アルフォンスの左肩は、もう死にかけていた。
警告表示が赤く点滅し、肩部ジョイントの応答は不安定。左腕を動かすたびに、内部で砕けた部品が引っかかるような嫌な振動がコックピットへ伝わってくる。
それでも、野明は左腕を完全には捨てなかった。
動かないなら、動く範囲だけで使う。
掴めないなら、押さえる。
盾がないなら、腕そのものを盾にする。
アルフォンスは、まだ立っていた。
バドは、それを見て笑った。
「ほんま、しぶといな」
グリフォンのコックピット内で、バドは短く息を吸う。
戦闘プロトコルBは効いた。
起こりを隠す動作で、アルフォンスの読みを崩した。
だが、あの動きは長く続けるものではない。
機体にも熱にも、操縦者にも負担が大きい。
何より、ここから先は仕上げだ。
壊すべき場所は見えた。
バドは指先で操作を叩く。
「Bシステム再起動」
警告表示が一つ消える。
補正が戻る。
グリフォンの姿勢制御が、再びバドの身体へ馴染んでいく。
「チェック……OK」
黒い機体が、雨の中で姿勢を変えた。
野明はその変化を見逃さなかった。
また動きが変わった。
鋭さが消えたわけではない。
だが、さっきのように起こりを完全に消す異様な動きではない。
代わりに、全身のつながりが戻っている。
蹴る。
跳ぶ。
転がる。
受け身を取る。
そのための、しなやかな補正。
野明は、嫌な予感を覚えた。
「アルフォンス、来るよ!」
グリフォンが走った。
正面ではない。
壊れかけた左腕側。
野明にとって、もう守りにくい方。
グリフォンはそこへ、ためらいなく飛び込んでくる。
「そこを狙うの!?」
野明が叫ぶ。
バドは答えない。
手を抜かない。
相手が壊れている場所を狙う。
動かない場所をさらに壊す。
それが勝負なら当然だ。
アルフォンスが右腕を振る。
だが、グリフォンはその下へ入った。
足を滑らせたのではない。
自分から落ちた。
前回り受け身。
黒い機体は、肩から地面へ落ちるように入り、濡れた舗装を転がりながらアルフォンスの死角へ抜けた。
レイバーの動きではなかった。
人間の受け身を、そのまま鋼鉄の身体でやっている。
野明の視界から、黒い機体が一瞬消える。
「速い!」
アルフォンスが振り向こうとする。
だが、左肩が悲鳴を上げた。
反応が遅れる。
そこへ、格納庫側から怒号が飛んだ。
「泉! 伏せろ!」
太田だった。
222号機は動かない。
コックピットは破壊され、機体としては戦えない。
それでも、太田たちは黙っていなかった。
整備班とともに、人力でリボルバーカノンを引きずり出していた。
本来なら、レイバーが扱うための大口径拳銃。
人間が構えられるものではない。
だが、複数人で支え、台車に載せ、固定し、無理やり向ける。
銃というより、小さな砲だった。
太田が叫ぶ。
「撃てぇ!」
轟音。
リボルバーカノンが火を噴いた。
暴風雨を裂いて、砲弾がグリフォンへ向かう。
だが、グリフォンはそこにいなかった。
前回り受け身から起き上がる寸前、黒い機体は片手をつき、さらに低く身体を逃がしていた。
砲弾は雨を引き裂き、背後の舗装を抉る。
二発目。
三発目。
太田たちは必死だった。
人力で撃つなど、まともな運用ではない。
反動で台車が跳ね、支えていた整備員が転びかける。
それでも撃つ。
アルフォンスを助けるために。
グリフォンを止めるために。
けれど、バドは笑った。
「人力でそれ撃つんか。根性あるなあ」
称賛ではない。
あざ笑いだった。
「でも、当たらな意味ないで!」
グリフォンが跳ねた。
