結論は、誰にとっても気持ちのいいものではなかった。
日本政府は、ASURA系制御技術を正式には軍事技術と認定しなかった。
認定しなかった、というより、認定できなかった。
民間警備用。
作業補助用。
災害対応用。
転倒復帰補助。
操縦者安全支援。
そういう名目が、あまりにも多すぎた。
完全に軍事技術だと決めつければ、国内のレイバー産業そのものに影響が出る。
警備会社、建設会社、鉱山会社、港湾会社、自治体の災害対応部隊。
すでにレイバーは社会のあちこちに入り込んでいる。
その制御OSを軍事技術扱いにすれば、どこまでが規制対象になるのか分からない。
しかし、軍事技術ではないとも言えなかった。
転倒復帰。
被弾時姿勢維持。
損傷時行動継続。
低練度操縦者補助。
空挺後復帰。
旧式軍用レイバー延命。
米軍が評価したその項目を見れば、これは単なる安全装置です、とは言えない。
だから政府は、新しい曖昧な箱を作った。
高度レイバー制御関連技術。
軍事転用可能な先端制御ソフトウェア。
輸出に際しては、用途、輸出先、搭載機種、運用主体、ソースコード開示範囲、学習データの由来、第三国移転制限を個別審査する。
便利な名前だった。
そして、便利な名前ほど、現場には重い。
通産省の担当官は、最終調整会議の資料を閉じた。
「結局、個別審査ですか」
外務省の職員が疲れた声で答える。
「全面禁止にはできません。米国との関係もあります。だが、第三世界や中東へ無制限に出すわけにもいかない」
「米軍評価は」
「ブラックボックス提供に限り、政府間で事前協議。ソースコードおよび学習データ開示は、現時点では認めない」
「米側は納得しますか」
「するわけがありません」
誰も笑わなかった。
防衛庁の担当官が、資料の欄外へ赤ペンで印をつけた。
「問題は、SE-USA経由の迂回です。SEJから直接出さなくても、海外法人が再実装したと言い張る可能性がある」
「止められますか」
「完全には無理です」
その言葉が、会議室の空気を重くした。
完全には無理。
ソフトウェアの輸出管理において、それは最も嫌な言葉だった。
機体なら港で止められる。
武器なら箱を開ければ分かる。
装甲材なら重量で分かる。
だが、OSは違う。
コードは複製できる。
仕様は記憶できる。
学習データは削れる。
アルゴリズムは言い換えられる。
危険なものほど、形を変える。
警察庁の職員が、静かに言った。
「警察機の運用データ流用疑惑については、こちらからも正式に確認を求めます」
通産省側が視線を向ける。
「篠原重工から?」
「ええ。AV-98起動ディスク盗難事件との関連です。起動ディスク由来の動作パターンが、ASURA系制御に混じっている可能性があるなら、警察としても見過ごせません」
外務省職員は、深く息を吐いた。
「もしそれが事実なら、米軍への開示など論外ですね」
「事実でなくても、疑いがある時点で危険です」
防衛庁の担当官が呟く。
「レイバー用OSではない。レイバー戦力の底上げ装置だ」
その言葉は、もう何度も使われていた。
だが、使うたびに重くなる。
誰かが、ぽつりと言った。
「シャフトは、とんでもないものを育てたな」
その場にいた誰も、否定しなかった。
/*/
SEJ本社の役員会議室では、徳永専務が政府側の暫定方針を読み上げていた。
第三世界・中東向け軍事仕様サターンの新規提案は凍結。
高リスク警備仕様についても、用途と輸出先を再審査。
SE-USA経由の米軍評価は、ブラックボックス提供に限り検討。
ソースコードおよび学習データの開示は拒否。
ASURAの名称は社外資料で使用禁止。
バドリナート・ハルチャンドの関与は、特別研究協力者として最小限の表記に留める。
役員たちの顔は、どれも硬かった。
海外営業担当だけが、わずかに悔しそうだった。
「中東案件を全面凍結ですか」
「軍事仕様は凍結だ」
徳永が答える。
