/*/ 企画七課 /*/
企画七課の一角だけ、妙に静かだった。
普段なら、内海課長の笑い声か、森川と磯口の技術談義か、バドリナート・ハルチャンドの妙な質問が飛んでいる。
だが、その時だけは違った。
内海は、自分の机に座っていた。
机の上には、数冊の調査ファイルが広げられている。
警視庁警備部特科車両二課。
第一小隊。
第二小隊。
篠原重工。
AV-98イングラム。
そして、隊員個別資料。
内海は、その中の一枚をじっと見ていた。
いつもの薄い笑みは、ない。
口元は少しだけ緩んでいるのに、目はどこか遠い。
企画七課の内海課長にしては、あまりに物憂げな顔だった。
バドは、しばらく離れた場所からその様子を見ていた。
そして、椅子から降りる。
足音を忍ばせるつもりはなかったが、バドの足音は軽い。
内海の机の横まで来て、ひょいと覗き込んだ。
資料には、女性警察官の写真があった。
熊耳武緒。
特車二課第二小隊隊員。
経歴。
勤務評価。
性格分析。
対人関係。
内海との過去接触に関する推定。
バドは、写真と内海の顔を交互に見た。
「なんや、内海さん」
内海は、少しだけ目を動かす。
「何かな、バド」
「恋煩いかいな」
その場の空気が、ぴたりと止まった。
近くで書類を整理していた黒崎が、ほんのわずかに手を止める。
内海は、驚いたようにバドを見た。
それから、小さく笑った。
「恋煩い。君、また変な言葉を覚えたねえ」
「変やないやろ。そんな顔して女の人の資料見てたら、そういうやつやん」
「そう見えるかい?」
「見えるで。いつもの内海さんやったら、資料見ながらもっと悪い顔するもん」
黒崎が静かに顔を上げた。
「バド。課長に余計なことを言わないで下さい」
「余計ちゃうやろ。内海さん、元気ないやん」
「課長は元気がないくらいで丁度いいです」
「黒崎さん、辛辣やな」
「事実です」
内海は楽しそうに笑う。
しかし、いつものような軽さは少しだけ足りなかった。
バドはさらに資料へ目を落とす。
「熊耳武緒……警察の人?」
「特車二課第二小隊だよ」
「アルフォンスの仲間?」
「一号機と二号機の近くにいる人だね」
「ふーん」
バドは、少し考えた。
そして、何の悪気もなく言った。
「ほな、攫ってしまえばええやん」
黒崎が即座に反応した。
「バド」
声が低かった。
だが、バドは止まらない。
「一号機と二号機の怪獣戦入りの起動ディスク貰う時に、一緒に攫ってしまえば良いやん。あっちも憎からず思ってるなら、強引に迫った方が『こんなに私を思ってくれてるの』って火が付くんやない?」
黒崎は、完全に書類を置いた。
「バド。やめなさい」
「なんで?」
「警察の人間を攫うのは、起動ディスクどころではない騒ぎになります」
「起動ディスクもだいぶ騒ぎやん」
「それ以上です」
「でも、内海さんならできるやろ」
「できるかどうかの話ではありません」
バドは不思議そうな顔をした。
「欲しいんやろ?」
内海は答えなかった。
バドは、ますます首を傾げる。
「欲しいもん前に我慢するなんて、内海さんらしくないで」
今度こそ、内海の笑みが消えた。
企画七課の空気が、少しだけ変わる。
黒崎が、バドの肩に手を置いた。
「そこまでです」
「でも」
「そこまでです」
バドは、黒崎を見上げた。
黒崎の顔は、いつもの無表情に近い。
だが、目が笑っていなかった。
バドは口を尖らせる。
「僕、変なこと言うた?」
「はい」
「恋の応援やのに」
「それは応援ではありません。誘拐の提案です」
「恋と誘拐って違うん?」
黒崎は、一瞬だけ絶句した。
内海もバドを見た。
その目に、面白がる色はある。
だが、それだけではなかった。
黒崎は、ゆっくりと言った。
「違います。まったく違います」
「でも、内海さんは欲しいもん奪う人やん」
「それを当然のように言わないで下さい」
「ちゃうの?」
黒崎は返答に詰まった。
否定しきれなかったからだ。
内海課長は、欲しいものに手を伸ばす。
グリフォン。
ASURA。
イングラムの起動ディスク。
バド。
面白いもの。
危険なもの。
使えるもの。
欲しいと思えば、法も倫理も手段も、必要に応じて踏み越える。
その内海が、熊耳武緒の資料だけを見て、手を出していない。
バドには、それが奇妙に見えた。
内海らしくない。
だから言った。
欲しいなら攫えばいい、と。
黒崎は、バドの肩に置いた手に少し力を込めた。
「人間は、物ではありません」
バドは、瞬きをした。
「うん」
「欲しいから奪う、では済みません」
「内海さん、いつも済ませてへん?」
「だから、あなたにそれを学ばせてはいけないのです」
バドは黙った。
内海が、そこで初めて口を開いた。
「黒崎君」
「はい」
「今日の君は、ずいぶんまともな大人だねえ」
「いつもまともです」
「僕の部下なのに?」
「それは関係ありません」
内海は笑った。
少しだけ、いつもの顔に戻った。
だが、資料の上に置いた指は動かない。
熊耳武緒の写真。
その名前。
経歴。
かつての接点。
内海は、それを見下ろしたまま言った。
「バド」
「何?」
「世の中にはね、手を伸ばすと壊れるものがあるんだよ」
バドは眉を寄せた。
「壊れたら直せばええやん」
「直せないものもある」
「レイバーやないから?」
「そう。レイバーじゃないから」
バドは、熊耳の写真を見る。
