/*/ シャフト・エンタープライズ・ジャパン 本社会議室 /*/
会議室の空気は、重かった。
長机の上には、複数のファイルが並んでいる。
東京レイバーショウ襲撃事件に関する社内報告書。
篠原重工および警察当局の動向調査。
ASURA商品化計画。
ブラジル支社における実証試験計画。
そして、もう一つ。
バドリナート・ハルチャンドに関する身分整理書類。
徳永専務は、会議室の上座に座っていた。
その表情は硬い。
横には法務部長、人事部長、海外事業部の担当役員。
黒崎は壁際に控えている。
内海は、いつものように薄く笑って座っていた。
そしてバドは、内海の隣の椅子で足をぶらぶらさせていた。
その場にいる大人たちの緊張感と、自分の足の長さがまるで合っていない。
徳永は、まず内海を見た。
「内海」
「はい」
「君の処遇について決定した」
「おや」
「シャフト・エンタープライズ・ブラジル支社への異動を命じる」
会議室が静かになった。
内海は目を丸くした。
だが、それは驚きというより、面白い札を引いた時の顔だった。
「ブラジルですか」
「そうだ」
「南米ですね」
「地理の確認は不要だ」
「広いですねえ」
徳永の眉間に皺が寄る。
「旅行ではない」
「もちろんです」
「左遷だ」
人事部長が咳払いをした。
「専務。形式上は、ブラジル支社におけるASURA適応試験および海外市場向け制御OS実証計画の統括責任者、という辞令になります」
「形式上はな」
徳永は冷たく言った。
「実質は、日本国内でこれ以上余計な騒ぎを起こさせないための隔離だ」
「隔離」
内海は嬉しそうに繰り返した。
「いい響きですね」
「喜ぶな」
「いえ、反省しております」
「その顔で言うな」
黒崎は、壁際でわずかに目を伏せた。
いつものことだった。
徳永はファイルを一つ開く。
「東京レイバーショウ以降、警察および篠原重工の調査は継続中だ。表向き、シャフト・エンタープライズ・ジャパンとしては関与を否定している。しかし君が日本にいれば、必ずまた動く」
「必ず、とは」
「必ずだ」
「信用されていますねえ」
「信用していないから言っている」
バドが小さく手を上げた。
「専務」
「何だね」
「内海さん、ブラジルで何するん?」
徳永は、バドへ視線を移した。
内海を見る時より、少しだけ声が柔らかくなる。
「ASURAの実証試験だ」
「ASURA?」
「グリフォン本体ではなく、ASURAを既存レイバーへ搭載した場合の姿勢制御、転倒復帰、対レイバー格闘補正、作業用レイバーへの適応性を検証する」
バドの目が動いた。
「ブロッケン?」
森川政治が、会議室の端で身を乗り出した。
彼も呼ばれていた。
机上の資料には、ブロッケンの断面図と、ASURA試験系の増設箇所が描かれている。
「正確には、ブロッケンを母体としたASURA搭載試験機だ。完全版ASURAではない。判断系、姿勢補正、ログ収集、緊急遮断系を組み込んだ試験用パッケージになる」
磯口豊が楽しそうに続ける。
「既存のブロッケンに、無理やりもう一つ脳を詰め込むようなものだね。かなり窮屈になる」
バドは椅子の上で前のめりになった。
「コックピット、狭くなるん?」
「かなり」
「大人乗れる?」
森川が首を振った。
「現状では難しい。成人男性では肩と膝が干渉する。緊急脱出動作も保証できない」
バドは、ぱっと内海を見た。
内海はにこにこしている。
黒崎は、嫌な予感がしていた。
徳永は、重々しく言った。
「そこで、バドリナート君」
「はい」
「君にも、ブラジル支社へ同行してもらう」
バドの足が止まった。
「僕も?」
「そうだ」
「内海さんと?」
「内海課長、黒崎君、土浦研究所の技術者数名、医療担当、法務担当が同行する」
「黒崎さんも?」
黒崎は淡々と答えた。
「同行します」
「監視?」
「監視です」
「言い切った」
「隠す理由がありません」
内海が笑った。
「楽しい旅になりそうだねえ」
徳永が即座に言った。
「旅ではない」
「では研修旅行」
「違う」
「海外実証試験」
「それだ」
「つまり出張ですね」
「君の場合は謹慎に近い」
「専務、どんどん言葉が悪くなっていますよ」
「君がそうさせている」
バドは、少し考え込んだ。
「僕、ブラジル行けるん?」
「そのための話を今からする」
徳永は、机の上に置かれた別のファイルを手に取った。