「油田警備や港湾警備など、純粋な民間警備用途については再審査する。だが、装甲強化、関節強化、空挺対応、火器運用を前提にしたものは出さない」
「しかし、SE-USA側は米軍評価を進めたがっています」
「それと第三国向け販売は別だ」
「米軍に出すなら、中東向けを止める理由が弱くなります」
「逆だ」
徳永の声が鋭くなる。
「米軍が評価するほど危険だと分かったから、第三国向けを止める」
海外営業担当は口を閉じた。
内海課長は、椅子に深く腰掛けて笑っている。
「いいねえ。危険だから止める。危険だから米軍には出す。危険だから中身は見せない。実に複雑で、商売らしい」
黒崎が言った。
「課長は黙っていて下さい」
「はいはい」
「はいは一回です」
「はい」
徳永は、内海を無視して続けた。
「森川君、磯口君」
二人が顔を上げる。
「米軍評価用パッケージを作る場合、商業版ASURAからさらに機能を削れ。高機動、戦闘用判断、パイロット入力先読み、攻撃動作生成、回避戦闘パターンは入れない。復帰、過負荷抑制、姿勢維持、事故低減に限定する」
森川は苦い顔をした。
「それでは、ASURAの価値がかなり落ちます」
「落としていい」
徳永は即答した。
「むしろ落とせ。米軍が一番欲しがるところを、そのまま渡すな」
磯口が腕を組む。
「復帰補正だけでも価値はあります。ですが、損傷時行動継続と被弾時姿勢維持は、軍用ではかなり有効です」
「そこも制限しろ」
「制限しすぎると、評価に値しないものになります」
「ならば、評価されすぎるよりましだ」
森川の目がわずかに揺れた。
技術者としては、納得しがたい言葉だった。
性能を落とす。
価値を削る。
ASURAの力を隠す。
それは、技術者にとっては敗北に近い。
磯口も同じ表情をしている。
徳永は、それを見て言った。
「君たちが悔しいのは分かる」
森川は黙った。
「だが、米軍評価用に本物のASURAを出すことはない。彼らが欲しがるのは、復帰補正だけではない。ASURAがどう判断し、どう危険を許容し、どう操縦者と一体化するかだ。その核心を渡せば、こちらの主導権は終わる」
黒崎が静かに補足する。
「そして、バドリナート君の関与も避けられなくなります」
会議室の端で、バドが手を上げた。
黒崎が即座に言う。
「発言は慎重に」
「まだ何も言うてへん」
「言いそうでした」
「ええやん、一個だけ」
徳永が疲れたように言う。
「言いなさい」
バドは資料を見ながら言った。
「つまり、ASURAの体験版を米軍に渡すん?」
会議室が静かになった。
森川が少しだけ眉を動かす。
磯口は小さく笑った。
徳永は目を閉じた。
「言い方は軽いが、概ねそうだ」
「機能制限版。チュートリアルだけ。ラスボス戦用の技はなし」
「本当に言い方が軽いな」
「でも分かりやすいやろ」
黒崎が低く言う。
「米軍相手にその表現は使わないで下さい」
「使わへん」
「本当に?」
「たぶん」
「信用できません」
内海課長が楽しそうに言う。
「いい表現だね。ASURA体験版。復帰補正までは遊べますが、本編はロックされています」
「課長」
黒崎の声が一段低くなる。
内海は笑ったまま手を上げた。
「黙るよ」
バドは、机の上の資料を指でつついた。
「でもさ、体験版出したら、本編欲しくなるやろ」
徳永は頷いた。
「そうだ」
「米軍、絶対もっとくれって言うやん」
「言うだろう」
「SE-USAも言う」
「言う」
「第三世界とか中東も、どっかから似たようなの欲しがる」
「そうなる」
「止められるん?」
徳永は、すぐには答えなかった。
黒崎も黙る。
森川と磯口も黙った。
内海だけが、薄く笑っている。
やがて徳永が言った。
「完全には止められない」
バドは、軽く頷いた。
「そっか」
「だから、どこまで出すかを決める。出してはいけないものを決める。誰が見ても危険だと分かる線を引く」
「線、守れる?」
「守らせる」
徳永の声は硬かった。
バドは少し笑った。
「徳永専務、今日ちょっと怖いな」
「怖がらせているつもりだ」
