/*/ シャフト・エンタープライズ・ジャパン 専務執務室 /*/
徳永専務は、執務室の椅子に深く沈んでいた。
机の上には、法務部から上がってきたメモが置かれている。
未成年者の就労扱い。
外国籍児童の滞在資格。
研究協力者としての登録可否。
保護者・監督責任者の設定。
そして、バドリナート・ハルチャンドの身元確認。
見出しだけで頭が痛くなる。
「……内海め」
低く呟いた。
いや。
あれは内海だけではない。
あの子供だ。
バドリナート・ハルチャンド。
会議室で、無邪気な顔をして爆弾を投げ込んできた少年。
『徳永専務さんって、僕のお父さんなんやて?』
その声が、まだ耳に残っている。
徳永は両手で顔を覆った。
否定すべきだった。
即座に、強く、明確に。
そんな事実はない、と。
だが、できなかった。
十年前。
インド出張。
現地法人との折衝。
接待。
酒。
そして、思い出したくない夜。
あれが本当に、あの少年に繋がっているのか。
そんなことは分からない。
分からないが、絶対にあり得ない、と断言できるほど徳永は清廉ではなかった。
だから、詰まった。
詰まったところを、会議室中に見られた。
それがまずい。
非常にまずい。
「DNA鑑定をすればいい」
口に出してみた。
簡単な話だ。
鑑定をする。
親子関係がないと証明する。
それで終わり。
理屈の上では、そうだ。
だが。
徳永は、机の上のメモを睨んだ。
親子関係がないと証明されたとして、その後はどうする。
あの子供を切り捨てるのか。
人身売買まがいの経路で流れてきた、無国籍の少年。
会社の極秘プロジェクトで、高性能レイバーのテストパイロットをさせられていた少年。
会議室で、自分に向かって「廃棄せんといてな」と言った少年。
それを、親子関係がないから知らない、と切る。
できるか。
できるわけがない。
少なくとも、会社の役員たちが見ている前では。
「……私は、情が無い男と見られる」
それはまずい。
非常にまずい。
徳永は、清廉な人間ではない。
だが、社内では常識人で通している。
内海のような危険人物を抑え、事業の採算を見て、社の体面を守る側の人間。
その自分が、もし。
自分の隠し子かもしれないと騒がれた少年を、鑑定で無関係と判明した瞬間に切り捨てたら。
周囲はどう見る。
ああ、徳永は血縁がなければ子供を捨てる男なのだ、と見る。
たとえ法的に正しくても。
たとえ事実として無関係でも。
印象が残る。
会議室でのあの沈黙。
自分が詰まった顔。
バドの「僕、ここにおってええん?」という声。
あれを見た者たちは、事実より印象を覚えている。
徳永は唇を噛んだ。
「やられた」
小さく呟いた。
完全にやられた。
あの子供は、自分を父親にしたかったのではない。
父親かもしれない、と思わせたかったのだ。
その疑惑だけでいい。
疑惑が残れば、徳永は簡単にバドを処分できなくなる。
たとえ鑑定で否定されても、情の問題が残る。
たとえ情を否定しても、会社の体面が残る。
たとえ体面を無視しても、法務リスクが残る。
人身売買。
児童就労。
極秘実験機。
警察沙汰のレイバー。
その中心にいる少年を、会社がどう扱うか。
バドは、そこへ自分の名前を結びつけた。
徳永は背筋に冷たいものを感じた。
子供ではない。
いや、子供ではある。
だが、ただの子供ではない。
あれは、自分がどう見られるかを理解している。
会議室という場所が、発言の印象を消せない場所だと理解している。
大人が「知らない」と切り捨てるには、日本の大企業の会議室は道徳的すぎると理解している。
「……内海の影響か」
いや。
内海なら、もっと愉快そうにやる。
あの男は他人の人生を玩具にするが、あの発言には、もっと切実なものがあった。
廃棄されたくない。
使い捨てにされたくない。
