/*/ 豪華客船「長城号」 台風圏外・船上サロン /*/
長城号は、東京湾の外へ出ていた。
台風を避けるための退避航行。
その名目で湾内を離れた豪華客船は、荒れた海の縁を大きく迂回しながら、暗い海の上に灯りを浮かべていた。
外では風が鳴っている。
だが、船内の上級サロンは別世界だった。
厚い絨毯。
磨かれた木目の壁。
低く抑えられた照明。
グラスの中で揺れる琥珀色の酒。
そして、壁面の大型モニターに映し出される、特車二課襲撃の録画映像。
暴風雨。
倒れるアルフォンス。
海へ消えるグリフォン。
自爆するファントム。
それを見ながら、企画七課の面々は、静かな興奮の中にいた。
森川政治は、グラスを持つ手を震わせながら画面へ身を乗り出している。
「見たか、あの自力換装……。背面接続部の補正が、ほぼ理想値で入ってる。暴風雨の中でだぞ」
磯口豊も目を輝かせていた。
「アクアユニットへの換装ログは必ず見たい。あの姿勢制御、ASURAがほとんど自前で吸収している。あれはもう、機体というより――」
「技術発表会ではありません」
黒崎が冷たく言った。
彼は酒には手をつけていない。
サロンの隅に立ち、いつものように黒い服で、いつものように胃の痛そうな顔をしている。
その隣で、バドリナート・ハルチャンドは、ソファの上に胡坐をかきそうになって黒崎に睨まれ、仕方なく足を下ろしていた。
バドの顔には、まだ戦闘の熱が残っている。
頬は紅潮し、目はぎらぎらしていた。
「見たやろ、黒崎さん。勝ったで。勝ったんやで。アルフォンスに。おねーちゃんに。ぼくのグリフォンで」
「見ました」
「もっと喜んでや」
「喜ぶ立場ではありません」
「なんでや。企画七課の勝利やん」
「警察施設への武装襲撃、通信遮断、橋梁破壊、機体破壊、データ窃取、証拠隠滅を伴う勝利です」
「すごい勝利やな」
「最悪の勝利です」
バドは少しだけ考え、すぐに笑った。
「でも勝利は勝利や」
黒崎は目を閉じた。
「あなたは、今すぐ寝なさい」
「祝杯は?」
「未成年です」
「ジュースでええやん」
「興奮状態です。糖分も控えます」
「黒崎さん、僕が勝った日に厳しすぎへん?」
「勝った日だからです」
バドは頬を膨らませた。
だが、その目は何度もモニターへ戻る。
倒れたアルフォンス。
打ち砕いた腕。
破壊した腰椎ユニット。
海中へ消えるグリフォン。
その全部が、自分の勝ちだった。
彼の中で、ASURAのログと同じように刻まれている。
そのサロンへ、内海課長が入ってきた。
濡れてはいない。
どこまでも涼しい顔で、薄く笑っている。
その横に、熊耳武緒がいた。
彼女はサロンの入口で足を止めた。
照明の柔らかさ。
グラスの音。
モニターに映る特車二課。
そして、そこにいる企画七課の面々。
すべてが、彼女にとって異様だった。
昨日まで、彼女にとって内海はリチャード・王だった。
香港で自分を置いて行った男。
四年越しに再び手を差し出した男。
愛している、と言った男。
もう離さない、と言った男。
その男の手を、自分は取ってしまった。
そして今。
モニターの中で、特車二課が壊されていた。
警察施設が襲撃され、機体が撃破され、データが奪われ、通信が切られ、証拠が爆破されている。
それを、この場の者たちは祝っている。
熊耳は、内海を見た。
「……あなたが、やったの」
内海は笑った。
「ぼく一人で、というわけではないよ」
「答えになっていないわ」
「君は答えを知っている」
熊耳の手が、震えた。
怒りか。
恐怖か。
それとも、もっと別のものか。
自分でも分からない。
「特車二課よ」
「うん」
「警察施設よ」
「うん」
「人がいた」
「殺さないようにした」
「そういう問題じゃない!」
熊耳の声が、サロンに響いた。
森川と磯口が口を閉じる。
バドも、さすがに黙った。
黒崎だけは、最初からこうなることを分かっていたような顔をしている。
内海は、熊耳の怒りを真正面から受け止めた。
逃げない。
笑ってはいる。
だが、煙に巻くような軽さではない。
「そうだね。そういう問題じゃない」
「なら、なぜ」
「必要だったから」
「何に?」
「グリフォンのために。ASURAのために。バドのために。企画七課のために。極東の商売のために」
「商売……?」
熊耳は、モニターを見た。
倒れた白い機体。
雨に打たれる警察官たち。
画面の中で、野明らしきパイロットが救出される場面が繰り返し流れている。
「これが、商売なの」
「そうだよ」
内海は静かに言った。
「レイバーは商品だ。OSも商品だ。戦闘データも商品だ。敗北も勝利も、見せ方次第で商品になる」
「最低ね」
「うん」
「また、それ」
「否定したら嘘になる」
熊耳は、一歩近づいた。
