/*/ 警視庁東雲女子寮 秋 /*/
秋の雨が、窓を細かく叩いていた。
まだ本降りではない。
けれど、空気は重かった。
テレビの天気予報では、南の海上で発達した台風が、関東へ進路を向けつつあると繰り返している。画面の隅には、白い渦を巻く雲の塊が映っていた。
東雲女子寮の廊下には、湿った風の匂いが入り込んでいる。
勤務を終えた者たちが談話室で茶を飲み、テレビを眺め、明日の交通機関を気にしていた。
その中で、共用電話が鳴った。
電話番をしていた寮生が受話器を取る。
「はい、東雲女子寮です。……はい? 熊耳さん?」
談話室の片隅で資料を読んでいた熊耳武緒が、顔を上げた。
「熊耳さん。山田さんからお電話」
「山田……?」
心当たりはなかった。
少なくとも、この寮に直接電話してくる山田など。
電話番の寮生は、少しだけ面白がるように笑った。
「男性からの電話なんて珍しいわね」
近くにいた別の寮生が、冗談めかして言う。
「いたずら電話なら、逆探知してやるって脅かしなさい」
「そうね」
熊耳は立ち上がった。
廊下の窓が、風でかすかに鳴った。
受話器を受け取り、周囲の視線を背中で受けながら、静かな声で言う。
「もしもし、熊耳武緒です」
ほんの一瞬。
電話の向こうで、誰かが息を吸った気配がした。
『あ、くまがみたけおさんですね?』
熊耳の指が、受話器を握る力を強めた。
知らない声ではなかった。
忘れていた声でもなかった。
ただ、忘れたことにしていた声だった。
軽くて、芝居がかっていて、人の心の一番柔らかいところへ、何の遠慮もなく入り込んでくる声。
熊耳は、声色を変えずに尋ねた。
「そうですが、どちらの山田様ですか」
電話の向こうで、相手が少しだけ黙る。
それから、笑った。
『……ビクトリアピークで一緒に夜景を眺めたリチャードだよ♪』
時間が、四年分ほど巻き戻った。
香港。
湿った夜。
ビクトリアピーク。
宝石を砕いたような夜景。
内偵中の緊張。
それを忘れさせるように隣で笑っていた男。
リチャード・王。
信じてはいけなかった男。
それでも、信じかけた男。
そして、置いて行った男。
熊耳は、廊下の壁へ身体を向け、周囲に表情を見られないようにした。
「……あ、あなたなの?」
『うん。ぼくだよ』
軽い返事だった。
まるで、昨日別れたばかりの知人へ電話しているかのような。
熊耳の胸の奥で、古い痛みがゆっくりと目を覚ました。
「ここは警察寮よ。よく電話してこれたわね」
『そこがどこだって構うもんか』
受話器の向こうの声が、少しだけ低くなった。
『もう耐えられないんだよ』
「何に?」
『君に会わずにいることに』
熊耳は、目を閉じた。
馬鹿なことを。
四年前も、そうやって人を惑わせた。
甘い言葉を軽い声で言う。
冗談のように、本気のように。
そして最後には、何も残さず消える。
「用件は」
『まず君には謝らなければならない』
熊耳は、冷たく返した。
「どの件についてかしら? それに、謝って済むなら警察はいらないわね」
『そのとおり!』
リチャードは嬉しそうに言った。
『まったくそのとおりだ。ぼかぁ君の前で土下座したって構わない気分だ』
「気分だけなら誰でも言えるわ」
『じゃあ、実物を見に来る?』
「ふざけないで」
『ふざけているように聞こえるかい?』
「ええ」
『困ったな。今日はかなり本気なんだけど』
熊耳は、受話器を握ったまま黙った。
報告すべきだ。
この電話を、上司に。
四年前、香港での内偵中に接触した男。
リチャード・王。
自分を利用し、裏切り、置いて行った男。
今になって警察寮へ電話してきた。
それだけで、十分に報告案件だった。
けれど。
彼は、いま特車二課の敵として電話してきたわけではない。
グリフォン事件の関係者として名乗ったわけでもない。
シャフトの男として接触してきたわけでもない。
熊耳にとって、受話器の向こうにいるのは、四年前の香港から突然届いた手紙だった。
封を切ってはいけないと分かっているのに、もう名前を見てしまった手紙。
「あなた、自分が何をしているか分かっているの?」
『たぶんね』
「私は警察官よ」
