彼女が言った言葉を、今でも覚えている。
遠い遠い記憶の彼方となった今でも、鮮明に思い出すことができる。
それは当たり前のようで、決して当たり前ではない、微かな非日常の記憶。
あの日まで「空っぽ」で壊れていた自分が、一人の人間になろうとした物語。
たくさんの時間が流れていく中でも、あの輝きだけは決して忘れはしない。
『次の駅は、渋谷、渋谷でございます。お降りの際はお荷物にお気をつけてください』
ガタガタと小刻みに揺れながら、電車は僕の目的地――いや、目的地というには語弊がある場所へと向かっている。
ただ、どうしても行かなければいけない気がした。行かなければ自分は一生後悔する。
それは、五年前のあの日に感じたものと同じような感覚だった。
僕の魂は、今もなおあの場所に囚われ続けているのかもしれない。
『渋谷です。渋谷です。お降りの際はお荷物に気をつけてください』
駅に滑り込んだ電車から、大量の人の波が吐き出されていく。ここは都市の中心部であり、絶え間なく経済が回り続ける巨大な心臓部なら尚更のこと。
「五年ぶりに来たけど……ちょっと変わりすぎじゃないかな」
改札を抜け思わずそんなことを漏らしてしまう。
以前訪れたときは駅のあちこちが工事中だったはずだが、今やそれも綺麗に改修され、洗練されたコンビニやレストランが立ち並んでいる。見上げれば、かつてはなかった高層ビルがそびえ立ち、巨大な電光掲示板が色鮮やかな広告をこれでもかと展示されていた。
「いや、圧倒されている場合じゃないな。早く行かないと」
人は誰しも、何か目的を持って日々を生きている。その「生きたい」という意志や目的を放棄してしまえば、きっと人間ではなくなってしまうのだろう。
今の自分がその目的に沿って行動できているのかと問われれば、正直に言って怪しいものだ。なにせ、僕はただの勘と、五年前の感覚だけを頼りにこの渋谷へ足を運んでいるのだから。
「それにしても、人が多すぎる。ひょっとしたら富ヶ谷の比じゃないぞ……」
渋谷駅から数歩歩いたところで、僕は完全に足がすくみそうになった。
右を見ても、左を見ても、前も後ろも、視界のすべてが人、人、人で埋め尽くされている。
かつて僕の頭の中に流れ込んできた、世界のあらゆる事象の濁流に比べれば遥かにマシなはずなのに、今のちっぽけな僕の脳は、この雑多な熱気に気圧されそうになっていた。
「こんだけ人がいたら、海斗には無理だな。あいつ、絶対人酔いする」
今ここにはいない一番の親友の顔を思い浮かべ、心の中で苦笑する。
『なぁー、もう来るのやめようぜ。俺、マジで耐えられねえ』と、隣で情けない声を出すあいつの姿が、脳内で完璧に再生された。
『交差点が青になりました。みなさん渡ってください』
機械的なアナウンスに背中を押されるように、僕はスクランブル交差点へと足を踏み出す。
明確な目的地が定まらないまま、ただ淡々と、人の波に流されるように歩く。
無数の足音と、他人の吐き出す息に包まれる中で、ふと、あの声が鼓膜の奥で蘇った。
――『お主は何故生き、何を成すのか私は気になる。だが、私はこれまでだ。またいつか現世で会おうぞ』
あれから僕は、一回も彼女と会っていない。
不老の存在である彼女にとって、あの言葉は長い長い時間のほんの一ひとときに過ぎないのかもしれない。
けれど、全能の力を失い、残された寿命を数えるだけになった僕にとっては、あまりにも重い約束だった。
人間として生きる以上、寿命という終わりは必ず訪れる。
それはどんな生物にも適用される絶対のルールだ。
……もっとも、例外には、例外が必ず存在する。
南米の地底に今も眠っている最凶の蜘蛛。紀元前に地球へと飛来した宇宙の侵略生物。星の触覚として君臨する吸血鬼。
その中で、僕にとって最も身近で、最も理不尽だった例外――それが「英霊」だった。
英雄や偉人が死後、人類の信仰によって祀り上げられた存在。魔術師が聖杯の莫大な魔力を用いて、現世に召喚する最高峰の使い魔。
しかしその本質は、通常扱える使い魔とは一線を画す、魔術の域を超越した高次存在だ。それを使役して万能の願望機を奪い合うバトルのことを、魔術世界では「聖杯戦争」と呼ぶ。
聖杯に選ばれた七人のマスターが、それぞれ異なるクラス――「剣士」「弓兵」「槍兵」「騎乗兵」「魔術師」「暗殺者」「狂戦士」の器に召喚された英霊と契約し、生き残りを懸けて戦う。
マスターにはサーヴァントを絶対強制する三度の特権「令呪」が与えられ、サーヴァントは自身の伝説を具現化した必殺の武器「宝具」を手に戦場を駆ける。
最後まで勝ち残った一組だけが、己の願いを叶えることができる――。
そんな絵空事のようなファンタジーに、僕は五年前、参加した。
過去の英雄たちが互いの信念をかけて殺し合う、あの苛烈で、どこか美しくもあった光景。時がどれだけ経とうとも、僕の網膜からあの景色が消えることはない。
だって、あの地獄があったからこそ、僕は本当の「人間」になれたのだから。
「……まあ、今でもちゃんと人間をやれているかどうかは、自分でも自信がないんだけどさ」
雑踏の中でぽつりと呟いた瞬間、自分が交差点の真ん中で完全に立ち止まっていることに気づいた。
