転生バドは勝利を夢見る   作:ぶーく・ぶくぶく

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データ比較試験

/*/ 小笠原諸島 シャフト系列試験場 /*/

 

 

 

 小笠原で恥をかかされた。

 

 SE-USAの技術責任者は、そう言った。

 

 表向きは言わない。

 

 議事録にも残さない。

 

 アメリカ陸軍、海兵隊、SE-USA、シャフト・エンタープライズ・ジャパン。

 

 それぞれの顔がある。

 

 正式採用機。

 

 TYPE-M5。

 

 エイブラハム。

 

 CFRM複合装甲を持ち、アメリカ陸軍と海兵隊に正式採用された軍用レイバー。

 

 民間警備会社にも販売され、世界中で運用されている優秀な機体。

 

 そのエイブラハムが、小笠原でグリフォンにあっさりと撃破された。

 

 しかも、勝負というより、片手間だった。

 

 SE-USAにとって、それは笑って済ませられる話ではなかった。

 

 もちろん、表向きは事故だ。

 

 非公式試験。

 

 機密映像。

 

 原因調査中。

 

 そういう言葉で覆われた。

 

 だが、技術者も軍人も、分かっていた。

 

 あの黒い機体は、エイブラハムを敵として見ていなかった。

 

 障害物として処理した。

 

 だからこそ、再戦の話が出た。

 

 正式な試験ではない。

 

 社内評価でもない。

 

 記録上は、系列企業間の運用データ比較試験。

 

 だが、現場の誰もが理解していた。

 

 これは勝負だった。

 

 小笠原で恥をかかされたSE-USAが、もう一度エイブラハムを出す。

 

 相手は、グリフォン。

 

 ただし、飛行ユニットはない。

 

 アクアユニットもない。

 

 ほぼ素体。

 

 背中に装着されているのは、小型のデータ収集バックユニットだけだった。

 

 バドはそれを「データランドセル」と呼んだ。

 

 黒崎は何度もやめさせようとした。

 

 結局、誰も止められなかった。

 

 

 

     /*/

 

 

 

 試験場は、海に近い岩場と造成地を組み合わせた閉鎖区域だった。

 

 空は曇っている。

 

 風は強い。

 

 海からの潮が、金属に薄くまとわりつく。

 

 格納用の仮設シェルターの中で、グリフォンは膝をついていた。

 

 黒い装甲。

 

 細い四肢。

 

 獣じみた輪郭。

 

 背面には、飛行ユニットではなく、小さな箱状のユニットが取り付けられている。

 

 左右の小型カメラ。

 

 慣性計測装置。

 

 接触圧センサー。

 

 外部記録装置。

 

 背面ロック試験用の簡易接続フレーム。

 

 戦うための装備ではない。

 

 逃げるための装備でもない。

 

 覚えるための装備。

 

 ASURAに、これまでより多くのデータを食わせるためのランドセルだった。

 

 森川政治は、端末を見ながら恍惚に近い表情をしていた。

 

「背面接触圧、正常。慣性計測系、同期。外部映像記録、開始。肩部・背部負荷センサー、全系統正常」

 

 磯口豊も別の端末を確認している。

 

「装着ロック、左右差なし。重心補正も許容範囲内だね。飛行ユニットよりずっと軽い。素体に近い動作はできるはずだ」

 

 黒崎は、二人の背後で腕を組んでいた。

 

「できるはず、では困ります」

 

「試験だからね」

 

 磯口は悪びれない。

 

「試験で困るのは、だいたい現場担当です」

 

「黒崎君は大変だねえ」

 

 内海課長が言った。

 

 いつもの薄ら笑い。

 

 試験場の片隅に設けられた観測室には、シャフト関係者、SE-USA関係者、技術担当者、軍関係者が揃っていた。

 

 その中に徳永専務の姿もある。

 

 徳永は、笑っていなかった。

 

 まったく笑っていなかった。

 

 バドがコックピットに入る前、徳永は彼を呼び止めた。

 

「バドリナート君」

 

「はい」

 

 バドは珍しく素直に返事をした。

 

 徳永の顔が、あまりにも怖かったからだ。

 

「今日は試験だ。勝負ではない」

 

 バドは一瞬だけ黙った。

 

「……はい」

 

「はいは一回でいい」

 

 バドは黒崎を見る。

 

「それ黒崎さんの台詞やん」

 

「今日は専務に譲ります」

 

