/*/ 東京湾岸 貨物船べろきらぷとる号 台風前日・昼 /*/
東京湾の空は、まだ降ってはいなかった。
だが、晴れてもいない。
鉛色の雲が低く垂れ、海面はいつもより鈍い色をしている。風は湿っていた。港湾施設のクレーンのワイヤが、ときおり不穏な音を立てて揺れる。
台風が来る。
港にいる者なら、天気予報を見るまでもなく分かる空だった。
貨物船べろきらぷとる号は、湾岸の岸壁に接岸していた。
船体側面の塗装は潮で褪せ、甲板では作業員たちが声を掛け合いながら荷下ろしを進めている。
その中で、ひときわ目立つ荷があった。
高層建築作業用レイバー。
ハヌマーン。
一機ではない。
四機。
甲板上に並べられた四つの機影は、大型建設用レイバーと比べれば明らかに小柄だった。だが、ただ小さいだけではない。
細身の四肢。
可動域の広い肩と股関節。
通常の重量作業機よりも深く沈める膝。
足首周りに組み込まれた補助アクチュエータ。
背中から腰にかけてのバランサー。
吊り下げられた姿だけでも、その機体が「重いものを持ち上げる」ためだけに設計されたものではないことが分かった。
高いところへ登る。
細い鉄骨を渡る。
狭い足場で身をひねる。
そのための機体だ。
岸壁側で受領書類を確認していた白井は、四機を順に見上げた。
企画七課所属。
今回の作戦では、搬入機体と搭乗者、補助員を受け入れ、予定地点まで流す役目を任されている。
レイバーだけではない。
人間も荷のうちだった。
白井は、隣に立つべろきらぷとる号の技術主任へ、丁寧に会釈した。
「お手数をおかけします」
技術主任はヘルメットの庇を上げ、笑った。
「こちらこそ。こんな天気の前に四機まとめて荷下ろしとは、そちらも忙しいですね」
「明日以降は、港の動きも読めなくなりますから」
「台風前に滑り込ませるには、ぎりぎりでしたよ」
白井は頷いた。
その声には礼儀があった。
だが、目は機体から離れない。
クレーンが、一機目のハヌマーンをゆっくり降ろす。
吊り具に支えられた機体の足が、レイバーキャリアの荷台へ近づく。
接地。
その瞬間、ハヌマーンの膝がわずかに沈んだ。
足首が細かく動く。
腰が揺れを拾い、上体が遅れてわずかに戻る。
ただ置かれたのではない。
機体自身が、荷台の揺れと接地の衝撃を受け流した。
白井は小さく息を吐いた。
「小さいけど、大丈夫ですか」
技術主任は、少し得意げに答えた。
「新型ですよ。小さいけど運動性はぴか一です」
「高層建築作業用、でしたね」
「ええ。狭い足場、仮設階段、鉄骨上の姿勢維持、強風下での荷重移動。そういう場所で使う機体です。力任せの大型機とは役割が違います」
一機目の固定作業が進む間に、二機目が吊り上げられる。
続けて三機目。
四機目。
四体の猿神が、順に甲板から岸壁へ移され、レイバーキャリアへ固定されていく。
作業員がキャリア上で固定具を掛ける間も、機体の姿勢制御系は生きている。
微細な揺れを拾い、足裏を荷台に吸いつけるように立っていた。
技術主任が続ける。
「提供された動作パターンライブラリは良いですね。使える」
白井は横目で見る。
「もう組み込んであるのですか」
「試験用に一部だけです。足場不良時の姿勢回復、片手接地からの立て直し、転倒寸前の膝抜き、狭所旋回。元のハヌマーンの運動性と相性がいい」
「それはありがたい」
「ただ、扱いには気をつけてください。高層作業機としては優秀ですが、軽い分、無茶をさせると跳ねます」
白井は、相手の言葉をきちんと受け止めるように頷いた。
「承知しました。現場側へも伝えます」
「現場側、ですか」
技術主任は、少しだけ目を細めた。
だが、それ以上は聞かなかった。
聞かない方がよい仕事もある。
白井は受領リストを開いた。
「ハヌマーン四機。予備パーツ一式。簡易整備工具。制御系記録媒体。搭乗者四名、補助員十八名。相違ありませんか」
「はい。搭乗者と補助員は船内で待機しています。こちらの責任で、移送前の健康確認も済ませています」
「助かります」
「腕はいいですよ。少なくとも、この機体をただの小型作業機だと思っている連中ではありません」
「それは心強い」
四機目の固定具が締まる。
金属音が岸壁に響いた。
ハヌマーンたちは静かに並んでいる。
だが、白井には、その四機がいつでも動き出せるように見えた。
猿神。
名の通りなら、地上よりも高所で生きる機体。
その身軽さは、作業用としても、別の用途としても、使える。
白井は懐から、封印されたデータケースを取り出した。
表面には、何の機体名も書かれていない。
ただ、管理番号と封緘印だけがある。
技術主任の表情が、わずかに変わった。
「そちらが?」
「はい」
白井は、ケースを両手で差し出した。
「約束のものです」
技術主任は手袋を外し、慎重にケースを受け取った。
封緘を確認する。
管理番号を照合する。
携帯端末で受領コードを読み込み、表示された内容に目を通す。
そこに現れた型式名を見て、技術主任は小さく息を吐いた。
「TYPE-R13EX」
白井は何も言わない。
技術主任は、さらに画面をスクロールした。
外形データ。
駆動ログ。
遠隔操縦系の反応値。
ECM作動時の通信干渉記録。
レーザー兵装の出力制限付き評価値。
放熱系ログ。
機体バランス補正。
そして、機体名。
ファントム。
技術主任は、白井を見た。
「この機体は持ってこれないんでしたね」
「はい」
「データは確かに受け取りました」
