/*/ 豪華客船「長城号」 船上サロン /*/
長城号の船上サロンでは、まだ祝杯の空気が残っていた。
壁面のモニターでは、特車二課襲撃の録画映像が何度も再生されている。
暴風雨。
倒れるアルフォンス。
自力で背面ユニットを換装するグリフォン。
海へ消える黒い機体。
そして、自爆して痕跡を消すファントム。
それは、企画七課側にとって完璧な勝利だった。
特車二課にとっては、完全な敗北だった。
だが、勝利のあとに待っているのは、いつまでも同じ場所で笑い続けることではない。
次の配置。
次の計画。
次の取引。
次の逃走。
それぞれの行き先が、もう決まり始めていた。
内海課長は、グラスを片手に熊耳武緒の前へ立った。
熊耳はまだ、グラスを持ったまま口をつけていない。
彼女の表情には、怒りと混乱と、断ち切れない感情が同居していた。
内海は、そんな彼女に向かって、実に楽しそうに両手を広げた。
「さぁ、武緒。僕らの新天地だ!」
「……新天地?」
「オーストラリア!」
内海は芝居がかった調子で言った。
「エアーズロック! 広い大地! 赤い岩! それからニュージーランドのスキー場も良いな」
熊耳は冷たい目で見る。
「あなた、今の状況が分かっているの」
「もちろん」
「警察施設を襲撃して、機体を破壊して、データを奪って、証拠を消して、その足で観光計画?」
「観光だけじゃないよ。逃避行でもある」
「最低ね」
「うん」
内海は嬉しそうに頷いた。
「でも心配いらない。ぼくはちょっと詳しいんだ」
その言い方が、妙に軽い。
まるで香港で別れた男が、今度は別の土地で何かを始めようとしているだけのように。
熊耳は、唇を噛んだ。
「私は行くと言っていないわ」
「言っていないね」
「行かないとも言っていない、なんて言わないで」
「先に言われちゃった」
「本当に、あなたは……」
熊耳は言葉を失う。
怒れば怒るほど、内海は楽しそうになる。
それが腹立たしい。
それでも、彼女はまだここにいる。
その事実が、一番腹立たしかった。
少し離れたソファで、バドはジュースのグラスを持ってそのやり取りを眺めていた。
黒崎に酒を止められ、糖分も控えろと言われ、結局薄いジュースだけを許されている。
バドは、内海と熊耳を見比べ、納得したように頷いた。
「喧嘩っプルって奴か」
黒崎が即座に言う。
「黙りなさい」
「でも、内海さん楽しそうやな」
「楽しそうだから厄介なのです」
バドは、にやりと笑った。
「またイベントする時は呼んでぇな」
内海が振り返る。
「もちろん、と言いたいところだけどねえ」
その声には、少しだけ別れの響きがあった。
バドは瞬きをする。
「ん?」
内海は笑っている。
だが、その笑みはいつものように全部を煙に巻くものではなかった。
「君はしばらく、ぼくの手元を離れる」
「え」
バドの顔が固まった。
森川政治が、資料を抱えたまま頷く。
「グリフォンの継続開発だ。ASURAのログも膨大に増えた。今回の対AV-98戦、背面ユニット換装、アクアユニット離脱、全部を解析しなければならない」
磯口豊も言う。
「極東側の開発ラインに移る。場所はまだ最終決定じゃないが、日本支部の企画七課からは一旦外れる形だ」
「僕も?」
「当然だろう」
森川が即答する。
「グリフォンを動かした本人がいなければ、データの意味が半分になる」
バドは、自分のグラスを見下ろした。
「ほな、企画七課とはお別れなん?」
黒崎が静かに言った。
「一時的に、です」
「黒崎さんは?」
「私は課長に同行します」
「内海さんと喧嘩っプルの監視?」
「違います」
熊耳が鋭く見る。
内海は笑った。
「違わないかもしれないね」
「課長」
黒崎の声が低くなる。
