転生バドは勝利を夢見る   作:ぶーく・ぶくぶく

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ブラジル編開始!

/*/ シャフト・エンタープライズ・ジャパン 本社会議室 /*/

 

 

 

 会議室の空気は、重かった。

 

 長机の上には、複数のファイルが並んでいる。

 

 東京レイバーショウ襲撃事件に関する社内報告書。

 

 篠原重工および警察当局の動向調査。

 

 ASURA商品化計画。

 

 ブラジル支社における実証試験計画。

 

 そして、もう一つ。

 

 バドリナート・ハルチャンドに関する身分整理書類。

 

 徳永専務は、会議室の上座に座っていた。

 

 その表情は硬い。

 

 横には法務部長、人事部長、海外事業部の担当役員。

 

 黒崎は壁際に控えている。

 

 内海は、いつものように薄く笑って座っていた。

 

 そしてバドは、内海の隣の椅子で足をぶらぶらさせていた。

 

 その場にいる大人たちの緊張感と、自分の足の長さがまるで合っていない。

 

 徳永は、まず内海を見た。

 

「内海」

 

「はい」

 

「君の処遇について決定した」

 

「おや」

 

「シャフト・エンタープライズ・ブラジル支社への異動を命じる」

 

 会議室が静かになった。

 

 内海は目を丸くした。

 

 だが、それは驚きというより、面白い札を引いた時の顔だった。

 

「ブラジルですか」

 

「そうだ」

 

「南米ですね」

 

「地理の確認は不要だ」

 

「広いですねえ」

 

 徳永の眉間に皺が寄る。

 

「旅行ではない」

 

「もちろんです」

 

「左遷だ」

 

 人事部長が咳払いをした。

 

「専務。形式上は、ブラジル支社におけるASURA適応試験および海外市場向け制御OS実証計画の統括責任者、という辞令になります」

 

「形式上はな」

 

 徳永は冷たく言った。

 

「実質は、日本国内でこれ以上余計な騒ぎを起こさせないための隔離だ」

 

「隔離」

 

 内海は嬉しそうに繰り返した。

 

「いい響きですね」

 

「喜ぶな」

 

「いえ、反省しております」

 

「その顔で言うな」

 

 黒崎は、壁際でわずかに目を伏せた。

 

 いつものことだった。

 

 徳永はファイルを一つ開く。

 

「東京レイバーショウ以降、警察および篠原重工の調査は継続中だ。表向き、シャフト・エンタープライズ・ジャパンとしては関与を否定している。しかし君が日本にいれば、必ずまた動く」

 

「必ず、とは」

 

「必ずだ」

 

「信用されていますねえ」

 

「信用していないから言っている」

 

 バドが小さく手を上げた。

 

「専務」

 

「何だね」

 

「内海さん、ブラジルで何するん?」

 

 徳永は、バドへ視線を移した。

 

 内海を見る時より、少しだけ声が柔らかくなる。

 

「ASURAの実証試験だ」

 

「ASURA?」

 

「グリフォン本体ではなく、ASURAを既存レイバーへ搭載した場合の姿勢制御、転倒復帰、対レイバー格闘補正、作業用レイバーへの適応性を検証する」

 

 バドの目が動いた。

 

「ブロッケン?」

 

 森川政治が、会議室の端で身を乗り出した。

 

 彼も呼ばれていた。

 

 机上の資料には、ブロッケンの断面図と、ASURA試験系の増設箇所が描かれている。

 

「正確には、ブロッケンを母体としたASURA搭載試験機だ。完全版ASURAではない。判断系、姿勢補正、ログ収集、緊急遮断系を組み込んだ試験用パッケージになる」

 

 磯口豊が楽しそうに続ける。

 

「既存のブロッケンに、無理やりもう一つ脳を詰め込むようなものだね。かなり窮屈になる」

 

 バドは椅子の上で前のめりになった。

 

「コックピット、狭くなるん?」

 

「かなり」

 

「大人乗れる?」

 

 森川が首を振った。

 

「現状では難しい。成人男性では肩と膝が干渉する。緊急脱出動作も保証できない」

 

 バドは、ぱっと内海を見た。

 

 内海はにこにこしている。

 

 黒崎は、嫌な予感がしていた。

 

 徳永は、重々しく言った。

 

「そこで、バドリナート君」

 

「はい」

 

「君にも、ブラジル支社へ同行してもらう」

 

 バドの足が止まった。

 

「僕も?」

 

「そうだ」

 

「内海さんと?」

 