『知っている』
「あなたを見逃す理由なんてない」
『そうだね』
「会いに行く理由もない」
『それはどうかな』
「ないわ」
『じゃあ、来ない?』
熊耳は答えなかった。
雨音が少し強くなった。
廊下の窓の外で、街路樹が風に揺れている。
秋の台風が近づいていた。
低い気圧が、胸の奥まで押し下げてくるようだった。
『どうだろう』
リチャードの声が、受話器の向こうで柔らかくなる。
『ぼくをタイホしに来る気はないかな?』
熊耳は、息を止めた。
逮捕。
彼は、そう言った。
四年前には、そうできなかった。
内偵の中で、本気になりかけた自分は、最後の最後で彼を取り逃がした。
いや、取り逃がしたのではない。
置いて行かれた。
見抜けなかった。
信じたかった。
だから、裏切られた。
熊耳は、声を低くした。
「今さら、私に捕まりたいの?」
『君にならね』
「軽薄ね」
『そういうところも含めて、謝りたい』
「謝罪の言葉にすら軽薄さが混ざるのね」
『癖なんだ』
「直しなさい」
『努力するよ』
「信用できないわ」
『だろうね』
彼は、否定しなかった。
そのことが、逆に熊耳を苛立たせた。
否定されれば、怒れた。
笑われれば、切れた。
けれど、今夜の彼は少しだけ違った。
軽い調子の奥に、台風前の海のようなざわつきがあった。
「どこへ行けばいいの」
口にしてから、熊耳は自分で驚いた。
聞いてはいけなかった。
けれど、もう聞いてしまった。
電話の向こうで、リチャードが少しだけ息を吐く。
『夜景の見える場所がいい』
「詩人のつもり?」
『過去からの手紙にしては、少し湿っぽいかな』
熊耳の胸が、また痛んだ。
過去からの手紙。
まさに、そうだった。
読まずに捨てるべき手紙。
それなのに、差出人の名前だけで指が止まってしまう手紙。
『湾岸のホテルにバーがある。上の階だ。東京の灯りが見える』
「あなたがそこにいるの?」
『ぼくは、まだいない』
熊耳の目が細くなる。
「どういう意味?」
『君が来てくれたら、迎えを寄こす』
「迎え?」
『山田ではない誰かが声をかける。心配しなくていい。乱暴な真似はしない』
「信じると思う?」
『信じなくていい。疑って来ればいい。君は警察官だからね』
「なら、私が通報して人を連れて行くとは考えないの?」
『考えるさ』
「それでもいいの?」
『それでも、君が来るなら』
熊耳は、受話器を握る手に力を込めた。
「三十分後」
『うん』
「こちらから電話を切る。あなたはそれ以上話さない」
『分かった』
「もし罠なら」
『その時は、君に怒られる』
「ふざけないで」
『ごめん』
すぐに謝った。
熊耳は、それが一番腹立たしかった。
四年前は、そんなふうに謝らなかった。
笑って、煙に巻いて、消えた。
いまさら謝るな。
いまさら本気のような声を出すな。
熊耳は受話器を置く直前、低く言った。
「謝罪は、会ってから聞くわ」
『待っているよ、武緒』
名前を呼ばれた瞬間、熊耳は電話を切った。
受話器を置く音が、廊下に大きく響いた。
/*/
「長かったわね」
電話番の寮生が、にやにやしながら言った。
「やっぱり男性?」
「仕事関係よ」
熊耳は短く答えた。
「仕事関係の山田さん?」
「そう」
「逆探知は?」
「必要なかったわ」
「ふうん」
疑うような、面白がるような視線。
熊耳はそれ以上答えず、自室へ戻った。
扉を閉める。
鍵をかける。
部屋の窓が、風でかすかに鳴っていた。
雨粒がガラスに斜めの線を描く。
机の上には、未整理の書類と、明日の勤務予定が置かれている。
熊耳は、その前に立った。
報告しなければならない。
いまならまだ間に合う。
電話の内容を記録する。
後藤隊長へ連絡する。
あるいは南雲隊長へ。
四年前の香港で接触したリチャード・王から電話があった、と。
それで終わりだ。
それが正しい。
熊耳武緒は、正しいことを選ぶべきだ。
熊耳は、机の上の電話へ手を伸ばしかけた。
止まる。
受話器の向こうの声が、耳に残っている。
もう耐えられない。
まず君には謝らなければならない。
土下座したって構わない気分だ。
ぼくをタイホしに来る気はないかな?
