特車二課庁舎の廊下に、濡れた靴音が響いていた。
黒覆面の男たちは、声を荒げなかった。
必要な指示だけを短く出し、抵抗する者だけを押さえ込み、抵抗しない者には銃口を向けて動きを止める。
それがかえって不気味だった。
暴徒ではない。
狂信者でもない。
彼らは、手順を知っている。
何を壊し、誰を押さえ、どこを塞げば、特車二課が機能しなくなるのかを知っていた。
「動かないでください」
黒覆面の一人が言った。
庁舎内の一室には、後藤隊長、南雲隊長、そして福島課長が集められていた。
福島は、顔色を悪くしながらも、背筋を伸ばしている。
銃口を向けられている状況でも、警察官としての体面だけは崩さなかった。
「君たち、自分たちが何をしているか分かっているのかね」
「分かっています」
黒覆面は淡々と答えた。
「ならば、今すぐ武器を捨てなさい。警察施設への武装侵入、通信妨害、道路破壊、器物損壊。これだけで――」
「福島課長」
後藤が、静かに割って入った。
「今は説教しても聞かないと思いますよ」
「後藤君」
「聞く気のある相手は、橋を落としてから来ません」
福島は、苦々しい顔で押し黙った。
南雲は、黒覆面たちの動きを見ていた。
部下たちは一箇所に集められている。
整備班も同じだ。
腕を縛られている者もいるが、全員ではない。
怪我人は出ている。
だが、致命的な負傷者はまだいない。
相手は殺しに来ていない。
しかし、それは安全という意味ではなかった。
目的のためなら、次の段階へ進む。
その冷たさがあった。
外では、ハヌマーンが庁舎と格納庫の間を押さえている。
海側にはファントム。
有線は切断済み。
無線はECMで潰され、さらに襲撃部隊によって庁舎内の無線機そのものが物理的に破壊され始めていた。
通信室で、鈍い音がした。
無線機の筐体が叩き割られる音。
マイクが引きちぎられる音。
予備の携帯無線機が床に並べられ、踏み潰される音。
南雲の眉が動いた。
「そこまでやるの」
黒覆面の一人が答える。
「容易に外部と連絡を取らせないためです」
「念入りね」
「必要な処置です」
後藤は、椅子に座らされたまま肩をすくめた。
「いやあ、うちの弱点をよくご存じで」
その軽口に、誰も笑わない。
次に破壊されたのは車載電話だった。
駐車場に停められていた車両へ黒覆面たちが散る。
ドアを開け、車載電話のユニットを引き剥がし、配線を切る。
さらに車のタイヤへ刃が入れられた。
パンク。
エンジンルームを開け、必要な部品だけを抜く。
キーが残っている車は、キーごと回収される。
無線車も、パトカーも、私用車も区別されない。
動かせるものは、動かせないようにされた。
そして、自転車までが集められた。
敷地の隅に置かれていた通勤用、連絡用、整備員の私物。
それらのタイヤが切られ、チェーンが外され、フレームが踏み曲げられる。
整備員の一人が思わず叫んだ。
「自転車まで壊すのかよ!」
黒覆面は、振り返りもせず答えた。
「伝令を出させないためです」
「そこまでやるか普通!」
「普通ではありませんので」
その返答に、整備員は言葉を失った。
後藤は、小さく息を吐いた。
「徹底してるねえ」
南雲は苦々しく言う。
「感心している場合ですか」
「してないよ。ただ、嫌になるくらい準備がいい」
「内通者がいると思いますか」
「いるか、観察されていたか、どちらかだろうね」
後藤は、福島へ視線を向けた。
福島は唇を結んでいる。
自分が人質に取られていることが、部下たちの行動を縛っている。
そのことを理解している顔だった。
黒覆面の一人が、部屋に入ってくる。
「庁舎、通信室、車両、駐輪場、制圧完了」
「格納庫は」
「ハヌマーン二機で封鎖。整備班は分離済み」
「電算室へ」
「了解」
その言葉に、後藤の表情がわずかに変わった。
南雲も気づく。
「電算室?」
黒覆面は答えない。
後藤は、ゆっくりと言った。
「機体データが欲しいのかな」
返答はなかった。
それが答えだった。