「内海課長、黒崎君、土浦研究所の技術者数名、医療担当、法務担当が同行する」

 

「黒崎さんも?」

 

 黒崎は淡々と答えた。

 

「同行します」

 

「監視?」

 

「監視です」

 

「言い切った」

 

「隠す理由がありません」

 

 内海が笑った。

 

「楽しい旅になりそうだねえ」

 

 徳永が即座に言った。

 

「旅ではない」

 

「では研修旅行」

 

「違う」

 

「海外実証試験」

 

「それだ」

 

「つまり出張ですね」

 

「君の場合は謹慎に近い」

 

「専務、どんどん言葉が悪くなっていますよ」

 

「君がそうさせている」

 

 バドは、少し考え込んだ。

 

「僕、ブラジル行けるん?」

 

「そのための話を今からする」

 

 徳永は、机の上に置かれた別のファイルを手に取った。

 

 それは、他の報告書よりも薄い。

 

 だが、バドはなぜか、それが一番気になった。

 

 徳永は、バドの前へファイルを滑らせた。

 

「開けなさい」

 

「僕が?」

 

「君の書類だ」

 

 バドは、少しだけ緊張した顔でファイルを開いた。

 

 一枚目に、写真が貼られていた。

 

 自分の顔。

 

 真正面を向いた、少しむっとした顔。

 

 その横に、名前が印字されている。

 

 バドリナート・ハルチャンド。

 

 生年月日欄には、推定と注記がある。

 

 国籍欄。

 

 日本。

 

 所属欄には、シャフト・エンタープライズ・ジャパン特別研究協力者。

 

 保護責任部署、海外事業部・技術開発本部共同管理。

 

 実務担当、黒崎。

 

 統括責任者、徳永専務。

 

 備考。

 

 未成年保護対象。

 医療・教育・生活管理対象。

 ASURA実証計画における特別技能協力者。

 国外渡航は会社管理下に限る。

 日本国旅券交付済み。

 

 バドは、黙ってその紙を見ていた。

 

 会議室の大人たちも、しばらく黙った。

 

 徳永が言う。

 

「君の国籍整理については、会社として可能な範囲の手続きを進めた。事情は特殊だが、関係各所との調整の結果、君は日本国籍を持つ者として扱われる」

 

 バドは、紙から目を離さなかった。

 

「日本」

 

「そうだ」

 

「僕、日本人なん?」

 

「書類上はそうなる」

 

「書類上……」

 

 バドは、指で国籍欄をなぞった。

 

 日本。

 

 たった二文字。

 

 だが、それはバドにとって、グリフォンの装甲より重い文字だった。

 

「僕の名前、ある」

 

「ある」

 

「写真もある」

 

「ある」

 

「国籍、日本って書いてある」

 

「ある」

 

「所属もある」

 

「ある」

 

「僕、書類の中に入ったん?」

 

 徳永は、少しだけ言葉に詰まった。

 

 それから、静かに頷いた。

 

「そうだ。君は、もう会社の倉庫に隠された子供ではない。少なくとも、書類の上では、国に属する人間だ」

 

 バドは、指で自分の名前をなぞった。

 

 その仕草は、いつもの悪知恵を働かせる子供のものではなかった。

 

 もっと単純で、もっと危ういものだった。

 

「……僕、存在する人間になった?」

 

 黒崎は、わずかに視線を下げた。

 

 徳永は答えた。

 

「前から存在していた。書類が追いついたんだ」

 

「書類が、追いついた」

 

「そうだ」

 

「僕、日本の人間なんや」

 

「そうだ」

 

 その言葉に、バドの肩が少しだけ緩んだ。

 

 内海は、それを見ていた。

 

 楽しそうな笑みではなく、少しだけ静かな笑みだった。

 

 だが、すぐにいつもの顔に戻る。

 

「よかったねえ、バド。強いパスポートだ」

 

 バドは、顔を上げた。

 

「パスポート?」

 

 徳永が法務部長へ目を向ける。

 

 法務部長は、黒いケースを机の上へ置いた。

 

 バドの前に、紺色の旅券が差し出される。

 

 表紙には、日本国旅券と金色の文字。

 

 その下に菊花紋章。

 

 バドは、しばらくそれを見つめていた。

 

 触っていいのか分からない顔だった。

 

 徳永が言った。

 

「取りなさい」

 

 バドは両手で旅券を受け取った。

 

 恐る恐る開く。

 

 そこには、また自分の顔があった。

 

