/*/ 企画七課 内海課長室 /*/
バドリナート・ハルチャンドには、戸籍がない。
正確には、どこの国にも正式な出生記録がない。
インドで生まれたらしい。
人買いに拾われたらしい。
香港を経由したらしい。
パレットに回収され、シャフトへ流れてきたらしい。
だが、すべて「らしい」でしかない。
出生証明書はない。
親も不明。
国籍もない。
パスポートもない。
書類の上では、存在しない子供だった。
ただし、能力だけはある。
日本語。
英語。
ヒンディー語。
中国語。
人買いと訓練施設と香港経由の生活で叩き込まれたものに、転生前の知識が混ざり、バドは子供のくせに妙な多言語人材になっていた。
黒崎は、机の上に分厚いファイルを置いた。
「問題は、バドの国籍です」
内海はソファに腰掛け、いつもの薄ら笑いを浮かべている。
「国籍ねえ」
「身分を作るには、どこかの国に正式な籍を置く必要があります。少なくとも、会社として保護・教育・研究協力の枠組みを作るなら、本人の法的な所属を定義しなければなりません」
「面倒だねえ」
「誰のせいだと思っているんです」
「社会かな」
「課長」
「はいはい」
バドは椅子の上で膝を抱えていた。
話は真剣に聞いている。
自分の存在そのものに関わる問題だからだ。
内海は、ふと思いついたように尋ねた。
「バド」
「何?」
「どこの国籍がいい?」
黒崎が顔をしかめた。
「課長。希望で国籍は選べません」
「でも、本人の希望くらい聞いてもいいだろう?」
バドは即答した。
「日本かアメリカ!」
内海が笑った。
「日本かアメリカ?」
「うん!」
「理由は?」
バドは胸を張った。
「パスポートが強い!」
内海は腹を抱えて笑い出した。
「ははははは!」
黒崎は表情を変えなかったが、目だけが疲れていた。
「バド。国籍はゲームの装備品ではありません」
「でも強いパスポートは強い装備やろ」
「否定はしませんが、発想が俗すぎます」
「生存戦略や」
バドは真顔だった。
「僕、日本語できる。英語もできる。ヒンディー語も中国語もいける。でも、インドと中国は嫌や」
黒崎の目がわずかに細くなる。
「理由は」
「あそこは、国が人を消しに来る」
バドはさらっと言った。
内海の笑みが、少しだけ深くなった。
「過激だねえ」
「実感や」
バドは膝を抱え直した。
「インドは僕が攫われた場所や。出生記録も怪しい。人買いの線も残っとる。あっちに戻されたら、どこで誰に握られるか分からへん」
「中国は?」
「香港経由やから、中国語は使える。でも、身分作る先としては怖い。書類を作るのも消すのも、国が本気出したら一瞬やろ」
黒崎は、反論しなかった。
実務的にも、バドの身分をそのあたりへ寄せるのは危険が多すぎる。
バドは指を折る。
「日本なら、今ここにおる。徳永専務さんの件も使える。会社も面倒見やすい。警察に捕まっても、いきなり変なところに送り返されにくい」
「アメリカは?」
「英語で何とかなるし、パスポート強いし、移民も多いし、いざとなったらシャフト本社筋で何かできそうやん」
内海は楽しそうに頷いた。
「なるほど。実に現実的だ」
「あと、イギリスとフランスでも良いかな?」
黒崎がメモを取る手を止めた。
「イギリスとフランス?」
「うん。移民が多いから、それっぽいやろ」
「それっぽい、で国籍は作れません」
「分かっとる。でも、見た目と経歴を混ぜるなら、日本より説明しやすいかもしれへんやん。インド系移民の子供とか、旧植民地絡みとか、そういう話にできそうやし」
内海は感心したように拍手した。
「素晴らしい。自分の偽装経歴を、移民史から逆算している」
「褒めとる?」
「もちろん」
「信用ならへん」
黒崎は淡々と言った。
「現実的な候補としては、日本での保護登録を先行させるのが最も管理しやすいでしょう。国籍そのものではなく、まずは滞在資格、保護者、教育、医療記録を整える」
「日本国籍は?」
「すぐには無理です」
「アメリカは?」
「さらに無理です」
「イギリスかフランスは?」
「簡単ではありません」
「なんや。どれも難しいやん」
「国籍とはそういうものです」
バドは頬を膨らませた。
「ゲームならキャラメイクで選べるのに」
「現実です」
「現実つまらんなぁ」
内海は笑った。
「でも、面白いじゃないか。存在しない子供が、会社と専務と法務を巻き込んで、どこの国の人間になるか考えている」
「内海さん、言い方が悪趣味や」
「褒めてるんだよ」
「信用ならへん」
バドは少し考え込んだ。
その顔は、十歳そこそこの子供にしては妙に大人びていた。
「黒崎さん」
「何です」
「僕な、別に日本人になりたいとか、アメリカ人になりたいとか、そういう夢の話しとるんちゃうで」
「分かっています」
「僕は、消されにくい身分が欲しい」
部屋が少し静かになった。
バドは続ける。
「インドでも中国でも香港でも、書類の外に落ちた子供なんか、いくらでも消えるやろ。僕はもうそれを知っとる。だから、書類の中に入りたい」
黒崎は何も言わなかった。
内海の笑みも、少しだけ静かになった。
「パスポートが強いっていうのはな」
バドは、自分の小さな手を見た。
「僕が、どこかの国に『この子はうちの人間です』って言ってもらえるってことやろ」
黒崎は、ゆっくりと頷いた。
「そうです」
「それが欲しい」
バドは顔を上げた。
「日本語も英語もヒンディー語も中国語もできる。どこでも使える。でも、どこの国にも存在せえへん。それは嫌や」
内海は、軽く手を叩いた。
「では、まずは存在するところから始めよう」
「内海さんが言うと、めっちゃ信用できへん」
「ひどいなあ」
「黒崎さん、ちゃんとやってな」
「私がやります」
「頼んだで」
黒崎はファイルを閉じた。
「第一候補は日本での保護・滞在資格の整理。第二候補として、アメリカ、イギリス、フランスの経路を法務に検討させます。ただし、国籍取得ではなく、まずは合法的な身分と移動手段の確保です」
「パスポートは?」
「まだ先です」
「むぅ」
「焦らないで下さい」
「焦るわ。僕、アルフォンス倒した後も遊びたいんや」
内海が笑う。
「そのための国籍かい?」
「そのための国籍や」
バドは真剣な顔で言った。
「身分ないと、勝ってもエンディング後に消されるやろ」
黒崎は深く息を吐いた。
「その表現はやめて下さい」
「ほな、保護されるために頑張る」
「それなら構いません」
内海は楽しそうにバドを見た。
「バド」
「何?」
「君は本当に、いい子になったねえ」
「良い子は国籍を装備品扱いせえへん」
「それもそうだ」
バドは椅子から飛び降りた。
「ほな、攻略順決定や」
小さな指を立てる。
「まず身分。次にASURA。次にグリフォン」
もう一本、指を立てる。
「最後にアルフォンスや」
黒崎は、その背中を見ながら思った。
この子供は、ただ国籍が欲しいのではない。
存在を保証する盾が欲しいのだ。
インドでも、中国でも、香港でもなく。
消されにくい場所。
切り捨てられにくい書類。
強いパスポート。
それを子供の口で、ゲームの装備品のように語っている。
内海は心底楽しそうに笑った。
「いいねえ。国籍まで攻略対象か」
「当たり前や」
バドは振り返って、にっと笑った。
「生き残らな、ゲームは続けられへんからな」