写真の中の女性は、まっすぐこちらを見ている。
強そうだった。
怖そうでもあった。
だが、内海がいつものように笑いながら弄ぶ対象には見えなかった。
「その人、内海さんのこと嫌いなん?」
内海は少し考えた。
「どうだろうね」
「憎からず思ってるんちゃうの?」
「君はどこでそんな言い方を覚えたんだい」
「テレビ」
「テレビは危険だねえ」
黒崎が言う。
「課長の方が危険です」
「ひどいなあ」
バドは納得していなかった。
「でも、好きなら連れてきたらええやん」
「好きだから連れてこない、ということもあるんだよ」
バドは、完全に理解できない顔をした。
「意味分からん」
「そうだろうね」
内海は、少しだけ笑った。
「君にはまだ早い」
「僕、グリフォン乗れるで」
「それとこれとは別だ」
「ASURA育てられるで」
「それとも別だ」
「ブラジルでRPG避けたで」
「恋愛とは関係ないね」
黒崎が静かに言った。
「むしろ、その経験で恋愛を語らないで下さい」
バドはむっとした。
「ほな、内海さんはどうしたいん?」
内海は答えなかった。
代わりに、資料を閉じた。
熊耳武緒の写真が見えなくなる。
その動きは、普段の内海にしては慎重だった。
まるで、何かを箱に戻すように。
「どうもしないよ」
バドは目を細めた。
「嘘や」
「嘘かな」
「嘘や。内海さん、どうもしない人ちゃうもん」
黒崎が言った。
「バド」
だが、内海は手で黒崎を制した。
「いいよ」
黒崎は黙った。
内海は、閉じた資料の表紙を指で軽く叩く。
「どうもしない、というのも選択だよ」
「内海さんらしくない」
「そうかもね」
「我慢してるん?」
「たぶんね」
「欲しいのに?」
「欲しいから、かな」
バドは、ますます分からないという顔をした。
欲しいから手を出さない。
壊れるから触らない。
奪えるのに奪わない。
それは、バドが知っている内海課長とは違う。
欲しいものに手を伸ばし、面白いものを逃がさず、手段のためには目的さえ選ばない男。
その内海が、たった一枚の警察官の資料を前に、手を止めている。
バドは、小さく言った。
「内海さんでも、怖いもんあるんやな」
内海は笑った。
「あるよ」
「何?」
「退屈」
「それは知っとる」
「それから」
内海は、少しだけ間を置いた。
「本当に欲しいものを、自分で壊してしまうこと」
黒崎が、わずかに内海を見る。
その横顔は、いつもの課長の顔ではなかった。
しかし、それも一瞬だった。
すぐに内海は薄く笑う。
「だから、起動ディスクだけにしておこう」
黒崎が即座に言う。
「起動ディスクも駄目です」
「黒崎君、厳しいなあ」
「当然です」
バドは、まだ少し不満そうだった。
「でも、あの人、他の男に取られるかもしれへんで」
「それも人生だね」
「内海さんらしくない」
「今日はそればかりだね」
「だって、ほんまにらしくないんやもん」
内海は椅子にもたれ、天井を見た。
「らしくないことをするのも、たまには面白い」
「面白いん?」
「苦いけどね」
バドは、苦いという言葉を考えた。
ゲームで負けるのは苦い。
グリフォンがアルフォンスに届かない未来を想像するのも苦い。
でも、内海の言う苦いは、少し違う気がした。
勝ち負けではない。
盗むか盗まないかでもない。
手を出した瞬間に、自分が何かを決定的に壊してしまう。
それが分かっているから、手を止めている。
バドは、ぽつりと言った。
「大人って面倒やな」
黒崎が答える。
「子供も十分面倒です」
「僕?」
「主にあなたです」
「ひどい」
内海は笑った。
今度は、いつもの薄い笑みに近かった。
「バド」
「何?」
「もし君が、将来ほんとうに欲しいものを見つけたら、黒崎君に相談するといい」
黒崎が眉を寄せる。
「なぜ私に」
「君は止めてくれるだろう?」
「当然です」
「ほら」
バドは黒崎を見上げる。
「黒崎さん、恋愛相談もできるん?」
「しません」
「でも止めるんやろ?」
「犯罪行為は止めます」
「恋愛は?」
「あなたが誘拐と混同する間は、すべて止めます」
「厳しいなぁ」
「当然です」
内海は閉じた資料を引き出しにしまった。
鍵はかけなかった。
だが、もう開かなかった。
「さて」
内海は椅子から立ち上がる。
「仕事に戻ろうか。起動ディスクの解析は?」
黒崎が言う。
「進行中です。ただし、それを『貰う』という表現はやめて下さい。窃取です」
「細かいなあ」
「細かくありません」
バドは、内海の横顔を見た。
いつもの内海に戻っている。
戻っているように見える。
けれど、さっきの顔を見てしまった。
物憂げな顔。
熊耳武緒の資料を見る顔。
欲しいのに手を出さない顔。
バドは小さく呟いた。
「やっぱり恋煩いやん」
黒崎がすぐに言った。
「バド」
「はい」
「その話題は終わりです」
「はい」
「はいは一回です」
「はい」
内海は笑いながら、机の上の別ファイルを開いた。
そこには、AV-98一号機と二号機の起動ディスクに関する解析表があった。
白い機体。
黒い怪鳥の敵。
奪えるもの。
奪ってはいけないもの。
壊せるもの。
壊したくないもの。
バドには、まだその違いがよく分からない。
だが、内海が熊耳武緒の資料を閉じた時の手つきだけは、不思議と頭に残った。
欲しいものを、あえて引き出しにしまう手つき。
それは、バドが知っている内海課長の中で、一番らしくない手つきだった。