「私を、ここに連れてきたのも?」
「見てほしかった」
「何を」
「ぼくが何者か」
その答えに、熊耳は言葉を失った。
内海は続ける。
「君はリチャード・王を見ていた。香港の夜景の下で、君に笑っていた男を。でも、それだけじゃない。ぼくはこういうこともする」
「見せたかったの?」
「うん」
「愛していると言った次の日に?」
「うん」
「あなた、本当に……」
熊耳の声が詰まる。
怒鳴りたかった。
殴りたかった。
逮捕したかった。
だが、自分は今、彼の側にいる。
警察寮へ戻らず。
報告せず。
この船にいる。
その事実が、彼女の足元を崩していた。
内海は、ゆっくりと手を差し出した。
「武緒」
熊耳は、その手を見た。
昨日、十二号倉庫で取ってしまった手。
今、取ってはいけない手。
取れば、もう戻れない手。
内海は、柔らかく言った。
「さぁ」
その一言に、サロンの空気が止まった。
熊耳は、彼を睨んだ。
「何を、さぁ、なの」
「祝杯を」
「ふざけないで」
「ふざけていないよ」
「これを見せておいて?」
「だからこそ」
内海の声は優しかった。
優しいからこそ、残酷だった。
「ぼくの勝利を祝ってほしい」
熊耳は、息を呑んだ。
「あなたは、私にそれを言うの」
「君に言う」
「警察官の私に」
「熊耳武緒に」
「同じことよ」
「違うかもしれない」
「違わない!」
熊耳は叫んだ。
「私は警察官よ。あなたが襲った側にいる人間よ。あなたが傷つけた組織の人間よ」
「うん」
「なら、私はあなたを逮捕しなければならない」
「できる?」
内海は、ただそう聞いた。
熊耳の表情が凍る。
できる。
できるはずだ。
今すぐこの男を殴り倒し、拘束し、警察へ連絡する。
この船内には企画七課の人間がいる。
外は台風だ。
通信も支配されているかもしれない。
それでも、やるべきことは分かっている。
だが、手が動かない。
昨日の夜、彼の手を取ってしまった記憶が、指先に残っている。
愛している、と言った声が耳に残っている。
もう離さない、と言った腕の強さが身体に残っている。
熊耳は、その自分を憎んだ。
「あなたは、本当に最低ね」
「うん」
「私に、最低な選択ばかりさせる」
「君は選んでいる」
「言わないで」
「君は、自分で選んでいる」
「黙って!」
内海は黙った。
熊耳の呼吸が荒くなる。
サロンの誰も動かない。
バドは、黒崎の袖を引いた。
「黒崎さん」
「黙っていなさい」
「でも、空気が重い」
「あなたが軽くすると最悪になります」
「はい」
「はいは一回です」
「一回しか言っとらんで」
内海は、熊耳から目を逸らさなかった。
彼は、もう一度だけ言った。
「武緒。さぁ」
今度の声は、祝杯への誘いではなかった。
選べ、という声だった。
戻るのか。
こちらへ来るのか。
逮捕するのか。
許すのか。
憎むのか。
愛するのか。
全部を曖昧なまま抱えて、それでも手を取るのか。
熊耳は、テーブルの上のグラスを見た。
琥珀色の酒。
その向こうに、モニターの中の特車二課が映っている。
壊れたアルフォンス。
倒れた白い機体。
暴風雨。
敗北。
完全な敗北。
熊耳は、ゆっくりとグラスへ手を伸ばした。
内海の手ではない。
グラスだった。
それを取る。
サロンの空気がわずかに揺れる。
熊耳はグラスを持ち上げた。
内海を見る。
「祝わないわ」
内海は微笑んだ。
「うん」
「あなたを許さない」
「うん」
「でも、今は逮捕しない」
「うん」
「理由は聞かないで」
「聞かないよ」
熊耳は、グラスを口元へ運ばなかった。
ただ、掲げた。
震える手で。
怒りと屈辱と、断ち切れない感情の中で。
「これは祝杯じゃない」
「じゃあ、何かな」
「宣戦布告よ」
内海の笑みが、少しだけ深くなった。
「いいね」
「調子に乗らないで」
「うん」
内海もグラスを取った。
軽く掲げる。
琥珀色の酒が揺れる。
熊耳はそのグラスを睨みつけるように見ていた。
バドは小声で言う。
「なんや、これ。祝ってるん? 喧嘩してるん?」
黒崎は、疲れた声で答えた。
「両方です」
「大人って難しいな」
「あなたは学ばなくて結構です」
森川が、場の空気を読まずに小さく言った。
「でも、グリフォンの換装成功は祝っても……」
磯口が肘でつついた。
「今それを言うな」
内海は、熊耳だけを見ていた。
「ようこそ、長城号へ」
熊耳は答えない。
外では、台風の風が船体を叩いている。
船は揺れていた。
だが、サロンの中にいる者たちの足元の方が、もっと危うかった。
その夜、グリフォンは勝った。
企画七課は勝った。
特車二課は敗北した。
そして熊耳武緒は、自分がまだどちら側に立っているのか、答えを出せないまま、内海の隣に立っていた。