/*/
電算室では、整備班の数名が端末の前に座らされていた。
背後には黒覆面。
銃口。
床には、破壊された予備端末の残骸がある。
作業に使うものだけを残し、余計な通信機能を持つ機材は壊されていた。
「第一小隊、第二小隊の機体運用データをコピーしてください」
黒覆面が言った。
整備班の一人が、震える声で返す。
「そんなこと、できるわけ――」
銃口が、少しだけ近づいた。
「コピーしてください」
「……くそ」
別の整備員が歯を食いしばって端末へ向き直る。
「どこまでだ」
「起動ログ。整備記録。運動データ。戦闘時の負荷記録。OS調整履歴。第一小隊、第二小隊ともに」
「機密だぞ」
「承知しています」
「承知してんなら――」
銃口が、その言葉を切った。
整備班は黙って作業を始めるしかなかった。
キーボードを叩く音。
データ媒体の読み込み音。
雨が窓を叩く音。
遠くでハヌマーンが動く、軽い金属音。
すべてが混ざる。
コピー進行率が画面に表示される。
第一小隊。
第二小隊。
イングラム。
運用記録。
現場では、レイバーはただの機械ではない。
隊員の癖、整備班の工夫、パイロットの反応、現場ごとの判断。
その積み重ねが、データとして残っている。
それを奪われる。
整備班にとっては、機体を殴られるよりも屈辱的だった。
「早くしてください」
「やってる!」
整備員は怒鳴った。
だが、手は止めない。
止められなかった。
/*/
格納庫では、泉野明が立ち尽くしていた。
濡れた髪。
雨で湿った制服。
目の前には、白い機体。
AV-98。
221号機。
アルフォンス。
けれど、いつもの格納庫ではなかった。
周囲には黒覆面の男たちがいる。
整備班は押さえられている。
遊馬の声も聞こえない。
無線も死んでいる。
南雲隊長も後藤隊長も、ここへ来られない。
野明の背後で、銃口が上がった。
「搭乗してください」
野明は振り返った。
「嫌です」
「搭乗してください」
「アルフォンスを、あんたたちのために動かす気はない」
黒覆面は、感情を見せなかった。
「あなたに戦えと言っているわけではありません」
「じゃあ何」
「搭乗してください。起動してください。外へ出てください」
「それで?」
「その先は、現場で指示があります」
野明は、奥歯を噛みしめた。
アルフォンスを人質に取られているようだった。
いや、違う。
人質に取られているのは、自分たちだ。
福島課長。
後藤隊長。
南雲隊長。
整備班。
特車二課のみんな。
自分が拒めば、誰かが傷つくかもしれない。
それが分かっているから、相手は銃を向けるだけで済ませている。
野明は、白い装甲を見上げた。
「ごめんね、アルフォンス」
小さく言った。
そして、ラダーへ手をかけた。
黒覆面が周囲を固める。
整備班の一人が声を上げた。
「泉! 無茶すんな!」
野明は振り返らなかった。
「うん」
ただ、それだけ答えた。
221号機のコックピットへ入る。
シートに座る。
いつもの手順。
いつものスイッチ。
けれど、今日は何もかも違う。
起動音が響く。
アルフォンスのシステムが目を覚ます。
白い機体のセンサーが、暗い格納庫の中で光を帯びた。
/*/
ハンガーの外。
五台目のレイバーキャリアが、暴風雨の中で静かに停まっていた。
その荷台に載せられていた黒い機体が、固定具を外される。
グリフォン。
ただし、飛行ユニットはない。
アクアユニットもない。
黒い翼も、背負っていない。
素体。
それでも、十分だった。
黒い装甲。
異様に滑らかなシルエット。
人型でありながら、人間ではない威圧感。
雨粒が装甲を叩き、黒い表面を流れ落ちる。
まるで、夜そのものが形を持ったようだった。
車両の中から、森川政治が怒鳴る。
「今日はデータユニットだけだ! 戦闘で必要以上にダメージを受けると、アクアユニットへ換装が出来なくなる!」
その声は、暴風雨に半ば持っていかれた。
それでも、グリフォンのコックピットへ入るバドには届いていた。
