もしも、スバル以外のキャラがIFルートまたは本編から帰ってきたら   作:ああ

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6話 ナツキスバルのリスタート。エミリア、ラインハルトと共に

 ――「よう兄ちゃん、当店に何か用かい?」

 

 視界を満たしていた眩い白光が徐々に引いていき、ルグニカの街並みが色鮮やかに輪郭を取り戻していく。目の前には、見覚えがありすぎる八百屋の店主が、怪訝そうな顔でスバルを見つめていた。

 

「…………」

 

 スバルはそっと自分の胸に手を当てた。衣服越しに、ドクドクと力強く打つ心臓の確かな鼓動を確かめ、この手の中に残されたやり直しの『奇跡』に、魂の底から感謝した。

 視界が熱くなり、込み上げそうになった涙は、鼻を短くすすって無理やり奥へと引っ込める。

 

「……蹴って、悪かったな。いつか直接、盛大な五体投地をやらせてくれ」

 

 目の前の店主には絶対に伝わらない、けれど、この初期位置にスバルの魂を送り届けてくれた、あの優しき魔女へ向けて静かに告げた。

 この独り言がトリガーとなって、再びサテラがこの世界に顕現するような異常事態は起きなかった。だが、世界の耳目を集めるような不用意な発言は、今後は絶対に控えるべきだろう。

 それでも、今の声は彼女の元へと届いているはずだ。

 この狂った予知夢の世界で、ナツキ・スバルだけは『嫉妬の魔女』をただの化物として拒絶しない。その意志が、少しでも彼女に伝わっていればいいと思う。

 

「おいおい、誰と話してんだよ。買わねえんなら商売の邪魔なんだよ、他所へ行ってくれ!」

 

「おっと……そりゃ悪かったな。これからちゃんと働いて、がっつり稼いできてやっからさ。その時はよろしく頼むぜ、大将」

 

 スバルは店主に向かって持ち前の軽薄な笑顔を浮かべると、軽く手を振りながら八百屋の前を後にした。

 

「てめえ、一文無しかよ! こんな真っ昼間から油売ってねえで、さっさと働きに行きやがれ!」

 

 背中越しに飛んでくる、店主の容赦のない怒声。

 

「耳が痛いぜ、全く……。だけどな大将、俺がこれからどれだけの大仕事を背負い込むと思ってんだよ」

 

 ジャージのポケットに両手を突っ込み、スバルは大通りを一歩ずつ、確かな足取りで歩き始めた。

 

 ――傲慢にならずに、正気を保ったまま、今度こそ誰も取りこぼさずに全員を救ってみせる。

 ナツキ・スバルの、真の第一歩がここから始まる。

 

 

 

 

 

△△△△

 

 

 

 

 通りを歩きながら、スバルは己の胸中で「これが三度目の挑戦だ」と、深く強く自覚し直していた。

 だが、これはただの三度目ではない。前回のループの終わり際、サテラの手によって脳内に直接ロードされた、あの長く果てしない『予知夢』の記憶がある。それはこれから起こり得る最悪の破滅を知り、二度と同じ轍は踏まないと血の涙を流して決意させたものだが、得られたものは決意だけではない。

 

「――全部、分かったぜ」

 

 スバルは今、ルグニカの圧倒的な『先行情報』を手中に収めていた。

 もう、「この世界に召喚されたばかりの無知な迷子」という甘えや言い訳は通用しない。ルグニカ王国の内情、近衛騎士団の戦力、果ては大罪司教をはじめとする魔女教の動向にいたるまで、いまこの国でナツキ・スバルほど裏の知識に精通している者は他にいないだろう。

 

「あの狂ったIFルートのやり方を真似する気は毛頭ねえが……あいつが命を磨り潰して得た『結晶』だけは、ありがたく使わせてもらうぜ」

 

 数え切れないほどの『死に戻り』の果てに積み上げられた膨大な記憶。

 その歪んだゴールの先にあったのは、決して受け入れられない最悪の『傲慢』だったが、そこへ辿り着くまでの泥臭い努力のすべてを無駄だとは、どうしても思えなかった。正気を保ち、エミリアたちと真っ当に生きていくために、この知識のすべてを注ぎ込む。

 