熊耳は、唇を噛んだ。
「馬鹿なことを」
自分に言った。
馬鹿なのは彼か。
それとも、自分か。
四年前、本気になった。
任務中だった。
内偵中だった。
そんなことは分かっていた。
分かっていて、彼の声を聞き、彼の笑顔を見て、彼の言葉を信じた。
そして、裏切られた。
置いて行かれた。
その痛みは、片付けたはずだった。
仕事の引き出しへしまい込んだはずだった。
それなのに、一本の電話で、引き出しは開いてしまった。
熊耳は、クローゼットを開けた。
秋物のコートを取り出す。
外は台風前の雨だ。
傘は役に立たないかもしれない。
歩きやすい靴。
小さな鞄。
手帳。
身分証。
必要最低限のものだけ。
拳銃は持てない。
当然だ。
非番の私用外出で、銃など持ち出せない。
だからこそ、行ってはいけない。
熊耳は、コートを持ったまま鏡を見た。
鏡の中の自分は、警察官の顔をしているようで、していなかった。
過去からの手紙を読みに行く女の顔をしていた。
それが、ひどく腹立たしかった。
「違う」
低く呟く。
「逮捕しに行くのよ」
嘘だ。
自分で分かっていた。
一人で行く時点で、逮捕など建前でしかない。
報告しない時点で、職務ではない。
そもそも、彼は居場所すらまだ明かしていない。
ホテルのバー。
夜景の見える場所。
迎え。
そんな手順そのものが、罠であり、誘導であり、四年前の彼らしい演出だった。
けれど、会わなければならないと思っている。
なぜかは分からない。
分かりたくもない。
ただ、電話を切った瞬間から、身体がそちらへ向かう準備を始めている。
熊耳は手帳を開いた。
何かを書こうとして、ペンを止める。
もし戻らなかったら。
もし罠だったら。
もし彼が、四年前と同じように自分を置いて行くつもりなら。
短く一行だけ書いた。
湾岸ホテル。山田より接触。
それ以上は書けなかった。
誰に宛てるでもないメモ。
警察官としての最後の抵抗のようなもの。
熊耳は手帳を閉じ、机の引き出しへ入れた。
/*/
寮を出る時、電話番の寮生が目を丸くした。
「あれ、熊耳さん。外出?」
「少しね」
「今から? 台風、近づいてるわよ」
「すぐ戻るわ」
「山田さん?」
冗談めかした声。
熊耳は、振り返らなかった。
「違うわ」
嘘をついた。
玄関を出ると、秋の雨が頬に当たった。
まだ横殴りではない。
けれど風は強い。
傘を差すと、すぐに骨がきしんだ。
遠くの湾岸には、低い雲が垂れ込めている。
タクシーを拾うべきか。
電車で近くまで行くべきか。
いや、足がつく。
そう考えて、熊耳は自分で自分に呆れた。
足がつく、などと。
警察官が何を考えているのか。
熊耳は寮の門の前で立ち止まった。
引き返せ。
今なら戻れる。
部屋へ戻り、電話する。
後藤隊長に。
南雲隊長に。
リチャード・王から接触があった、と。
それで終わりだ。
それが正しい。
熊耳武緒は、正しいことを選ぶべきだ。
そのはずだった。
けれど、足は戻らなかった。
胸の奥で、怒りと不安と、名前をつけたくない熱が混ざっている。
あの男は、なぜ今さら電話をしてきたのか。
何を謝るつもりなのか。
本当に土下座でもするつもりなのか。
あるいは、四年前と同じように笑って煙に巻くのか。
分かっている。
会わなくても、だいたい分かる。
リチャード・王は、そういう男だ。
それでも。
それでも、声を聞いてしまった。
会いたい、と言われてしまった。
熊耳は歯を食いしばった。
「最低ね」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
