/*/ 東京湾内 豪華客船「長城号」 台風接近中 /*/
東京湾の水面は、鈍い鉛色をしていた。
まだ嵐ではない。
だが、湾内の空気はすでに重く、遠くの雲は低く垂れ込めている。風は湿り、船の上を吹き抜けるたび、甲板の旗が不規則に鳴った。
台風が近づいていた。
港湾関係者は、朝から慌ただしく動いている。
岸壁では荷役の手を早める者たちがいる。
小型船は早々に係留を強め、貨物船のいくつかは予定を繰り上げて湾外へ向かい始めていた。
その中に、豪華客船、長城号もあった。
長城号は、ただの客船ではない。
それは移動する社交場であり、会議室であり、時に極東シャフトの中枢でもあった。
東京、横浜、香港、上海、釜山、シンガポール。
長城号は各国を巡り、その船内から極東地区の企業体を指揮管理する。
シャフト・エンタープライズ・ジャパン。
シャフト・エンタープライズ・コリア。
香港法人。
台湾、東南アジアの関連会社。
表向きは別々の企業体。
だが、資本、人事、技術、物流、裏の契約は、見えない糸で結ばれている。
その糸を束ねる男が、最上級船室の一角に設けられたオフィスにいた。
極東支配人。
名を出す者は少ない。
出す必要もない。
彼が必要とされる時には、すでに話は決まっている。
大きな窓の外には、東京湾の灰色の水面が広がっている。
遠くには、湾岸の高層ビル群。
さらにその向こうには、雨に霞み始めた首都の輪郭。
黒檀の机の上には、数枚の資料が置かれていた。
日本支部からの報告。
ブラジル支社の実証計画。
ASURA関連技術評価。
ハヌマーン四機の受領報告。
TYPE-R13EX・ファントムのデータ引き渡し確認。
そして、黒いレイバーの写真。
グリフォン。
その横には、簡潔な注記がある。
高性能試作レイバー。
ASURA搭載。
飛行ユニット対応。
対イングラム戦を想定した最終調整中。
極東支配人は、グラスを傾けた。
氷が静かに鳴る。
背後で、執事が一礼した。
「日本より、追加報告が入りました」
「それで、内海はグリフォンを間に合わせると?」
「はい。極東支配人の出発に間に合わせると」
「相変わらずだね」
極東支配人は、笑った。
その声に、驚きはなかった。
内海という男が、締切を守るために何をするか。
そして、締切を守らない時にどんな言い訳をするか。
彼は、よく知っていた。
執事は続ける。
「なお、長城号は予定通り、夕刻前に東京湾外へ退避します。台風接近により、湾内停泊継続は推奨されません」
「船長には予定通り出させなさい」
「はい」
「私は下りる」
執事が、わずかに顔を上げた。
「下船なさるのですか」
「この天気で外洋へ出る船の上にいても、仕事にはならない」
「銀座のホテルは手配済みです」
「結構」
極東支配人は窓の外へ視線を向けた。
灰色の湾。
鈍い波。
動き出す船。
台風を避けるため、長城号は東京湾の外へ退避する。
だが、彼自身は東京に残る。
嵐から逃げるのは船だけでいい。
「篠原重工の件は?」
「新型AVRのテストが予定通り行われる見込みです。ただし、天候悪化により変更の可能性があります」
「変更させない方が面白い」
「そのように?」
「言っているわけではない」
極東支配人は、薄く笑った。
「ただ、篠原がこの天候でどこまで動かすかは見てみたい。AVR。イングラムの次を狙う機体。あれがどの程度のものか、直接見る価値はある」
「危険では」
「危険でなければ、見る意味がない」
執事は沈黙した。
極東支配人は、机上のグリフォンの写真を指で押さえた。
「日本支部の状況は」
「警察側の動きは活発化しています。特車二課、篠原重工ともに警戒を強めているようです。ただし、グリフォン本体への直接到達はまだありません」
「当然だ。あれは表に出すための機体ではない」
彼は、写真を軽く弾いた。
黒い機体が、机の上でわずかに動く。
「それに、表に出すにしても、出し方がある」
「東京レイバーショウ以後、日本側の政治的リスクは増大しています」
「政治的リスクなど、いつも増えるものだよ。問題は、それを上回る値段がつくかどうかだ」
執事は何も言わない。
極東支配人は、別の資料を手に取った。
ASURA。
その単語は、すでに単なるレイバー用OSの名ではなくなりつつある。