 徳永は続けた。

 

「Bシステムをカットするという報告を受けた」

 

「データ欲しいから」

 

「理由になっていない」

 

「なっとるやん」

 

「なっていない」

 

 徳永の声は低かった。

 

 バドは少しだけ口を閉じた。

 

「Bシステムはリミッターです。安全のためにある」

 

 黒崎が補足する。

 

「それをカットした状態のグリフォンは、操縦者にも機体にも負担が大きい」

 

「分かっとる」

 

「分かっていません」

 

 黒崎はいつものように言った。

 

 しかし今回は、森川も磯口も黙っていた。

 

 技術屋としては、Bシステムカット時の稼働データが欲しい。

 

 欲しくてたまらない。

 

 だが、それを口にすれば徳永の視線で焼かれる。

 

 内海課長だけが、楽しそうだった。

 

「バド。勝つことより、戻ることだよ」

 

 バドは内海を見た。

 

「内海さんがそれ言うん?」

 

「僕は意外と安全運転なんだ」

 

 黒崎が即座に言った。

 

「どの口で言うのですか」

 

 内海は笑った。

 

 バドも少し笑った。

 

 だが、すぐに真顔になる。

 

「分かっとる。飛ばへん。潜らへん。逃げる必要もない。ここで勝って、ここで分解して帰る」

 

 徳永が眉をひそめる。

 

「分解?」

 

「データランドセルを現地で外して、ログ回収するんやろ」

 

 森川が小さく咳払いした。

 

「はい。試験後、背面ユニットは現地で分解・回収します。機体本体は別経路で輸送します」

 

 徳永は森川を見た。

 

 森川は目を逸らした。

 

 磯口も見ないふりをした。

 

 徳永は深く息を吐く。

 

「無茶をするな」

 

 バドは頷いた。

 

「うん」

 

「君が怪我をするなら、この試験は即時中止する」

 

「分かっとる」

 

「本当に分かっているのかね」

 

「分かっとる」

 

 バドは、グリフォンを見上げた。

 

 黒い機体。

 

 羽根のない怪鳥。

 

 背中にランドセルだけを背負った、ほぼ素体の身体。

 

「今日は飛ぶ勝負ちゃう。地面の勝負や」

 

 

 

     /*/

 

 

 

 相手のエイブラハムは、堂々としていた。

 

 全高八・三メートル。

 

 太い胴体。

 

 CFRM複合装甲。

 

 柱状の脚。

 

 膝や足首の関節が判然としない、独特の下半身。

 

 重量感のある腕。

 

 アメリカ軍正式採用機らしい、実直な威圧感。

 

 操縦者はSE-USA側のテストパイロットだった。

 

 軍出身。

 

 エイブラハムの運用時間は長い。

 

 小笠原での屈辱は知っている。

 

 相手のグリフォンが異常な機体であることも分かっている。

 

 それでも、今回の条件なら勝機はあると彼は思っていた。

 

 グリフォンに飛行ユニットはない。

 

 背中にあるのは小型のデータユニット。

 

 逃げも奇襲も限られる。

 

 こちらは正式採用機のエイブラハム。

 

 防御力と押し合いなら負けない。

 

 Bシステムをカットしているという情報は、彼には伏せられていた。

 

 開始合図が出る。

 

 エイブラハムが構える。

 

 グリフォンは、構えなかった。

 

 膝をわずかに沈め、腕を下げる。

 

 前傾。

 

 低い。

 

 人型レイバーの構えではない。

 

 獣でもない。

 

 もっと奇妙な、地面に手をつく前の人間のような姿勢。

 

 観測室のSE-USA関係者が、怪訝な顔をした。

 

「何だ、あの構えは」

 

 森川が小さく言う。

 

「始まる」

 

 バドの声が、コックピット内で低く響いた。

 

「Bシステム、カット」

 

 警告表示。

 

 リミッター解除。

 

 関節負荷上限拡大。

 

 姿勢制御安全域縮小。

 

 ASURA補正、拡張。

 

 データランドセルの外部記録装置が、すべての値を吸い上げ始める。

 

 背部加速度。

 

 回転角。

 

 接地衝撃。

 

 肩部荷重。

 

 腰部捻転。

 

 腕部支持圧。

 

 ログ記録。

 

 グリフォンが動いた。

 

 エイブラハムのパイロットは、最初の一歩を見失った。

 

 速い。

 

