転生バドは勝利を夢見る   作:ぶーく・ぶくぶく

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標準規格の夢

 

 

 

 土浦研究所の一室は、夜になっても明るかった。

 

 窓の外は暗い。

 

 研究棟の周囲には、人影も少ない。

 

 だが、部屋の中だけは昼のように白く、モニターの光が壁に反射していた。

 

 机の上には、何枚もの資料が広げられている。

 

 米軍評価項目。

 

 SE-USAからの技術照会。

 

 SR-70サターン高リスク警備仕様。

 

 簡易ASURA制御パッケージ。

 

 互換OS案。

 

 既存軍用レイバーへの適合可能性。

 

 エイブラハム系統への搭載試験。

 

 空挺後姿勢復帰補正。

 

 被弾時姿勢維持。

 

 旧式機体延命。

 

 同盟国間相互運用性。

 

 そして、森川政治の手元には、赤いペンで何度も丸をつけられた文字があった。

 

 標準化。

 

 その文字を、森川はずっと見ていた。

 

「標準化……」

 

 呟きは、ほとんど独り言だった。

 

 隣に座る磯口豊が、コーヒーの紙コップを手にしたまま頷く。

 

「米軍が本当に評価試験に入れるなら、規格化の話は避けられないだろうね」

 

「ASURA互換インターフェース」

 

「正式名称は変える必要がある」

 

「もちろんです」

 

 森川は、端末に新しいファイルを開いた。

 

 仮称。

 

 高信頼姿勢制御補助規格。

 

 そこへ、彼は次々と項目を打ち込んでいく。

 

 機体状態監視層。

 

 操縦入力補正層。

 

 転倒予兆検知。

 

 損傷時左右非対称補正。

 

 被弾衝撃後姿勢回復。

 

 空挺着地後膝・腰部負荷分散。

 

 低練度操縦者用過入力抑制。

 

 非破壊制圧時出力制限。

 

 友軍・民間人近接時危険姿勢警告。

 

 磯口は、その画面を見ながら言った。

 

「軍用と民間用で分ける必要があるな。民間向けは安全補助。警備向けは非破壊制圧。軍用向けは損傷時行動継続と被弾時姿勢維持。空挺仕様なら降下後復帰が中心になる」

 

「共通コアを残して、用途別モジュールにする」

 

「そう。ASURAそのものを出すのではなく、ASURAの思想を分割する」

 

 森川の指が止まる。

 

「ASURAの思想」

 

 その言葉を、彼は大事そうに繰り返した。

 

 古柳教授の下で日の目を見なかった研究。

 

 使い物にならないと言われたOS。

 

 HOSに先を越されたような、悔しさ。

 

 グリフォンの中で、ようやく性能を示したあの瞬間。

 

 バドの入力を拾い、暴れるように補正し、機体をまるで生き物のように動かしたあの感覚。

 

 それが今、米軍評価項目に載っている。

 

 標準化。

 

 相互運用。

 

 同盟国展開。

 

 森川は、静かに笑った。

 

「磯口さん」

 

「何だい」

 

「ASURAが、世界標準になるかもしれません」

 

「そうだね」

 

「世界中のレイバーが、ASURAの考え方で転倒から復帰するかもしれない」

 

「そうかもしれない」

 

「被弾しても倒れない。片腕を失ってもバランスを取る。操縦者が下手でも、機体が助ける。古い機体でも、OSでまだ戦える」

 

「戦う、だけではないよ」

 

 磯口は言った。

 

「荷物を運ぶ。瓦礫をどかす。豚を捕まえる。暴走機を止める。鉱山で支柱を壊さず歩く。警備で相手を殺さず制圧する。ASURAの使い道は戦場だけじゃない」

 

「分かっています」

 

 森川は頷いた。

 

「でも、米軍が評価するということは、戦場でも使えるということです」

 

「そうだね」

 

「怖いですね」

 

「怖いね」

 

 二人は、ほとんど同時にそう言った。

 

 しかし、二人とも笑っていた。

 

 それが、黒崎には耐えがたかった。

 

 彼は部屋の入口近くに立ち、しばらく黙って二人を見ていた。

 

 呼ばれたから来たわけではない。

 

 徳永専務に命じられて、進捗を確認しに来ただけだった。

 

 だが、扉の外から聞こえてきた会話があまりに不穏で、中へ入るタイミングを失っていた。

 

 ようやく、黒崎は口を開いた。

 

「怖いと言いながら、嬉しそうですね」

 

