もしも、スバル以外のキャラがIFルートまたは本編から帰ってきたら   作:ああああああ

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5話 ゼロからアヤマツ異世界生活

 ――その空間の裂け目から現れたのは、世界のすべての光を拒絶する、底なしの漆黒だった。

 

「スバル……ッ!!」

 

 ラインハルトの怒号が響くと同時に、スバルの首根っこが強引に掴まれ、騎士の強固な背中の後ろへと庇われた。

 刹那、ラインハルトは腰の白銀の大剣を――あろうことか『鞘に収まったまま』の状態で凄まじい速度で振り抜き、路地裏で爆発寸前だった闇の塊を力任せに打ち払った。

 

「うっ……おっ!!」

 

 スバルは衝撃に備えて固く目を瞑り、ラインハルトの背中に必死にしがみついた。暴風か、あるいは肉体を裂くような衝撃波が来るものと身構えたが、不思議とその余波がスバルを襲うことはなかった。ラインハルトの常軌を逸した剣技が、衝撃そのものを空間ごと前方へ弾き飛ばしたのだ。

 

「上にっ……!?」

 

 ラインハルトの驚愕の声に誘われ、スバルも恐る恐る上空を見上げた。

 打ち払われた闇の塊は霧散することなく上空へと浮上し、じわじわと、太陽の光が燦々と降り注ぐ昼の世界をどす黒い帳で覆い尽くしていく。

 

「な……なんだ、あれは……?」

 

 出現の直後に闇に呑まれる事態こそ免れたものの、天空を侵食していくその様相には、絶対的な絶望感しか感じられなかった。

 

「スバル! 大通りに出るんだ!!」

 

 ラインハルトは即座の判断でスバルの手首を掴むと、薄暗く逃げ場のない路地裏から、視界の開けた広い大通りへと一気に駆け出した。

 大通りは、すでにパニックを超えた静まり返る恐怖に包まれていた。大勢の民衆が足を止め、天を仰ぎ、絶望に顔を白くさせて呆然と立ち尽くしている。

 

「お……終わりだ……。ま、魔女の復活だ……ッ!」

 

 誰かがポツリと、心を完全に折られた弱い声を漏らした。だが、誰もその発言を笑うことはできない。民衆たちは逃げようともしなかった。走って逃げたところで、広がり続けるあの黒い闇から逃げ切れるわけがないことなど、平和ボケした彼らの本能ですら瞬時に理解していた。

 

「あいつは……なんなんだよ……。クソ、もう作戦もクソもねえじゃねえか……っ」

 

 魂の奥底、エミリアと繋がっている『鎖』のパイプからは、彼女が今なおシリウスを相手に必死に奮戦している気配が伝わってくる。だが、今はもうそれどころではなかった。これほど強大で不吉な闇だ。エミリアだって、あっちの戦況のなかで確実にこの異常事態に気づいているはずだ。

 

「なぜだ……!? この事態になっても、まだ『龍剣』が抜けないとは……っ」

 

 同じように闇に染まりゆく空を見上げるラインハルトが、鞘に収まったままの家宝の柄を握りしめ、悔しそうに、そして忌々しげにそう呟いた。

 

「剣聖ラインハルト!!! どうか、奴を……!! あの化け物を退治してください!!!」

 

「ルグニカの英雄よ!! 私たちをお救いください!!」

 

 民衆は、まるで神に命乞いをするかのように石畳の上へ次々と跪き、ラインハルトを取り囲んで涙を流しながら縋り付き始めた。両手を組み、震えながら救いを求める姿は、まさに神頼みそのものだ。

 だが、そんな民衆たちの切実な祈りを、ラインハルトはひどく暗く、不甲斐なさの滲む表情で見下ろすことしかできない。

 こんな一大事に、世界最強の男の最大の武器が機能していない。スバルもまた、周囲の民衆と同じように、底なしの絶望に突き落とされる感覚を味わっていた。

 

「待つんだ、スバル。どこへ行くつもりだ?」

 

 もうここにいてもどうしようもないと、スバルがその場から走り出そうとした瞬間、ラインハルトの鉄の手が再びその腕を制動した。彼はその暗い顔をさらに歪ませ、スバルの勝手な行動を断じて許さないとばかりに強く睨みつけてくる。

 

「どうせ……お前でも、あれはどうにもできねえんだろ? ――顔を見れば分かるぜ。だったら俺は、死ぬ前に最後に、エミリアのところに……! おい、マジで離せよ、お前何様のつもりだ!?」

 

 死ぬ前の、最後の一時すら自分の意志で選ばせてくれないというのか。そんな不条理、お前に決められる筋合いはどこにもないはずだ。

 

「言ったはずだよ、スバル。君は『死に戻り』をしていると……。ならば、僕が君を死なせはしない」

 

「だから、もう終わりだって言ってんだろ……ッ!! お前と俺が、あの路地裏で余計な会話をしたせいで、あいつが現れたんじゃねえのか!? もう全部、取りこぼしちまったんだよ……!」

 