それは、他の報告書よりも薄い。
だが、バドはなぜか、それが一番気になった。
徳永は、バドの前へファイルを滑らせた。
「開けなさい」
「僕が?」
「君の書類だ」
バドは、少しだけ緊張した顔でファイルを開いた。
一枚目に、写真が貼られていた。
自分の顔。
真正面を向いた、少しむっとした顔。
その横に、名前が印字されている。
バドリナート・ハルチャンド。
生年月日欄には、推定と注記がある。
国籍欄。
日本。
所属欄には、シャフト・エンタープライズ・ジャパン特別研究協力者。
保護責任部署、海外事業部・技術開発本部共同管理。
実務担当、黒崎。
統括責任者、徳永専務。
備考。
未成年保護対象。
医療・教育・生活管理対象。
ASURA実証計画における特別技能協力者。
国外渡航は会社管理下に限る。
日本国旅券交付済み。
バドは、黙ってその紙を見ていた。
会議室の大人たちも、しばらく黙った。
徳永が言う。
「君の国籍整理については、会社として可能な範囲の手続きを進めた。事情は特殊だが、関係各所との調整の結果、君は日本国籍を持つ者として扱われる」
バドは、紙から目を離さなかった。
「日本」
「そうだ」
「僕、日本人なん?」
「書類上はそうなる」
「書類上……」
バドは、指で国籍欄をなぞった。
日本。
たった二文字。
だが、それはバドにとって、グリフォンの装甲より重い文字だった。
「僕の名前、ある」
「ある」
「写真もある」
「ある」
「国籍、日本って書いてある」
「ある」
「所属もある」
「ある」
「僕、書類の中に入ったん?」
徳永は、少しだけ言葉に詰まった。
それから、静かに頷いた。
「そうだ。君は、もう会社の倉庫に隠された子供ではない。少なくとも、書類の上では、国に属する人間だ」
バドは、指で自分の名前をなぞった。
その仕草は、いつもの悪知恵を働かせる子供のものではなかった。
もっと単純で、もっと危ういものだった。
「……僕、存在する人間になった?」
黒崎は、わずかに視線を下げた。
徳永は答えた。
「前から存在していた。書類が追いついたんだ」
「書類が、追いついた」
「そうだ」
「僕、日本の人間なんや」
「そうだ」
その言葉に、バドの肩が少しだけ緩んだ。
内海は、それを見ていた。
楽しそうな笑みではなく、少しだけ静かな笑みだった。
だが、すぐにいつもの顔に戻る。
「よかったねえ、バド。強いパスポートだ」
バドは、顔を上げた。
「パスポート?」
徳永が法務部長へ目を向ける。
法務部長は、黒いケースを机の上へ置いた。
バドの前に、紺色の旅券が差し出される。
表紙には、日本国旅券と金色の文字。
その下に菊花紋章。
バドは、しばらくそれを見つめていた。
触っていいのか分からない顔だった。
徳永が言った。
「取りなさい」
バドは両手で旅券を受け取った。
恐る恐る開く。
そこには、また自分の顔があった。
名前。
国籍。
日本。
旅券番号。
発行官庁。
有効期限。
バドは、ぱちぱちと瞬きした。
「これ、本物?」
黒崎が即答した。
「本物です」
「偽物ちゃう?」
「違います」
「内海さんが作ったやつでもなく?」
「違います」
内海が笑う。
「僕は作ってないよ」
バドは旅券を胸の前で持った。
「僕、日本のパスポート持っとるん?」
徳永が頷く。
「持っている」
「強い装備や」
黒崎が低く言う。
「装備ではありません」
「強い装備やろ」
「違います」
「でも、これ持ってたら僕、ブラジル行けるんやろ」
「行けます。ただし会社管理下です」
「帰ってこられる?」
「帰ってこられます」
「僕、どこかに置いていかれへん?」
会議室が、また静かになった。
黒崎は、少しだけ表情を変えた。
徳永は、ゆっくりと言った。
「置いていかない」
バドは徳永を見た。
「ほんま?」
「本当だ」
「内海さんは?」
内海は笑って言った。
「僕は置いていかないよ。面白いからね」
黒崎が即座に言う。
「理由が最悪です」
徳永は内海を睨んだ後、バドへ視線を戻した。
「この旅券は、君を自由に放り出すためのものではない。君を守るためのものだ」
「守る?」
「国外へ出る時、君が何者かを証明する。どこの国の保護を受ける者かを示す。会社の書類だけでは足りない場面で、この旅券が君を守る」
バドは、また旅券を見た。
パレット。
人買い。
香港。
シャフト。
グリフォン。
どこにも属していない子供。