「まずいまずいまずい! 歩くの忘れてた! 回想に浸ってる場合じゃない、信号が変わっちゃう、ヤバイヤバイ!」
点滅を始めた緑色の光を見上げ、僕は慌てて駆け出した。
そもそも明確な目的もないのに、なぜ自分はこんなに必死に走っているのだろう。自分でも可笑しくなる。
でもまあ、最近は引きこもりで運動不足だったし、たまにはこういうのも悪くない。
「にしても……遠いな。スクランブル交差点ってこんなに広かったっけ。はは、息が切れてる。本当に体力が落ちたな」
5年前僕はここで自分のサーヴァントと一緒に戦い、別れた。彼女にまた会い、そしてあの時言えなかった。言葉を伝えようと思い、ここ渋谷スクランブルの交差点に来たが。
「やっぱり、そんなことはないか。まあそりゃ、僕も分かっているよ。あの時無理矢理召喚したせいか、抑止力は現世と影の国の出口を塞いでしまったし。はぁー」
そう、五年前、僕はあるサーヴァントを召喚した。本当はできるはずもなかったが彼女をだ。
ケルト神話・アルスターにおける伝説の戦士。
異次元の国「影の国」の女王にして門番であり、槍術とルーン魔術の天才。
数多の亡霊があふれる影の国を支配し。
後のアルスターの英雄であるクー・フリーンの師たるもの。
「まあ、会えるはずもないか、もう僕は全能でもなく、ただありふれた人間だ。そんな僕がもう彼女に会う資格なんてないんだろうな」
そうだ彼女はもうこの現世にはいない。
もう二度と会えないのだから。
「まったく、お主は相変わらず卑屈のよう。まあ、それがお主らしいと言えるが……それにしてもここは変わりすぎだ。人間の業とは、ここまで深いものかと恐れ入る」
「……え?」
ん……? 今、聞き覚えのある声が聞こえたような。
スクランブル交差点のど真ん中。こんな雑踏の中で僕に声をかけてくる知り合いなんて、僕の記憶には存在しないはずだ。そもそも、この世界ごと僕に関する記憶は処理されたはずなのだから。
――だとしたら、辿り着ける答えはただ一つ。
この惑星と並行世界の記録から外れた、「境界の向こう」の存在。
「あ、あの……師匠? なんでこっちに来られるんですか? 全能だった頃の僕でさえ影の国には行けなかったのに……! それに、なんで周りが影の国になってるんですか!?」
いつしか、周りの風景は人がごった返す渋谷ではなく、魑魅魍魎が集う影の国へと変貌していた。
空は赤黒くひび割れ、地平線の彼方まで荒涼とした大地が広がっている。
そして何より――目の前の師匠の格好がおかしかった。
いや、いつものことか。
体のラインを余すところなく浮き彫りにする、際どい全身黒タイツ。
顔を覆う黒いヴェールと、両手に握られた物騒な魔槍。
「あの、師匠。五年前に言ったことですけど、現世に来るときはちゃんと普通の服を着てください。ケルトの人たちはみんな全身タイツなんですか?」
「いや、そんなことはないぞ。ちゃんと服を着ている誇りある戦士もいる。フェルグスやフィンを思い出してみよ」
「いやいや! フェルグスなんて実質上裸じゃないですか!」
「まあ、よいではないか……。それで、さっきの質問じゃな。影の国と現世の門が抑止力に固く閉ざされているのに、どうやって来たか、だったか?」
「そうです。ガチガチにロックされていたはずじゃ――」
「ふん、抑止力なぞ知ったことか。影の国は私の領土。勝手に鍵をかけられて黙っているほど、私は物分りの良い女ではない。それに――」
彼女は愛槍を虚空へと消し去ると、僕の首根っこを掴み、そのまま自分の顔へと強引に引き寄せた。
(いや、近い近い近い!!)
心臓が破裂しそうなほど跳ね上がる。思春期の男子にこの距離感は刺激が強すぎる。
吐息が触れ合いそうな至近距離。……というか、何で師匠まで微かに頬を赤らめているんだ!?
「影の国をそのまま上書きしたわけではない。ここはお主のいた『渋谷』という街のままだよ。私自身が影の国を体内に内包し、固有結界のように一時的に押し広げているに過ぎん」
「固有結界……神代のルーンを極めて、さらに固有結界まで扱えるようになるとか、魔術協会の執行者も聖堂教会の埋葬機関も裸足で逃げ出すレベルのバケモノですね……! ちょ、待って首絞まってる! 痛い痛い!」
「まったく、お主は人のことをバケモノ呼ばわりしおって……。私がどんな気持ちで、どれほどの無理を押してここまで逢いに来たのか分からぬほど、鈍感ではあるまい?」
そう言って、師匠はゆっくりと首から手を離した。
ヴェールの奥で、彼女は今まで見せたこともないほど柔らかく、妖艶に微笑み、僕の瞳をじっと見つめ返す。
「何を呆けている。逢いたくてここへ来たのだろう? ならばあの時言えなかった言葉とやらを、早く私に聞かせるがいい」
「……はは、相変わらず何でもお見通しなんですね」
僕は降参するように苦笑し、一歩、彼女へと踏み出した。
雑踏のノイズが消え去った赤黒い世界の中で。
僕は、かつて「空っぽ」だった自分に命を吹き込み、一人の人間にしてくれた大切な恩人であり――初めて恋をしたひとりの女性へ向けて、五年越しの想いを紡ぎ始めていた。