 スバルには、確信めいた直感があった。

 ラインハルトと自分が『世界の重複』について、そして『死に戻り』という決定的なタブーについての答え合わせをした、まさにその瞬間にあの黒い闇は現れたのだ。激怒した世界の防衛システムのように。

 

 そして、スバルのその推測を肯定するように、今度は世界全体が、ギチギチと音を立てて激しく揺れ動いた。

 民衆が悲鳴を上げて頭を抱える。スバルも思わず強く目をつぶった。それは、単なる地震などでは断じてなかった。世界の空間、その『理(ルール)』そのものが激しく歪み、書き換わろうとしている衝撃だった。

 

「あっ……!? 何のつもりだ……。魔力の密度が、どんどん……弱くなっていく!?」

 

 想定していた『最悪の破壊』とは真逆のラインハルトの言葉に、スバルや周囲の民衆は恐る恐る目を見開いた。

 空を覆っていたあの黒い闇は、世界を激しく揺らした大天変地異の後、まるで自らの内側へとすべての闇を収束させるかのように、一度広げた黒い帳を急速に取り込み、縮小し始めたのだ。

 

「何かの間違いだったってことで、そのまま小さくなって消えてくれ……!」

 

 スバルは都合の良い奇跡を必死に願ったが、この過酷な現実が、そんな安易なハッピーエンドを用意してくれるはずもなかった。

 

「で……出たぞ!? 奴だ、間違いない……ッ!!」

 

「ああ、あああああ……あれが……『嫉妬の魔女』だ……!!」

 

 黒い闇が完全に一点へと縮小し、霧散していく。そして、その帳の奥に隠されていた『世界の敵』の姿が、ついに白日の下に晒された。

 街の民衆が、恐怖で声を失いながらその姿を目の当たりにする。

 

 そこに浮遊していたのは、純粋な闇で織り上げられたかのような、漆黒の法衣を身にまとった一人の女だった。

 彼女の背後からは、生き物のようにドロドロと蠢く無数の『影の手』が漆黒の翼のように伸び、彼女の意思を体現するように、街の空間そのものを圧倒的な威圧感で激しく揺るがしていた。

 

 ――『嫉妬の魔女』サテラ。

 その最悪の顕現に、世界が息を呑んだ。

 

「皆さん落ち着いてください! 今の彼女は、僕の敵ではありません!」

 

「えっ……?」

 

 突如として、ラインハルトはあの大剣からそっと手を離し、はっきりとした、しかし凛とした声音で大通りに告げた。今この瞬間、絶望の淵にいた民衆が最もすがりつきたくなるような、絶対的な確信を宿した希望の言葉だった。

 スバルは息を呑んだまま、変わらず天空の漆黒を見つめ続けている。

 魔女の周囲に蠢いていた無数の影の手は、文字通り急速に細く、短くなり、霧が晴れるように次々と虚空へ消失していった。すでに街の空を覆い尽くさんとしていた不吉な闇のすべてが、あの少女の細い輪郭のなかへと収束し、吸い込まれていく。

 ――遮られていた太陽の光が、再び街へ眩しく降り注いだ。

 

 同時に、世界を窒息させていたあの恐ろしいまでの重圧が、嘘のように引いていく。そして、光のなかに浮かび上がる漆黒の魔女の、その『本当の姿』が露わになってくる。

 

「銀髪の……ハーフエルフ……っ!」

 

 スバルは思わず、乾いた声を漏らした。

 その場にいた民衆の誰もが、今やはっきりとその姿をその目で捉えていた。

 すべてを拒絶するような黒い法衣とは裏腹に、そこから覗く彼女の容姿は――ナツキ・スバルにとっては、見る者の魂を根こそぎ奪い去ってしまうほどに、儚く、どこまでも、あまりにも美しかった。

 まばゆい光を反射する、絹糸のように細く艶やかな銀髪。そして、気が遠くなるほどの純粋な『愛』と、深い悲しみを湛えた、濡れたような紫紺の瞳。

 

「ああ……なんて、なんて醜いハーフエルフだ!!」

「剣聖!! 何をしているのですか……!? 今が絶好の好機ではありませんか!」

「早く、早くあの忌々しい魔女を殺してください……!!!」

 

 一転して湧き上がった民衆の剥き出しの憎悪の反応を見て、スバルは戦慄と共に確信した。彼らがなぜ、エミリアに対してあれほど執拗で容赦のない拒絶の視線を送っていたのか、その真の理由を。

 それは、地球出身のナツキ・スバルと、この世界の民衆との間にある、埋めようのない最も巨大な価値観のギャップだった。

 

「『嫉妬の魔女』サテラですよ!! 世界を半分飲み込むほどの闇の力を……いまは隠し持っているだけの化け物だ! 奴が大人しくしている今しか、殺せる機会はないのですよ!!」

 

 さっきまで腰を抜かし、涙を流して神頼みのように命乞いをしていた民衆たちが、一転して手のひらを返し、冷静にサテラを観察するラインハルトの周囲に詰め寄り、口々に暴力を煽り立てる。

 

「……違う。あいつは、エミリアとは違う」

 