だから偉い人間の責任に潜り込む。
そういう、生々しい生存本能だ。
徳永は、もう一度メモを見た。
法務部からの提案。
バドリナート・ハルチャンドについて、当面は「海外協力機関からの特別研究協力者」として扱う。
未成年であるため、就労ではなく保護・教育・研究協力の枠組みにする。
滞在資格については、海外法人経由で調整。
社内監督責任者を設定。
医療検査、教育環境、生活管理を整備。
徳永は頭を抱えた。
なぜ自分が、内海の拾ってきた子供のために、ここまで整えなければならないのか。
だが、やらなければならない。
放置すれば、もっとまずい。
切り捨てれば、さらにまずい。
警察に取られれば、全部まずい。
結局、保護するしかない。
会社のために。
自分のために。
そして、あの少年のためにも。
そこまで考えて、徳永は苦い顔をした。
「……あの子供の思う壺ではないか」
その時、内線が鳴った。
徳永は嫌な予感を覚えながら受話器を取る。
「私だ」
『法務です。バドリナート君の件ですが、徳永専務のご判断を仰ぎたく』
「分かっている。資料は見た」
『DNA鑑定については、どう扱いますか』
徳永は目を閉じた。
鑑定。
すべきだ。
事実確認は必要だ。
だが、その結果をどう使うかは別の話だ。
「鑑定はする」
『はい』
「ただし、鑑定結果にかかわらず、彼の保護と身分整理は進める」
『親子関係が否定された場合でも、ですか』
「そうだ」
法務担当が一瞬黙った。
徳永は、苛立ちを抑えて続けた。
「あの会議での発言がある。ここで彼を切れば、私個人だけでなく会社の印象も悪い。ましてや、彼はASURAとグリフォンの実証に関わる重要人物だ。雑には扱えん」
『承知しました』
「それから、内海には勝手なことをさせるな」
『……それは、非常に困難かと』
「分かっている。言ってみただけだ」
自分で言って、徳永は疲れた顔になった。
『監督責任者は、どなたに設定しますか』
徳永は沈黙した。
内海にするわけにはいかない。
あの男に任せれば、また玩具にする。
黒崎は実務能力があるが、表の保護者には向かない。
法務部か、海外事業部か、研究所か。
少なくとも、自分の目の届くところには置く必要がある。
「暫定的に、私の管轄扱いにする」
『徳永専務の、ですか』
「そうだ」
言ってから、徳永は胃が重くなるのを感じた。
これでさらに、逃げ道が狭まった。
だが仕方がない。
自分の名前を使われた以上、完全に知らぬ存ぜぬはできない。
『承知しました。では、徳永専務管轄の特別研究協力者として、身分整理案を作成します』
「急げ。外に漏れる前に形だけでも整えろ」
『はい』
内線が切れた。
徳永は受話器を置き、天井を見上げた。
完全に、あの子供に一手取られている。
しかも、自分の弱みと会社の体面を同時に突かれている。
腹立たしい。
恐ろしい。
そして、少しだけ感心してしまう。
「……バドリナート・ハルチャンド」
徳永は、その名を口にした。
グリフォンのパイロット。
ASURAの鍵。
内海の秘蔵っ子。
そして、自分の隠し子疑惑を武器にした少年。
「子供だと思って甘く見れば、食われるな」
窓の外に、東京の街が広がっていた。
そのどこかで、内海は笑っているに違いない。
黒崎は黙って処理を進めているだろう。
そしてバドは、きっと無邪気な顔で次の手を考えている。
徳永は、深く息を吐いた。
「……内海だけでも手に余るというのに」
そこへ、もう一人増えた。
しかも、子供の顔をした厄介者が。
徳永専務は、机の上の法務メモをもう一度手に取った。
逃げ道はない。
ならば、せめて管理するしかない。
情のある男として。
会社の常識人として。
そして、あの少年にこれ以上好き勝手されないために。
徳永は、苦い顔で決裁欄にサインした。