「……でもさ、IFルートの俺。お前のことまで救ってやりてえなんて考えること自体が、すでに傲慢なのかな」

 

 あの悪夢の中で、ナツキ・スバルは初日にエルザに八十八回も殺され、その度にエミリアの死を見届けたことで狂人へと変貌した。

 たった一歩、心の置き所を間違えるだけで、取り返しのつかない感情の化物になれるポテンシャルが自分にはある。それはすでに脳内で証明されてしまっているのだ。

 

 ならば、いまの自分に何よりも必要なのは『感情の徹底的なコントロール』に他ならない。

 

 だからこそ、これから始まるエミリアとのファーストコンタクトは極めて重要だった。前回のループですらあんなに感情的になってしまったのに、その直後に「エミリアへの歪んだ愛のために世界を焼いた狂った人生」を追体験させられたのだ。

 いま、あの生身の美しい姿を不意に見てしまったら、自分の心がどう暴走してしまうか、正直に言って恐ろしかった。

 

「俺の『冷静沈着系主人公路線』は、まだ死んじゃいねえってことだろ……? 誰が二度とあんな狂人になってたまるかってんだ」

 

 自嘲気味な軽口を叩くことで、どうにか高鳴る胸を落ち着かせる。

 

 ――そして、その運命の瞬間は、向こうからやってきた。

 視線の先、大通りの人混みを掻き分けて、こちらに向かって必死に走ってくる銀髪のハーフエルフの姿がスバルの目に飛び込んでくる。

 

 ドクン――! と、不意に心臓が大きく跳ね上がった。

 だが、それでおしまいだ。スバルは奥歯を噛み締め、今一度己に強く言い聞かせた。

 自覚しろ。俺はまだ、彼女と出会ってから丸一日すら一緒に過ごしちゃいないんだ

 

「スバル……ッ!!」

 

 しかし、そんな必死の冷徹さを保とうとしているのは、スバルの側だけだった。

 エミリアには、スバルが今どんな思考の変遷に辿り着いているのかなど知る由もない。彼女にとっては、あの凄惨な最悪の予知夢を見て、絶望のなかで命がけでスバルを探し求めた末の、奇跡の再会なのだ。冷静でいられるわけがなかった。

 悲痛さに支配された顔で、いま目の前にある幸福に今度こそしがみつこうと、エミリアは涙目でスバルの元へと突っ込んでくる。

 

「はい、ストップ!」

 

 その感動の勢いを正面から挫くように、スバルは自分の右手のひらを真っ直ぐに突き出した。

 かなり早めのタイミングで出したつもりだったが、エミリアの側の突進の勢いはスバルの予想を超えて止まるのが遅く、彼女の柔らかい鼻先と唇が、そのままスバルの手のひらに、むにゅっと押し付けられる形になった。

 手のひらから伝わるその生々しい体温と愛おしさに、スバルの脳髄は一瞬で狂人の領域へ引きずり込まれそうになったが、根性で奥歯を噛み砕き、完璧なポーカーフェイスを維持してみせる。

 

「ううっ!? ……って、ごめんね! 大丈夫……!?」

 

「大丈夫じゃないけど、大丈夫だよ」

 

 顔を受け止めてしまった右手が、そのまま彼女の両手によって掴まれてしまう前に、スバルは素早く、しかし自然な動作でそれを自分の側へと引き剥がした。

 慌てふためくエミリアの瑞々しい姿は、それだけでスバルの心を激しく揺さぶってくる。その細い手に触れ、ずっと繋がっていたいと思わせてくる。

 だが、手を差し出す間もなく拒絶するように引かれたエミリアは、何かを悟ったような、酷く複雑で寂しげな表情を浮かべた。感動の再会に、明確な水を差してしまったのだ。

 

 ――それこそが、スバルの狙いだった。今の自分たちには、何よりも『正気』が必要なのだから。

 

「スバル……あなたは、私のこと、覚えてるのよね……?」

 

 スバルの拒絶のステップを見て、彼が自分を「初対面の人間」として扱っていないことだけは、エミリアに正確に伝わったようだった。

 だが、それでもスバルは、あえて彼女と『初対面』のつもりで接しなければならないと決めていた。これからの二人の関係を、あの狂った予知夢や権能の延長線上にある、歪でおぞましい依存関係にしたくはなかった。

 

「改めまして自己紹介よろ! 俺の名前はナツキ・スバル!