それが、急に日本という文字の中へ入っている。
重い。
怖い。
嬉しい。
バドは小さく笑った。
「僕、だいぶ人間っぽくなったな」
徳永が静かに言った。
「前から人間だ。君がそう扱われていなかっただけだ」
バドは、少し困ったように笑った。
「専務、たまにええこと言うな」
黒崎が即座に言う。
「失礼です」
徳永は疲れた顔で答えた。
「褒め言葉として受け取っておく」
黒崎は、法務部長からもう一枚のカードを受け取り、バドへ差し出した。
「これは会社の携帯用身分証です。旅券とは別です。現地法人、医療機関、航空会社、入管対応時に使います。失くさないで下さい」
バドはカードも受け取った。
顔写真。
名前。
所属。
管理番号。
シャフトのロゴ。
実務担当、黒崎。
「カード装備もある」
「だから装備ではありません」
「パスポートとカード。二つ装備や」
「違います」
「これで僕、強くなった」
「あなたの戦闘能力とは関係ありません」
「消されにくくなった」
黒崎は、言葉を止めた。
バドは、旅券とカードを見比べた。
「強いパスポートは、強い装備や」
黒崎は少しだけ目を伏せる。
それから、静かに言った。
「そういう意味では、間違っていません」
バドが目を丸くする。
「珍しく認めた」
「珍しくではありません」
徳永は咳払いをした。
「話を戻す。ブラジル支社では、ASURA搭載ブロッケン試験機による動作データ収集を行う。目的は、ASURAの商品化に向けた既存機体への適応性検証だ」
内海が口を挟む。
「そしてついでに、グリフォン用ASURAの判断系も鍛えられる」
「ついでではない」
「では副次的成果」
「君が言うと主目的に聞こえる」
「実に鋭い」
「褒めていない」
徳永は資料をめくった。
「試験内容は制限する。実戦行為は禁止。第三者の機体を巻き込むことも禁止。武装使用も原則禁止。試験場はブラジル支社管轄の閉鎖区域とする」
内海はにこやかに頷いた。
「もちろんです」
「信用していない」
「ひどいなあ」
「だから黒崎君を同行させる」
黒崎が一礼した。
「現地での実務管理、安全停止権限、搭乗時間管理、医療連携、機体ログ保全、旅券管理を担当します」
バドが黒崎を見る。
「パスポートも黒崎さん管理?」
「原則、移動時以外は私が保管します」
「えー」
「失くされたら困ります」
「僕のやのに」
「あなたのものです。ですが、管理はします」
「検閲やん」
「保護です」
「似てるなぁ」
「違います」
バドは、旅券を抱え込むように持った。
黒崎はすぐには取り上げなかった。
今日くらいは、持たせておくべきだと思ったからだ。
徳永は、さらに厳しい声で言った。
「バドリナート君の搭乗には条件をつける」
「条件?」
「医師の事前確認。搭乗時間の制限。緊急停止権限は黒崎君。内海課長の独断による試験は禁止。危険度が基準を超えた場合は即時中止。学習、医療、生活記録の作成も義務とする」
バドは、少し不満そうな顔をした。
「学校みたいやな」
「実際に教育計画も組む」
「ブラジルで?」
「日本語、英語、基礎学科、技術教育、安全教育、法的身分に必要な教育記録。全てだ」
「僕、日本のパスポート貰ったのに、まだ勉強いるん?」
「旅券は卒業証書ではない」
「うへえ」
内海が笑った。
「バド、宿題だって」
「内海さんも書類いっぱい書かされるで」
内海の笑みが一瞬だけ止まった。
黒崎が淡々と言う。
「その通りです。内海さんには、週次報告書、試験計画書、リスク評価表、現地法人向け説明書、徳永専務宛て進捗報告の提出義務があります」
「黒崎君」
「はい」
「聞いていないよ」
「今お伝えしました」
「専務、これは少し厳しすぎませんか」
徳永は即答した。
「君には足りないくらいだ」
「左遷先で報告書漬けとは」
「それが謹慎だ」
「僕はてっきり、広い試験場と緩い監視と多様なレイバー環境をいただけるのかと」
「それを防ぐための報告書だ」
「なるほど。では報告書に広い試験場と多様なレイバー環境について書けばいいわけですね」
「内海」
「はい」
「反省しろ」
「しています」
「その顔で言うな」
バドがくすっと笑った。
徳永はバドへ視線を移す。
「君もだ」
「僕?」
「この計画は、君の遊びではない」
「うん」
「アルフォンスと戦うための準備でもない」
バドは黙った。
徳永は続ける。