 けれど、スバルだけは全く別のことを考えていた。

 空に浮かぶ漆黒の魔女は、外見こそエミリアに生き写しと言っていいほど酷似している。だが、その身に纏う空気は完全に異質だった。サテラの存在そのものが、ただそこにいるだけで見る者の理性をじわじわと削り取っていくような、圧倒的な魔力と「狂気」のオーラに満ち満ちていたからだ。

 

「まだだ……。まだ弱まり続けている。――力を、自ら捨て続けているんだ」

 

 世界最強の剣聖の目には、その異常な変質が正確に映し出されていたらしい。

 理由は分からない。だが、確かに顕現した瞬間のサテラは正真正銘の『破滅の怪物』だったはずなのに、そこから意図的に自らの脅威を削ぎ落とし、ただの質量へと零れ落ちていく。

 やがて、その潤んだ紫紺の瞳が空中からまっすぐに地上を見下ろし、ナツキ・スバルの視線と真っ向からぶつかり合った。

 

「……っ!? ――」

 

 見つめられた、という絶対的な確信がスバルの心臓をドクンと跳ねさせる。それと同時に、スバルの隣にいたラインハルトや民衆までもが、一斉に恐怖で身をすくめるのが分かった。

 

「こっちを見たぞ……!! 早くサテラを殺せ!!! 呪われるぞ!!」

 

 無責任にラインハルトへ命令を叫び散らす民衆たち。サテラがどれほど美しい人間の姿を現そうとも、彼らの底にこびりついた怨嗟は一ミリも揺らがない。だが、スバルもここへ来て、一向に動こうとしないラインハルトの様子に強い違和感を覚え始めていた。

 

「おい……ラインハルト……?」

 

「皆さん!!! すぐに近くの建物に入り、身を隠してください!!」

 

 ラインハルトの、大気を震わせるほどの直言が大通りに響き渡った。民衆の喧騒が、その圧倒的な声圧によって一瞬で静まり返る。

 スバルが固まるなか、空中から見下ろし続けるサテラはピクリとも動かない。

 ラインハルトのただならぬ気迫に押された民衆たちは、蜘蛛の子を散らすように慌てて近くの商店や家屋のなかへと逃げ込んでいった。

 だが、その避難すべき群衆の中に、自分が含まれていないことを、スバルは何となく察していた。だからこそ、今もその場に立ち尽くし、逃げることができない。

 

「『嫉妬の魔女』!! 僕はルグニカ王国の騎士にして『剣聖』、ラインハルト・ヴァン・アストレアだ! あなたは、僕たちに何か言いたいことがあるようですね!? それ故に、これほどまでに力を弱めた。僕はあなたのその意志に感謝し、その言葉を聞きましょう!」

 

 ラインハルトが叫ぶと同時に、とうとう空中に浮遊する魔力すら完全に放棄したかのように、サテラはゆっくりと、重力に従って地上へと降りてきた。物理的な距離が近づく恐怖に、スバルは思わず一歩後ろへ後ずさる。

 

「大丈夫だよ、スバル。今のサテラは、ただの無力な少女にすぎない。だからこそ――僕の『龍剣』は、彼女を斬るべき敵と認めず、抜けなかったんだ」

 

「……でもさ、ラインハルト。アイツ、なんかすげー睨んでるように見えるんだけど……俺の気のせいか?」

 

 石畳にその足を着けてから、サテラはゆっくりと、まっすぐにスバルとラインハルトのいる場所に向かって歩み寄ってくる。

 そのどこまでも深い紫紺の瞳は、明らかな怒りと、そして言葉にできない焦燥を宿して、二人を強く睨みつけていた。

 

「いまのあなたに、何ができるというのですか? ――もし、最後にこの世界に遺す言葉が何もないというのなら、僕は『剣聖』として、手短に済ませましょう」

 

 ラインハルトは冷徹なまでの低い声でそう告げると、未だに抜けない大剣――鞘に収まったままの『龍剣』の柄へ、静かにその掌を添えた。

 

「……ッ、おい! 何か話してみよーぜ!? 黙って近づいてこられたって、何がなんだか分かんねえだろ!」

 

 ラインハルトの宣告を完全に無視して歩調を緩めないサテラに、スバルは耐えかねて叫んだ。

 だが、魔女からの返答はない。絹糸のような銀髪を揺らす彼女の紫紺の瞳には、どす黒く 濁った感情がちりと燃えており、ただ眼前の二人を呪い殺さんとまっすぐに足を進めてくる。歩く速度は一般人と大差ない。それなのに、心臓の奥を冷たい指で直接撫で回されるような、最悪の嫌な予感だけがスバルの胸中で膨れ上がっていた。

 

「……なぁ! 君の名前はなんて言うんだよ!」

 

 スバルの前に立ちはだかるラインハルト。その世界最強の騎士が誇る、絶対的な間合いの内側へ、サテラは何の躊躇も、警戒もなく踏み込んできた。彼女は最期まで、一言も言葉を発しなかった。

 

「――そこまでだ」

 