 森川と磯口が振り返る。

 

「ああ、黒崎君」

 

 磯口は平然としていた。

 

 森川は少し気まずそうにしたが、資料を隠すことはしなかった。

 

 黒崎は机の上の資料を見た。

 

 米軍規格。

 

 ASURA互換コア。

 

 軍用モジュール。

 

 空挺後復帰。

 

 損傷時行動継続。

 

 その文字を見ただけで、胃が重くなる。

 

「これは、徳永専務の承認を得た資料ですか」

 

「草案だよ」

 

 磯口が答える。

 

「技術的に何が可能か整理しているだけだ」

 

「だけ、で済む内容ではありません」

 

 黒崎の声は冷たい。

 

 森川は資料を見下ろした。

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「分かっています」

 

 森川は、今度ははっきり言った。

 

「米軍規格に乗るということは、ASURAが軍用技術になるということです。第三世界や中東への流出を防ぐ名目で、米国が管理しようとしている。技術情報を求められる。ソースコードや学習データの由来を問われる。危険です」

 

「なら、なぜそんなに嬉しそうなのですか」

 

 森川は、すぐには答えなかった。

 

 磯口も黙った。

 

 機械の冷却音だけが、小さく響いている。

 

 やがて、森川は言った。

 

「嬉しいからです」

 

 黒崎の眉が動く。

 

「森川さん」

 

「黒崎さん。私は、ASURAが認められる日をずっと見たかった」

 

 森川の声は静かだった。

 

「HOSが世に出て、ASURAは日の目を見なかった。古柳教授の研究は、ただの危険な思想のように扱われた。実用化できない、扱えない、危なすぎる。そう言われ続けた。だが、ASURAは使えた。グリフォンで使えた。ブロッケンで育った。サターンに入った。そして今、米軍が価値を認めている」

 

 森川は、資料の上に手を置いた。

 

「それが嬉しくないはずがない」

 

 黒崎は、何も言わなかった。

 

 磯口が、穏やかに続ける。

 

「技術者にとって、自分たちの作ったものが標準になるというのは、特別だよ。もちろん、軍用化の危うさはある。いや、危ういどころではない。だが、技術が世界で必要とされるという事実は、どうしても嬉しい」

 

「それが誰かを殺すとしてもですか」

 

 黒崎の言葉は鋭かった。

 

 森川は目を伏せた。

 

 磯口も黙る。

 

 だが、やがて磯口は言った。

 

「それを考えないわけではない」

 

「今は考えていないように見えます」

 

「そう見えるなら、そうなのだろうね」

 

 磯口は苦笑した。

 

「今は、技術者の方が勝っている」

 

 黒崎は、深く息を吐いた。

 

「そこが怖いのです」

 

 その時、廊下から軽い足音が聞こえた。

 

 扉が開き、バドが顔を出す。

 

「何してるん?」

 

 黒崎は即座に言った。

 

「あなたは入らないで下さい」

 

「なんで?」

 

「危険な話をしています」

 

「ほな聞く」

 

「だから入らないで下さい」

 

 バドはすでに入っていた。

 

 手には、購買で買ったらしい紙パックのジュースを持っている。

 

 彼は机の上の資料を覗き込み、目を輝かせた。

 

「米軍規格?」

 

 黒崎は目を閉じた。

 

「見ないで下さい」

 

「もう見た」

 

 バドは資料を読む。

 

「ASURA互換コア。軍用モジュール。空挺後復帰補正。被弾時姿勢維持。損傷時行動継続。低練度操縦者補助……」

 

 読み上げるにつれて、バドの顔がどんどん明るくなっていく。

 

「すごいやん」

 

「すごい、ではありません」

 

「いや、すごいやろ。ASURA、めっちゃ出世してるやん。サターンに就職して、今度は米軍規格? 世界標準? 何これ、ASURAが世界征服しとるみたいやん」

 

「その言い方はやめて下さい」

 

「森川さん、磯口さん、これ本気であり得るん?」

 

 森川は、少し迷ったあとで頷いた。

 

「米軍が本格的に評価し、規格化へ進めば、可能性はある」

 

「同盟国にも広がる?」

 

「可能性はある」

 

「旧式レイバーにも入る?」

 

「互換版なら」

 

「軍用だけやなくて、警備用とか作業用にも?」

 

 磯口が答える。

 

「それが理想だね。用途別にモジュールを分ける。安全補助、復帰補正、作業効率化、非破壊制圧、損傷時行動継続」

 