砲弾の軌道を読んで、身体を低く倒し、片腕を支点に横へ流れる。
雨の舗装を滑るように。
カポエイラの低い姿勢。
手をつき、足を回し、重心を地面近くへ落とす。
高く飛ぶのではない。
低く潜る。
銃口の向き、太田たちの身体の遅れ、台車の反動。
その全部を見て、当たらない場所へ入る。
太田が怒鳴る。
「ちょこまかと!」
四発目は撃てなかった。
反動で支えがずれ、整備員が一人倒れ、銃口がわずかに上を向いた。
その隙に、グリフォンはアルフォンスの背後へ回っていた。
野明が気づく。
「後ろ!?」
振り向こうとする。
だが遅い。
左肩は死にかけ、頭部アンテナは失われ、センサーは乱れている。
背後へ回り込まれた瞬間、アルフォンスの反応は一拍遅れた。
グリフォンは低い姿勢のまま、回転する。
片手を地面につき、身体を寝かせるようにして脚を振る。
カポエイラの蹴り。
だが、狙いは頭でも胸でもない。
腰。
アルフォンスの腰椎ユニット。
人型レイバーが人型として動くための、中心。
黒い脚が、雨水を巻き上げながら横から叩き込まれた。
鈍い破砕音。
アルフォンスの腰が、嫌な角度で跳ねた。
モニターが赤く染まる。
駆動警告。
姿勢制御異常。
腰椎ユニット損傷。
「アルフォンス!」
野明の叫びと同時に、白い機体の膝が落ちた。
完全には倒れない。
野明が必死に支える。
だが、腰を壊されたレイバーは、もうまともに踏み込めない。
腕が残っていても。
脚が残っていても。
腰が死ねば、人型は人型として戦えない。
グリフォンは、蹴り抜いた姿勢からゆっくりと起き上がった。
雨に濡れた黒い装甲。
低く構えたままの腕。
足元には、砕けた腰椎ユニットの破片と、アルフォンスから流れ落ちる雨水。
太田がリボルバーカノンの横で歯を食いしばる。
「くそ……!」
整備班は言葉を失っていた。
人力で撃った。
無茶をした。
できることをした。
それでも届かなかった。
バドは、コックピットの中で息を吐く。
「これで、もう追えへんやろ」
嬉しそうだった。
けれど、その奥に、かすかな熱があった。
勝った。
まだ完全ではない。
だが、勝ちを積み上げた。
ワイヤーを潰した。
アンテナをもいだ。
肩を壊した。
腰を壊した。
太田たちの根性も躱した。
アルフォンスの勝ち筋を、一つずつ潰した。
バドは、操縦桿を握り直す。
「まだ立つか?」
アルフォンスは、膝をついたまま震えている。
野明は、歯を食いしばっていた。
警告表示だらけのコックピット。
壊れた左腕。
砕かれた腰。
乱れるセンサー。
それでも、まだ操縦桿から手を離さない。
「まだ……!」
声が震える。
怒りと悔しさで。
「まだ、終わってない!」
アルフォンスが、片膝をついたまま右腕を持ち上げる。
まともに立てない。
でも、手は伸ばせる。
掴めるなら、まだ止められる。
野明はそう信じていた。
バドは、その姿を見て笑った。
「ほんま、最高やな」
黒いグリフォンが、雨の中で一歩下がる。
倒すだけなら、もう十分だった。
けれど、バドが欲しいのはそれだけではない。
相手の全部を見たい。
アルフォンスが、どこまで食らいついてくるか。
泉野明が、どこまで諦めないか。
そして、その上で勝ちたい。
テレビ中継車のカメラが、白と黒を映し続けている。
暴風雨の特車二課。
壊れた222号機。
撤退するハヌマーン。
海側で沈黙するファントム。
そして、腰を砕かれてもなお手を伸ばすアルフォンス。
バドは、低く呟いた。
「ぼくの勝ちや」
グリフォンの貫手がアルフォンスの残った腕を打ち砕いた。