 ラインハルトの地を這うような低い声音が響いた瞬間、白銀の『龍剣』が鞘に収まったまま、大気を爆裂させて振り抜かれた。

 刃による鋭利な切断ではない。圧倒的な質量と超質量のマナが、ただの破壊の質量となって魔女の肉体を捉えたのだ。

 

 ――おぞましい音が大通りに響いた。

 

 肉と骨が文字通り粉々に破裂し、千切れ飛ぶ。スバルの貧弱な想像力を遥か彼方へ置き去りにするような、あまりにも不快で、あまりにも暴力的な音が鼓膜を震わせた。スバルは本能的な嫌悪感から、思わず両手で顔を覆い隠して惨劇から目を背けた。

 凄まじい風圧と共に、生暖かい返り血がスバルとラインハルトの全身へ容赦なく降り注ぐ。

 

「……っ!? ――――」

 

「……お、おい……?」

 

 恐る恐るスバルが目を開けた時、眼前に広がっていたのは地獄絵図だった。

 サテラの上半身は完全に消し飛ばされ、虚空には真っ赤な血飛沫だけが霧のように舞っている。だが、それ以上にあり得ない、世界がひっくり返るような異変がその直後に起こった。

 

「ぐっ……、あ……っ、が、は……ッ!!!!」

 

 ラインハルトが、聞いたこともないような苦悶の絶叫を上げた。

 刹那、体内から爆弾を炸裂させたかのように、ラインハルトの屈強な上半身が、内側から激しく爆散して消し飛んだのだ。

 最強の騎士の命だったおびただしい量の鮮血がスバルの全身へ叩きつけられ、スバルは恐怖のあまり悲鳴すら上げられずにその場へ尻餅をついた。

 

「なっ……!! こ、これは、何が……何が起きてんだよぉおッ!?」

 

 目に入り込んだ血のせいで、視界のすべてが真っ赤に染まっている。

 あの、最強のはずの『剣聖』ラインハルトが。何者にも傷つけられないはずの無敵の男が、見るも無残な肉塊に変えられた。

 攻撃を仕掛けたのは、間違いなくラインハルトの方だ。それなのに、やられたのは彼の方だった。

 この不条理で理不尽な光景に、スバルは身に覚えがありすぎた。攻撃した側がそっくりそのまま同じ傷を負う、あの最悪のハメ技――。

 

「うっ……げほっ! なんなんだよこれ、嘘だろおいッ!!!」

 

 スバルは這いずるようにして、周囲の商店や民家の窓へと視線を向けた。

 窓の隙間から、民衆たちはラインハルトが魔女を討ち取る瞬間を固唾を呑んで見守っていたはずだった。だが、今やそのすべての窓ガラスには、民衆だったモノが内側から爆散して飛び散った赤黒い肉片と血潮が、べっとりと、隙間なく張り付いていた。

 建物のドアの隙間から、おびただしい量の血が滝のように石畳へ染み出してくる。

 それは、言葉通りの生き地獄。そして、間違いなくシリウスの権能と同じ、あの『負傷の共有』だった。

 

「よせ……っ!!! 来るな!!!! 来ないでくれぇッ!!!」

 

 スバルは頭を抱えたまま、血の海と化した石畳の上を必死に後ずさった。

 真っ赤に染まった視界の向こうで、さらに悍ましい現象が起きていたからだ。

 ラインハルトの変わり果てた亡骸の向こう、上半身を失っていたサテラの肉体から、ドロドロとした黒い影の煙が立ち上り、瞬く間にその五体を元通りに再生させていたのだ。そして、何事もなかったかのように、躊躇なくスバルへと近づいてくる。

 

 このまま黙って殺されてたまるか。スバルは血まみれになって地面に転がっていた、ラインハルトの遺品――鞘に収まったままの『龍剣』へ死に物狂いで手を伸ばした。

 だが、スバルの指先が柄に触れるより早く、上から冷たい白磁のようなサテラの手が重なり、スバルの動きを止めた。そこからは、確かに『人間の体温』が感じられた。

 

「あああああああああああああッ!!!」

 

 拒絶反応のままに、スバルは悲鳴を上げて龍剣を拾うことを諦めた。何も理解できない。シリウスの精神汚染にでもかかったかのように脳みそが沸騰し、冷静な思考を維持することがどうしてもできなかった。

 無力な姿で近づいてきたはずだ。あんなに遅い足取りで歩いてきたはずだ。世界を観測するラインハルトからしても、脅威には見えなくなっていたはずなのに。

 

 ――いいや、違う。そんなわけがない。スバルは気づいていたはずだ。サテラのあの深い紫紺の瞳は、最初からずっと、言葉にならない剥き出しの「怒り」を主張していたのだと。

 

「………インビジブル・プロビデンス……」

 

「へ……?」

 

 頭を掻きむしり、パニックを起こすスバルの鼓膜に、突如としてサテラの冷たく、甘美で、どこまでも残酷な声が届いた。

 ラインハルトの死体を乗り越え、無様に後退するスバルに手が届くほどの至近距離。その 濡れた紫紺の瞳が、至近距離でスバルを捉える。

 次の瞬間、彼女の黒い法衣の胸元から、漆黒の『影の手』が、たったの一本だけ物質化して出現した。

 