「表向きは、ASURAの商品化試験だ。会社として認めるのはそこまでだ」
バドは少し考えた。
そして、真面目な顔で頷く。
「分かった」
「本当に分かったかね」
「うん。表向きは、やろ」
徳永は額に手を当てた。
「そこを理解するな」
内海は肩を震わせて笑っていた。
黒崎は胃が痛くなった。
徳永は深く息を吐く。
「いいか、バドリナート君。君は日本国籍を持つ未成年だ。会社の協力者ではあるが、同時に保護対象でもある。危険な試験に際して、君の意思だけでは判断させない」
「でも僕しか乗られへんのやろ」
会議室の空気が少しだけ重くなった。
バドは、机の上のブロッケン断面図を見る。
ASURAの演算ユニット。
冷却装置。
ログ記録装置。
大人が入らなくなったコックピット。
自分程度の体格でなければ乗れない穴。
「グリフォンだけやなくて、ブロッケンASURAも僕用なんやな」
森川が慎重に言う。
「現状では、君の体格が必要になる」
磯口は少し軽い調子で言った。
「ASURAが小型化できれば、大人でも乗れるようになるさ」
バドはにっと笑った。
「ほな競争やな」
「競争?」
「僕が大きくなるのが先か、ASURAが小さくなるのが先か」
内海が嬉しそうに手を叩いた。
「いいねえ」
徳永は睨んだ。
「よくない」
「でも専務」
バドは、徳永を見た。
「僕、乗るで」
「君の意思だけでは決めないと言った」
「うん。でも、言うとく」
バドは旅券と身分証カードを大事そうに机へ置いた。
「僕、グリフォンでアルフォンスに勝ちたい。でも、そのためにグリフォンを無駄に壊したらあかん。ブロッケンで転んで、捕まって、押し負けて、ASURAに負け筋を食わせる。それが一番ええ」
徳永は何も言わなかった。
「それに」
バドは、日本国旅券の表紙を軽く叩いた。
「僕、日本のパスポート貰ったやろ。ちゃんと国の中に入ったんやろ。なら、勝手に消されへん。逃げるためだけやなくて、ちゃんと戻ってくるために使う」
黒崎が目を細めた。
「その理解は、悪くありません」
「褒めた?」
「褒めてはいません」
「でも悪くないって言った」
「はい」
徳永は静かに言った。
「ただし、保護されたから働かなければならない、という理屈にしてはいけない」
バドは、少しだけきょとんとした。
徳永も黒崎を見た。
黒崎は淡々と続ける。
「あなたは、働くために保護されたのではありません。国籍も旅券も、会社に奉仕するために与えられたものではない。保護された上で、制限付きの協力を求められている。順番を間違えないで下さい」
バドはしばらく黙った。
それから、小さく言った。
「……黒崎さん、たまにまともな大人みたいなこと言うな」
「常にまともです」
「内海さんの部下やのに?」
「それは関係ありません」
内海が楽しそうに笑う。
「黒崎君はまともだよ。僕の部下をやっていること以外は」
「内海さん」
「はい」
「黙って下さい」
「はいはい」
徳永は黒崎を見て、少しだけ頷いた。
「その通りだ。バドリナート君。君は会社の所有物ではない」
バドは、不思議そうな顔をした。
「ほんまに?」
徳永は言葉に詰まった。
その問いが、冗談ではなかったからだ。
バドは本当に確認していた。
自分は会社の所有物ではないのか。
パレットの商品ではないのか。
グリフォンの部品ではないのか。
ASURAの入力装置ではないのか。
徳永は、ゆっくりと言った。
「本当だ」
バドは、少し困ったように笑った。
「ほな、変な感じやな」
「慣れなさい」
「うん」
会議室に、わずかな沈黙が落ちた。
それを破ったのは、内海だった。
「それで専務」
「何だ」
「出発はいつです?」
「二週間後だ」
「準備期間としては短いですね」
「君が余計なことをする前に出す」
「信用がないなあ」
「ない」
「でも、バドの旅券、渡航準備、機体搬送、ASURA試験系の組み込み、ブラジル支社の試験場調整。二週間で?」
徳永は海外事業部担当役員を見た。
担当役員は苦い顔で頷いた。
「可能にします」
「可能なのですか」
「可能にします」
黒崎が静かに言った。
「既に一部手配済みです」
内海は笑った。
「おや。僕に内緒で?」
「あなたに事前に伝えると、勝手に計画を広げるためです」
「ひどいなあ」
「事実です」
バドが旅券を抱えたまま聞いた。
「ブラジルって暑い?」
「暑い地域も多いですね」
「グリフォン、熱ダレしやすいからちょうどええな」
