バレンタインから繋がる話です
2月の底冷えするような寒さも和らぎ、夜風に微かな暖かさが混じるようになった。
春の匂いが、もう目の前まで来ていると肌で感じられる。
今日は3月14日、ホワイトデー。
仕事ばかりの俺も、今日ばかりは例外ではない。同僚、担当ウマ娘たち、そして妻であるキタサンブラック。
貰った分のお返しは、しっかりと渡し終えた。
これで今年のホワイトデーは無事に終わる。
……そう、思っていたのだけれど。
「……」
居間の座布団に腰を下ろし、ぼんやりとテレビを眺める。
キタサンに「待っていてほしい」と頼まれたからだ。
『す、すぐに戻ってくるので待ってて下さいね!』
どこか焦った様子で彼女が寝室へ消えてから、すでに数十分が経過していた。
さすがに心配になり、様子を見に行こうと寝室の扉に手をかけた時のことだ。
『ま、待って下さい! 開けちゃダメですっ! ぜ、絶対にそっちに行くから……!』
忍び寄る俺の足音が聞こえたのだろう。
悲鳴にも似た声で制止され、俺はすごすごと引き下がるしかなかった。
そんなわけで、諦めて居間へ戻ってきたというわけだ。
とはいえ、ただ待つには手持ち無沙汰なので、テレビをつけて画面を眺めている。
……キタサンはいったい何をしているのだろう? 何を考えているのだろうか?
そればかりが頭を支配して、画面の向こうの出来事はまるで頭に入ってこなかった。
「お、お待たせしました!」
不意に響いた彼女の声に、ひどく胸が跳ねた。
おかしいな。少し顔を見なかっただけで寂しくなっていたのか? そんな歳でもないだろうに。
柄にもなく熱を持った頬をごまかすように、俺は内心の動揺をやり過ごした。
「いや、そんなに待ってないよ。テレビ観てたし」
今更ながら、テレビに映っていたのがバラエティ番組だと気付いたが、黙っていればバレないはずだ。
内心でそっと胸を撫で下ろしつつ、声のした方へと体を向ける。
てっきりすぐに入ってくるものだと思っていたが、彼女は扉の向こうで立ち止まったままだった。
「キタサン?」
「あ……うう……」
返ってきた消え入るような声に、俺は思わず座布団から腰を浮かせた。
姿は見えないが、何かにひどく困っているのだけは伝わってくる。
居ても立っても居られず、俺はすぐさま扉の方へと歩き出した。
「す、ストップです! ストップ!」
その必死な声に、俺は思わずピタリと足を止めた。
……なんだか、ついさっきも同じようなやり取りをしたような?
「だ、大丈夫です! もうすぐ入りますから……今はこっちに来ちゃだめ……」
「……分かった」
いや、全然大丈夫そうには聞こえないのだけれど。
喉元まで出かかったツッコミを何とか飲み込んで、俺は大人しく引き下がることにした。
「よ、よし……やるぞ……やるんだ、キタサンブラック……!」
扉越しに聞こえてきたのは、悲壮なまでの決意に満ちた呟きだった。
本人は独り言のつもりなのだろうが、悲しいかな、こちらには筒抜けである。
「で、では……い、いきますね!」
カチャリ、とドアノブが回る音がした。
俺が固唾を飲んで見守る中、ゆっくりと扉が開かれ――
「えっ」
つい、短い声がこぼれた。
開かれた扉の先に立っていたのは、黒と赤を基調とした和装仕立てのトップスに、見慣れたミニスカート。
担当トレーナーだった俺はもちろん、多くのファンにとっても馴染み深い――キタサンブラックの勝負服姿だった。
ただ一つ、決定的に違っていたのは。
かつての勝負服は、今の彼女の豊かな曲線を受け入れるには、あまりに無力だったということ。
少し動くだけで短くなった裾が太ももの高い位置を掠め、はち切れんばかりの胸元や、衣装の隙間から覗く柔らかな肌が、彼女がもう少女ではないことを無慈悲に物語っている。
背中の大きな赤い結び紐を揺らすことも忘れ、彼女は所在なげに指先で衣装の縁をいじりながら、困ったように眉を下げていた。
「どう、ですか……『トレーナーさん』?」
