/*/ シャフト・エンタープライズ・ジャパン 専務応接室 /*/
「内海」
徳永専務の声は低かった。
応接室の空気が、さらに重くなる。
バドはソファの端に座り、目元を袖で拭っていた。
黒崎は壁際に立っている。
その顔はいつも通り無表情だったが、内心ではすでに何度目かの溜息をついていた。
そして内海は、怒られるために呼び出された男とは思えないほど、楽しそうに立っていた。
「はい、何でしょう」
「何でしょう、ではない」
徳永は机の上の鑑定書を指で叩いた。
「親子関係は否定された」
「それは何よりです」
「何より?」
「専務の家庭問題にならずに済みました」
「君がそれを言うな」
「失礼しました」
内海は頭を下げた。
だが、口元は笑っている。
徳永のこめかみが動いた。
「バドリナート君は、君から『父親は日本の偉い人だ』と聞かされたと言っている」
「へえ」
「へえ、ではない」
「僕がそんなことを?」
内海はちらりとバドを見た。
バドは泣きそうな顔のまま、ほんの一瞬だけ内海に目配せした。
内海は、その一瞬で全部理解した。
そして、ますます楽しそうになった。
黒崎は、それを見て胃が痛くなった。
「内海」
「はい」
「君は、子供を何だと思っている」
「友達です」
「ふざけるな」
「かなり本気ですが」
「君の本気が一番たちが悪い」
徳永は椅子から立ち上がった。
「人身売買まがいの経路で流れてきた少年を、グリフォンのパイロットに仕立て、ASURAの実証に使い、今度は私を強請る材料にした」
「強請るだなんて」
「違うのか」
「僕は、そんなに上手くやれませんよ」
内海はにこにこ笑った。
「今回のこれは、バドが上手かったんです」
バドがびくりと肩を揺らす。
徳永はその反応を見て、さらに顔を険しくした。
「責任を子供に押しつける気か」
「いいえ。褒めているんです」
「内海!」
徳永の怒声が飛んだ。
バドは肩をすくめた。
黒崎は目を閉じた。
内海だけが、実に嬉しそうだった。
「いやあ、専務。見事だと思いませんか」
「何がだ」
「DNA鑑定で親子関係が否定される。普通なら、そこで話は終わりです」
内海は、軽い調子で指を立てる。
「ところがバドは、そこで立場を変えた。『専務の隠し子』から、『内海に騙されて父親を信じた哀れな子供』へ」
バドの肩が、わずかに固まる。
黒崎の胃が、また痛んだ。
徳永の目が細くなる。
「君は、それを分かっていて言っているのか」
「もちろん」
「では認めるんだな。君がこの子をそう仕向けたと」
「いえいえ」
内海は肩をすくめた。
「仕向けたのではありません。育ったんです」
徳永は言葉を失った。
内海は、心底嬉しそうにバドを見る。
「いやあ、バド。実にいい。勝敗だけじゃない。勝った後の立場、負けた後の逃げ道、相手がどう見られたくないかまで読んだ」
「内海さん……」
バドは困ったような顔を作る。
だが、内海には分かる。
その目の奥は、笑っている。
「君は、ちゃんと現実をゲーム盤として見始めている」
「内海!」
徳永が机を叩いた。
「子供にそんなことを教えるな!」
「教えたわけではありません」
「なら何だ」
「見せただけです」
内海は、悪びれずに言った。
「大人がどう動くか。会社がどう責任を避けるか。人はどういう時に切り捨て、どういう時に切り捨てられなくなるか。そういうものを、彼は見て覚えたんです」
徳永は内海を睨みつけた。
「それを、教育とは呼ばん」
「でしょうね」
「虐待だ」
「かもしれません」
内海は、少しも傷ついた顔をしなかった。
むしろ、その言葉すら味わっているようだった。
「ですが専務。バドは生き残ろうとしている。自分が使い捨てにされる可能性を理解して、それを避ける手を打った。僕は、それを立派だと思います」
「十歳そこそこの子供が考えることではない」
「彼の人生では、考えなければならなかった」
その一言だけは、軽くなかった。
徳永は黙った。
バドも黙った。