「この……化け物、野郎っ……!!!」

 

 影の手は、一本だけだ。それも、今のスバルにはハッキリと視認できている。恐怖で忘失しかけていたが、今の自分の肉体はエミリアとの権能の繋がりによってドーピング状態にある。

 その迫り来る黒い手を掴み、逆に背負い投げの要領で投げ飛ばしてやろうと、スバルは決死の覚悟で自らの両手を伸ばした。

 

 ――だが、スバルの手は、その影の手を掴むことができなかった。

 実体のない漆黒の手は、スバルの掌を煙のようにすり抜け、そのままナツキ・スバルの胸の中へと、肉体を透過して容赦なく侵入してくる。

 

「や……やばい……ッ!!」

 

 心臓を握りつぶされる――。

 絶対的な死の激痛の恐怖が脳裏を支配した。酷く取り乱し、涙と血を流して絶望する。そもそも、サテラはゆっくりと近づいてきたのだ。身体能力が爆発的に上がっている今のスバルなら、最初から立ち上がって全力で走っていれば、余裕でこの場から逃げ切れたはずなのに。尻餅をついたまま無様に後退するという無様な醜態を晒したせいで、このザマだ。

 

 確定した心臓の激痛に怯え、スバルは固く目を瞑った。

 ――だが、どれだけ待っても、肉体を破壊されるあの激痛は訪れなかった。

 

 パキン――――。

 

 代わりに響いたのは、硬質な金属が酷く鋭く弾け飛ぶような、この場にあまりにも不釣り合いな音。

 スバルが恐る恐る目を開けたとき、目の前で揺れるサテラの紫紺の瞳からは、先ほどまでの激しい憤怒が消え失せていた。

 

 漆黒の影の手が切断したのは、スバルの心臓ではない。

 彼女の手は、スバルの魂とエミリアの魂を強固に繋ぎ止めていた、あの『傲慢の権能――魂の鎖』を、跡形もなく真っ二つに断ち切っていたのだ。

 

 

 魂の最奥を直接鉈で叩き割られたかのような、実体のない衝撃。

 スバルの傲慢の権能――『魂の鎖』は、サテラの放ったあの漆黒の影の手によって、無慈悲にもその繋がりを根元から断ち切られていった。

 

「……ッ、エミリア……!?」

 

 物理的な激痛はない。だが、確実にサテラに魂の領域へ干渉され、この状況を打開するための唯一の生命線を無に帰された。その事実への猛烈な怒りが、スバルの身体を突き動かした。

 

「何しやがる!! この、クソ気色悪い化け物がぁあああ!!!」

 

 スバルは勢いのままに、目と鼻の先にいたサテラの胸元を目がけて思い切り右足を蹴り飛ばした。

 エミリアからのドーピング供給は、鎖を断ち切られたあの瞬間に完全に途絶えている。ただの不登校の高校生に戻ったスバルの足技など、お粗末な威力でしかなかった。けれど、自分より少し年上の女性を蹴り飛ばした肉の感触と共に、足の裏からゾワゾワと這い上がってくるような、気味が悪くおぞましい感覚が脳髄を直接突き刺した。

 

 「けほっ」と少し咳き込んで、サテラは地面に倒れる。スバルはその光景に目を逸らした。

 

「エミリア!!」

 

 今、あの鎖の繋がりが切れたのはあまりにも致命的すぎる。

 この一瞬、この数秒の間にも、川沿いの橋で戦っているエミリアが、シリウスの凶悪な精神汚染に呑まれていたらどうしてくれるんだ。

 スバルは焦燥に駆られ、再び繋ぎ直そうと、胸の奥で眠るはずの傲慢の権能を無理やり発動させようと念じた。

 

「……は? なんだよ、なんなんだよこれ!! 出ろよ、動けよ!!」

 

 スバルの蹴りで小さくよろめいたサテラが、ゆっくりと体勢を立て直している。そんな魔女の様子などどうでもよかった。

 どれだけ脳髄を絞っても、あの『魂の鎖』が一切発動しない事実に、スバルは半狂乱になって憤慨した。耳の奥で、あのシリウスの『ありがと! ごめんね!』という狂った笑い声が、幻聴となって不吉に木霊する。

 心の中で三度、必死に権能の名を叫び、それでも一切の気配がないに至って、スバルはようやくその冷酷な事実に気づいてしまった。

 

 ――奪われたのだ。俺の中にあった、あの『傲慢の権能』を。

 

「……返せ! 返せ返せ返せ!! 返しやがれ、このクソ野郎……っ!!」

 

 半分理性を失ったスバルは、地面に尻餅をついたままの姿勢でいるサテラに向かって、さらに顔面を蹴り抜こうと足を振り上げ――。

 

――ピきり、と脳裏をよぎる恐怖の記憶に、寸前で踏みとどまった。

 

 躊躇したのかと自分を疑い、その矛盾に脳がまた混乱する。

 いや、立ち止まって正解だったのだ。忘れたのか。さっき、世界最強の『剣聖』ラインハルトがなぜ死んだ? ラインハルトが魔女を木っ端微塵に消し飛ばした、その全く同じ瞬間に、彼の肉体は内側から爆散したのだ。

 魔女が上半身を消し飛ばされたその負傷を、この場にいる全員が強制的に『共有』させられた。そして、サテラは何事もなかったかのように肉体を再生させ、巻き込まれたラインハルトや民衆は肉塊となって全滅した。

 

「……これは、シリウスの権能だ……っ」

 

 スバルの傲慢の権能が使えなくなったように、今、サテラが遠く離れたシリウスの権能をも奪い去ったのだとしたら?