 だが、それだけではない。

 

 低い。

 

 グリフォンが、地面へ手をついた。

 

 人型レイバーが、戦闘開始直後に手をつく。

 

 常識外れの動作。

 

 エイブラハムの腕が反応する前に、グリフォンの身体が低く回った。

 

 カポエイラの低い回転。

 

 脚が、鞭のように伸びる。

 

 蹴り。

 

 狙いは胴体ではない。

 

 エイブラハムの頭部センサーだった。

 

 黒い脚部が、横から頭部を打つ。

 

 衝撃。

 

 映像が乱れる。

 

 エイブラハムが一歩下がる。

 

 その時には、グリフォンはもう正面にいない。

 

 手をついたまま、身体を反転させている。

 

 側転。

 

 いや、側転に似た何か。

 

 レイバーがやる動きではなかった。

 

 腕で地面を押し、脚を高く上げる。

 

 その脚が、回避と攻撃を同時に行う。

 

 エイブラハムの腕が空を切る。

 

 すれ違いざま、グリフォンの踵がもう一度、エイブラハムの頭部を蹴った。

 

 観測室がざわめく。

 

 SE-USAの技術者が身を乗り出した。

 

「何だ、あの運動は」

 

 磯口は端末を見ながら笑っていた。

 

「取れてる。取れてるぞ。背面加速度、肩部接地荷重、側転時の腰部捻転。これまでのログと解像度が違う」

 

 森川も目を輝かせる。

 

「Bシステムカット時の補正遅延がほとんどない。ASURAが追従している。いや、違う。操縦者が先に投げて、ASURAが拾っている」

 

 黒崎は呻いた。

 

「嬉々として言わないで下さい」

 

 内海課長は笑っている。

 

「素晴らしいねえ」

 

「課長」

 

「何だい」

 

「笑っている場合ではありません」

 

「笑わずにいられるかい?」

 

 黒崎は返事をしなかった。

 

 返事をすれば、たぶん怒鳴るからだ。

 

 

 

     /*/

 

 

 

 エイブラハムは、決して弱い機体ではなかった。

 

 装甲は厚い。

 

 重量もある。

 

 正式採用機としての信頼性も高い。

 

 普通のレイバーなら、押し合いで勝てる。

 

 掴めば潰せる。

 

 耐えれば相手が疲れる。

 

 だが、このグリフォンは、普通ではなかった。

 

 掴ませない。

 

 正面にいない。

 

 押し合わない。

 

 腕を取らない。

 

 腰を狙わない。

 

 ただ、相手の視界の端に滑り込み、地面に手をつき、脚で蹴る。

 

 足。

 

 膝。

 

 頭部。

 

 肩。

 

 センサー。

 

 腕の付け根。

 

 蹴る。

 

 蹴る。

 

 蹴る。

 

 エイブラハムが腕を振る。

 

 グリフォンは側転で外れる。

 

 腕で地面を支え、身体を浮かせ、そのまま脚を振り抜く。

 

 また頭部。

 

 また肩。

 

 エイブラハムの外装に凹みが増える。

 

 頭部カメラが片側死ぬ。

 

 補助センサーが乱れる。

 

 パイロットが距離を取ろうとする。

 

 グリフォンは逃がさない。

 

 地面に片手をつき、低い姿勢から滑り込む。

 

 蹴り上げる。

 

 エイブラハムの腕が跳ね上がる。

 

 その隙に、もう一方の脚が胴体側面へ入る。

 

 装甲は抜けない。

 

 だが、衝撃で姿勢が乱れる。

 

 エイブラハムの柱状脚が踏ん張る。

 

 そこへ、グリフォンが手をついたまま回り込む。

 

 低い。

 

 あまりにも低い。

 

 エイブラハムのパイロットは、相手がどこにいるのかを何度も見失った。

 

 黒い機体が視界の下を走る。

 

 レイバー戦ではない。

 

 大型の機械同士の格闘ではない。

 

 人間の格闘技を、十メートル級の黒い機体が無理やりやっている。

 

 しかも、成立していた。

 

「こいつ……!」

 

 エイブラハムが両腕を広げて突っ込む。

 

 捕まえる。

 

 抱え込む。

 

 そう判断した。

 

 グリフォンは下がらない。

 

 むしろ前へ入る。

 

 手をつく。

 

 身体を斜めに倒す。

 

 エイブラハムの両腕の間を潜るようにして、側転する。

 