勝負服の彼女にそう呼ばれると、担当トレーナーだった頃の記憶が鮮明に蘇る。
眩い笑顔と力強い走りで人々の心を掴んだ彼女。あの頃は俺も新人で、失敗して落ち込むことも多かったが、彼女の明るさがあったからこそ今の俺がいる。本当に感謝してもしきれない。
――なんて。目の前の刺激からどうにか視線を逸らそうと、必死にシリアスな思い出を浮かべてみたけれど。
「な、なんちゃって……あはは……」
今の彼女の姿を前にしては……申し訳ないが、真面目な雰囲気にはなれそうにない。
格好もさることながら、彼女の表情や仕草がそれを助長してしまっている。
燃えるように赤く染まった頬。少し引き結ばれた唇。伏せられた耳と、ゆらゆらと揺れる尻尾。
恥じらいを含んだ扇情的な空気がこちらにまで伝染し、一度はごまかしたはずの俺の頬まで、さらに熱を帯びていくのが分かった。
「と、トレーナーさん……何とか言ってくださいよぉ……」
「す、すまない、ちょっと驚いてしまってな……。だ、だけど、どうして急にその格好を?」
「え、えっと……その……」
俺の問いかけに、彼女は耳をピンと立てて視線を左右に泳がせた。
やがて決心したように真っ直ぐこちらを見つめ返し、ゆっくりと口を開く。
「バレンタインの時、この格好になるって言っちゃったから……その。き、着てみちゃいました……あ、あはは……」
「バレンタインの時って……あっ」
そういえばあの時、色々あってキタサンから「勝負服姿を見せる」という約束を取り付けてしまったんだった。
あの言葉をもう実行するのか……。
彼女の思い切りの良さに感心しかけたところで、俺は同時に、もう一つの『約束』を思い出してしまった。
「それよりも! もっと他に言うことがあるんじゃないんですか!」
「い、言うこと?」
「ほ、ほら! バレンタインの時に! い、言ってくれるって約束したじゃないですか!」
「あ、ああ〜……」
いや、分かっている。彼女の求めている約束が何なのかは、きっちりと思い出している。
だがしかし、今の刺激が強すぎる彼女の姿を目の当たりにしては、『あの言葉』以外の感想も一緒に思い浮かんでしまうんだよな……。そんな邪念だらけの頭で、果たして『あの言葉』を言ってもいいものか。
「……」
ま……まずい!
みるみるうちにキタサンの顔から赤みが引いていき、耳も尻尾も力なく垂れ下がってしまった。
こ、こうなったらもう腹を括るしかない! 全部ぶちまけてしまえ!
「キタサン!」
「は、はい!」
突然の大声に、彼女はビクッと耳と尻尾を跳ね上げた。
俺は覚悟を決め、彼女を真っ直ぐに見つめ返して一気に言葉を紡ぐ。
「やっぱり、その姿の君は綺麗だ」
「……! ほ、本当ですか?」
彼女の瞳にキラリと光が戻り、弾むように尻尾が揺れ始めた。
青白くなりかけていた頬もみるみるうちに熱を取り戻し、ふわりと自然な笑みがこぼれる。
「ああ、本当だ。走っていた時の君の姿が目に浮かぶ程だよ」
「……あの頃のあたしの方が、綺麗ですか?」
しまった、言葉選びを間違えた。
熱を帯びた顔のまま、彼女はぷくっと分かりやすく頬を膨らませてしまう。バレンタインの時と同じように、過去の自分にヤキモチを焼かせてしまったようだ。
普段ならもっと気の利いたフォローができるはずなのに、今の俺にはそんな余裕など一切ない。
「あの頃の君も今の君も、俺にとっては等しく特別なんだ。それに、今の君も十分綺麗で魅力的だよ」
「……例えばどんなところが?」
「その……光に当たって反射する黒髪が艶やかで、いつも丁寧に手入れしてるのが分かる。それに、昔から変わらない肌の白さが、黒髪と勝負服のおかげでより引き立ってて……すごく、透明感があって綺麗だ」
「え、えへへ……そ、そうですか?」
彼女は両手で頬を包み込むと、隠しきれない喜びを代弁するように、尻尾をより強く左右に振り出した。
「ああ、本当だよ」
「ほ、他にはどんなところですか?」