黒崎も、内海を見た。
内海は相変わらず笑っている。
だが、その笑みの奥に、ほんの少しだけ別のものが混じっていた。
「インドで拾われ、売られ、訓練され、パレットを経て、ここへ来た。書類もない。国籍もない。親もない。なら、自分で居場所を作るしかない」
内海はバドの頭に軽く手を置いた。
「この子は、そうしたんです」
バドは目を伏せた。
演技の泣き顔に、ほんの少しだけ本物が混じった。
徳永は、それを見てしまった。
怒りの矛先が鈍る。
だが、内海への怒りは消えない。
「だからといって、君のやり方を許すわけではない」
「もちろん」
「バドリナート君は、当面、私の管轄で保護する。身分整理、教育、医療、生活環境もこちらで見る。君に全権は渡さない」
「それは困りましたね」
「困れ」
徳永は即答した。
「君が困るために言っている」
内海は、そこでまた笑った。
「いやあ、専務もなかなか意地が悪い」
「君に言われたくない」
「でも、グリフォンには乗せますよね?」
徳永の顔がしかめられる。
「それは別途判断する」
「ASURAの検証には必要です」
「分かっている」
「バドも、アルフォンスと遊びたがっています」
「それが一番問題だ」
バドが小さく口を挟む。
「専務、僕、ちゃんと勉強もするで」
徳永はバドを見る。
「勉強?」
「うん。日本語も英語もできるけど、ちゃんと学校の勉強もする。身分作るのにいるやろ?」
徳永の表情が、また少し緩む。
「……必要だな」
「健康診断もする」
「それも必要だ」
「グリフォンのテストもする」
「それは必要かどうか、こちらで判断する」
「むぅ」
バドは頬を膨らませた。
内海が笑う。
「ほら、専務。こんなにいい子です」
「誰のせいでこうなったと思っている」
「環境ですかね」
「君だ」
「手厳しい」
徳永は深く息を吐いた。
「内海。君には別途、処分を検討する」
「おや」
「嬉しそうな顔をするな」
「いえ、怒られるのは好きではありませんよ」
「嘘をつけ」
内海は口元に手を当てた。
笑いを堪えている。
だが、堪えきれていない。
「申し訳ありません。つい」
「つい、何だ」
「バドがあまりに上手くやったものですから」
徳永は、心底呆れた顔をした。
「君は本当に、反省というものを知らんな」
「していますよ」
「どこを」
「次はもっと上手くやろうと」
「それを反省とは言わん!」
黒崎は静かに目を伏せた。
徳永の怒声。
内海の笑い。
バドの泣き顔と計算顔。
この場にいる全員が、それぞれ違う勝負をしている。
徳永は、会社の体面と子供の保護を守ろうとしている。
バドは、自分の身分と生存ルートを確保しようとしている。
内海は、その全部を面白がっている。
そして黒崎は、全員がこれ以上余計な火をつけないよう祈っている。
祈る相手などいなかったが。
徳永は最後に、きっぱりと言った。
「バドリナート君を、君の玩具にはさせない」
内海は、少しだけ目を細めた。
「玩具ではありませんよ」
「なら何だ」
「友達です」
「その友達を、君は危険なレイバーに乗せている」
「一緒に遊ぶためです」
「内海!」
また怒声。
だが内海は、やはり楽しそうだった。
徳永に怒られることよりも、バドが自分の予想を越えて育っていることの方が、よほど大きい。
バドは、それを見て小さく呟いた。
「内海さん、怒られとるのに楽しそうやな」
内海はにこりと笑った。
「楽しいよ」
「なんで?」
「君が面白いから」
バドは少しだけ照れたような顔をした。
「変な人やな」
「よく言われる」
「たぶん悪口やで」
「知っているよ」
徳永は、頭痛をこらえるように目を閉じた。
黒崎は思った。
この二人を引き離すべきだ。
少なくとも、同じ部屋に長時間置くべきではない。
だが、それももう遅い。
内海はバドを見つけた。
バドは内海を見て育った。
そして今、徳永専務を巻き込んで、会社そのものを盤面に乗せ始めている。
黒崎の胃は、今日も静かに痛んでいた。