幾多の恐ろしい悪夢を乗り越えて! 今までの未熟でイタい自分とは、たった今完全決別!

これからは一日一善をモットーに、人生をド派手にリスタートさせる男でございます!」

 

 スバルは右手を天高く突き出し、大通りで大仰なポージングを決めてみせた。

 これこそが、エミリアとの関係性を真の意味でゼロからやり直すための、スバルなりの『リセットの儀式』だった。

 

「……ちょっと、何言ってるか……――いいえ」

 

 いつものスバルのふざけた奇行に対して、エミリアは喉まで出かかったツッコミを、途中で無理やり中断した。

 その反応に、スバルは「あれっ?」と道化としての足元を崩されそうになったが、彼女の纏う空気が、およそふざけられるようなものではないことだけは肌で感じ取った。

 

「私のこと、覚えてるのって? ――そう聞いたのだけど」

 

 スバルの想像の、およそ四倍は低く暗いトーンの口調で、エミリアはもう一度そう訊ねてきた。

 

「覚えてるっていうよりさ……『知ってる』っていう方が、今の俺たちには正しい表現だよ。――エミリア。俺はまだ君と、丸一日も一緒に時間を過ごしちゃいないんだからさ」

 

 それは、紛れもない事実だった。

 スバルが死に戻りで経験した短い時間の中でも、あるいはあのアヤマツの予知夢の記憶の中でも。スバルがエミリアと共に過ごした実質的な時間は、肥大化し尽くしたその狂気的な感情の重さとは裏腹に、驚くほどに短く、刹那的なものに過ぎないのだ。

 

 淡々と放たれたスバルのその『正しい拒絶』の言葉に、エミリアは胸を直接抉られたかのような、本当につらそうな顔をして、唇をきつく噛み締めた。

 

「……そんな……。とてもつらいけれど、せめて私と同じ予知夢を見てくれていれば……」

 

 エミリアはぽつりと、消え入りそうな声で呟いた。その言葉が持つ本当の意味を、スバルは痛いほどによく知っている。

 

 前回のループの際、彼女は自身が見たという悲痛な予知夢について洗いざらい教えてくれた。スバルがエミリアの目の前で無残に殺されてしまうという、最悪のバッドエンド。だが、そこに至るまでの過程でエミリアの心に消えないトラウマを植え付けてしまうくらいには、夢の中のナツキ・スバルは長い、長い時間を彼女と共に過ごしたということなのだ。

 

「――だったらさ。君の名前を、教えてほしい」

 

 今にも涙を零しそうな銀髪の少女を見つめ、スバルは努めて落ち着いた声音で、けれど真っ直ぐにそう告げた。

 

「でも、スバルは私の名前を知ってるでしょ……? 今までのことが、全部なかったみたいになっちゃうなんて、私は嫌よ……。私の知っているスバルは……っ」

 

「待って!!」

 

 スバルの必死の制止が、大通りの喧騒を裂いて響いた。まるで、小学生が喧嘩をとめるような静止になってしまった。

 エミリアの言葉が、動きが、強張ったようにピタリと止まる。

 スバルは思わず己の口を手で押さえ、瞬間的に、またしてもあの傲慢な衝動に呑まれかけていた事実にゾッと恐怖した。

 

「……ごめん……。悪かった」

 

 なんてザマだ、俺は。彼女の言葉を大人しく最後まで聞くことすらできないのか。

 スバルは唇をきつく噛み締め、口内に広がる鉄の味で強引に頭を冷やす。相手の気持ちを考えろ。エミリアがどれほど理不尽な望みを口にしようと、今の彼女にとってはそれが世界のすべてなのだ。その重すぎる思いも、まずは全部受け止めてやるべきだ。心の中でスバルがどう感じ、どう葛藤するかは問題じゃない。それを、あの『傲慢の狂人』のように一方的な感情の暴力として世界に示さなければ、それで何の問題もないのだから。

 

「私の名前は、エミリア。ただの、エミリアよ……」

 

 こちらが冷静さを欠いたとき、逆に相手が引き戻してくれることがある。エミリアは、沈黙して自分を律しようとするスバルへ向けて優しく微笑むと、そっと白い手のひらを彼の頬へと添えてきた。