「成功してるで」
「それはよかった」
会議室の空気が、わずかに緩んだ。
だが、問題は何も軽くなっていない。
ASURAは商品になった。
商品から外交カードになった。
外交カードから、戦略物資になりかけている。
そして、その中心にいるのは、グリフォンに乗る子供と、夢を見る技術者と、面白がる課長だった。
/*/
同じ頃、篠原重工では緊急の技術会議が続いていた。
サターン対策。
ASURA系制御対策。
AV-98運用データ流出対策。
米軍規格化への対応。
すべてが一つの議題に混ざっている。
河野技師は、ホワイトボードに大きく三つの言葉を書いた。
盗まれた過去。
育つ現在。
守る未来。
会議室の技術者たちが、その文字を見る。
河野は言った。
「サターンに混じっているのは、過去のAV-98の動きです。東京レイバーショウ以前、起動ディスク盗難時点までのデータ。そこから抽象化された警察機の挙動です」
若い技術者が問う。
「では、こちらは動作パターンを更新すればいい?」
「単純な話ではありません。しかし、基本はそれです」
河野は、一号機と二号機の映像を映す。
「泉巡査の一号機は、廃棄物13号事件以降、明らかに復帰動作と間合いが変わっています。太田巡査の二号機も、腰部破壊以降、射撃姿勢と腰の守り方が変わった。現場はすでに変化している」
「盗まれたデータは古くなる」
「そうです」
河野は頷いた。
「ただし、向こうも更新してくる。ASURAは学習する。サターンは商業版だが、米軍評価に出すなら、さらに整えられる。こちらは、盗まれた過去を悔やむだけでは勝てません」
役員が言った。
「対応策は」
「AV-98の起動ディスク暗号化強化。動作ログの管理厳格化。外部提供データの抽象度制限。操縦補正の個体依存化。つまり、野明さんの一号機、太田さんの二号機、それぞれの癖を簡単に汎用化できないようにする」
「商品化には不利ではないか」
「不利です」
河野は即答した。
「ですが、今は汎用化されすぎる方が危険です。アルフォンスの動きが、知らない機体で薄く再現される。その危険を我々は見たはずです」
会議室は静かになった。
薄い影。
サターンをそう呼んだ者がいた。
それは技術的にも正しかった。
本人ではない。
責任もない。
現場もない。
ただ、動きの影だけが商品になった。
その影が米軍規格へ行こうとしている。
役員は低く言った。
「篠原重工は、今後どうする」
河野は、少しだけ間を置いて答えた。
「本物を育てます」
「本物?」
「AV-98です。警察機としての本物。現場で責任を持ち、人を助け、街を壊さず、暴走機を止める。サターンやASURAがいくら薄い影を作っても、本物が先へ進めば、影は古くなる」
技術者たちは黙っていた。
それは、精神論に聞こえた。
だが、技術論でもあった。
動作パターンは、更新される。
操縦者と機体の関係は、変わる。
現場の判断は、ログだけでは写らない。
河野は続ける。
「もう一つ。シャフトのASURAが世界標準を目指すなら、篠原は責任を標準にします」
「責任を標準?」
「はい」
河野は、ホワイトボードに書き足した。
責任ある制御。
現場判断の保持。
操縦者主体。
過剰自律抑制。
データ流用防止。
警察用制御倫理。
「ASURAが戦力底上げなら、こちらは責任ある警察用制御です。動けることと、使ってよいことは違う。倒れないことと、倒してよいことは違う。強いOSではなく、現場で責任を取れるOSを作る」
役員は、しばらく河野を見ていた。
「売れるのか、それは」
河野は、少しだけ苦笑した。
「ASURAほど派手には売れないでしょう」
「だろうな」
「ですが、警察機としては必要です」
会議室の空気は重かったが、方向は見えた。
篠原重工はASURAの標準規格争いにそのまま乗るわけにはいかない。
乗れば、相手の土俵になる。
だから別の規格を作る。
警察機としての責任。
現場の判断。
操縦者と機体の関係。
