ウマ娘キタサンブラック短編集 大人編   作:大典74

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pixivにある同名の作品を手直ししております
こちらの作品は途中で視点が変わります
旦那さん視点で始まりますが◆以降はキタちゃん視点になります


疲れている旦那さんがキタちゃんのマッサージで寝ちゃう話

「ふぅ……」

 

 漬物石でも乗っているかのように重い肩を回し、地面に吸い込まれていくような溜息を吐く。ただ次の一歩を踏み出すことすら億劫だ。

 自宅まではもう一分もかからない距離。すでに視界は扉を捉えている。

 それなのに、どうしてこうも足が重いのか。

 

「それだけ頑張ってるってことかな」

 

 ぽつりと独り言を零す。

 吐き出した言葉は地面へ落ち、それがより一層、俺の歩みを重くした。

 とはいえ、どんなに一歩が小さくても、進んでいることに変わりはない。

 

「ただいま……」

 

 力を込めて扉を押し開き、肺から絞り出すように呟いた。

 背後に手を伸ばして扉を閉める。その動作すら、今の俺には鉛のように重かった。

 

「お、おかえりなさい」

 

 扉から手を離して視線を戻すと、おずおずとした声の主――キタサンブラックが立っていた。

 いつもなら太陽のような笑顔で迎えてくれる彼女だが、今の表情はどんよりと沈み、尻尾も不安げに揺らしている。

 

「……お疲れ、みたいですね」

「はは……ばれたか。さすがだな」

「いや、誰が見ても分かりますよ……?」

「……そっか」

「……むむ」

 

 キタサンの言う通りなのだろう。今の疲れた頭では、気の利いた言い訳一つ思い浮かばない。

 こんな姿、担当する子達には絶対に見せられない。……でも、身内であるキタサンになら、少しは甘えても良いのだろうか。

 

「……よし!」

「?」

 

 急に響いた力強い声に、ぼんやりと顔を上げる。声の主はキタサンだった。……いや、それはそうか。

 そんな当たり前のことを理解するのにすら、今の俺は数秒かかってしまった。

 

「お客さん!」

「え?」

「貴方のことですよ、お客さん!」

 

 流石に聞き違いだろう。

 そう思って見つめ返しても、彼女は真っ直ぐにこちらを見据えていた。

 現役時代から幾度となく見てきた、そして今も傍で赤く輝いている──あの決意に満ちた眼差しで。

 

「サァサ、お客さん! 早く靴を脱いでこっちに来て! さぁ、さぁさぁさぁ!」

「ち、ちょっと待──」

 

 戸惑う俺の制止などお構いなしだ。

 目の前にいたはずの彼女の姿がフッと消え、気づいた時には、俺の体は宙に浮いていた。

 

「──は?」

 

 腹部に、柔らかくも逞しい細い腕が回されている。

 腕の先へ視線を移そうとした瞬間、足元がスッと軽くなった。どうやら、いつの間にか靴まで脱がされたらしい。

 状況を飲み込めないまま、俺の体は重力に逆らうようにふわりと宙に浮いた。

 

「ではでは、行きますね!」

 

 耳元で弾んだ声が響き、体がふわりと運ばれ始める。

 ようやく分かった。俺は今、彼女に担がれているんだ。

 まるで布団や軽い荷物でも運ぶように、やすやすと。

 

「……」

 

 そういえば。

 腹部に回された腕の先で、彼女は今、どんな顔をしているのだろう?

 そっと覗き込んだ先にあったのは、決意に満ちた、太陽のように煌めく横顔だった。

 

「どっせい!」

 

 掛け声の力強さとは裏腹に、体はゆっくりと柔らかい場所へ下ろされた。

 うつ伏せに倒れ込んだ視界いっぱいに、真っ白な景色が広がる。全身を包み込むふかふかの感触が、ここが俺のベッドであることを教えてくれた。

 

「……どれどれ」

 

 耳元での呟きに続いて、首筋に温かいものが触れた。

 優しく柔らかい手のひらが、首から肩、背中、腰へと流れるように這っていく。

 触れられた場所から、彼女のじんわりとした熱が広がっていった。

 

「ふむふむ」

 

 太もも、ふくらはぎ、そして足先へ。

 一通り触り終えて彼女の手が離れると、そこにあった温もりは、あっけなく消えてしまった。

 

「お客さん、かなりお疲れみたいですね!」

「……そう、かもな」

 

 沈み込む感触。体に残る、彼女の手のひらの温かい余韻。

 心地よいそれらの感覚に身を委ねていると、俺の意識にはほんの少し、モヤがかかり出していた。

 