 視線を上に誘導され、彼女の透き通るような紫紺の瞳と真っ向から目が合う。

 

 最悪の予知夢なんてなかったことにして、真の意味でゼロから清らかな関係を始めたいというスバルの本心は、エミリアの純粋さに見透かされ、そして彼女の心を確実に傷つけていた。

 

「私はね、あの夢をどうしても忘れられないの。すごーく悲しい夢だったけれど、すごーく美しくて、温かい夢だった。スバルは本当に……何も覚えていないの?」

 

「うん。覚えてない。……覚えてないけど、全部知りたいと思ってるよ」

 

 スバルは一歩、自らの足で前へと踏み出した。ここからは、弱気ではなく前向きな強気で行かせてもらう。

 

「俺は、今こうして生きてる。どんな最悪な夢のなかで俺が死んだとしても、俺は今、エミリアの目の前に存在してる。だからさ、俺はエミリアが本当はどんな人なのか、ここからゼロの状態で知りたいんだ。夢を覚えていない俺に、これから君のことを教えてくれないか?」

 

「…………」

 

 スバルの放った熱い言葉に、エミリアは言葉を失って黙り込んでしまった。

 

「新しくやり直したら……スバルには、私なんて必要なくなっちゃうかもしれないの。だって、私の夢の中でスバルが私と一緒にいてくれたのは、きっと……すごーく世界がスバルに対して意地悪で、毎日いじめてくれていたおかげだから。……だから、新しく真っ新なところから始めても、あの夢とおんなじ風に、私を好きになってはくれないかもしれない……」

 

「……っ」

 

 今度は、スバルの側が決定的な言葉を失う番だった。

 

「私は、スバルがそんな風に世界にいじめられていることを、自分のために都合よく利用して……また、これからもそれをやっちゃうかもしれないわ。そんなの……すごーく、おたんこなすすぎるわ」

 

 エミリアの口から溢れ出た悲痛で切実な独白。スバルはそれを懸命に理解しようと脳細胞を回していたのだが、最後の一言で張り詰めていたすべてのシリアスがぶち壊された。

 

 おたんこなす、かよ……

 

 けれど、そんなズレた独自表現を大真面目に口にしてしまう彼女の危うい部分にこそ、自分は、あのもう一人の自分は、魂の根元から惚れ込んでしまったのかもしれない。そうだといいな、と心から思った。

 これからは、そんな彼女の愛おしい言葉が、何でもない日常の会話に溢れる世界を目指したい。今だけは、その響きに面白おかしく反応してやれないのが、ひどく申し訳なく思えた。

 

「――エミリアの考えは、正しいよ。どんなに悪い予知夢だったとしても、全部なかったことにして切り捨てるのは、確かに残酷で不誠実だ。俺は未来ってやつはいくらでも変えられると思ってる。だから……あの夢の中にあった『良い所』だけは、これからの現実で全部、俺とお前で取り戻してやろうぜ」

 

 遠回りはしてしまったけれど、スバルが紡いだその心からの返答に、エミリアの翳っていた紫紺の瞳に、ぽっと確かな光が灯った。

 

「エミリアにだって、もし今からやり直せるなら、変えたい未来がきっとあるだろ?」

 

 スバルは、一度目のループでは壁際に捨てられ、二度目のループでは彼女が握りしめていた――あの宝石の嵌め込まれた徽章と、彼女が背負う「王になりたい」という果てしない夢を思い出しながら、語りかけた。

 エミリアはハッとしたように目を見張り、それから自らの胸にそっと手を当てて、力強く頷いた。

 

「ええ……。すごーく自分勝手で、おこがましいかもしれないけれど……私には、絶対にやり遂げたいことがあるわ」

 

「よしっ! だったら――俺に、その夢を協力させてくれ」

 

 エミリアに迷う時間を与えないよう、スバルは間髪入れずに即答した。エミリアは予想外の速度に丸く目を見張ったが、すぐに年上の少女としての、真剣で真っ当な口調に変わる。

 

「……ちゃんと、考えてから言ってる? 考えなしにすぐそんな重大なことを言うと、これからすごーく苦労することになるわよ?」

 

