包まれた世界のなかで、スバルにとっての聴覚は――ドクン、ドクン、と、脳髄の奥で不気味に爆音を鳴らす、己の最後の『心音』だけを感知するようになった。

 肉体が酸欠の限界を迎え、意思とは無関係にガタガタと恐ろしく勝手に震え出す。あまりの苦しさに、スバルは残された左手の二本の指で自らの頬の皮膚を血が出るほどに強く掻きむしったが、馬乗りになって喉を締め上げる相手は、そんな哀れな自傷行為など視界の端にも留めなかった。

 

 あぁ。俺は、死ぬ。今度こそ、本当に死ぬんだ。俺がここで死んで、次のループでどうしても頑張れなくなっちまうのは、きっと、俺のなかに、もうあの『傲慢』が残っちゃいないからだ。

 

 エミリアの心からあの悍ましい憤怒の精神汚染を取り込む代償として、スバルは自らのなかに眠る傲慢の因子をすべて彼女へと送り続けた。大罪の魔女因子同士の凄絶な相殺。その因果の果てに、二つの権能は今、両方ともこの世界から完全に消滅しようとしている。

 

 ――死の間際にいたってなお、自分はまだ、次のループから逃げるための情けない言い訳を脳内で考えているのか。

 だが、それは単なる弱音ではなかった。直感が告げていた。例えこのまま『死に戻り』が発動して肉体が五体満足に復活したとしても、魂のバックアップであったあの『傲慢の権能』には、取り返しのつかない致命的な支障をきたしているだろうという確信が、冷徹にスバルの脳裏をよぎっていた。

 

 ガク、とスバルの身体から完全に力が抜け、痙攣していた五体が静かになった。

 世界のすべてが急速に色を失い、深い死の暗転へと沈み込んでいく。

 

「――っ、……はっ……!」

 

 まさにその刹那だった。

 視覚を完全に失い、光を失ったはずのスバルの聴覚が――頭上でスバルの喉を絞めていた【誰か】が、突如として正気に戻ったことを意味する、短く、鋭い、驚愕に満ちた『呼吸音』を明確に感知した。

 

 死の淵で、黒い目玉が最期の力を振り絞って勝手に動き、脳の機能が完全に停止する寸前のコンマ数秒の中で、生きるための絶対の理由を必死に手探りで探した。

 

 見上げた先。

 先ほどまで世界を呪うようにドロドロと赤く濁っていた彼女の双眸は――あの懐かしい、ひだまりの温もりを知る、深い、深い色彩を宿した『紫紺の瞳』へと、奇跡のように元通りに戻っていた。

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