「わかっとる!」
バドリナート・ハルチャンドは、狭いコックピットの中で笑っていた。
興奮で頬が熱い。
指が震える。
怖いからではない。
楽しいからだ。
ここまで来た。
東京レイバーショウ。
起動ディスク。
ブラジル。
ASURAの学習。
サターン。
米軍。
ヒポグリフ級。
ファントム。
ハヌマーン。
全部が、この瞬間へ繋がっている。
白い機体。
アルフォンス。
自分のラスボス。
バドは、操縦桿に手を置いた。
「ぼくらの育てたASURAとグリフォン、見せつけてやろうな!」
モニターの中で、ASURAの起動画面が流れる。
グリフォンが、低く唸る。
関節が通電し、黒い指が開く。
膝が沈む。
足裏がキャリアの荷台を捉える。
黒い機体が、雨の中でゆっくりと立ち上がった。
森川が外から叫ぶ。
「バド! 熱管理を忘れるな! 素体だからといって無茶をするな!」
「はいはい!」
「はいは一回だ!」
「黒崎さんみたいなこと言わんといて!」
森川は歯を食いしばる。
この子供は分かっているのか。
分かっていないのか。
おそらく両方だ。
だが、ASURAは応えている。
グリフォンも応えている。
それが、技術者としては腹立たしいほど美しかった。
/*/
敷地外の車内。
内海は、モニターに映る黒い機体を見ていた。
雨に濡れたグリフォン。
キャリアから降りる素体。
格納庫の中で起動する221号機。
特車二課の庁舎は制圧済み。
福島課長も、後藤隊長も、南雲隊長も押さえてある。
整備班も、電算室も、車両も、通信も潰した。
逃げ道も、助けを呼ぶ手段も、ほぼない。
舞台は整った。
ただし、観客が必要だった。
内海は、楽しそうに言った。
「ファントム、ECM解除」
黒崎が眉をひそめる。
「今ですか」
「今だからだよ」
「通信を戻せば、外部へ情報が漏れます」
「漏らすんだよ」
内海は、にこりと笑った。
「TV中継車に、放送できるって教えてあげて」
黒崎は一瞬、無言になった。
内海のやりたいことを理解したからだ。
単なる制圧ではない。
単なる機体強奪でもない。
これは、見世物だった。
グリフォンとイングラム。
ASURAとアルフォンス。
それを報道のカメラに乗せる。
世間に見せる。
警察に見せる。
篠原に見せる。
極東支配人に見せる。
そして、欧米に売れる価値を作る。
黒崎は低く言った。
「課長。悪趣味です」
「うん」
「否定してください」
「嫌だなあ。ここで否定したら嘘になる」
内海は、モニターへ視線を戻した。
ファントムのECMが段階的に落ちる。
完全解除ではない。
外へ逃がす通信を選ぶように、圧力を緩める。
中継車の機材が息を吹き返す。
乱れていた映像が、少しずつ戻る。
レポーターの声が、震えながらも乗り始める。
『こちら、特車二課付近です! 現在、何者かによる武装襲撃が行われている模様です! 敷地内に黒いレイバーが――黒いレイバーが確認できます!』
内海は、満足げに笑った。
「さぁ」
車内の薄暗がりで、彼の声だけが妙に明るかった。
「世紀の決戦の始まりだ!」
/*/
格納庫のシャッターが、重く開き始める。
暴風雨が中へ吹き込む。
白い221号機が、一歩を踏み出す。
その先に、黒いグリフォンが立っていた。
翼はない。
水中用装備もない。
だが、黒い怪鳥はそれでも怪鳥だった。
雨に濡れた装甲。
低く構えた姿勢。
人間よりも、人間らしく動くためのOS。
ASURA。
野明は、コックピットの中で息を呑んだ。
「……」
外では、ハヌマーンが道を空けるように退く。
黒覆面たちも、距離を取る。
ファントムは海側で沈黙している。
まるで、舞台の幕が開くのを待っているようだった。
グリフォンのコックピットで、バドは笑った。
「来たな、アルフォンス」
そして、操縦桿を握り直す。
「今度こそ、勝つで」
台風の暴風雨の中。
特車二課の敷地を奪われたまま。
テレビ中継車のカメラが見守る中。
白いイングラムと黒いグリフォンが、向かい合った。