「考えてるし、覚悟だってとっくにガンギマリだよ」

 

 エミリアは、この危うい少年にちゃんと考えさせ、選ばせなければと、彼女の持つ正しい正義感を抱いていた。けれど、まっすぐに自分を射抜くスバルの瞳を見た瞬間、その必要がどこにもないことに気づかされた。

 協力したいと、力強くハッタリをかましているスバルの側こそが、いま、猛烈に救いを求めているように、エミリアの目には映ったのだ。

 

「スバル……本当に、大丈夫……?」

 

「ああ。今後の約束になってしまって、マジでカッコつかなくてすまねえんだが……俺はエミリアの力になりたい。でも、ただ無償でってわけじゃないんだ」

 

 スバルはそこで一度言葉を切り、目の前の少女へ向けて、自らの、ナツキ・スバルの本当のファーストミッションを提示した。

 

「今日だ。今すぐだ。――エミリア、今すぐ俺を助けてほしい」

 

 今日という最悪の運命が渦巻く一日を、彼女と共に生き残り、乗り切って見せる。そのために必要な救いを、今ここで乞う。

 この返しきれないほど巨大な恩は、これから先の長い、長い未来のなかで、俺のすべての行動を以て、君に一生をかけて返していくつもりだから。

 

「――エミリア。俺を助けてくれ」

 

 ナツキ・スバルにしか知らない、これからこの王都で巻き起こる凄惨な地獄。

 『死に戻り』という呪いを暴かれ、傲慢の権能の代償を知った今のスバル一人では、今日という理不尽な一日は逆立ちしたって乗り越えられない。

 そして――どうせ誰かに無様に縋り付き、助けてもらうのだとしたら、世界で一番好きな、あの銀髪の少女にこそ、自分の最初の手を引いてほしいと思った。

 

 スバルが差し出した、まだ恐怖で微かに震える右手を、エミリアは躊躇うことなく、その白く温かい両手で優しく包み込むように握りしめた。

 

「ええ、任せて。――私が、必ずスバルを救ってあげる」

 

 そう告げたエミリアの紫紺の瞳は、自分を裏切らない、自分だけを真っ直ぐに必要としてくれる救いが必要な存在をずっと求めていたかのように、まばゆい光を湛えて美しく輝いていた。

 

 

 

 

△△△△

 

 

 

 スバルが覚えている約束の場所へ向かって、エミリアと二人で大通りを駆け抜ける。

 道すがら、彼女にはすでにシリウスの凶悪な能力について伝えてあった。だが、真っ先に川沿いの橋へ向かう判断だけは避けた。この三度目の挑戦において、ナツキ・スバルがどうしても言葉を交わし、その歪みを正しておかなければならない最重要人物が、もう一人残っている。

 

「――ラインハルト!! 見つけたぜ!」

 

 今回は、スバルの側が人混みの中を歩く赤髪の騎士の後ろ姿を発見し、その名を大声で叫んだ。

 刹那、世界最強の『剣聖』が弾かれたように振り返る。スバルの顔を捉えた瞬間、彼は普段の優雅さをかなぐり捨て、周囲の人波を強引に掻き分けてこちらへと全力で走ってきた。

 

「スバル! それに、エミリア様も……っ!」

 

 二人の健在を確認できたことで、ラインハルトの切迫していた空色の瞳に、一条の救いのような光が灯る。彼がそれほどまでに心の余裕を無くし、狂おしいほどに焦っている本当の理由を、スバルは痛いほどに覚えている。

 

「あれっ……? なんだか、すごーく焦っているみたいだけれど……大丈夫?」

 

 隣に立つエミリアも、普段なら完璧な佇まいを崩さないラインハルトが、いまは猫の手も借りたいほどに追い詰められているその異様な雰囲気に、即座に気づいたようだった。

 

「そうだよな。天下の『剣聖』様が、いまは今にも泣き出しそうな顔をしてるぜ。――だがラインハルト、まずは落ち着いてくれ。間違っても、俺の体をヒグマみたいな力で掴んで、あの薄暗い不気味な路地裏に強引に引きずり込む……なんて乱暴な真似はしないでくれよな?」

 