「確認、ありがとうございます」
白井は静かに頭を下げた。
技術主任はケースを専用バッグに収め、ロックした。
「実機は無理、ですか」
「機密上、また運用上の問題が大きすぎます」
「分かります。あれを甲板に載せて港へ入れたら、港湾関係者が全員振り返るでしょうね」
「それで済めばよいのですが」
技術主任は苦笑した。
「ドクロ頭の無人遠隔機。しかもECMとレーザー持ち。高層作業用レイバー四機より、よほど目立つ」
「ですので、データのみです」
「十分ですよ。むしろ、機体を渡されても困る」
技術主任はそう言いながらも、目だけは笑っていなかった。
技術者としての興味が、抑えきれずに覗いている。
「ファントムの遠隔応答ログは、こちらでも欲しがっている者がいます。ハヌマーンの高所姿勢制御とは方向が違いますが、反応遅延への補正という点では参考になる」
「お役に立つなら」
「立ちます。ただし、怖いデータですね」
「ええ」
白井は短く答えた。
ファントム。
完全無人遠隔操作実験機。
企画七課が作ってしまった、別種の悪夢。
今回の荷と引き換えに渡すものとしては、あまりにも危険な価値を持っている。
だが、それだけの対価を支払う必要があった。
ハヌマーン四機。
パイロット。
補助員。
そして明日の作戦に必要な、機動力。
技術主任は、話題を戻すように四機のハヌマーンを見た。
「本来なら、レンタルなんてしない機体です。まだ癖もありますし、調整も完全じゃない」
「承知しています」
「それでも貸し出しになった。上の判断ですね」
「ええ」
白井は曖昧に答えた。
ここで余計な名を出す必要はない。
技術主任も、それ以上踏み込まなかった。
代わりに、少しだけ声を低くする。
「正直に言えば、現場で乱暴に使われるのは困ります」
「乱暴には扱いません」
「そう願います。ハヌマーンは力で押し切る機体じゃない。足場を読む機体です。大きい機体が一歩で踏み抜く場所を、こいつは足を選んで渡れる。腕を第三の脚みたいに使うこともできる」
白井は、そこに反応した。
「腕を脚のように」
「ええ。ただし限界はあります。重機相手に正面から押し合うような機体ではない。高所、狭所、複雑な足場。そこでこそ価値が出る」
「参考になります」
白井は本心からそう言った。
明日の現場を思い浮かべる。
特車二課。
イングラム。
起動ディスク。
白い機体。
そこへ至るまでに必要な陽動、移動、視界の切断、建築現場の足場、レイバーキャリアの配置。
高層建築作業用ハヌマーンは、ただの添え物ではない。
小さい。
だが、動く。
そして、動ける機体は、作戦の隙間へ入り込める。
技術主任は、書類ケースを差し出した。
「こちらはハヌマーン側の制御系注意事項です。動作パターンライブラリの項目も入っています。書面上は高層建築作業支援用となっていますが、妙な使い方をすればログには残ります」
「ログは回収します」
「でしょうね」
技術主任は苦笑した。
「そちらの部署は、ログを大事にする」
白井は表情を変えなかった。
「業務上、必要ですので」
「でしょう」
風が強くなった。
岸壁の作業員が、上空を見上げる。
クレーンの揺れが大きくなり始めていた。
技術主任が言う。
「急いだ方がいい。午後にはもっと荒れます」
「了解しました」
船内から、パイロットと補助員が降りてくる。
身軽な装備。
無駄の少ない荷物。
作業員というには目が鋭い。
白井は一人ずつ確認し、名簿と照合した。
「長旅、お疲れ様でした。以後はこちらで受領します」
先頭のパイロットが軽く頷く。
「機体の癖は聞いていますか」
「技術主任から概要は」
「それならいい。小さいが、足は速い。高いところではもっと速い」
「期待しています」
白井は丁寧に答えた。
相手は外部から来た作戦要員だ。
乱暴に扱えば、余計な齟齬が出る。
こういう時ほど、礼を持つ。
それが、白井の仕事だった。
レイバーキャリアの運転席に通信が入り、移送準備完了が告げられる。
ハヌマーン四機を載せたキャリア群が、低いエンジン音を鳴らした。
岸壁を離れる前、技術主任がもう一度言った。
「小さいからといって、侮らないでください」
白井は頷く。
「大切に使わせていただきます」
「返却時に原形が残っていることを祈っています」
「善処します」
「その言い方が一番不安ですね」
白井は、ほんの少しだけ笑った。
「失礼しました。可能な限り、良好な状態でお返しします」
「お願いしますよ」
キャリアが動き出す。
四機のハヌマーンは荷台の上で固定され、灰色の空の下、湾岸道路へ向かっていく。
その後ろに、パイロットたちを乗せた車両が続く。
白井は、最後にべろきらぷとる号の技術主任へ深く頭を下げた。
「ご協力、感謝します」
「こちらこそ。ご武運を、と言っていい仕事かは分かりませんが」
「お気遣いだけ、頂戴します」
技術主任は肩をすくめた。
白井は身を翻し、待機していた車へ向かう。
空は低い。
風は強い。
台風はまだ来ていない。
だが、嵐の前の湿った圧力は、すでに街を覆っていた。
その昼、貨物船べろきらぷとる号から、高層建築作業用レイバー・ハヌマーン四機と、そのパイロットたちが降ろされた。
引き換えに渡されたのは、TYPE-R13EX・ファントムのデータ。
表向きは、都内再開発現場への作業支援機材。
実際には、特車二課襲撃に備えた一手。
四体の小柄な猿神は、台風前の湾岸を静かに運ばれていった。