ずいずいと距離を詰めてくる彼女の勢いに圧され、俺は思わず後ずさる。
「引き締まったスタイルもしっかりと維持できているし、日々の努力が伝わってくるよ」
「ふふ♪ 綺麗って言ってもらえるように頑張ってますからね♪ その甲斐もありましたよ♪」
「ああ。それに、恥じらう姿も男心にグッときたよ」
「……?」
あっ、多分だけど余計なことを言った気がする。
キタサンの動きがピタリと止まり、視線が斜め上を彷徨い始めた。
「…………『トレーナーさん』」
もう一度俺の方へと視線が向いた時、彼女の瞳は少しだけ潤んでいるように見えた。
「……綺麗以外に思ってること、ありますよね?」
白い肌を塗り潰すように、彼女の頬は真っ赤に火照っている。その熱気は、今にもこちらに伝わってきそうだった。
「い、今のあたし……少し……えっちな感じ、ですか……?」
胸元を隠すようなその仕草は、むしろ彼女が自身の魅力に無自覚ではないことを突きつけてくる。隠せば隠すほど、俺の視線はそこに釘付けになってしまう。
「……言ってもいいのか?」
大きく一つ、深く息を吐き出す。
「……い、言っても大丈夫です……」」
どう見ても大丈夫ではなかった。
だけど、潤んだ瞳が俺を見つめ、静かに言葉を促している。
それだけで、俺の喉から言葉が溢れそうになるのを抑えきれなかった。
「……扉から現れた時からずっと、あまりに扇情的で、直視できないほどだよ」
その瞬間。
「あ、あうう〜……」
彼女はその場でしゃがみ込み、両手で顔を覆ってしまった。まるで、世界から自分を消し去りたいとでも言うように。
「だ、だけど魅力的なのは本当だ! そうじゃなきゃこんなことは言わないよ!」
「お、追い打ちですよ〜」
弁解すればするほど、彼女の羞恥心は限界を突破していく。
彼女はしゃがみ込んだままふるふると首を振り、頑なに顔を上げてくれなかった。
「「……」」
沈黙が心地よくも、心臓の鼓動を早めていく。
過ぎていく時間すら、今の俺たちにはもどかしく感じられた。
「……あの」
自らの体を抱きかかえるようにして立ち上がり、彼女は顔を上げてこちらを見つめた
「その……扇情的とは言ってましたけど、魅力的でもあるんですよね?」
「あ、ああ。そうだよ」
彼女はそう言いながら、何かを決意したように、すうっとこちらへ距離を詰めてきた。
「その言葉に嘘はありませんよね?」
「もちろんだよ」
視界の端から端までが、彼女の顔で埋め尽くされている。少し手を伸ばせば触れられるほどの距離に、俺の理性は音を立てて崩れ落ちそうだった。
「な、なら! 今のあたしを抱きしめて下さい!」
「ど、どうした急に?」
「だ、だって! 魅力的なら! それくらい簡単なはずですもの!」
そう言い放った勢いで、彼女はパッと目を閉じ、両手を広げて待ち構える。その顔は茹で上がるほど赤いのに、瞳の奥には確かな期待が宿っていた。
「……ふぅ」
小さくため息をこぼし、俺は覚悟を決める。
前方に両腕を伸ばし、引き寄せるように彼女の体を包み込んだ。
逃げ場なんて、もうどこにもない。
「あっ……」
小さくこぼれた声を飲み込むように、強く抱きしめる。
初めのうちは体を震わせるだけだった彼女だが、すぐに俺の背中に腕を回し、抱きしめ返してくれた。
重なり合った体から伝わってくる熱。いつも彼女が言っているように温かく、その温もりが全身にじんわりと広がっていくようだった。
俺の鼓動と彼女の鼓動。それが重なり合って、心地よいリズムが伝わってくる。
「『トレーナーさん』」
「キタサン」
殆ど同時に重なる声。見つめ合うと、熱を帯びた瞳がこちらを真っ直ぐに捉えていた。
言葉にせずとも、お互いが同じことを考えているのは痛いほどに伝わってきた。
「……お願いします」
「ああ、分かったよ」
彼女はゆっくりと瞳を閉じ、微かに顎を上げた。
その無防備で愛おしい姿に引き寄せられるように、俺はそっと唇を重ねた。