それを技術にする。
その場にいた誰も、簡単な道だとは思っていなかった。
だが、選ぶしかなかった。
/*/
特車二課の格納庫では、第一小隊と第二小隊が合同で訓練をしていた。
訓練といっても、派手なものではない。
低速歩行。
転倒復帰。
腰部防護。
片腕制限状態での対象押し返し。
射線制御。
暴走機を壊しすぎずに止めるための間合い。
太田は不満そうだった。
「なぜ撃たん!」
遊馬が無線で言う。
「撃つ訓練じゃないからです」
「撃たずに止めるなど悠長な!」
「ASURA入りの相手が出てきた時、撃って止まるとは限らないんですよ。姿勢維持して突っ込んでくるかもしれない」
「なら、なおさら撃つ!」
「だから、撃つ前に倒す方向を考えろって言ってるんです!」
野明の一号機は、訓練用レイバーと組み合っていた。
相手は古い作業機。
わざと不安定な姿勢で押し込んでくる。
アルフォンスは、力で押し返さない。
腰を落とし、半歩ずらし、相手の重心を斜めへ逃がす。
倒す。
ただし、倒す先に仮想の車両や人員マーカーがないことを確認してから。
後藤隊長は、格納庫脇でそれを見ていた。
南雲隊長が隣に立つ。
「第一小隊も、だいぶ顔色が変わりましたね」
「無料サターンが国家安全保障案件だったって知れば、そりゃ変わるよ」
後藤は湯飲みを持ったまま言った。
「現場ってのは、知らないうちに食われることがあるんだねえ」
「シャフトのやり口ですか」
「シャフトだけじゃないよ」
後藤は、訓練中の一号機を見る。
「篠原も現場から学ぶ。警察もメーカーに頼る。レイバーってのは、そうやって育つ。問題は、誰が、どういう約束で、何のために食うかだ」
南雲は頷いた。
「信頼と盗用の差ですね」
「うん。あと、責任の差」
後藤の視線の先で、野明の一号機が訓練機をゆっくり倒した。
派手ではない。
美しくもない。
だが、周囲のマーカーには当てていない。
倒した相手のコックピットにも衝撃を集中させていない。
後藤は少しだけ笑った。
「いい半歩だねえ」
遊馬が無線で言う。
「野明、今の半歩、覚えとけ」
「うん!」
野明の声は明るい。
だが、いつもより少し硬さもある。
サターン。
ASURA。
米軍。
世界標準。
そういう言葉は、彼女にとって遠い。
けれど、アルフォンスの動きが誰かに使われるかもしれない怖さは分かる。
だからこそ、今のアルフォンスを変える。
盗まれた過去ではなく、今の半歩を積む。
第一小隊の隊員たちも訓練に加わっている。
旧式パイソン改で、腰を守る動き。
転倒しかけた時の復帰。
相手を壊しすぎない制圧。
福島課長は、それを黙って見ていた。
「後藤」
「はい」
「採用されなくて、よかったな」
「サターンですか」
「ああ」
福島は苦い顔で言った。
「今でも、装備更新としては惜しいと思っている。だが、あれを入れていたら、我々の全てがログとして吸われていたかもしれん」
「かもしれませんねえ」
「腹立たしいな」
「ええ」
後藤は珍しく、素直に同意した。
「腹立たしいです」
福島は後藤を見た。
「君がそういう言い方をすると、逆に怖いな」
「そうですか?」
「そうだ」
後藤は湯飲みを口へ運んだ。
「まあ、腹が立つから、現場は現場で育てるしかないですね」
訓練場では、太田の二号機が盛大に転びかけた。
遊馬の怒鳴り声が響く。
「太田さん! だから腰を残せって言ったでしょう!」
「残している!」
「残ってないから転びかけたんです!」
「うるさい!」
野明が笑う。
進士が記録を取る。
第一小隊員たちも苦笑する。
いつもの特車二課の空気。
だが、その下には、新しい緊張がある。
相手が何を積んでいるか分からない時代。
サターンだけではない。
古い作業機にも、警備レイバーにも、軍用払い下げにも、ASURA系の何かが入るかもしれない。
現場はそれでも止める。
人を助ける。
街を壊さない。
後藤は、小さく呟いた。
「世界標準ねえ」
南雲が聞く。
「何か?」