結局、彼女はタクシーを止めた。
乗り込む。
ホテルの名を告げる。
運転手が、雨のフロントガラス越しに湾岸の方角を見た。
「この天気でホテルですか?」
「ええ」
「お仕事ですか」
熊耳は窓の外を見た。
雨に滲む街灯。
遠ざかる寮。
近づいてくる湾岸。
しばらくして、答えた。
「……ええ。たぶん」
仕事。
そう言えば、少しだけ楽になる。
逮捕しに行く。
謝罪を聞きに行く。
罠かどうか確かめに行く。
全部、言い訳だった。
熊耳は膝の上で手を握った。
会ってはいけない。
でも、会いに行く。
その矛盾を抱えたまま、タクシーは台風前の湾岸へ向かっていった。
/*/
ホテルのロビーは、外の風雨から切り離された別世界のようだった。
磨かれた床。
低く流れるピアノの音。
ほの暗い照明。
濡れたコートを着た熊耳は、その中でひどく場違いに感じた。
エレベーターで上階へ向かう。
扉が開くと、夜景の見えるバーがあった。
窓の外には、東京湾岸の灯りが広がっている。
ただし今夜は、台風前の雨に滲み、光はぼやけていた。ビクトリアピークから見下ろした香港の夜景ほど鮮やかではない。
それでも、熊耳の胸を抉るには十分だった。
四年前。
香港。
夜景。
リチャード。
彼は、そういう場所を選ぶ。
忘れたことにした記憶を、わざわざ呼び起こす場所を。
熊耳はカウンターから少し離れた席に座った。
注文を聞かれ、短く水だけを頼む。
酒を飲む気にはなれなかった。
時計を見る。
三十分。
彼はいない。
来ないのかもしれない。
それなら、それでいい。
帰ればいい。
ただのいたずらだったと、自分に言い聞かせればいい。
そう思った時、背後から声がした。
「熊耳、武緒さん?」
熊耳は振り返った。
そこに立っていたのは、リチャードではなかった。
若い男だった。
端正だが、どこか軽薄な印象のある顔。
スーツ姿。
濡れていない。
つまり、外から来たばかりではない。
「あなたは」
「青砥といいます」
「山田さんの使い?」
青砥は、薄く笑った。
「そう思っていただいて構いません」
「彼はどこ」
「ご案内します」
「ここで会うと言ったわ」
「ここで待つように、とは言ったはずです」
熊耳は、目を細めた。
「言葉遊びね」
「彼の悪い癖です」
青砥は、そう言って軽く会釈した。
熊耳は立ち上がらなかった。
「私が行くと思う?」
「思います」
「なぜ」
「来たからです」
熊耳は黙った。
それは、ひどく単純で、ひどく正しい答えだった。
ここまで来た。
報告せず。
一人で。
台風前の夜に。
青砥は、少しだけ窓の外を見た。
「風が強くなっています。早い方がいい」
「どこへ」
「湾岸倉庫街です」
熊耳は、唇を噛んだ。
最初から、そこへ連れていくつもりだったのだ。
ホテルのバーは中継地点。
夜景は餌。
四年前を思い出させるための、あまりにも彼らしい手順。
「悪趣味ね」
「同感です」
「あなたもそう思うの」
「彼の演出は、時々過剰です」
熊耳は、少しだけ青砥を見直した。
しかし信用はしない。
「私がここで帰ると言ったら」
「お止めしません」
「本当に?」
「はい」
「彼に怒られない?」
「怒られるかもしれません」
「それでも?」
「それでもです」
熊耳は窓の外を見た。
雨に滲む夜景。
香港とは違う。
けれど、過去から届いた手紙の封は、もう開いてしまった。
途中で読むのをやめることはできる。
できるはずだった。
熊耳は、コートを手に取った。
