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十二号倉庫の外で、雨はすでに横殴りになっていた。
古いトタン屋根が鳴り、倉庫街の通路を風が吹き抜けるたび、積まれた空のドラム缶がかすかに転がる音を立てる。
その影に、二つの人影があった。
黒崎と、バドリナート・ハルチャンドである。
黒崎は、濡れたコートの襟を立て、無言で十二号倉庫の扉を見ていた。
バドは、その横でしゃがみ込み、黒崎のコートの裾にくっつくようにして、同じ方向を覗いている。
もちろん、倉庫の奥まで見えるわけではない。
だが、扉の隙間から漏れる灯り。
雨音に混じるかすかな声。
そして、熊耳武緒が倉庫から出てこないという事実。
それだけで、バドには十分だった。
やがて、風の向こうで、低い声が聞こえた。
はっきりとは聞き取れない。
だが、途切れ途切れに届いた言葉がある。
愛してる。
もう離さない。
その後、扉は開かなかった。
熊耳武緒は出てこなかった。
バドは、しばらく黙っていた。
それから、ものすごく得意げな顔で黒崎を見上げた。
「ほれみぃ、黒崎さん。僕の言った通りやんか」
黒崎は答えなかった。
雨に濡れた前髪の下で、目だけが冷たく細められている。
バドは構わず続ける。
「強引に迫った方が火ぃ付くって言うたやろ。内海さん、やっぱ我慢せん方がええんや。欲しいもん前にして我慢するなんて、内海さんらしくなかったもんな」
「バド」
「何?」
「その理解を、人生の教訓にしないで下さい」
「でも当たったやん」
「当たったことと、正しいことは別です」
「黒崎さん、負け惜しみや」
「違います」
黒崎の声は低かった。
それは、怒りというより疲労に近い。
台風前の雨に打たれながら、上司の私的行動を監視し、警察官の女性が倉庫から戻らないことを確認し、なお隣では未成年の保護対象が恋愛勝利宣言をしている。
黒崎は、自分の人生のどこで何を間違えたのか、少しだけ考えた。
バドは、十二号倉庫を見ながら言う。
「でも、あの熊耳さんって人、ほんまに来たな。ホテルで待って、青砥さんの車乗って、ここまで来て、ほんで帰らへんかった」
「あなたは見すぎです」
「黒崎さんも見てたやん」
「私は課長の暴走確認と安全監視のためです」
「僕は恋の結果確認」
「最悪です」
「黒崎さん、最近そればっかりやな」
「最悪だからです」
バドは首を傾げた。
「でも、内海さん、嬉しそうやったな」
黒崎は十二号倉庫を見た。
扉は閉まっている。
中にいるのは、課長と熊耳武緒。
四年前の香港から続く、黒崎の知らない線。
それが今夜、台風前の倉庫街で結ばれてしまった。
黒崎は、低く言った。
「課長は、嬉しい時ほど碌なことをしません」
「それは知っとる」
「では覚えておいて下さい」
「でも、あれは碌でもないん?」
黒崎は答えに詰まった。
碌でもない。
当然、碌でもない。
警察寮へ電話し、ホテルのバーへ誘導し、青砥に迎えを出し、台風前の倉庫へ連れてくる。
まともな人間のすることではない。
だが、熊耳武緒は来た。
自分の足で。
報告せずに。
最後には、倉庫から戻らなかった。
その事実は、黒崎の判断を少しだけ鈍らせる。
「……判断を保留します」
「珍しい」
「保留です。肯定ではありません」
「でも否定でもないやん」
「バド」
「はい」
「あなたは、もう黙りなさい」
「はい」
「はいは一回です」
「はい」
バドはしばらく黙った。
五秒ほど。
「黒崎さん」
「何ですか」
「熊耳さん、明日どうするんやろ」
「知りません」
「東雲寮に戻らへんかったら、警察で騒ぎになるんちゃう?」
「なるでしょうね」
「内海さん、どうするん?」
「課長に常識的な後始末を期待しないで下さい」
「ほな黒崎さんがするん?」
黒崎は深く息を吐いた。
雨の匂いと、湾岸の油の匂いが混じる。
「必要ならします」
「黒崎さん、ほんま忙しいな」
「誰のせいだと思っていますか」
「内海さん?」
「主にそうです」
「僕は?」
「かなり含まれます」
「ひどい」
「事実です」
バドは少しだけ笑った。
だが、次の瞬間には目を輝かせて言う。
「でも、明日やな」
黒崎がバドを見る。
バドの顔から、さっきまでの恋愛勝利宣言の色が消えていた。
代わりに、別の熱がある。
黒い怪鳥の操縦者の顔。
遊びを前にした子供の顔。
けれど、その遊びは、警察を巻き込む危険な戦いだ。
バドは雨の向こうを見ながら言った。
「一号機と二号機。怪獣戦の起動ディスク。アルフォンス。明日やろ?」
黒崎は即答した。
「特車二課を襲撃する前日です。あなたは睡眠をとってください」
「今それ言う?」
「今だから言っています」
「内海さんは恋愛イベント中やで」
「あなたは明日、グリフォン関連作戦に関与します」
「眠れると思う?」
「眠って下さい」
「興奮して無理や」
「睡眠導入剤の使用を医療担当に相談します」
「それはずるい」
「業務です」
「黒崎さん、僕にだけ厳しい」
「課長にも厳しいつもりです」
バドは十二号倉庫を見た。
「今、厳しくしてへんやん」
「今、課長に踏み込むと話がさらに面倒になります」
「それはそう」
黒崎は、バドの襟元を軽く掴んだ。
「戻ります」
「えー、最後まで見んの?」
「見ません」
「でも熊耳さん、ほんまに帰らへんか確認せな」
「もう十分です」
「青砥さんは?」
「車を回しています」
「内海さんは?」
「放置します」
「熊耳さんは?」
黒崎は少しだけ沈黙した。
「……戻らないのでしょう」
バドは、何とも言えない顔で十二号倉庫を見た。
「大人って、破滅的やな」
「あなたが言うのですか」
「僕はゲームやもん」
「それも十分危険です」
黒崎はバドを引っ張って、倉庫の影から離れた。
雨がさらに強くなる。
台風は近づいている。
明日には、もっと大きな嵐が来る。
天気の話ではない。
特車二課。
イングラム一号機。
アルフォンス。
グリフォン。
起動ディスク。
内海の恋。
熊耳の失踪。
すべてが、台風前の低い空の下で絡み合っていた。
バドは歩きながら、まだ少し得意そうに言った。
「黒崎さん」
「何ですか」
「僕、恋愛相談の才能あるんちゃう?」
「ありません」
「でも成功したで」
「成功という言葉を使わないで下さい」
「ほれみぃ、やっぱ僕の言った通り――」
「バド」
黒崎の声が低くなった。
「はい」
「睡眠です」
「はい」
「はいは一回です」
「はい」
バドは口を閉じた。
だが、その顔は笑っていた。
黒崎は、それを見てまた胃が痛くなった。
倉庫街の奥で、十二号倉庫の灯りはまだ消えていない。
その夜、熊耳武緒は東雲寮に戻らなかった。
そしてその夜、バドリナート・ハルチャンドもまた、なかなか眠らなかった。
黒崎は二人分の厄介ごとを抱えたまま、台風前の湾岸を後にした。