徳永が鋭く言う。
「グリフォンを動かすとは言っていない」
「でもデータいるやろ?」
「ASURA搭載ブロッケンが主だ」
「主はな」
「バドリナート君」
「はい」
「君も、表向きと裏向きを使い分けるな」
「難しいなぁ」
内海が小さく拍手した。
「実に順応が早い」
「褒めるな!」
徳永の怒声が飛ぶ。
内海は楽しそうに肩をすくめた。
黒崎の胃がまた痛んだ。
徳永は最後に、書類を閉じた。
「決定事項を確認する」
会議室の全員が姿勢を正す。
「内海課長は、ブラジル支社へ異動。ASURA搭載ブロッケン試験計画の統括責任者とする。ただし、試験内容は本社承認制。週次報告義務あり」
「はい」
「黒崎君は同行し、現地での安全管理、法務連絡、バドリナート君の実務保護および旅券管理を担当」
「承知しました」
「土浦研究所は、ASURA試験系の搭載、ログ解析、グリフォン用制御系への変換研究を担当」
森川と磯口が頷く。
「バドリナート・ハルチャンドは、日本国籍を有する未成年として、シャフト・エンタープライズ・ジャパン特別研究協力者、および未成年保護対象に登録。ブラジル支社へは日本国旅券を用い、会社管理下で渡航。教育、医療、生活記録を整備し、身分関係書類を継続管理する」
バドは、自分の名前と国籍が大人の声で読み上げられるのを聞いていた。
変な気分だった。
怖いような。
嬉しいような。
くすぐったいような。
自分が、書類上の存在として読み上げられている。
しかも、日本国籍を持つ人間として。
「質問は」
徳永が言った。
内海が手を上げた。
「ブラジル支社でサンバの練習は業務に含まれますか」
「含まれない」
バドも手を上げた。
「僕のパスポート、今日持って帰ってええ?」
黒崎が即答した。
「移動時以外は私が保管します」
「えー」
「失くさないためです」
「今日だけ」
「今日だけなら、専務」
黒崎は徳永を見る。
徳永は、少し考えてから頷いた。
「今日だけだ。明日からは黒崎君が保管する」
バドは、旅券を胸に抱えた。
「よし」
その顔は、グリフォンに初めて乗った時とは違う。
勝つための玩具を手に入れた顔ではない。
自分の名前と国を、ようやく手の中に持った子供の顔だった。
「内海さん」
「何だい」
「僕、ちょっと人間っぽくなった」
内海は笑った。
「前から人間だよ」
「内海さんが言うと嘘っぽい」
「ひどいなあ」
徳永は静かに言った。
「前から人間だ。書類が追いついていなかっただけだ」
バドは、徳永を見た。
少しだけ、いつもの悪知恵の顔ではなくなった。
「……ありがとう、専務」
「礼は、ブラジルで余計なことをしないことで返しなさい」
「それは難しい」
「難しくするな」
内海が楽しそうに立ち上がった。
「では、南米ですか。いやあ、忙しくなりますね」
「内海」
「はい」
「最後に言っておく」
徳永は、内海をまっすぐ見た。
「これは、君に自由な遊び場を与えるための異動ではない」
内海は、にこりと笑った。
「もちろんです」
「バドリナート君は、君の玩具ではない」
「友達です」
「その言い方も禁止したいくらいだ」
「残念です」
「ブラジルで問題を起こした場合、今度こそ君を切る」
内海は笑ったまま答えた。
「努力します」
「何をだ」
「切られない程度に面白くやることを」
「内海!」
会議室に徳永の怒声が響いた。
バドは、日本国旅券を握ったまま笑った。
黒崎は、今日何度目か分からない胃痛を覚えた。
南米行きが決まった。
ASURA搭載ブロッケンの試験が始まる。
内海は左遷された。
だが、その顔は、新しい遊び場を与えられた子供のようだった。
バドには、日本国籍と旅券ができた。
それは彼を守る盾であると同時に、彼をブラジルの試験場へ連れていく札でもあった。
紙の束。
旅券一冊。
カード一枚。
それでもバドは、それを大事そうに胸元へしまった。
「よし」
小さく呟く。
「南米編、開始やな」
黒崎がすぐに言った。
「南米編ではありません」
内海が笑った。
「いいじゃないか、黒崎君。南米編。実にいい響きだ」
「内海さんまで乗らないで下さい」
「だって始まるんだろう?」
内海は、バドを見た。
バドも、内海を見た。
二人は同時に笑った。
黒崎は思った。
やはり、この二人を同じ飛行機に乗せてはいけない。
だが、辞令はもう出ていた。
そして、旅券も発行されていた。