「案内して」
青砥は、静かに頷いた。
/*/
車は黒いセダンだった。
ホテルの地下駐車場から出ると、雨がフロントガラスを叩いた。
ワイパーが忙しく動く。
青砥は無駄なことを言わず、滑らかに車を走らせた。
熊耳は後部座席に座っていた。
助手席ではない。
青砥がそう促したわけではないが、自然とそうなった。
窓の外で、湾岸の灯りが流れていく。
ホテルの光は遠ざかり、倉庫街の暗い輪郭が近づいてくる。
雨は強くなっていた。
時折、横風で車体がわずかに揺れる。
「彼は、何をしている人間なの」
熊耳が訊いた。
青砥は、少しだけ間を置く。
「色々と」
「答えになっていないわ」
「彼を一言で説明できる人間は、あまりいないと思います」
「あなたは?」
「振り回されている一人です」
熊耳は、小さく笑いそうになった。
だが笑わなかった。
「彼は、まだリチャード・王を名乗っているの?」
「今夜は、そうなのでしょう」
「今夜は?」
「名前を使い分ける人です」
「知っているわ」
四年前もそうだった。
リチャード。
山田。
王。
どれが本当で、どれが嘘だったのか。
いまだに分からない。
けれど、どの名前でも、彼は彼だった。
それが一番腹立たしい。
青砥は、車を倉庫街の奥へ入れた。
路面に水が溜まり、タイヤが音を立てる。
遠くで、金属板が風に煽られて鳴っていた。
やがて車は、一棟の倉庫の前で停まった。
フロントガラス越しに、数字が見える。
12。
白い塗装が剥げかけた扉。
古い倉庫。
雨に濡れた鉄骨。
青砥はエンジンを切らずに言った。
「降りてください。十二号倉庫です」
熊耳は、青砥を見た。
「あなたは?」
「ここまでです」
「中には来ないの」
「彼は、一人で待っています」
「信じると思う?」
「信じなくて構いません」
「あなたたちは、そればかりね」
青砥は少しだけ笑った。
「そういう人の周りにいると、そうなります」
熊耳はドアを開けた。
雨音が一気に大きくなる。
外へ出ると、風がコートを煽った。
青砥は窓を少しだけ下げた。
「熊耳さん」
「何」
「帰るなら、今です」
熊耳は答えなかった。
車の窓が閉まる。
黒いセダンは、雨の中で静かにバックし、倉庫の影へ消えた。
熊耳は、十二号倉庫の扉を見た。
戻れ。
今なら戻れる。
ホテルで帰るより、もっと遅い。
寮で引き返すより、さらに遅い。
それでも、まだ戻れる。
だが、足は前へ出た。
/*/
倉庫の中は、外よりも暗かった。
雨音が屋根を叩き、広い空間に低く響いている。
古い木箱。
鉄骨。
使われなくなった資材。
奥の方に、ひとつだけ灯りがあった。
その下に男が立っている。
濡れてはいなかった。
ホテルのバーではなく、倉庫の奥で待っていた男。
リチャード・王。
彼は熊耳を見ると、いつものように笑った。
けれど、その笑みには、四年前よりも少しだけ疲れた色があった。
「来てくれたんだね」
熊耳は足を止めた。
距離はまだある。
逮捕するなら踏み込める。
逃げるなら逃げられる。
引き返すなら、まだ間に合う。
倉庫の屋根を、雨が強く叩いた。
「ホテルで会うとは言っていなかったのね」
「夜景の見える場所で待っていてほしかった」
「悪趣味ね」
「うん」
「四年前を思い出させるため?」
「半分は」
「残り半分は?」
「君が来てくれるか、確かめたかった」
熊耳は、冷たく言った。
「最低ね」
「そうだね」
彼は否定しなかった。
そのことが、熊耳を余計に苛立たせた。
「あなたを逮捕しに来たのよ」
「うん」