 スバルにしか分からない、前回のループで味わったラインハルトからの理不尽な制圧。まずはその記憶をあえて軽い皮肉に変えて釘を刺しておく。

 

「……何を言っているんだい、スバル? 僕が君に対して、そんな酷いことをするわけがないじゃないか」

 

 純粋に、そんな心外な疑惑を向けられたことが信じられないとでも言うように、ラインハルトは困惑した顔でスバルに言い返し、その距離を縮めて彼の肩にそっと触れた。

 だが、その何気ない接触の瞬間、前回のループで骨がきしむほどにねじ伏せられた生物としての恐怖が脳裏をよぎり、スバルは本能的にビクリと身をすくめてしまった。

 

「スバル……? もしかして、ラインハルトのことが怖かったりするの?」

 

 スバルの僅かな硬直を察知して、エミリアが横から覗き込むようにそう言った。背中にそっと手を添えてくれる彼女の気遣いは涙が出るほどありがたいが、その台詞、いま目の前にいる本人にもバッチリ聞こえてるぞ。

 

「スバル。僕たちは……あの夢のなかで、確かな『親友』だったじゃないか。……まさか君は、僕とは違う予知夢を見てしまったのかい?」

 

 ラインハルトから返ってきた言葉のニュアンスは、つい先ほどのエミリアのものと全く同じだった。誰もが、自分が見たあの切実な予知夢を信じ、同じ絆で結ばれた相手との再会を、その温もりを求めてしまうのだ。

 

「ええい! こ、怖くなんかねえし! ちょっと俺より背が高くて腕っぷしが規格外に強いだけだろ!? あと、エミリアはあんまりストレートに核心を突かないで! ……それから、ラインハルト。お前には悪いが、お前の知ってるその『親友』って関係、一端ここで――振り出しに戻させてもらうぜ」

 

 この世界には『リセット』というゲーム的な概念が存在しないため、とっさに言い換えた表現だったが、今の自分たちの関係性にはこれ以上なくしっくりときた。

 それはラインハルトが差し出してきた絆への拒絶ではない。これから真っ当な手段で、この『剣聖』と本当の友達になれることを大前提として歩みを進めるための、前向きな「仕切り直し」だ。

 だが、最強として孤独に生きてきたラインハルトにとっては、冷酷な拒絶とも受け取れる言葉。彼がどんな反応を示すか、スバルは首筋に嫌な冷汗が流れるのを感じながら、彼の次の言葉を待った。

 

「……振り出しに戻す、か。それは、どういう意味だい?」

 

 ラインハルトの顔からサッと表情が消え、暗い影が落ちる。だが、彼がどれほど苛烈な不条理を前にしても、その個人の感情を冷徹に切り捨てて『正義の騎士』として振る舞えてしまう、強固で哀しい精神性の持ち主であることをスバルは知っている。

 エミリアは、スバルの放った言葉がラインハルトの胸にどれほどの衝撃を与えたかを痛いほど理解できたため、悲痛そうな面持ちのまま、黙って二人の会話の行く末を見守っていた。

 

「言葉通りの意味だよ。俺の頭の中には、お前と固い握手を交わした記憶も、背中を預け合って助け合った記憶も、何一つ残っちゃいねえ。……だけどさ、これからの俺は、間違いなくラインハルトに死ぬ気で助けを求めるし、お前が困ってたら、この命を懸けてでも助けてやりてえと思ってる。その先で、またお前と『親友』ってやつに戻れるかどうかは……自分から言うのはマジで恥ずかしすぎるから、運が良ければってことにしといてくれ。俺が言いたいのは、そういうことだ。――とにかく、今すぐ俺に力を貸してくれ」

 

 ラインハルトは一瞬、彫刻のように完全に凝固した。

 彼の中にあった「完璧で、自分のすべてを理解してくれていたスバル」と、いま目の前で泥臭くハッタリをかましている「未熟なスバル」の姿を、その驚異的な頭脳で必死に見比べ、考えているようだった。

 

 ――そして。

 ふっと、張り詰めていたラインハルトの表情が劇的に緩み、彼は子供のように声を上げて吹き出した。

 今この瞬間だけは、彼を極限まで追い詰めていたはずの、あのフェルトに関わる残酷な『運命のタイムリミット』を、世界最強の男は完全に忘却しているようだった。

 

