気温が寒い日に学校があることほど、智久にとって憂鬱なことはない。
寒さは容赦なく体を刺激し、その冷気に感化されたのか脳までズキズキと痛み出す。
自宅からほんの数メートルの場所で、太田智久はひとりごちながら歩いていた。
「はぁー、まったく……もうちょっと厚着してくればよかったな」
そもそも今は真夏の真っ只中のはずなのに、空気はまるで真冬のそれだ。
夏特有の湿気もなく、蝉の鳴き声すら聞こえない。
あるのはただ、冬を強いる冷たい風だけだった。
「まあ、グダグダ言ってる暇もないか。ひとまず学校に行きますかね」
通学路の途中でそんな言葉を零した智久だったが、特に気に留める様子もなく学校へと足をすすめた。
彼が通っているのは「ザクレス学校」。普通の校風とは異なり、多様性に満ちあふれた学校だ。
校内をうろつけば外国人留学生や教師が当たり前のように行き交っている。英語力を鍛えたり特訓したりするには、これ以上ない環境と言えた。
だが一つ欠点を挙げるなら、地理的に非常に通いづらい場所にあることだ。
簡単に言えば、その学校は急な坂の上に建っていた。
2026年という現代において、そんな道も交通機関を駆使すればいくらでも解消できるはずだ。
しかし、あいにくこの坂道には路線バスすら一本も通っていなかった。
――だからこそ、こういう悲鳴が生まれることになる。
「はぁ、はぁ……もう無理、これ以上歩けない!」
「ダメですよ。そんな弱音を吐いていては、あなたはもうすぐ五月家の当主になるのですから。こんな所でへばっていては家の運営なんてできません」
「あぁもう、それは分かってわよ! ……じゃなくて!」
日和は荒い息を吐きながら抗議の声をあげた。
「私が聞きたいのは、なんで学校に登校するのに車を使わず、徒歩で移動することになってるのよっ!」
「それはお嬢様が『私はもう子供じゃないわ。車を使わなくても学校くらい行ける、だから邪魔しないで』とおっしゃっていたからではありませんか」
同い年の世話係から巧みに正論を返され、五月家の次期当主である五月日和(いさつき ひより)は絶句し、その瞳に涙を浮かべた。
「ま、確かに私はそう言ったわよ。でも、こんなに遠いなんて知らなかったのよ!!」
人目もはばからず、その場で泣き出してしまう日和。
だが、どれだけ形無しになろうと彼女の美貌が色褪せることはない。涙や鼻水で顔を濡らそうが、彼女の整った容姿の前には些細な問題でしかなかった。
五月日和の容姿を一言で表すなら、完璧な造形美。母親譲りの癖のない黒髪を腰まで伸ばしている。そしてザクレス学校の制服の上からでもはっきりと分かるほど、豊満な胸元が主張していた。
「日和様、こんな所で泣いてはいけません。ほら、あと数歩歩けば着きますから立ち上がってください」
そう言い、世話係の紅玲奈(くれ いな)は我が儘な主の手を引く。
彼女の容姿もまた、仕える主と比較して見劣りするものではなかった。日本人には珍しい緑がかったボブヘア。同じ制服に身を包んでいるが、主と違って胸元は慎ましやかに収まっている。
「ああもう、いいわ! とりあえず学校は目と鼻の先だし、もう行くわね!」
溢れた涙を乱暴に手でぬぐい、日和は校門を目指して走り出す。
その後ろ姿を見送りながら、世話係の紅玲奈(くれ いな)は小さくため息をついた。
(もうすぐ五月家の当主になるというのに、先が思いやられますね。魔術刻印も八割方受け継いだとはいえ……本当に大丈夫でしょうか)
心に溜まった不安を吐き出すように息を漏らし、玲奈は空を見上げる。
天空では、真冬に匹敵する極寒と、本来の主権者である夏とが休むことなくせめぎ合っていた。
まるでそれは、これから始まる世界の変容を予兆しているかのようだ。
「最近は治安も悪化しているというのに、臨時休校にもしないなんて。やはりこの学校は色々とガバガバですね。……それにしても、この異常気象。神代レベルの大魔術の痕跡が関わっていますが、現代の魔術師にこれほどの真似ができるとは思えません。もしかして……いえ、さすがにそれはないですね」
「ちょっと、何やってんのよ玲奈! 早く学校行くわよ、遅刻したくないんだから急いで!」
思考を打ち切って声のした方へ視線を向けると、我が主が頬を膨らませてこちらを睨みつけていた。
「はいはい、今行きますよ。まったく、うちのお嬢様は人使いが荒いのですから」
苦笑しながら歩き出しつつも、玲奈の意識は静かに鋭利なものへと研ぎ澄まされていく。
(――私も、覚悟を決めなければいけませんね。この戦いで、何があってもお嬢様をお守りしなければ)
――本当に反吐が出ますね。聖杯戦争という儀式は。
玲奈が睨みつけた瞬間、その瞳は禍々しい真紅へと染まっていた。
「ちょっと、何をブツブツ言ってるのよ! 早く行きましょう!」
呼びかけられた世話係は慌てて真紅の魔眼()を伏せ、いつもの表情に戻ると急ぎ主の元へと駆け寄る。