「本気にしていないでしょう」
「しているよ」
「嘘」
「半分は本当」
「またそれ?」
熊耳の声は冷たかった。
冷たくしなければ、立っていられなかった。
リチャードは、ゆっくりと両手を見える位置に出した。
武器はない。
少なくとも、見える範囲には。
「まず、謝らせてほしい」
「どの件について?」
熊耳は電話と同じ言葉を繰り返した。
「たくさんありすぎて、順番が必要ね」
「そうだね」
リチャードは、少しだけ俯いた。
「香港のことからかな」
熊耳の胸が、また嫌な音を立てた。
ビクトリアピーク。
夜景。
内偵。
彼の横顔。
信じたかった自分。
置いて行かれた自分。
秋の東京湾岸に、四年前の香港の湿った夜が重なる。
「謝れば済むなら、警察はいらないわ」
リチャードは顔を上げた。
笑っていた。
だが、ふざけてはいなかった。
「だから君に来てもらったんだ」
「私を何だと思っているの」
「警察官」
「それだけ?」
リチャードは、少し沈黙した。
熊耳は、その沈黙が怖かった。
答えを聞きたい。
聞きたくない。
どちらも本当だった。
リチャードは、ゆっくりと言った。
「ぼくが、置いて行った人」
熊耳は、息を呑んだ。
言い訳ではなかった。
冗談でもなかった。
所有物のような言い方でもない。
ただ、事実を認める声だった。
四年前、彼は自分を置いて行った。
熊耳は、その言葉をずっと待っていたのかもしれない。
待っていなかったと思いたかった。
「なら」
熊耳の声は、雨に混ざって少し震えた。
「最後まで、過去のままでいればよかったのよ」
「そのつもりだった」
「なのに電話した」
「うん」
「最低ね」
「そうだね」
「否定しないの?」
「今日は、あまり否定する気分じゃないんだ」
熊耳は、笑いそうになった。
怒りで。
呆れで。
そして、どうしようもない懐かしさで。
「あなた、本当にずるいわ」
「知っている」
「知っていてやるのね」
「たぶん」
「逮捕されたいの?」
「君になら」
熊耳は一歩踏み出した。
それが逮捕のための一歩なのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からなかった。
リチャードは動かない。
逃げない。
挑発するように笑ってもいない。
ただ、待っている。
電話の時と同じように。
そして、ホテルのバーに青砥を寄こした時と同じように。
熊耳は、彼の前まで歩いた。
手を伸ばせば届く距離。
胸倉を掴める。
手錠をかけられる。
頬を打つこともできる。
その距離に来た時、リチャードは不意に言った。
「思っていたより、ずっと破滅的な人間だね、君は」
熊耳の目が細くなった。
「何ですって?」
リチャードは、心底嬉しそうに笑った。
「こんなに嬉しい事はないよ」
熊耳は、その瞬間、彼の胸元を掴んだ。
濡れていないコートの布が、指の中で歪む。
リチャードは抵抗しなかった。
「馬鹿にしているの?」
「していない」
「一人で来た私を見て、そう言うの?」
「うん」
「最低」
「そうだね」
「私は、あなたに会うべきではなかった」
「うん」
「ホテルで帰るべきだった」
「うん」
「青砥という人の車にも乗るべきではなかった」
「うん」
「十二号倉庫になんて入るべきではなかった」
「うん」
「なのに、来た」
「来てくれた」
「違うわ」
「違わない」
熊耳は、胸元を掴む手に力を込めた。
「あなた、本当に最低ね」
「うん」
「そんな言葉で喜ぶなんて」
「だって、君は正しい人だと思っていた」
「私は警察官よ」