 その途中、脚が真上から落ちた。

 

 踵が、エイブラハムの頭部を打ち抜くように叩く。

 

 頭部外装が割れた。

 

 カメラが死ぬ。

 

 エイブラハムの視界が半分以上消える。

 

 観測室のSE-USA側から声が漏れた。

 

「頭部ばかり……」

 

 徳永専務は、無言で画面を見ていた。

 

 その横で、SE-USAの役員が険しい顔をしている。

 

 内海課長は楽しそうだった。

 

「嫌な戦い方をするねえ」

 

 黒崎が言う。

 

「課長が育てたのです」

 

「僕だけじゃないよ。豚と鉱山とRPGとメイドのおかげだ」

 

「言い訳としては最悪です」

 

 バドはコックピットの中で笑っていた。

 

 だが、笑いながらも息は荒い。

 

 Bシステムをカットしたグリフォンは速い。

 

 反応する。

 

 思った以上に動く。

 

 だが、中の身体へも負担が来る。

 

 横G。

 

 回転。

 

 接地衝撃。

 

 背面ユニットの振動。

 

 データランドセルが、容赦なく数値を記録する。

 

 警告が出る。

 

 肩部負荷上昇。

 

 腰部捻転限界接近。

 

 操縦者負荷増大。

 

 ASURA補正継続。

 

 バドは舌を出した。

 

「もうちょい」

 

 エイブラハムは、ボロボロだった。

 

 装甲はまだ持っている。

 

 だが、センサーが死に、腕の動きが鈍り、姿勢補正が遅れている。

 

 重装甲機を破壊するには、まだ手間がかかる。

 

 しかし、戦闘能力はもう半分以上失われていた。

 

 グリフォンは、最後に真正面へ立った。

 

 初めて、エイブラハムの正面に。

 

 エイブラハムが反応する。

 

 腕を上げる。

 

 遅い。

 

 グリフォンは前へ跳ばない。

 

 手をつく。

 

 低く沈む。

 

 片脚が軸になり、もう片脚が横から振り抜かれる。

 

 回転蹴り。

 

 エイブラハムの頭部が、完全に横へ持っていかれた。

 

 外装が弾ける。

 

 首部の保持機構が歪む。

 

 頭部センサーが沈黙する。

 

 同時に、グリフォンは腕で地面を押し、反対側へ側転して離脱した。

 

 エイブラハムの腕が空を切る。

 

 そして、膝をつくように降着した。

 

 柱状の脚が崩れ、正座に近い姿勢で沈む。

 

 動けない。

 

 試験終了信号が出た。

 

 グリフォンは追撃しなかった。

 

 ただ、低い姿勢のままエイブラハムを見ていた。

 

 黒い機体の背中で、小さなデータランドセルが青い確認灯を点滅させている。

 

 ログ保存完了。

 

 

 

     /*/

 

 

 

 勝負は、圧勝だった。

 

 しかも、飛ばなかった。

 

 潜らなかった。

 

 消えなかった。

 

 その場で、エイブラハムを蹴り回して沈黙させた。

 

 SE-USAの役員たちは、黙っていた。

 

 怒り。

 

 屈辱。

 

 驚愕。

 

 そして、欲。

 

 そのすべてが、彼らの顔に出ていた。

 

 グリフォン本体の性能も異常だ。

 

 ASURAも異常だ。

 

 だが、それ以上に、あのパイロット。

 

 バドリナート・ハルチャンド。

 

 小柄な少年。

 

 国籍不明だった子供。

 

 今はシャフト・エンタープライズ・ジャパンの特別研究協力者。

 

 彼が、Bシステムを切ったグリフォンを、あそこまで動かした。

 

 SE-USAの役員の一人が、小さく言った。

 

「あの子供は、アメリカ国籍を望んでいると聞いたが」

 

 隣の技術責任者が頷く。

 

「ええ。日本かアメリカ。強いパスポートが欲しい、と」

 

 その言い方には、わずかな笑みがあった。

 

 商品を見る目。

 

 人材を見る目。

 

 兵器を見る目。

 

 徳永専務は、それを聞き逃さなかった。

 

 

 

     /*/

 

 

 

 試験場では、勝負が終わってすぐ、グリフォンの背面ユニット分解が始まっていた。

 

 飛行ユニットもアクアユニットもない。

 

 だから、逃げる必要はない。

 

 現地で、データランドセルを外す。

 