 名前。

 

 国籍。

 

 日本。

 

 旅券番号。

 

 発行官庁。

 

 有効期限。

 

 バドは、ぱちぱちと瞬きした。

 

「これ、本物?」

 

 黒崎が即答した。

 

「本物です」

 

「偽物ちゃう?」

 

「違います」

 

「内海さんが作ったやつでもなく?」

 

「違います」

 

 内海が笑う。

 

「僕は作ってないよ」

 

 バドは旅券を胸の前で持った。

 

「僕、日本のパスポート持っとるん?」

 

 徳永が頷く。

 

「持っている」

 

「強い装備や」

 

 黒崎が低く言う。

 

「装備ではありません」

 

「強い装備やろ」

 

「違います」

 

「でも、これ持ってたら僕、ブラジル行けるんやろ」

 

「行けます。ただし会社管理下です」

 

「帰ってこられる?」

 

「帰ってこられます」

 

「僕、どこかに置いていかれへん?」

 

 会議室が、また静かになった。

 

 黒崎は、少しだけ表情を変えた。

 

 徳永は、ゆっくりと言った。

 

「置いていかない」

 

 バドは徳永を見た。

 

「ほんま?」

 

「本当だ」

 

「内海さんは?」

 

 内海は笑って言った。

 

「僕は置いていかないよ。面白いからね」

 

 黒崎が即座に言う。

 

「理由が最悪です」

 

 徳永は内海を睨んだ後、バドへ視線を戻した。

 

「この旅券は、君を自由に放り出すためのものではない。君を守るためのものだ」

 

「守る?」

 

「国外へ出る時、君が何者かを証明する。どこの国の保護を受ける者かを示す。会社の書類だけでは足りない場面で、この旅券が君を守る」

 

 バドは、また旅券を見た。

 

 パレット。

 

 人買い。

 

 香港。

 

 シャフト。

 

 グリフォン。

 

 どこにも属していない子供。

 

 それが、急に日本という文字の中へ入っている。

 

 重い。

 

 怖い。

 

 嬉しい。

 

 バドは小さく笑った。

 

「僕、だいぶ人間っぽくなったな」

 

 徳永が静かに言った。

 

「前から人間だ。君がそう扱われていなかっただけだ」

 

 バドは、少し困ったように笑った。

 

「専務、たまにええこと言うな」

 

 黒崎が即座に言う。

 

「失礼です」

 

 徳永は疲れた顔で答えた。

 

「褒め言葉として受け取っておく」

 

 黒崎は、法務部長からもう一枚のカードを受け取り、バドへ差し出した。

 

「これは会社の携帯用身分証です。旅券とは別です。現地法人、医療機関、航空会社、入管対応時に使います。失くさないで下さい」

 

 バドはカードも受け取った。

 

 顔写真。

 

 名前。

 

 所属。

 

 管理番号。

 

 シャフトのロゴ。

 

 実務担当、黒崎。

 

「カード装備もある」

 

「だから装備ではありません」

 

「パスポートとカード。二つ装備や」

 

「違います」

 

「これで僕、強くなった」

 

「あなたの戦闘能力とは関係ありません」

 

「消されにくくなった」

 

 黒崎は、言葉を止めた。

 

 バドは、旅券とカードを見比べた。

 

「強いパスポートは、強い装備や」

 

 黒崎は少しだけ目を伏せる。

 

 それから、静かに言った。

 

「そういう意味では、間違っていません」

 

 バドが目を丸くする。

 

「珍しく認めた」

 

「珍しくではありません」

 

 徳永は咳払いをした。

 

「話を戻す。ブラジル支社では、ASURA搭載ブロッケン試験機による動作データ収集を行う。目的は、ASURAの商品化に向けた既存機体への適応性検証だ」

 

 内海が口を挟む。

 

「そしてついでに、グリフォン用ASURAの判断系も鍛えられる」

 

「ついでではない」

 

「では副次的成果」

 

「君が言うと主目的に聞こえる」

 

「実に鋭い」

 

「褒めていない」

 

 徳永は資料をめくった。

 

「試験内容は制限する。実戦行為は禁止。第三者の機体を巻き込むことも禁止。武装使用も原則禁止。試験場はブラジル支社管轄の閉鎖区域とする」

 

 内海はにこやかに頷いた。

 

「もちろんです」

 

「信用していない」

 

「ひどいなあ」

 

「だから黒崎君を同行させる」

 

 黒崎が一礼した。

 