「うん。だから、正しい人だと思っていた」
「今もそうよ」
「そうだね」
リチャードは、少しだけ声を低くした。
「でも今夜、君は正しくない方を選んだ」
熊耳は息を呑んだ。
「黙りなさい」
「報告せずに来た。ホテルで待った。青砥の車に乗った。十二号倉庫まで来た。ぼくと二人きりになった」
「黙りなさい」
「それでも君は、ぼくを逮捕しに来たと言う」
「黙りなさい!」
熊耳の声が、倉庫に響いた。
雨音が、その叫びをすぐに飲み込んだ。
リチャードは黙った。
だが、その目は笑っていなかった。
ただ、嬉しそうだった。
それが余計に腹立たしかった。
「謝らないで」
熊耳は低く言った。
「どうして?」
「許したくなるから」
言ってしまった。
熊耳は、自分の言葉に息を止めた。
リチャードの目が、わずかに見開かれる。
その表情を見て、熊耳は腹が立った。
この男に、そんな顔をさせてしまった自分に。
リチャードは、静かに言った。
「武緒」
「名前で呼ばないで」
「ごめん」
「謝らないでと言ったでしょう」
「難しいな」
「あなたに難しいことなんてあるの?」
「あるよ」
リチャードは、掴まれたまま、少しだけ笑った。
「君の前で、どうしたらいいか分からない」
風が強くなった。
倉庫の外で、何かが倒れる音がした。
台風が近づいている。
このままでは、本降りになる。
帰れなくなる。
戻れなくなる。
熊耳は、彼の胸元を掴む手に力を込めた。
逮捕しろ。
手錠をかけろ。
連れて帰れ。
警察官として。
それが正しい。
なのに、彼の声を聞いている。
彼の目を見ている。
香港の夜景と、ホテルのバーの夜景と、東京湾岸の十二号倉庫が、熊耳の中で一本の線になってしまう。
「私を、また置いて行くつもり?」
その問いは、責める声ではなく、恐れる声になってしまった。
熊耳はすぐに後悔した。
だが、もう遅い。
リチャードは、逃げずに答えた。
「分からない」
熊耳の目が冷たくなる。
「最低の答えね」
「うん」
「そこは、置いて行かないと言うところでしょう」
「言いたいよ」
「言えばいいじゃない」
「嘘になるかもしれない」
熊耳は、彼の胸元を掴んだまま黙った。
雨が屋根を叩いている。
嘘をつかないことが、こんなにも腹立たしいとは思わなかった。
四年前にそれをしてくれれば。
あるいは、いま嘘をついてくれれば。
どちらかなら、もっと楽だった。
「本当にずるい」
「うん」
「嫌いよ」
「うん」
「本当に、嫌い」
「うん」
リチャードは、否定しなかった。
そのことが、熊耳をさらに苦しめた。
否定してくれればよかった。
笑ってくれればよかった。
いつものように煙に巻いてくれれば、怒って帰れたかもしれない。
だが、今夜の彼は、四年前の彼と同じようでいて、少しだけ違う。
そして、その少しの違いが、熊耳をここまで来させた。
熊耳は、胸元を掴んでいた手を離した。
「今日は、逮捕しない」
リチャードは何も言わなかった。
「でも、次はないわ」
「うん」
「次に同じことをしたら、本当に逮捕する」
「分かった」
「分かっていないでしょう」
「たぶんね」
熊耳は、背を向けた。
今すぐ帰らなければならない。
これ以上ここにいたら、自分が何をするか分からない。
十二号倉庫の中は、雨音で満たされていた。
台風が近づいている。
古い鉄骨が風に軋み、屋根を叩く雨はさっきよりも荒くなっている。ホテルのバーから見た夜景はもう遠い。ビクトリアピークの光も、東京湾岸の光も、今は雨に潰されて見えない。