「いや。向こうが世界標準を作るなら、こっちは現場標準を作るしかないかなって」
「現場標準」
「倒していい方向を見る。壊しすぎない。人を巻き込まない。責任を持つ。そういう標準」
南雲は少し笑った。
「地味ですね」
「警察ですから」
/*/
夜。
SEJの一室で、バドはノートを書いていた。
机の上には、今日の資料の一部がある。
政府暫定方針。
米軍評価用ブラックボックス版。
第三国向け軍事仕様凍結。
ASURA名称使用禁止。
バドリナート・ハルチャンド関与最小表記。
その一文を見て、バドは口を尖らせた。
「僕、最小表記なん?」
黒崎が向かいの席で書類を確認しながら答える。
「当然です」
「ちょっとくらい名前残してもええやん」
「駄目です」
「ASURA育てたの僕やで」
「だから駄目です」
バドは不満そうにペンを回した。
「森川さんと磯口さんは名前残るやろ」
「技術者ですから」
「僕も技術者みたいなもんやん」
「違います」
「育成係」
「その言い方も避けて下さい」
「鍵」
「もっと避けて下さい」
「グリフォン乗り」
黒崎の手が止まる。
「それは、否定できません」
バドは少し笑った。
その笑いには、得意げなものが混じっていた。
黒崎は、また書類へ視線を戻す。
「今日、特車二課で合同訓練があったようです」
バドの動きが止まった。
「アルフォンス?」
「一号機も参加しています」
「何したん?」
「低速制圧、腰部防護、転倒復帰、倒す方向の制御」
バドの目が輝く。
「倒す方向?」
「はい。相手を壊すだけでなく、どこへ倒すかを選ぶ訓練です」
バドは、ペンを置いた。
資料の米軍規格という文字から、視線が離れる。
さっきまで、ASURAの世界標準化に胸を熱くしていた。
米軍評価。
外交カード。
戦略物資。
自分が育てたOSが世界へ行く。
それは嬉しい。
怖いが、嬉しい。
だが、アルフォンスが新しい半歩を踏んだと聞いた瞬間、胸の熱さの質が変わった。
もっと鋭くなる。
もっと近くなる。
「野明のお姉ちゃん、また変わったんかな」
「変わるでしょうね」
黒崎は答えた。
「現場に出ている限り」
バドは、椅子の上で膝を抱えた。
「盗んだデータ、また古くなるな」
「はい」
「サターンの薄い影も古くなる」
「はい」
「ASURAが世界標準になっても、本物のアルフォンスはまた変わる」
「その可能性は高いでしょう」
バドは、笑った。
嬉しそうに。
米軍規格の話をした時とは違う笑いだった。
「ええな」
「何がですか」
「本物が逃げるの」
黒崎は、少しだけ眉を動かした。
「逃げる?」
「追いかけても追いかけても、アルフォンスが変わる。盗んだ攻略本が古くなる。サターンに入れた薄い影も古くなる。ASURAが世界標準になっても、野明のお姉ちゃんとアルフォンスは現場でまた別キャラになる」
バドは、机に身を乗り出した。
「燃えるやん」
黒崎はため息をついた。
「結局、そこへ戻るのですね」
「戻る」
バドは即答した。
「ASURAが米軍に評価されても、政府が震えても、篠原が冷や汗かいても、第一小隊が採用せんでよかったってなっても、僕はまだアルフォンスに勝ってへん」
黒崎は静かに言った。
「世界が広がっても、あなたの中心は変わりませんね」
「変わらへん」
「危険です」
「知っとる」
バドはノートを開いた。
今日のページに、ゆっくり書く。
ASURA。
政府管理。
米軍体験版。
世界標準はまだ遠い。
第三国軍事仕様は凍結。
篠原は責任ある制御。
特車二課は現場標準。
アルフォンス、新しい半歩。
盗んだ攻略本、また古くなる。
嬉しい。
めっちゃ燃える。
黒崎が覗き込む。
「最後の二行は必要ですか」
「一番必要や」
「でしょうね」
そこへ、内海課長が顔を出した。
「やあ、二人とも」
黒崎が即座に言う。
「課長、入室前にノックして下さい」
「したよ」
「聞こえませんでした」
「心の中で」
「それはノックではありません」
内海は笑いながら中へ入ってくる。