内海は両手を上げた。
「怖い怖い」
バドは、黒崎を見上げる。
何度も叱られた。
何度も止められた。
何度も「睡眠をとってください」と言われた。
旅券を預かられ、菓子を制限され、危ない遊びを止められた。
うるさい大人だった。
だが、バドにとっては、内海とは別の意味で「自分を見ている大人」だった。
「黒崎さん、僕のパスポートは?」
「あなたの身元管理は、移管先にも引き継ぎます。身元引受人は徳永専務のままです」
「徳永のおっちゃんか」
「おっちゃんではありません。専務です」
「日本国籍は?」
「あります」
「日本のパスポートも?」
「あります」
「強い装備やな」
「装備ではありません」
反射のように返ってきた言葉に、バドは少し笑った。
黒崎も、ほんのわずかに表情を緩めた。
「当面、あなたは極東支配人の管理下でテストパイロットを続けることになります。森川さん、磯口さん、グリフォンの組立整備スタッフも同行します。保護、教育、医療、法務管理は継続です」
「ほな、安心してグリフォン乗ってええんやな」
「安心して、という言い方には問題があります」
「でも、乗れるんやろ?」
「業務として、制限付きで」
「やった」
バドは素直に笑った。
アルフォンスに勝った。
グリフォンはまだ自分のそばにいる。
ASURAも続く。
日本国籍もある。
旅券もある。
身元引受人もいる。
昔の、どこにも属していなかったバドとは違う。
会社の都合で動かされているのは変わらない。
だが、それでも書類があり、名前があり、国籍があり、保護責任者がいる。
それは、この世界の中では大きな違いだった。
その時、サロン奥の扉が開いた。
極東支配人が入ってくる。
周囲の空気が、わずかに整う。
内海でさえ、少しだけ笑みの質を変えた。
極東支配人は、モニターに映る特車二課襲撃の映像を一瞥した。
グリフォンが自力換装し、海中へ消える場面。
その映像を見て、満足そうに頷く。
「見事だった」
森川と磯口が、ほとんど同時に姿勢を正す。
バドはソファから立ち上がりかけ、黒崎に袖を引かれてちゃんと立った。
極東支配人は、次に別の資料へ目を落とす。
篠原重工、新型AVR。
その名前が記された紙。
「
少し残念そうだった。
内海が肩をすくめる。
「舞台に役者が全員出るとは限りませんから」
「君がそれを言うか」
「ぼくなら、出したくなりますね」
「だから真似をしてみたのだがね。少し過剰演出のつもりだった」
極東支配人は、薄く笑った。
「だが、今回は黒い怪鳥だけで十分だったようだ」
バドは胸を張った。
「グリフォンは強いからな」
「見たよ」
極東支配人は、バドへ視線を向けた。
その目は、子供を見る目ではない。
商品を見る目でもある。
テストパイロットを見る目でもある。
そして、危険な資産を見る目でもあった。
「君には、しばらく働いてもらう」
「グリフォンに乗れるんやろ?」
「乗れる」
「ASURAも育てるんやろ?」
「育てる」
「ほなええわ」
黒崎が眉をひそめる。
「条件を確認してから返事をしなさい」
「でも、乗れるんやろ?」
「そういう問題ではありません」
極東支配人は、面白そうに笑った。
「身元引受人は徳永専務。国籍は日本。旅券もある。扱いは慎重にするよ。少なくとも、使い潰すつもりはない」
バドは首を傾げる。
「使い潰したら、グリフォン動かせへんもんな」
「そういうことだ」
「分かりやすい」
「君は分かりやすい理由を好むようだ」
「うん」
バドはあっさり頷いた。
極東支配人は、森川と磯口、そして整備スタッフたちへも視線を向ける。
「開発は継続する。グリフォン、ASURA、アクアユニット、フライングユニット、背面換装、今回得たAV-98戦闘ログ。すべて解析対象だ」