それでいい。
見えない方がいい。
熊耳は歩いた。
走らないように。
警察官の歩調で。
けれど、胸の中だけは乱れていた。
会ってはいけなかった。
それでも来てしまった。
ホテルで帰るべきだった。
青砥の車になど乗るべきではなかった。
十二号倉庫になど入るべきではなかった。
逮捕すべきだった。
それでもしなかった。
許してはいない。
許してはいないはずだ。
なのに、次はないと言いながら、彼に次を残した。
熊耳は唇を噛んだ。
倉庫の出口が近づく。
扉の隙間から、横殴りの雨が吹き込んでいる。
外へ出れば、戻れる。
寮へ。
東雲女子寮へ。
何食わぬ顔で戻り、明日も警察官として勤務する。
何もなかったように。
何もなかったことにして。
彼女は扉へ手を伸ばした。
その時だった。
「武緒」
背後から呼ばれた。
振り返るより早く、腕を掴まれた。
強引ではなかった。
けれど、逃がさない力だった。
熊耳が振り向くと、リチャードはすぐそこにいた。
いつもの薄い笑みは、消えていた。
彼は、熊耳の行く手を遮るように立ち、次の瞬間、彼女を抱きしめた。
熊耳の身体が硬くなる。
「何を――」
「愛してるんだ、君を」
言葉が、雨音よりも近くで響いた。
熊耳は息を呑んだ。
リチャードの腕が、彼女を離さない。
四年前、香港で掴めなかったものを、今度こそ手放さないように。
それは危険な腕だった。
逃げるべき腕だった。
警察官として振りほどくべき腕だった。
なのに、その腕の中で、熊耳の胸の奥にあった何かが、壊れる音を立てた。
「もう離さない」
リチャードの声は、ふざけていなかった。
軽くもなかった。
いつもの調子で煙に巻く声ではない。
それが、熊耳には一番ずるかった。
「あなた……」
声が震えた。
怒りなのか、恐れなのか、安堵なのか、自分でも分からない。
「そんなことを言えば、許されると思っているの」
「思っていない」
「なら、言わないで」
「言わずにいられなかった」
「最低ね」
「うん」
「本当に、最低」
「うん」
リチャードは、否定しなかった。
熊耳は、彼の胸を押そうとした。
押し返すつもりだった。
突き飛ばして、扉を開けて、雨の中へ出るつもりだった。
東雲へ戻るつもりだった。
警察官として。
熊耳武緒として。
正しい場所へ戻るつもりだった。
けれど、その手は彼の胸元で止まった。
リチャードの手が、熊耳の手に触れる。
ゆっくりと、指を絡める。
逃げ道を塞ぐように。
それでも、最後の選択だけは、熊耳へ残すように。
熊耳は、その手を見た。
四年前、自分を置いて行った男の手。
いま、自分を離さないと言う男の手。
この手を取ってはいけない。
取れば戻れなくなる。
分かっている。
分かっているのに。
「……リチャード」
熊耳は、彼の名前を呼んだ。
山田ではなく。
内海でもなく。
四年前、香港の夜景の下で呼んだ名前を。
そして、その手を取ってしまった。
リチャードは何も言わなかった。
ただ、抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
倉庫の外では、台風前の雨がいっそう激しくなっていた。
ホテルの夜景はもう見えない。
東雲女子寮の灯りも、ここからは見えない。
熊耳は、目を閉じた。
自分が正しい場所から一歩外へ出てしまったことを理解していた。
過去から届いた手紙を、読まずに捨てることはできなかった。
封を切り、読み進め、最後の一文に手を伸ばしてしまった。
その夜、熊耳武緒は東雲寮に戻らなかった。