 物理的な距離など、この世界を滅ぼしかけた魔女にとっては意味を持たないのかもしれない。だとするなら、もし今スバルがサテラに攻撃を加えれば――その苦痛と負傷は、そっくりそのままナツキ・スバルに跳ね返り、自分だけが死ぬことになる。

 

「あ……あああ……、ああ……あ、あ……」

 

 不意に、目の前のサテラが、喉の奥から「あ、あ」と不気味な呻き声を漏らし始めた。

 それは、まるで自分自身の中に新しく流れ込んできた『異物』を確かめるような歪な声。スバルには、それが奪い取った複数の権能のどれを使って自分を料理してやろうか、贅沢に吟味しているように見えて、背筋が凍るほど不気味だった。

 

「あ、ああ……、あああああ……――愛してる」

 

「……は?」

 

 言葉にすらなっていなかった壊れた呻きが、ひとつの明確な『言葉』を見つけたかのように、完璧な輪郭を持って完成された。

 次の瞬間、サテラはスバルから奪い取ったばかりの傲慢の権能――『魂の鎖』を、迷いなく発動させた。

 

 ドクン、とスバルの心臓が大きく波打つ。

 初めて、ナツキ・スバルの側が、能力を『行使される対象』になる。

 

 刹那、スバルの魂はサテラの魂と、極太の見えない鎖でガチリと結合された。

 脳内を麻薬の如く駆け巡る、凄まじい快感と全能感。エミリアと繋がっていた時とは比較にならない、世界そのものを手中に収めたかのような全能のバフが、スバルの四肢を激しく満たしていく。

 

 だが、それと同時に。

 サテラの側からスバルへと向けて、鎖のパイプを通じて送り込まれてくる、気が遠くなるほど重く、暗く、狂おしい『絶対的な愛の感情』が、スバルの精神を物理的に侵食していく感覚があった。

 そして恐怖すべきは、その重すぎる愛の呼吸に応えるように――スバルの側の魂もまた、サテラに対するドロドロとした執着の感情を、無意識のうちに吸い上げて、彼女へと返していってしまっていることだった。

 

「なんだ……これ……なんなんだよ、一体……!」

 

 自分が能力を扱う『主人』だった時には、絶対に気づけなかった構造。

 なぜならそれは、あまりにも自然に、あまりにも無意識的に行われていたことだったからだ。

 

 スバルは思い知り、そして気づく。

 自分が傲慢の権能を使い、エミリアと魂を繋いでいたあの時間――俺は無意識のうちに、今のサテラと全く同じ、狂気的なまでに重すぎる思いを、あの銀髪の少女に絶え間なく送り込み、彼女の精神を侵食していたのだ。

 

 過去の己の言動が、フラッシュバックとなって脳裏を埋め尽くしていく。

 自分は、ずっとどうかしていたのだ。

 

 この異世界に召喚されて、エミリアという少女と出会ってから、現実にはまだ『ほんの数分』しか経っていない。ただそれだけの関係のはずなのに、スバルはさっき、彼女に向かって「お前と一緒に死ねるなら嬉しい」と本気で口走ったり、夢を捨てて二人で逃げてくれと、涙を流して醜く懇願した。

 

 ――そんなの、客観的に見て完全な『狂人』だ。正気のごく普通の高校生のナツキ・スバルなら、出会って数分の他人にそんな異常な執着を見せるわけがない。

 ラインハルトがすぐにエミリアを助けに向かえないと知るや否や、世界の事情も知らないくせに、一方的に彼に激しい怒りをぶつけて責任転嫁した。そんなの、あまりにも独善的で、傲慢すぎる考え方だ。正気なら、絶対にそんな歪んだ思考には至らない。

 

「馬鹿か俺は……? いいや、違う。完全に狂ってたんだ、俺は……っ」

 

 サテラという『傲慢の権能』の真の先達を前にして、スバルは自分が犯していた狂気の正体と、この能力が支払わせていた【真の代償】を骨の真髄まで理解した。

 

 この権能は、どれだけ無茶な魔法を発動させても、どれだけ瀕死の肉体を蒸気で超回復させても、スバルの肉体には何一つ分かりやすいリスク――痛みや疲労、寿命の減少といった目に見える対価を要求してこなかった。

 

 その代わり。

 力を引き出せば引き出すほど、魂を繋げば繋ぐほど、繋いだ相手への精神的依存と執着が『傲慢に、肥大化していく』。

 支払わされていたのは、肉体の健康ではない。ナツキ・スバルの『正気』そのもの。

この『魂の鎖』という傲慢の権能は、行使する者を、対象への愛に狂った感情の化物まさに大罪司教へと変貌させていく、おそろしい精神汚染の装置だったのだ。

 