森川が目を輝かせる。
「ログは全部見られるんですね」
「見られる。だが、漏らすな」
「もちろんです」
磯口が小声で言う。
「肩部ジョイント破壊のタイミング、あれは解析したいな……」
「腰椎ユニットへのカポエイラ蹴りもだ。接地から回転までの負荷が――」
「技術者たち」
黒崎が低く言う。
「今は祝杯の席です」
森川と磯口は黙った。
バドは笑う。
「黒崎さん、いなくなったら誰が止めるん?」
「止める人間は必要ですね」
黒崎は本気で心配そうに言った。
森川と磯口が目を逸らす。
極東支配人は愉快そうにそれを眺めていた。
一方で、熊耳はその会話の輪から少し離れていた。
彼女は、バドを見る。
子供。
だが、グリフォンを動かし、アルフォンスを倒した子供。
日本国籍を持ち、徳永専務が身元引受人となり、これからまた別の場所でテストパイロットを続けるという子供。
特車二課を壊した側にいながら、まるで進学先が決まったかのように目を輝かせている。
熊耳の胸に、苦いものが広がる。
内海が、その横へ来た。
「怒っている?」
「怒っているわ」
「ぼくに?」
「あなたにも。あの子にも。ここにいる全員にも。何より、自分に」
「そう」
内海は、静かに言った。
「じゃあ、行こうか」
「どこへ」
「新天地へ」
「私はまだ行くと言っていない」
「うん」
「あなた、本当に聞かないのね」
「聞いているよ。ただ、待っていないだけで」
「最低ね」
「うん」
内海は、また楽しそうに笑った。
「オーストラリア。エアーズロック。ニュージーランドのスキー場。悪くないだろう?」
「逃亡先の話を、旅行案内みたいにしないで」
「君となら、逃亡も旅行になる」
「本当に最低」
「うん」
熊耳は、長く息を吐いた。
この男は変わらない。
そして、自分もまだ完全には離れられない。
その事実が、彼女を苦しめる。
内海は、そっと手を差し出した。
昨日の十二号倉庫と同じように。
ただし、今度は誰も隠れていない。
バドもいる。
黒崎もいる。
企画七課もいる。
極東支配人もいる。
全部見えている。
内海の罪も、嘘も、勝利も、企みも、全部見せられた上での手だった。
熊耳は、その手を睨んだ。
「私は、あなたを許さない」
「うん」
「いつか逮捕する」
「うん」
「それまで、逃げるつもり?」
「君と一緒にね」
「勝手に決めないで」
「じゃあ、決めて」
熊耳は答えなかった。
内海の手も取らなかった。
だが、背を向けもしなかった。
バドが、それを見て小声で言う。
「やっぱ喧嘩っプルやな」
黒崎が即座に言う。
「黙っていなさい」
「でも、内海さん楽しそうや」
「楽しそうだから問題なのです」
「熊耳さんも大変やな」
「あなたも他人事ではありません」
「僕はグリフォンあるし」
「それが一番問題です」
バドは笑った。
その笑いは、まだ子供のものだった。
だが、彼はもう特車二課を倒した子供だった。
ASURAとグリフォンを抱え、極東支配人の元へ移るテストパイロット。
企画七課とは、一旦ここで別れる。
内海は熊耳と新天地へ。
黒崎はその監視と後始末へ。
バドは森川、磯口、整備スタッフとともに開発継続へ。
長城号の船上で、勝利の夜は次の物語へ分岐していく。
極東支配人はグラスを掲げた。
「では、黒い怪鳥とASURAの未来に」
森川と磯口が続く。
内海も笑ってグラスを掲げる。
バドはジュースのグラスを持ち上げた。
「グリフォンの未来に!」
黒崎はため息をつく。
熊耳はグラスを掲げなかった。
ただ、内海の横に立っていた。
外では、台風の海が荒れている。
その海を越えて、それぞれの新天地へ向かう準備が始まっていた。