 バドは、ジュースを机に置いた。

 

 そして、真顔で言った。

 

「めっちゃ嬉しいな」

 

 黒崎は、わずかに顔をしかめた。

 

「バド」

 

「怖いのは分かるで」

 

 バドは先に言った。

 

「戦争に使われるかもしれへん。知らん国の軍隊がASURA入りレイバーで誰かを撃つかもしれへん。第三世界とか中東とか、僕よう分からんけど、たぶん怖い場所なんやろ。そこでASURAが使われるのは怖い」

 

 黒崎は黙っていた。

 

 バドは続ける。

 

「でも、それはそれとして嬉しい」

 

 森川が、少し驚いたようにバドを見る。

 

 バドは資料を指で叩いた。

 

「僕が育てたOSやで。グリフォンで乗って、ブロッケンで泥まみれになって、豚捕まえて、鉱山歩いて、RPG避けて、エイブラハム蹴って、アルフォンスに勝つために育てたASURAや。それが世界標準になるかもしれへん。嬉しくないわけないやん」

 

 黒崎は低く言った。

 

「その嬉しさが危険なのです」

 

「知っとる」

 

「知っていて」

 

「嬉しい」

 

 バドは、森川と磯口を見た。

 

「二人もそうやろ」

 

 森川は、ゆっくり頷いた。

 

「そうだ」

 

 磯口も頷く。

 

「怖いが、嬉しい」

 

 バドは少し笑った。

 

「ほら」

 

「ほら、ではありません」

 

 黒崎の声は硬い。

 

 バドは紙パックのジュースを持ち直し、ストローをくわえた。

 

 しばらく吸ってから、ぽつりと言う。

 

「僕、まともな倫理観あったら、そもそもグリフォン乗ってアルフォンスに勝つことに全部賭けたりせぇへんしな」

 

 森川と磯口が黙った。

 

 黒崎も黙る。

 

「自分がこの世界に残るために、ゲームにしたりせぇへん。警察のお姉ちゃんたちが仕事で真剣にやってる相手に、僕は遊びで真剣勝負するんや、なんて言わへん。ASURAが戦争に使われるかもって怖がって、それで全部やめられるくらいまともなら、最初からこんなことしてへん」

 

 バドの声は、軽かった。

 

 だが、内容は軽くない。

 

「僕は勝ちたい。アルフォンスに勝ちたい。グリフォンで勝ちたい。僕がここにおったって残したい。そのためにASURA育てた。だから、それが世界に欲しがられるなら、嬉しい」

 

 黒崎は、静かに言った。

 

「それは、あなたが危ういという告白です」

 

「せやな」

 

 バドはあっさり頷いた。

 

「でも、黒崎さんも知っとるやろ」

 

「知っています」

 

「ほな、ええやん」

 

「よくありません」

 

 磯口が、小さく笑った。

 

「バドは、技術者とは違うところで同じことを言うね」

 

「同じ?」

 

「我々は、作ったものが認められるのが嬉しい。君は、育てたものが認められるのが嬉しい」

 

 森川が言う。

 

「そして、その危うさを知っていても、嬉しいことを否定できない」

 

 バドは、少し考えてから頷いた。

 

「うん」

 

 黒崎は、森川と磯口を見る。

 

「そこに納得しないで下さい」

 

 その時、部屋の奥の端末が鳴った。

 

 森川が画面を切り替える。

 

 SEJ本社からの通信。

 

 徳永専務だった。

 

 黒崎が姿勢を正す。

 

 画面の向こうで、徳永は険しい顔をしている。

 

『進捗確認だ。何をしている』

 

 黒崎が即答する。

 

「ASURA互換制御の米軍規格化に関する技術草案を確認していました」

 

 徳永の眉が動く。

 

『誰の指示で』

 

 森川が答える。

 

「技術的可能性の整理です。正式な提案資料ではありません」

 

『その場にバドリナート君がいるように見えるが』

 

 黒崎は、ゆっくりバドを見た。

 

 バドは紙パックを持ったまま手を振る。

 

「こんばんは」

 

『なぜいる』

 

 黒崎は答えた。

 

「入ってきました」

 

『止めなかったのか』

 

「止めました」

 

『止まらなかったのか』

 

「はい」

 

 徳永は、額を押さえた。

 

『……分かった。聞かれたものは仕方ない。バドリナート君』

 

「はい」

 

『これは遊びではない』

 

 バドは少しだけ口を尖らせた。

 

「分かってる」

 