 ロック解除。

 

 外部記録装置取り外し。

 

 慣性計測ユニット回収。

 

 接触圧センサー確認。

 

 背面フレーム点検。

 

 森川と磯口は、明らかに嬉しそうだった。

 

「取れてる。全部取れてる」

 

 森川が端末を抱えるようにして言う。

 

「Bシステムカット時の肩部支持、側転中の腰部捻転、蹴り動作時の反力、接地手側の負荷。今まで取れていなかった部分が全部ある」

 

 磯口も興奮している。

 

「データランドセル、成功だな。これはいい。飛ばない、泳がない、だが覚えるには最高だ」

 

 バドはコックピットから降ろされ、医療チェック用の椅子に座らされていた。

 

 顔色は悪くない。

 

 だが、少し汗をかいている。

 

 黒崎がその前に立つ。

 

「医療チェックです」

 

「分かっとる」

 

「気分は」

 

「ちょっとぐるぐるする」

 

「当然です」

 

「でも勝った」

 

「勝ちました。ですが、あとで説教です」

 

「はい」

 

「はいは一回」

 

「はい」

 

 バドは素直だった。

 

 その素直さが、黒崎には余計に胃に悪い。

 

 バドは反省している。

 

 だが、後悔していない。

 

 得たものが大きすぎるからだ。

 

 バドは森川たちの方を見た。

 

「データ、取れた?」

 

 森川が満面の笑みで答える。

 

「取れた」

 

「めっちゃ?」

 

「めちゃくちゃ取れた」

 

「やった」

 

 黒崎が言う。

 

「そこで喜ばないで下さい」

 

「だってデータランドセル成功やん」

 

「その呼び方もやめて下さい」

 

 内海課長が近づいてきた。

 

「バド、良かったよ」

 

「内海さん、見た?」

 

「見たとも。実にいい。レイバーが手をついて蹴る。側転しながら頭部を蹴る。あれは嫌だねえ」

 

「エイブラハム、頭高いから蹴りやすかった」

 

「感想がひどい」

 

「でもほんまや」

 

 黒崎が低く言う。

 

「相手方の前で言わないで下さい」

 

「言わへんよ」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「絶対に言わないで下さい」

 

 バドは笑った。

 

 その時、徳永専務が近づいてきた。

 

 バドは背筋を伸ばした。

 

「専務」

 

「無事か」

 

「うん」

 

「痛むところは」

 

「ちょっと首」

 

 徳永の視線が黒崎へ向く。

 

 黒崎が即座に答えた。

 

「医療チェック中です。負荷はありますが、現時点で重大な異常は確認されていません」

 

「そうか」

 

 徳永はバドを見た。

 

「よく戻った」

 

 バドは少し驚いた。

 

 怒られると思っていたからだ。

 

 もちろん、あとで怒られるのだろう。

 

 だが、その前に「戻った」と言われた。

 

 バドは少しだけ笑った。

 

「うん」

 

 徳永はそれ以上言わなかった。

 

 その背後から、SE-USAの役員が近づいてくる。

 

 スーツ姿の白人男性。

 

 柔らかい笑み。

 

 だが、目は柔らかくない。

 

 バドは、その目を見て少しだけ警戒した。

 

 ロベルタの目とは違う。

 

 内海の目とも違う。

 

 値段をつける目だ。

 

「素晴らしい操縦でした」

 

 男は流暢な英語で言った。

 

 バドは英語で答えた。

 

「ありがとうございます」

 

 黒崎の眉がわずかに動いた。

 

 バドは英語もできる。

 

 それは分かっている。

 

 だが、こういう場面でそれを見せることは、相手に餌を与えるようなものだった。

 

 男は笑みを深める。

 

「バドリナート君。君は、アメリカ国籍が欲しいそうですね」

 

 空気が変わった。

 

 黒崎の顔から表情が消える。

 

 内海課長の笑みが、少しだけ細くなる。

 

 徳永専務が男を見る。

 

 バドは一瞬、黙った。

 

 それは事実だった。

 

 強いパスポート。

 

 消されにくい身分。

 

 書類の中に入ること。

 

 彼はずっと、それを欲しがっていた。

 

 男は続ける。

 

「どうですか。一度、渡米してみては。君ほどの才能なら、我々も歓迎します。SE-USAには、君の力を活かせる環境がある」

 

 甘い言葉だった。

 

 身分。

 