 そして今――サテラに対しても、スバルは狂おしいほどに重すぎる感情を送り届けてしまおうと、胸の奥の心臓を激しく脈打たせていた。

 この歪な権能の恐怖はそこにある。仕掛ける側だけでなく、繋がれた『対象』にさせられた側をも、強制的に同じ底なしの執着の沼へと引きずり込み、同じ代償を背負わせるのだ。

 

「気持ち悪い……ッ、気持ち悪い、気持ち悪いんだよ……ッ!」

 

 狂人になんてなりたくない。ただの、普通の人間に戻りたい。

 スバルは、権能という絶対的なシステムによって心臓に、脳髄に直接流し込まれる『偽りの感情』に支配されまいと、必死の拒絶を込めて自分の髪の毛を血が出るほど激しく掻きむしった。抗わなければ、自分の精神が瞬く間に魔女の形に書き換えられてしまう。

 

「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」

 

 バチ、と強制的にスバルの両目が開かされた。

 いつの間にか、頭を掻きむしっていた自分の両手首は、白磁のようなサテラの冷たい両手によって、鉄の万力のごとき力でガチリと掴み止められていた。

 視界のすべてを、あの濡れた紫紺の瞳が埋め尽くしている。

 吐息が直接かかるほどの、お互いの睫毛が触れ合いそうな至近距離。魔女の形をした絶望は、表情一つ変えないまま、壊れた機械のように、何度も、何度も、狂った愛の呪詛をスバルの鼓膜へと直接囁き続けていた。

 

 

 

 

△△△△

 

 

 

 

 ――夢を見た。長い、長い、夢を見た。

それは単なる脳の妄想とは思えないほどに現実的で、骨の髄まで凍りつくような、恐ろしいリアリティを持った記憶だった。

 ナツキ・スバルがこのルグニカの地に召喚されてから、歩む可能性のあった――いや、実際にどこかの世界線で歩んでしまった、確定した運命の足跡。

 

「俺は……『傲慢』にはならない……。なって、たまるかよ……」

 

 弾かれたように夢から覚めると、視界のすぐ先には、変わらずに『嫉妬の魔女』が佇んでいた。

 脳が焼き切れそうなほどに長い地獄の記憶を追体験したというのに、現実の時間は一秒たりとも進んでいなかったらしい。

 

「愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して」

 

「……お前は。お前は俺に、この最悪な『予知夢』を見せるために……わざわざここまで来たのか?」

 

 相変わらず、彼女の口からは壊れたレコードのように同じ愛の呪詛しか発せられない。だが、スバルの目の前にいるサテラの紫紺の瞳から、あのどす黒い憤怒の感情は綺麗に消え去っているように見えた。まるで、己の果たすべき役割をすべて全うしたかのような、どこか満足げな、微かな微笑みすら湛えている。

 

「こんな胸糞悪い悪党……生まれて初めて見たぜ」

 

 スバルは、その予知夢のなかで最悪の結末を掴み取った主人公――もう一人の『ナツキ・スバル』へ向けて、吐き捨てるように感想を抱いた。

 エミリアやシリウス、ラインハルトといった他の連中とはわけが違う。魔女の当事者みずからがわざわざ現世に引っ張り出てきて、スバルの脳内に直接この記憶を叩き込んできたのだ。こんな最悪の予知夢、今すぐにでも記憶の彼方へ消し去ってしまいたいとすら思う。

 

 いや、それどころか――。

 サテラが世界中の特定の人たちに一斉に予知夢を見せた本当の目的は、それによって予知夢と死に戻りを混同し、スバルを状況的に誤解させ、自らがこの世に顕現するための『罠』だったのではないかとさえ思えてくる。底が知れなさすぎる、恐ろしき魔女の計算。

 その神がかり的なシナリオに巻き込まれ、理不尽に消し飛ばされてしまったラインハルトや民衆の皆様には、心からご愁傷様と言うほかない。

 

 ――俺が見た、もう一つの未来。

 そこにいたナツキ・スバルは、正真正銘、救いようのない『傲慢』な大悪党だった。

 

 エミリアと出会い、彼女を血の王座に就かせるというただ一つの目的のためだけに、己の全精神を、全存在を殉じさせていた。他人の命はおろか、自分の命すらも単なる部品としか思っていない、恐るべき傲慢。

 数え切れないほどの『死に戻り』を繰り返した結果、自分以外の人間を『生きた人間』として見なさなくなり、特定の条件で動くゲームのNPCやチェスの駒のように扱い尽くした。恐るべき傲慢。

 ナツキ・スバルという男を何度も、何度も無価値に殺し続けた。日本の親が知ったら、悲しみのあまり一生立ち直れないだろう。恐るべき傲慢。

 

 死ねば世界をいくらでも都合よく書き換えられるという、全能の錯覚に囚われていた。歴史も、他人の歩むべき運命のレールも、自分の手で完全に調律しなければ気が済まないという独裁的な思想。恐るべき傲慢。