「現地での実務管理、安全停止権限、搭乗時間管理、医療連携、機体ログ保全、旅券管理を担当します」

 

 バドが黒崎を見る。

 

「パスポートも黒崎さん管理?」

 

「原則、移動時以外は私が保管します」

 

「えー」

 

「失くされたら困ります」

 

「僕のやのに」

 

「あなたのものです。ですが、管理はします」

 

「検閲やん」

 

「保護です」

 

「似てるなぁ」

 

「違います」

 

 バドは、旅券を抱え込むように持った。

 

 黒崎はすぐには取り上げなかった。

 

 今日くらいは、持たせておくべきだと思ったからだ。

 

 徳永は、さらに厳しい声で言った。

 

「バドリナート君の搭乗には条件をつける」

 

「条件?」

 

「医師の事前確認。搭乗時間の制限。緊急停止権限は黒崎君。内海課長の独断による試験は禁止。危険度が基準を超えた場合は即時中止。学習、医療、生活記録の作成も義務とする」

 

 バドは、少し不満そうな顔をした。

 

「学校みたいやな」

 

「実際に教育計画も組む」

 

「ブラジルで?」

 

「日本語、英語、基礎学科、技術教育、安全教育、法的身分に必要な教育記録。全てだ」

 

「僕、日本のパスポート貰ったのに、まだ勉強いるん?」

 

「旅券は卒業証書ではない」

 

「うへえ」

 

 内海が笑った。

 

「バド、宿題だって」

 

「内海さんも書類いっぱい書かされるで」

 

 内海の笑みが一瞬だけ止まった。

 

 黒崎が淡々と言う。

 

「その通りです。課長には、週次報告書、試験計画書、リスク評価表、現地法人向け説明書、徳永専務宛て進捗報告の提出義務があります」

 

「黒崎君」

 

「はい」

 

「聞いていないよ」

 

「今お伝えしました」

 

「専務、これは少し厳しすぎませんか」

 

 徳永は即答した。

 

「君には足りないくらいだ」

 

「左遷先で報告書漬けとは」

 

「それが謹慎だ」

 

「僕はてっきり、広い試験場と緩い監視と多様なレイバー環境をいただけるのかと」

 

「それを防ぐための報告書だ」

 

「なるほど。では報告書に広い試験場と多様なレイバー環境について書けばいいわけですね」

 

「内海」

 

「はい」

 

「反省しろ」

 

「しています」

 

「その顔で言うな」

 

 バドがくすっと笑った。

 

 徳永はバドへ視線を移す。

 

「君もだ」

 

「僕?」

 

「この計画は、君の遊びではない」

 

「うん」

 

「アルフォンスと戦うための準備でもない」

 

 バドは黙った。

 

 徳永は続ける。

 

「表向きは、ASURAの商品化試験だ。会社として認めるのはそこまでだ」

 

 バドは少し考えた。

 

 そして、真面目な顔で頷く。

 

「分かった」

 

「本当に分かったかね」

 

「うん。表向きは、やろ」

 

 徳永は額に手を当てた。

 

「そこを理解するな」

 

 内海は肩を震わせて笑っていた。

 

 黒崎は胃が痛くなった。

 

 徳永は深く息を吐く。

 

「いいか、バドリナート君。君は日本国籍を持つ未成年だ。会社の協力者ではあるが、同時に保護対象でもある。危険な試験に際して、君の意思だけでは判断させない」

 

「でも僕しか乗られへんのやろ」

 

 会議室の空気が少しだけ重くなった。

 

 バドは、机の上のブロッケン断面図を見る。

 

 ASURAの演算ユニット。

 

 冷却装置。

 

 ログ記録装置。

 

 大人が入らなくなったコックピット。

 

 自分程度の体格でなければ乗れない穴。

 

「グリフォンだけやなくて、ブロッケンASURAも僕用なんやな」

 

 森川が慎重に言う。

 

「現状では、君の体格が必要になる」

 

 磯口は少し軽い調子で言った。

 

「ASURAが小型化できれば、大人でも乗れるようになるさ」

 

 バドはにっと笑った。

 

「ほな競争やな」

 

「競争?」

 

「僕が大きくなるのが先か、ASURAが小さくなるのが先か」

 

 内海が嬉しそうに手を叩いた。

 

「いいねえ」

 

 徳永は睨んだ。

 

「よくない」

 

「でも専務」

 

 バドは、徳永を見た。

 

「僕、乗るで」

 

「君の意思だけでは決めないと言った」

 

「うん。でも、言うとく」

 