「何笑ってんだよ、お前っ!!」

 

 途端にスバルの顔がボッと熱くなる。柄にもなく恥ずかしいセリフを全力で言わせたくせに、当の本人が楽しそうに笑うのはいくらなんでも意地悪が過ぎやしないか。

 

「ごめん、ごめん。なんだか……今のスバルは、僕の知っている君よりも、ずっと幼くて、ずっと年相応に見えたからね。でも、変に僕の力に怯えて気を遣われるくらいなら、僕は……そうやって正面から、はっきりと『助けてくれ』と言ってもらえた方が、何倍も嬉しいんだ」

 

 燃えるような絶対の強さを示す赤髪に、世界のすべてを透き通らせるような空色の瞳。

 あまりにも完璧すぎる存在であるがゆえに、ラインハルト・ヴァン・アストレアという男は周囲から恐れられ、近寄りがたい印象を強め、本当の意味で対等に接してくれる人間が少なかったのだろう。

 あの最悪な『アヤマツの夢』のなかで、もう一人の自分は、まさにそのラインハルトの『孤高の弱み』に徹底的に付け込んだ。そして王国に地獄の火を放ち、彼を『剣聖』という呪縛に縛り付けたまま、社会的に、精神的に完膚なきまでに殺害したのだ。

 

 その胸糞悪い悪夢の真実を、いま目の前で微笑むラインハルトに教えてやることは絶対にできない。けれど、これからの現実の未来のなかで、自分のすべての行動を以て、彼への贖罪と救いを証明していきたいとスバルは強く願った。

 

「お前の中の俺って、どんだけ気遣いができる大人な奴だったんだよ? ……っていうか、結局お前に完全に見透かされてんじゃねえか。……まぁ、その話は一端こっちに置いとくとして」

 

 お互いに、ここからは一分一秒の猶予すら惜しいはずだ。スバルは表情を引き締め、ラインハルトの空色の瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

「ラインハルト。お前も今、猫の手どころか人間の手が死ぬほど必要な状況なんだろ? エミリアも含めて、ここに3人いれば『三人寄れば文殊の知恵』って言葉があるんだ。この大通りじゃ目立ちすぎる、あっちの路地裏に入って、今すぐ全員を救うための作戦を立てようぜ」

 

「モンジュ……? ――ええ、そうねラインハルト、すぐに行きましょう!」

 

 一瞬だけスバルの口にした馴染みのないことわざの意味を考えようとして、エミリアはわずか2秒で思考を切り替えて肯いた。

 エミリアはいつだって、スバルの言葉を時間をかけずに、真っ直ぐに信じてくれる。川沿いの橋に潜むシリウスという狂人のことも、大通りを歩くラインハルトの居場所をスバルがなぜか正確に知っていたことも、彼女は何一つ疑わなかった。その絶対的な信頼が、今のスバルにとってはどれほど救いになり、ありがたかったことか。

 

 そんな奇跡のようにありがたいエミリアと比べてしまっては申し訳ないが、眼前のラインハルトは前回のループにおいて、再三にわたるスバルとの口論がまとまらず、パニックのままに貴重な時間を浪費し、挙句の果てには世界そのものを巻き込むサテラの逆鱗に触れてしまったのだ。

 

 だからこそ、今回こそは、絶対に落ち着いた作戦会議を成立させる必要がある。

 スバルだけが『剣聖』の力を一方的に借りるわけでもなく、ラインハルトだけがスバルの『死に戻りの記憶』を貪るわけでもない。お互いが対等に、お互いの大切な人を助け合うための、本当の協力関係をここで結ぶのだ。

 

「スバル……。エミリア様……。今、この最悪の瞬間に、僕の元へ現れてくれたことに心から感謝します。――行きましょう」

 

 ラインハルトは、王国最強の『剣聖』としてではなく、一人の迷える少年のように深く、深く頭を下げた。

 そして、先導するスバル、エミリアの二人の背を追うようにして、大通りの喧騒から薄暗い路地裏の奥へと足を踏み入れて行った。

 

 

 

 

△△△△

 

 

 

 

 作戦会議は、3人の協力により、極めて迅速にまとまった。

 現在、スバルとエミリアはラインハルトと別行動をとり、因縁のあの場所へと向かって走っている。

 