 真正面から戦っても絶対に勝てない『剣聖』ラインハルトに対して、その精神を、誇りを徹底的にへし折ることで勝利しようとした。恐るべき傲慢。

 自分が無力で戦えないからという理由で、魔女教の狂信者どもや、エルザ、メイリィといった殺人鬼たちを便利に悪用し尽くした。恐るべき傲慢。

 

 エミリア自身が望んでなどいない、血塗られた王座へ、彼女の細い身体を無理やり引きずり上げて座らせた。恐るべき傲慢。

 最後の最後まで、絶対に諦めなかった。恐るべき傲慢。

 誰にも、その地獄の苦しみを相談しなかった。恐るべき傲慢。

 これだけの地獄を演出しておきながら、最終的にはエミリアの心に一生消えない巨大な傷跡を残そうとした。恐るべき傲慢。

 

 ――そして最後は、自分勝手に満足して人生を終わらせやがった。どこまでも、どこまでも恐るべき、ナツキ・スバルの傲慢。

 

「……俺は、絶対にこうはならないよ」

 

 相変わらず言葉の通じない魔女へ向けて、スバルははっきりとそう宣言し、自らの足でしっかりと立ち上がった。そして、目の前に力なく座り込むサテラへ向けて、そっと右手を差し出す。

 

 感情に振り回されて、我を忘れたらおしまいだ。

 あの『魂の鎖』という権能がもたらす感情の重さは、人間の正気が生み出すシロモノじゃない。あれは心を狂わせる、狂気的な偽物のエゴだ。自分の思い通りに世界が動かないからって、子供みたいに泣きじゃくるのもみっともない。

 

 だが――例えあれが権能の生み出す偽物の感情だったとしても、それに依存しないというだけであって、エミリアへの想いそのものを拒絶するわけじゃない。

 傲慢に狂うことなく、正気を保ったまま、この理不尽な世界を泥臭くやっていこう。スバルはそう、心に誓った。

 俺はまだ、エミリアと出会ってほんの数分しか経っていないのだ。だから――これから彼女と一緒に過ごせるまっとうな時間を、一秒でも多く伸ばせるように。その純粋な目的のためにこそ、俺はこの『力』を正しく使う。

 

 サテラはスバルの差し出した手を驚くように見つめ、その細い指先でスバルの掌を掴み、 ゆっくりと立ち上がった。

 スバルの腹は、もう据わっている。

 

「――そこまでだ」

 

 背後から響いたのは、凛烈たる、世界の法そのものの声。

 赤い奇跡の光を纏い、世界の祝福を受けて即座に息を吹き返した世界最強の『剣聖』が、いつの間にかサテラの背後に音もなく肉薄していた。

 だが、サテラは背後の脅威に対して、一度も振り返ろうとはしなかった。ただ、スバルの目を凝視している。

 

「……一緒にいこう、サテラ」

 

 スバルが発したその言葉に、魔女の背後に立つラインハルトが、怪訝そうにその美しい眉を寄せた。

 

「スバル。悪いけれど、君をこれ以上死なせるわけにはいかない」

 

「あぁ、分かってるよ。自分から進んで死にたいですなんてのたまう狂人じゃねえよ、俺は。……それでも、ここからもう一度、やり直そうと思うんだ」

 

「愛してる」

 

 最期のサテラの微笑みと声音に、スバルは胸の奥から溢れ出しそうになるドロドロとした感情をぐっと飲み込み、堪え、ただ静かに頷いた。

 そして――このループの終わりの時間が、訪れる。

 

「君がさっき使ったその奇妙な能力は、もう僕には通用しない。――だから、もう観念するんだ」

 

 ラインハルトの手が動いた。スバルの目の前で、サテラの上半身が再び、一瞬にして光の中に消し飛ばされる。

 今度も、スバルの肉体にその負傷が『共有』されることはなかった。

代わりに、ラインハルトの白い胸元のあたりに、まるでカミソリの刃で皮膚を切り裂いたかのような、一本の細い切り傷が走る。だが、それはさっきのように彼の頑強な胴体を分断し、肉塊に変えるような致命傷では断じてなかった。

 一度殺されたことで、世界は即座にラインハルトを再祝福し、魔女の権能に対する『絶対的な耐性』を彼にプレゼントしたのだ。世界最強の男は、瞬時に世界のルールすら上書きしてみせた。

 

「あ~あ……。これじゃあ、あいつが絶望するのも、無理はねえか……。88回も死に戻りを繰り返した後に、これを見せられたら、なおさらな……」

 

 どれだけ策略を巡らせても、絶対に正面突破できない理不尽な最強。

 そんな化け物を相手に、二度と同じ過ちは犯さないと決めた自分自身の言葉を最後に、スバルの視界は急速に真っ白な光へと染まっていく。

 

 世界が、引き絞られるように巻き戻る。

 ラインハルトは決定的な過ちを犯した。彼が魔女を殺したこの瞬間、サテラはスバルから奪い取った『魂の鎖』の権能を利用し――スバルの代わりに、その死をすべて肩代わりして、死んであげたのだから。

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