 バドは旅券と身分証カードを大事そうに机へ置いた。

 

「僕、グリフォンでアルフォンスに勝ちたい。でも、そのためにグリフォンを無駄に壊したらあかん。ブロッケンで転んで、捕まって、押し負けて、ASURAに負け筋を食わせる。それが一番ええ」

 

 徳永は何も言わなかった。

 

「それに」

 

 バドは、日本国旅券の表紙を軽く叩いた。

 

「僕、日本のパスポート貰ったやろ。ちゃんと国の中に入ったんやろ。なら、勝手に消されへん。逃げるためだけやなくて、ちゃんと戻ってくるために使う」

 

 黒崎が目を細めた。

 

「その理解は、悪くありません」

 

「褒めた?」

 

「褒めてはいません」

 

「でも悪くないって言った」

 

「はい」

 

 徳永は静かに言った。

 

「ただし、保護されたから働かなければならない、という理屈にしてはいけない」

 

 バドは、少しだけきょとんとした。

 

 徳永も黒崎を見た。

 

 黒崎は淡々と続ける。

 

「あなたは、働くために保護されたのではありません。国籍も旅券も、会社に奉仕するために与えられたものではない。保護された上で、制限付きの協力を求められている。順番を間違えないで下さい」

 

 バドはしばらく黙った。

 

 それから、小さく言った。

 

「……黒崎さん、たまにまともな大人みたいなこと言うな」

 

「常にまともです」

 

「内海さんの部下やのに?」

 

「それは関係ありません」

 

 内海が楽しそうに笑う。

 

「黒崎君はまともだよ。僕の部下をやっていること以外は」

 

「課長」

 

「はい」

 

「黙って下さい」

 

「はいはい」

 

 徳永は黒崎を見て、少しだけ頷いた。

 

「その通りだ。バドリナート君。君は会社の所有物ではない」

 

 バドは、不思議そうな顔をした。

 

「ほんまに?」

 

 徳永は言葉に詰まった。

 

 その問いが、冗談ではなかったからだ。

 

 バドは本当に確認していた。

 

 自分は会社の所有物ではないのか。

 

 パレットの商品ではないのか。

 

 グリフォンの部品ではないのか。

 

 ASURAの入力装置ではないのか。

 

 徳永は、ゆっくりと言った。

 

「本当だ」

 

 バドは、少し困ったように笑った。

 

「ほな、変な感じやな」

 

「慣れなさい」

 

「うん」

 

 会議室に、わずかな沈黙が落ちた。

 

 それを破ったのは、内海だった。

 

「それで専務」

 

「何だ」

 

「出発はいつです?」

 

「二週間後だ」

 

「準備期間としては短いですね」

 

「君が余計なことをする前に出す」

 

「信用がないなあ」

 

「ない」

 

「でも、バドの旅券、渡航準備、機体搬送、ASURA試験系の組み込み、ブラジル支社の試験場調整。二週間で?」

 

 徳永は海外事業部担当役員を見た。

 

 担当役員は苦い顔で頷いた。

 

「可能にします」

 

「可能なのですか」

 

「可能にします」

 

 黒崎が静かに言った。

 

「既に一部手配済みです」

 

 内海は笑った。

 

「おや。僕に内緒で?」

 

「あなたに事前に伝えると、勝手に計画を広げるためです」

 

「ひどいなあ」

 

「事実です」

 

 バドが旅券を抱えたまま聞いた。

 

「ブラジルって暑い?」

 

「暑い地域も多いですね」

 

「グリフォン、熱ダレしやすいからちょうどええな」

 

 徳永が鋭く言う。

 

「グリフォンを動かすとは言っていない」

 

「でもデータいるやろ?」

 

「ASURA搭載ブロッケンが主だ」

 

「主はな」

 

「バドリナート君」

 

「はい」

 

「君も、表向きと裏向きを使い分けるな」

 

「難しいなぁ」

 

 内海が小さく拍手した。

 

「実に順応が早い」

 

「褒めるな!」

 

 徳永の怒声が飛ぶ。

 

 内海は楽しそうに肩をすくめた。

 

 黒崎の胃がまた痛んだ。

 

 徳永は最後に、書類を閉じた。

 

「決定事項を確認する」

 

 会議室の全員が姿勢を正す。

 

「内海課長は、ブラジル支社へ異動。ASURA搭載ブロッケン試験計画の統括責任者とする。ただし、試験内容は本社承認制。週次報告義務あり」

 