『分かっている顔ではない』

 

「戦争に使われるかもしれへんのは怖い。でもASURAが世界標準になるのは嬉しい。そこまでは分かった」

 

 徳永は沈黙した。

 

 画面の向こうで、深く息を吐くのが分かる。

 

『正直だな』

 

「嘘言ってもしゃあないやん」

 

『その正直さは、時々こちらの胃を痛める』

 

 黒崎が小さく頷いた。

 

 徳永は続けた。

 

『森川君、磯口君』

 

「はい」

 

『君たちが喜ぶ理由は分かる。ASURAが認められ、標準規格になるかもしれない。技術者としては喜ばしいことだろう』

 

 森川は黙って頷く。

 

 磯口も頷いた。

 

『だが、今後作る資料には必ず危険性を書け。軍事転用リスク、輸出管理、学習データの由来、第三国流出、責任範囲、ブラックボックス化、ソース開示拒否。技術の可能性だけを書いた資料は許可しない』

 

「承知しました」

 

 森川が答える。

 

 磯口も頷く。

 

『そして、バドリナート君』

 

「はい」

 

『君が嬉しいと感じること自体を否定はしない。だが、嬉しいなら責任も来る』

 

 バドは少し顔をしかめた。

 

「またそれや」

 

『何度でも言う。君が育てたASURAが世界へ出るなら、君自身もその出所として見られる。米軍も、SE-USAも、他国も、ASURAだけを見るとは限らない。君を見る』

 

「僕を?」

 

『そうだ』

 

 バドは黙った。

 

 黒崎が補うように言った。

 

「あなたは、ASURAをどう育てたかを知っている。どう危険を許したか、どう動かしたか、どう勝負に使ったか。それを欲しがる人間が出ます」

 

 森川が言う。

 

「ASURAのログだけでは分からない部分がある。操縦者の判断、入力の癖、どこまで機体を信じたか。バド君は、それを知っている」

 

 磯口も言う。

 

「OSだけなら解析できる。だが、育て方は別だ」

 

 バドは、自分の手を見た。

 

 操縦桿を握る手。

 

 ノートを書く手。

 

 身分証カードを握った手。

 

「僕、ASURAの育成係なん?」

 

 内海の声が、通信の向こうから聞こえた。

 

『鍵だね』

 

 画面の端に、いつの間にか内海課長が映り込んでいた。

 

 黒崎の目が細くなる。

 

「課長」

 

『やあ、黒崎君』

 

「なぜそこに」

 

『専務の部屋に呼ばれていてね』

 

 徳永が横目で内海を睨む。

 

『余計なことを言うな』

 

 内海は笑った。

 

『でも事実だよ。ASURAは鍵穴だらけの箱になった。中身を見るには、コードとログだけでは足りない。バドがどんな遊び方をしたかを知りたがる人間は出る』

 

 バドは、内海を見る。

 

「僕が鍵なん?」

 

『そう見えるだろうね』

 

「鍵って、便利?」

 

『とても』

 

「危ない?」

 

『とても』

 

 黒崎が低く言った。

 

「遊ばないで下さい」

 

 内海は肩をすくめる。

 

『遊んでいないよ。これは大事な話だ』

 

 その声は、珍しく少しだけ真面目だった。

 

『バド。君は喜んでいい。ASURAが認められるのは、君にとっても勝利だ。だが、喜ぶなら、自分が狙われる理由も理解しておいた方がいい』

 

 バドは、少しだけ黙る。

 

「米軍に?」

 

『米軍だけじゃない。SE-USA、他国、シャフト内部、篠原重工、政府。皆、違う理由で君を見る』

 

「僕、人気者やな」

 

 黒崎がすぐに言った。

 

「その言い方はやめなさい」

 

「でも合ってるやん」

 

「合っているからです」

 

 徳永が、疲れたように言った。

 

『本件については、正式方針が出るまで技術草案は社外秘だ。森川君、磯口君、資料は専務室へ送れ。黒崎君、バドリナート君を連れて戻れ』

 

「承知しました」

 

 黒崎が答える。

 

 バドは不満そうに言う。

 

「まだ途中やのに」

 

「戻ります」

 

「森川さんたちの世界標準話、もっと聞きたい」

 

「戻ります」

 

「米軍規格ASURAの名前考えたい」

 

「絶対に戻ります」

 

 通信が切れた。

 

 部屋は再びモニターの白い光だけになった。

 

 森川は、作りかけの草案を保存した。

 

 ファイル名。

 

 ASURA互換制御標準化案・技術検討用。

 

 黒崎がそれを見て言った。

 

「正式名称にASURAは使わないで下さい」

 

「分かっています」

 

「ファイル名にも使わない方がいい」

 

 森川は少しだけ残念そうな顔をした。

 

「では、仮称にします」

 

「仮称でも避けて下さい」

 

 磯口が笑った。

 

「黒崎君は厳しいね」

 

「厳しくもなります」

 

 バドは、机の隅に置いてあった紙を一枚取った。

 

 そこへ、勝手にメモを書く。

 

 ASURA。

 世界標準?