 国籍。

 

 保護。

 

 研究環境。

 

 機体。

 

 アメリカ。

 

 バドの欲しいものが、いくつも含まれている。

 

 だが、徳永専務が一歩前に出た。

 

「バドリナート君は、うちの特別協力者だ」

 

 日本語だった。

 

 しかし、通訳を待つ必要はなかった。

 

 男は意味を理解している。

 

 徳永は静かに続けた。

 

「欲を出さないでもらいたい」

 

 その声は、会議室で内海を叱る時よりも冷たかった。

 

 SE-USAの男は笑みを崩さない。

 

「もちろん、無理にとは申しません。ただ、彼自身の将来を考えれば、選択肢は多い方がよい」

 

「その選択肢を餌にして、子供を釣るなと言っている」

 

 黒崎がわずかに目を伏せた。

 

 内海課長は、珍しく黙っていた。

 

 バドは徳永の背中を見上げた。

 

 大きくはない。

 

 レイバーでもない。

 

 銃も持っていない。

 

 だが、その背中は、今、自分の前に立っている。

 

 SE-USAの役員は、少しだけ肩をすくめた。

 

「誤解があったなら失礼」

 

「誤解はない」

 

 徳永は言った。

 

「だから言っている」

 

 短い沈黙。

 

 やがて、SE-USAの男は一礼し、離れていった。

 

 バドは、しばらく黙っていた。

 

 それから小さく言う。

 

「専務」

 

「何だね」

 

「僕、アメリカ国籍欲しいって言うたことある」

 

「知っている」

 

「強いパスポート、欲しい」

 

「知っている」

 

「でも、今の言い方、なんか嫌やった」

 

 徳永はバドを見た。

 

 バドは少し困った顔をしている。

 

「僕を見てるんやなくて、グリフォンの中身見てるみたいやった」

 

 徳永は静かに頷いた。

 

「そうだ」

 

「そっか」

 

 バドは、データランドセルを外されたグリフォンを見た。

 

 黒い機体。

 

 自分が乗った機体。

 

 自分が欲しい機体。

 

 自分を欲しがらせる機体。

 

 ロベルタの言葉を、ふと思い出した。

 

 銃を持つ子供は、いつか銃に使われる。

 

 レイバーでも同じ。

 

 使いこなすことと、手放せること。

 

 両方を覚えなければならない。

 

 バドは小さく息を吐いた。

 

「難しいなぁ」

 

 黒崎が言った。

 

「だから、簡単に返事をしないで下さい」

 

「うん」

 

「はいは」

 

「一回」

 

 バドは笑った。

 

 徳永は、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 

 内海課長がようやく口を開く。

 

「人気者だねえ、バド」

 

「内海さん」

 

「何だい」

 

「僕、アメリカ行った方がええと思う?」

 

 内海課長は笑った。

 

 いつもの笑み。

 

 何を考えているのか分からない笑み。

 

「行きたければ行けばいい。行きたくなければ行かなければいい」

 

「止めへんの?」

 

「僕は君の保護者じゃないからね」

 

 黒崎が低く言う。

 

「その自覚があるなら、普段からもう少し慎重に扱って下さい」

 

 内海課長は笑う。

 

 バドは少しだけ考えた。

 

 そして言った。

 

「今は行かへん」

 

 徳永が見る。

 

 黒崎も見る。

 

 内海課長も、少しだけ目を細めた。

 

「何で?」

 

 内海が聞く。

 

 バドはグリフォンを指差した。

 

「アルフォンスに勝ってへん」

 

 黒崎は額を押さえた。

 

「結局そこですか」

 

「そこや」

 

 バドは、にっと笑った。

 

「怪獣戦帰りのアルフォンスと、南米帰りでランドセル背負って勉強したグリフォン。まだ本番残っとるもん」

 

 内海課長は吹き出した。

 

 徳永は深く息を吐いた。

 

 黒崎は胃を押さえた。

 

 森川と磯口は、データを抱えて嬉々として走り回っていた。

 

 試験場の向こうでは、頭部を壊されたエイブラハムが、正座のような姿勢で沈黙している。

 

 その姿は、敗北というより、授業を受けた後の教材のようだった。

 

 バドはそれを見て、小さく呟いた。

 

「エイブラハム先生、ええデータありがとうな」

 

「相手方の前で絶対に言わないで下さい」

 

 黒崎の声は、今日一番疲れていた。

 

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