高性能機を動かす中枢。
既存機の性能を底上げする商品。
軍事転用可能な制御資産。
そして、欧米企業が欲しがる鍵。
「グリフォンとASURAか……欧米との取引が楽しみだよ」
「米側からも、非公式の照会が増えています」
「だろうね」
「正式な商談にするには、現物の性能証明が必要になるかと」
「内海は、それを分かっている」
極東支配人は、東京湾の灰色の水面を見る。
その向こうでは、湾岸道路を車列が流れていた。
どこかで、ハヌマーン四機を載せたキャリアも動いているはずだ。
どこかで、グリフォンの最終調整も行われているはずだ。
そして、篠原重工もまた、新型AVRを動かそうとしている。
黒い怪鳥。
白い警察機。
そして新しい篠原の機体。
盤上には、駒が増えつつあった。
「彼は遊びながら商品を作る。困った男だが、時々、そういう男でなければ届かない場所がある」
「日本支部の管理側は、彼を危険視しています」
「正しい」
極東支配人は即答した。
「危険でなければ、面白くない」
「ただし、制御不能では困ります」
「だから、鎖を付けている」
「はい」
「日本側は日本側で、ちゃんと鎖を握っているつもりだろう」
極東支配人は、そこで薄く笑った。
「鎖を握っている者と、鎖につながれている者。時々、どちらがどちらか分からなくなるがね」
机上の資料には、グリフォンの他にもいくつかの名称が並んでいた。
ブロッケン。
ハヌマーン。
ファントム。
サターン。
それぞれが別の支社、別の部署、別の名目で動いている。
だが、極東支配人から見れば、それらは一つの盤上に置かれた駒だった。
表向きは、建設、警備、物流、研究。
裏では、技術、兵器、外交、取引。
「べろきらぷとる号から、ハヌマーン四機の引き渡しも完了しました」
「ファントムのデータは?」
「受領済みです」
「実機はないね」
「はい。データのみです」
「それでいい。あれは、まだ見せるには早い」
極東支配人は、グラスを机に置いた。
「グリフォンは見せる。ASURAは匂わせる。ファントムは隠す。ハヌマーンは使い潰さない程度に働かせる」
「日本側には、そのように?」
「いや」
極東支配人は笑った。
「言わなくていい。彼らは彼らで、自分たちの作戦だと思って動けばいい」
「承知しました」
「重要なのは、結果だ」
長城号の船体が、わずかに震えた。
出航準備の振動だった。
船内放送が低く流れ、湾外退避に向けた準備が進められていることを告げる。
極東支配人は立ち上がった。
執事がすぐに上着を差し出す。
黒い傘。
革の手袋。
銀座のホテルへ向かうための車は、すでに下船口に回されている。
「内海には伝えておきなさい」
「何と」
「予定通り、出発までに間に合わせろ、と」
「承知しました」
「それから」
極東支配人は、わずかに目を細めた。
「壊すな、とも」
「グリフォンを、ですか」
「グリフォンも、ASURAも、商品価値もだ」
少し間を置いて、彼は付け加えた。
「もっとも、彼にそれを言うと、余計に面白がるだろうが」
「では、表現を調整します」
「そうしてくれ」
極東支配人は、机上のもう一枚の資料を取った。
篠原重工、新型AVR。
試験予定地。
関係者動向。
警備配置。
彼はそれを見て、満足げに笑った。
「私にも好奇心はある」
執事が顔を上げる。
「はい」
「内海に倣って、過剰演出といってみようじゃないか」
その声は、穏やかだった。
だからこそ不穏だった。
台風が来る。
長城号は湾の外へ逃げる。
だが、極東支配人は銀座へ入る。
篠原重工の新型AVRを見物するために。
そして、おそらくは見物だけでは終わらせないために。
執事は深く一礼した。
「車を用意しております」
「行こう」
扉が開く。
廊下の先では、すでに下船の準備が整っていた。
船は湾外へ。
支配人は都心へ。
嵐を避ける者と、嵐を見に行く者。
極東支配人は、最後に窓の外の東京湾を見た。
灰色の水面。
低い雲。
台風前の湿った風。
そして、その奥で動き始めた黒い怪鳥と白い機体。
「さて、舞台は整うかな」
彼は静かに笑い、長城号を下りた。
その後、豪華客船は台風を避けるために東京湾の外へ向かった。
極東支配人を乗せた車は、逆に銀座へ向かった。