 米軍規格?

 戦争は怖い。

 でも嬉しい。

 僕が育てた。

 僕も鍵。

 危険度アップ。

 それでもアルフォンス。

 

 黒崎はそのメモを見た。

 

「それは持ち帰ります」

 

「うん」

 

 バドは素直に渡した。

 

 黒崎は少し驚く。

 

「よろしいのですか」

 

「覚えたから」

 

「そうですか」

 

 黒崎はメモを折りたたんだ。

 

 森川と磯口は、まだ画面を見ている。

 

 標準化案。

 

 危険性。

 

 技術的可能性。

 

 夢と、危険。

 

 その二つが同じファイルの中に並んでいる。

 

 バドは扉の前で振り返った。

 

「森川さん、磯口さん」

 

「何だい」

 

「ASURAが世界標準になったら、ちょっとだけ僕のことも書いといてな」

 

 黒崎が即座に言う。

 

「書きません」

 

 森川は少し笑った。

 

「公式資料には書けないな」

 

 磯口も頷く。

 

「だが、技術史には残るかもしれない」

 

 バドは目を輝かせた。

 

「ほんま?」

 

「危険な形でね」

 

 磯口が言う。

 

 バドは笑った。

 

「危険でも、残るならええわ」

 

 黒崎は静かに言った。

 

「その考え方が危険なのです」

 

「知っとる」

 

 バドは、先ほどと同じように答えた。

 

 知っている。

 

 それでも嬉しい。

 

 その言葉が、部屋の中に残った。

 

 黒崎はバドを連れて研究室を出た。

 

 廊下は暗い。

 

 研究室の扉が閉まると、モニターの光が細い隙間になり、やがて消えた。

 

 バドは歩きながら言った。

 

「黒崎さん」

 

「何です」

 

「戦争に使われるのは怖いで」

 

「はい」

 

「でも、ASURAが世界標準になるのは、やっぱり嬉しい」

 

「聞きました」

 

「怒る?」

 

「怒りません」

 

「ほんま?」

 

「怒って済むなら怒ります」

 

 バドは少し笑った。

 

 黒崎は続けた。

 

「その代わり、覚えておきなさい。嬉しいことには、責任がついてきます。あなたが育てたものが遠くへ行くなら、遠くで何をするかも考えなければならない」

 

「全部は無理や」

 

「全部でなくても、考えることをやめないで下さい」

 

 バドは、しばらく黙って歩いた。

 

 やがて、小さく言った。

 

「考える。でも、やめへん」

 

「何を」

 

「アルフォンスに勝つこと」

 

 黒崎は、もう驚かなかった。

 

「でしょうね」

 

「ASURAが世界標準になっても、米軍が欲しがっても、政府が震えても、僕はまだアルフォンスに勝ってへん」

 

「結局そこですか」

 

「そこや」

 

 廊下の先に、非常灯の緑が見える。

 

 バドは、その光の下で立ち止まった。

 

「世界標準になったASURAより、今のアルフォンスの方が気になる」

 

 黒崎は、少しだけ目を細めた。

 

「それは、あなたらしいですね」

 

「褒めた?」

 

「少しだけ」

 

 バドは嬉しそうに笑った。

 

 黒崎は、すぐに付け加える。

 

「ただし、危険です」

 

「それも知っとる」

 

 二人は再び歩き出した。

 

 研究室の中では、森川と磯口がまだ標準化案を見ている。

 

 夢を見る技術者の顔で。

 

 廊下では、黒崎が胃を押さえながら、バドを連れて戻る。

 

 そしてバドは、世界標準規格という言葉の眩しさと、アルフォンスに勝ちたいという欲望を、同じ胸の中に抱えていた。

 

 ASURAは、また一つ大きな盤面へ出ようとしている。

 

 そのことを怖いと思いながら。

 

 バドは、それでも嬉しかった。

 

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