 ――ラインハルトなら大丈夫だ。今回は『死に戻り』という致命的なタブーを彼に暴かれることも、それによってサテラの逆鱗に触れることもなかった。

 今頃あの最強の剣聖は、スバルとエミリアを信じ、自らに課せられたフェルト救出という役目にその超人的な力を集中させているはずだ。

 

「――俺たちの、戦いはここからだ……ッ!」

 

 一度目のループでは、このセリフの直後に『憤怒』の大罪司教シリウスとの絶望的な死闘が始まり、なす術もなく焼き殺されて敗北した。

 だが今は、スバルのその決意の言葉の横で、力強く、優しく手を握り返してくれるかけがえのない仲間がいる。

 

「ええ、スバル! 私にすごーく、すごーく頼ってね」

 

 握りしめた手のひらが、恐怖でカタカタと微かに震えていることは、エミリアに完全にバレている。サテラが見せたあのアヤマツの悪夢のなかで、大罪司教の全員を一人残らず惨殺し尽くした冷徹な記憶はあるというのに――それはあくまで、脳内にロードされた『ただの夢の話』だ。

 今日という過酷な現実に立ち向かう肉体は、ただのしがない不登校の高校生、ナツキ・スバルそのもの。これは彼の、人生を賭けた初陣としてのリアルな恐怖なのだ。

 

「あぁ……っ。エミリア、俺に力を貸してくれ!」

 

 スバルは意を決し、あの慈悲深きサテラの手によって、狂気の代償を自覚したうえで正しく返却された傲慢の権能――『魂の鎖』を発動させた。

 ドクン、と心臓が鳴り、スバルとエミリアの魂が一本の強固な鎖でガチリと結合される。

 この繋がりがある限り、どれほどシリウスが狂気的な感情の汚染をばら撒こうとも、二人の精神が侵食されることは絶対にない。

 

 すでにエミリアとの緻密な情報共有は完了している。それどころか、あの『剣聖』ラインハルトすらも、このスバルの権能を完全に把握したうえで、裏で同時進行で作戦を動かしているのだ。――そんな超絶的な包囲網が敷かれているなど、目の前で待ち構えるシリウス・ロマネコンティは夢にも思っていないだろう。

 

 ――この世界において、正気を保ち、仲間と手を繋いだナツキ・スバルと敵対した悪党は、絶対に勝てない。

 この絶対にして最悪の『傲慢な事実』を、今こそあの理不尽な怪物へ、問答無用に振りかざしてやる。

 

「薄汚い半魔ぁアアアア!!! ナツキ・スバルぅウウウッ!!!」

 

 川沿いの橋へと続く、見覚えのある大通り。

 民衆の雑踏に紛れ込んでいた全身包帯の怪人――シリウスは、こちらへ向かって一直線に突き進んでくるスバルとエミリアの姿を視界に捉えた瞬間、鼓膜を激しく引っ掻くような、不快極まりない憎悪の咆哮を叩きつけてきた。

 

「ありがとう。そして、ごめんな ――自分からわざわざ俺たちに倒されに、この王都まで来てくれて!!」

 

 スバルは不敵な笑みを浮かべ、大音量でそう挑発し返した。だが、それは単なる虚勢のハッタリなどではない。シリウスの手にある『福音書』の記述は、彼女が予知夢を見るよりも前の段階で、この王都へ彼女を導いていたのだ。そして予知夢でペテルギウスの死を見たことで、シリウスは真っ先にスバルたちの排除へと行動をシフトした。

 

 それはスバルにとって理不尽極まりない残酷な運命であったが、ここで、シリウスの目論見を完璧に叩き潰し、返り討ちにしてやるというのなら話は全く別だ。

 この防衛戦に完全勝利し、エミリア、そしてラインハルトとの絆を未来へ繋ぐ最高のきっかけにさせてもらう。

 

「そのふざけた面ごと、骨の髄まで焼き尽くしてやるぅうううッ!!!」

 

 魔女教大罪司教としての、あの狂気的な自己紹介を口にする暇さえ与えられず――。

 スバルの完璧な先制挑発によって、シリウス・ロマネコンティの『憤怒』は、戦いの火蓋を切る炎となって大爆発した。

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