手には、別の資料がある。
「政府の暫定方針、出たねえ」
「課長は既に読んだはずです」
「何度読んでも面白い。ASURAは、ついに国家が名前を変えて箱に入れようとする存在になった」
バドが言う。
「高度レイバー制御関連技術」
「つまらない名前だ」
「ASURAの方がかっこええ」
「そうだね」
黒崎が言う。
「社外では使用禁止です」
「夢がないねえ」
「危険が多すぎます」
内海は、バドのノートを覗こうとした。
黒崎が手で遮る。
「見ないで下さい」
「保護者みたいだ」
「保護者です」
バドが笑う。
「黒崎さん、保護者になったん?」
「業務です」
「出た、業務」
内海は椅子に腰掛けた。
「バド。世界が広がった感想は?」
「ASURAが世界標準になるかもって、めっちゃ嬉しい」
「うん」
「戦争に使われるのは怖い」
「うん」
「米軍に体験版出すの、ちょっと悔しい」
「本編を渡したくなる?」
「ちょっと」
黒崎が鋭く言う。
「渡しません」
「分かってるって」
バドは笑った。
「でも、それよりアルフォンスがまた変わったかもしれへんのが気になる」
内海課長は、それを聞いて、本当に嬉しそうに笑った。
「いいねえ」
黒崎は内海を見た。
「何がいいのですか」
「盤面が世界まで広がっても、バドは白い警察機へ戻る。実に分かりやすい」
「危険です」
「もちろん」
内海はバドを見る。
「ASURAは外交カードになった。サターンは爆弾になった。米軍は手を伸ばし、日本政府は震え、篠原は冷や汗をかき、特車二課は現場で半歩を積む」
バドは黙って聞いていた。
「それでも、君のゲームの相手はアルフォンスだ」
「せや」
「いいねえ。最高だ」
黒崎が低く言う。
「課長が最高と言う時は、たいてい最悪です」
「それも知ってる」
バドは立ち上がり、窓の外を見た。
夜の街。
遠くに、レイバー用のクレーンの影が見える。
この世界にはレイバーがある。
警察にも、企業にも、軍にも、工事現場にも、鉱山にも、港にも、油田にも。
そこへASURAが入るかもしれない。
自分が育てたOSが、世界の機械を動かすかもしれない。
怖い。
嬉しい。
誇らしい。
危ない。
でも、それでも。
バドの頭の中には、白い機体がいた。
泉野明のアルフォンス。
盗んだデータより先へ行く本物。
サターンの薄い影ではない、現場で育つ警察機。
バドは、小さく言った。
「待っときや、アルフォンス」
黒崎は何も言わなかった。
内海も、珍しく黙っていた。
夜の窓に、バドの顔が映る。
笑っていた。
子供の顔で。
グリフォンのパイロットの顔で。
ASURAの危険な育成者の顔で。
そして、まだ勝っていない相手を見つめるプレイヤーの顔で。
世界はASURAを欲しがり始めた。
国家はASURAを恐れ始めた。
企業はASURAを売りたがり、軍はASURAを管理したがり、警察はASURAの影に備え始めた。
だが、バドリナート・ハルチャンドのゲームは、まだ終わっていない。
その中心には、相変わらず一機の白い警察用レイバーが立っている。
ASURAがどれほど広がっても。
米軍規格になりかけても。
世界標準という言葉がどれほど眩しくても。
バドにとっての本番は、まだそこにあった。
グリフォンと、アルフォンス。
黒い怪鳥と、白い警察機。
それが終わるまで、バドはどこにも行かない。
強いパスポートも、米軍規格も、世界標準も、その後だ。
バドはノートの最後に、もう一行だけ書き足した。
世界が欲しがっても、僕のラスボスはまだ白い。
黒崎は、その一行を見た。
消さなかった。
それが、この子供を世界から繋ぎ止めている鎖なのか。
それとも、世界をさらに危険な場所へ引き込む導火線なのか。
まだ、分からない。
ただ一つ分かるのは。
ASURA拡散問題は、もう企業間の商売ではない。
国家安全保障案件になった。
そして、その中心にいる子供は、世界ではなく、一機の白いレイバーを見ている。
それが、何より厄介だった。