頭上に広がる空は、何事もなかったかのように青かった。
薄暗い下水道の中に、その男はいた。
排泄物の匂いと羽虫が充満する劣悪な環境で、男は血走った
目を爛々と輝かせ、呪文を唱える。
ボサボサの髪に、ボロボロの衣服、何年も剃っていない粗悪な髭。
その瞳は、眼前のすべてを視線だけで殺してしまいそうなほど、深く暗く濁っていた。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公――」
『閉ざせ(満たせ)。閉ざせ(満たせ)。閉ざせ(満たせ)。閉ざせ(満たせ)。閉ざせ(満たせ)。』
『繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する』
男は目の前の召喚陣に手をかざし、低く丁寧に、言葉の一つひとつに呪詛を込めるように詠唱する。
――刹那、陣から眩いほどの純白の光が撒き散らされ、下水道の暗闇を白日へと変えた。
神秘が衰退した現代において、これほどの濃密な神秘の奔流を巻き起こす存在など、指の数ほどしか存在し得ない。
選択肢は自ずと絞られる。
神代の幻想種でも、概念武装でもない。
それは――――最高位の使い魔である英霊。
「問いましょう。あなたが、私のマスターかしら」
純白の光の中から現れたのは、一人の女だった。
顔を深く覆う黒いベールの奥から、殺伐とした視線が注がれる。
背丈は170センチに届くかどうかといったところ。幾千の英霊の中でも、小柄な部類に入るだろう。
「そ、そうだ! 私がお前のマスターであるマキシム・アンドロメダだ。時計塔の魔術師であり、『色位(ブランド)』を授かった男だ。それ……」
時計塔の魔術師――マキシモフは、サーヴァントが放つ神代の魔力に気圧されながらも、すぐさま体制を立て直して威圧的に応える。
「いえ、そんなこと私には関係ありませんわ。だいたい、あなたごときに指図される筋合いもございません」
あきれ果てたように吐き捨て、そのサーヴァントは空をそっとなぞった。
瞬間、マキシムの視界に映ったのは、肩口から切断された己の右腕だった。
大量の発血とともに、無造作に転がる肉塊。
「が……!? あ、が……お、おおおお、あがががが!!」
脳と身体が、腕の喪失という事実を全力で拒絶する。
だが、肉体が破壊された現実だけは覆らない。その絶望的な矛盾が、遅れて強烈な激痛となってマキシムを襲う。
「あらあら、おかしいわね。この程度の魔術で簡単に腕を切り落とされるなんて、現代の魔術師も落ちたものね。まあいいわ。さっさと死んでくださる?」
サーヴァントは眼前の哀れな男を完全に殺し尽くすべく、容赦なく魔術を展開しようとする。
「ま、待て! 待ってくれ! なぜ私を殺そうとする!? 私はお前のマスターで、召喚者だぞ! 私を殺せば現界するための魔力を失い、お前も消滅するんだ! それでもいいのか!!」
切断された肩を押さえ、血を吐きながら訴えかけるマキシム。
「ええ、いいですとも。私は現代にて叶えたい願いなど持ち合わせておりませんわ。そんなもの、とうの昔に捨て……――いえ、待ってください」
サーヴァントは言葉を遮り、こめかみに細い指を当てて目をつぶる。何かの気配を探るように。
(……助かったのか? 腕は消し飛んだが、幸い激痛で血管が収縮し、即死の出血は免れている。だが長くはもたない。古い神秘に新しい魔術が屈するのは世界の理。今の私では、彼女に霞傷一つ付けられない……!)
生存への執着から即座に冷徹な思考を取り戻したマキシムは、気配を探るサーヴァントから目を逸らさず、逃走用の魔術を展開しようとした。
――――否、展開しようとしてしまった。
「あらあら、どうして逃げようとするのですか? あなたは私の召喚者で、マスターなのでしょう? そんな無様なお姿を見せられたら、私……」
サーヴァントは黒いベールの奥で、ゾッとするほど不気味に微笑む。
「間違って、あなたを殺してしまいそうになってしまいますわ」
次の瞬間――男の上半身と下半身は、不可視の力によって引きちぎられていた。
ぶちぶちと肉と骨が引き裂かれる不快な音とともに血飛沫が舞い、暗い下水道の壁を鮮血で染め上げる。
だが、引きちぎった当の本人は、もはや「肉塊」となった元マスターに一瞥を与えることすらない。
頬についた返り血に指を滑らせ、恍惚とした笑みを浮かべる。
「あっ……あっ!! 私のクー、私のクー! あなたも召喚されていたのね……! うふふ、待っていてね。今すぐそっちに行ってあげる。そしてあなたを私色に染め上げて、私のものだけにしてあげるわ……!!」
体をねじらせ、歓喜に震えながら声をあげるサーヴァント。
「あら、こうしてはいられませんわね。マスターを殺してしまったのだから、現界するための魔力を確保しなくては」
そう呟くと、神代を生きた狂気の英霊は、惨殺した「元・マスター」の遺体へ残忍な視線を向けたのだった。