「はい」

 

「黒崎君は同行し、現地での安全管理、法務連絡、バドリナート君の実務保護および旅券管理を担当」

 

「承知しました」

 

「土浦研究所は、ASURA試験系の搭載、ログ解析、グリフォン用制御系への変換研究を担当」

 

 森川と磯口が頷く。

 

「バドリナート・ハルチャンドは、日本国籍を有する未成年として、シャフト・エンタープライズ・ジャパン特別研究協力者、および未成年保護対象に登録。ブラジル支社へは日本国旅券を用い、会社管理下で渡航。教育、医療、生活記録を整備し、身分関係書類を継続管理する」

 

 バドは、自分の名前と国籍が大人の声で読み上げられるのを聞いていた。

 

 変な気分だった。

 

 怖いような。

 

 嬉しいような。

 

 くすぐったいような。

 

 自分が、書類上の存在として読み上げられている。

 

 しかも、日本国籍を持つ人間として。

 

「質問は」

 

 徳永が言った。

 

 内海が手を上げた。

 

「ブラジル支社でサンバの練習は業務に含まれますか」

 

「含まれない」

 

 バドも手を上げた。

 

「僕のパスポート、今日持って帰ってええ?」

 

 黒崎が即答した。

 

「移動時以外は私が保管します」

 

「えー」

 

「失くさないためです」

 

「今日だけ」

 

「今日だけなら、専務」

 

 黒崎は徳永を見る。

 

 徳永は、少し考えてから頷いた。

 

「今日だけだ。明日からは黒崎君が保管する」

 

 バドは、旅券を胸に抱えた。

 

「よし」

 

 その顔は、グリフォンに初めて乗った時とは違う。

 

 勝つための玩具を手に入れた顔ではない。

 

 自分の名前と国を、ようやく手の中に持った子供の顔だった。

 

「内海さん」

 

「何だい」

 

「僕、ちょっと人間っぽくなった」

 

 内海は笑った。

 

「前から人間だよ」

 

「内海さんが言うと嘘っぽい」

 

「ひどいなあ」

 

 徳永は静かに言った。

 

「前から人間だ。書類が追いついていなかっただけだ」

 

 バドは、徳永を見た。

 

 少しだけ、いつもの悪知恵の顔ではなくなった。

 

「……ありがとう、専務」

 

「礼は、ブラジルで余計なことをしないことで返しなさい」

 

「それは難しい」

 

「難しくするな」

 

 内海が楽しそうに立ち上がった。

 

「では、南米ですか。いやあ、忙しくなりますね」

 

「内海」

 

「はい」

 

「最後に言っておく」

 

 徳永は、内海をまっすぐ見た。

 

「これは、君に自由な遊び場を与えるための異動ではない」

 

 内海は、にこりと笑った。

 

「もちろんです」

 

「バドリナート君は、君の玩具ではない」

 

「友達です」

 

「その言い方も禁止したいくらいだ」

 

「残念です」

 

「ブラジルで問題を起こした場合、今度こそ君を切る」

 

 内海は笑ったまま答えた。

 

「努力します」

 

「何をだ」

 

「切られない程度に面白くやることを」

 

「内海!」

 

 会議室に徳永の怒声が響いた。

 

 バドは、日本国旅券を握ったまま笑った。

 

 黒崎は、今日何度目か分からない胃痛を覚えた。

 

 南米行きが決まった。

 

 ASURA搭載ブロッケンの試験が始まる。

 

 内海は左遷された。

 

 だが、その顔は、新しい遊び場を与えられた子供のようだった。

 

 バドには、日本国籍と旅券ができた。

 

 それは彼を守る盾であると同時に、彼をブラジルの試験場へ連れていく札でもあった。

 

 紙の束。

 

 旅券一冊。

 

 カード一枚。

 

 それでもバドは、それを大事そうに胸元へしまった。

 

「よし」

 

 小さく呟く。

 

「南米編、開始やな」

 

 黒崎がすぐに言った。

 

「南米編ではありません」

 

 内海が笑った。

 

「いいじゃないか、黒崎君。南米編。実にいい響きだ」

 

「内海さんまで乗らないで下さい」

 

「だって始まるんだろう?」

 

 内海は、バドを見た。

 

 バドも、内海を見た。

 

 二人は同時に笑った。

 

 黒崎は思った。

 

 やはり、この二人を同じ飛行機に乗せてはいけない。

 

 だが、辞令はもう出ていた。

 

 そして、旅券も発行されていた。

 

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