「ですので! そんな貴方のために、このキタサンブラックが! 母さん直伝のマッサージをお見せしますよ!」

「……そう、なのか……?」

「そうなのです! というわけで……ワッショイ!」

「!」

 

 モヤのかかった思考の中、首筋に両手がピタリと添えられた。

 強すぎず弱すぎない、絶妙な力加減。

 まるで髪を優しく撫でるように、彼女の両手はゆっくりと下へ滑っていく。

 

「お客さん、凝ってますね〜!」

「うん……そう、みたい……」

 

 触れられた箇所から、彼女の体温が波紋のように広がっていく。

 それはまるで、冬の陽だまりの中にいるような心地よさだった。

 絶え間なく注がれるその温もりに体の芯まで解されていくのを、微睡む意識の片隅で、ただ静かに感じていた。

 

「……次……肩……の……ま……♪」

 

 遠ざかっていく、途切れ途切れの声。

 その響きすらも、ただひたすらに心地よく、温かかった。

 

「お……? 気……で……?」

 

 温かな手と声、そして抗いがたいベッドの心地よさに包まれて。

 俺の意識は白いモヤの中へ、そのまま優しく飲み込まれていった。

 

            ◆ ◆ ◆

 

「次は肩の方にいきますね〜♪」

 

 首筋から肩へと指先を滑らせながら、彼の顔をそっと覗き込む。

 その瞼はだいぶ重く、息を吹きかけただけでも閉じてしまいそうだった。

 

「お客さん? 気持ち良いですか〜?」

 

 気分はすっかり凄腕のマッサージ師。

 どんな反応が返ってくるだろうか。胸を弾ませながら、愛しい彼の顔を覗き込む。

 

「お客さん?」

「……すぅ」

「……寝ちゃった、か」

 

 ほんの少し前までくっつきそうだった瞼は、たった数秒で、もうすっかり閉じられていた。

 

「良かった。あたしのマッサージ、少しは効いたみたいだね」

 

 マッサージの手を止め、ベッドの傍らにしゃがみ込んで、彼の寝顔にそっと顔を近づけた。

 

「うん、良い顔」

 

 自分の腕を枕にして横を向く彼は、眉間のシワも消え、口元も頬もすっかり緩んでいた。

 ガチガチに凝り固まっていた帰宅時の姿とは、まるで別人のようだ。

 

「……それだけ、毎日頑張ってるんだもんね」

 

トレーナーという仕事は、いつだって激務だ。

 日々の膨大な業務や、夜遅くまでの残業だけじゃない。

 勝負の世界に生きる担当の子たちの涙や痛み……その重圧まで、彼はいつも真っ向から背負い込んでいるのだから。

 

「……カサカサだ」

 

 ゆっくりと手を伸ばし、彼の頬にそっと触れる。

 指先に伝わる少し荒れた肌の感触が、彼が自分の身を削ってまで毎日頑張り続けている何よりの証拠だった。

 

「……」

 

 彼の頬から離した指先を、そっと自分の唇に寄せる。

 指先に残っていたわずかな熱は、夜の空気に触れてあっけなく消えてしまった。

 ただそれだけのことなのに、どうしようもなく寂しくなってしまう。

 

「今は特に大事な時期だもんね」

 

 彼の担当の子たちは今、重賞に向けての最終調整の真っ最中だ。

 極限まで追い込むこの時期、心身の疲労がピークに達していても、彼はそれを担当の子たちに絶対に見せるわけにはいかないのだ。

 

「……立派なトレーナーさん、だもんね」

 

あたしが彼の担当だった頃、こんな限界の姿を見せることは決してなかった。

 きっとあの時だって、裏では今みたいにボロボロだったはずなのに。

 ……今、この無防備な寝顔を独り占めできていることが、少しだけ切なくて、誇らしい。

 

「……ん」

 

 愛おしさに背中を押されるように、彼の頬にそっと唇を落とした。

 少し荒れた肌越しに伝わってくる確かな体温が、どうしようもなく心地いい。

 もっと触れていたい。もっと、もっと、もっと。

 ……だけど、それは今じゃない。

 

「……」

 

 後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように、ゆっくりと彼の頬から唇を離す。

 

「……よし!」

 

 パチンと両頬を叩き、勢いよく立ち上がる。

 寂しがり屋のキタサンブラックの時間はこれで終わり。ここからは愛しい彼を全力で癒やす『お助け大将』の出番だ。

 

「さぁて、もっともっとお客さんを癒しますよ〜♪」

 

 途中で止まっていた肩周りに手を伸ばし、じっくりと時間を掛けて揉みほぐしていく。

 指先から伝わっていたガチガチの強張りが徐々に解け、本来の柔らかさを取り戻し始めていた。

 

「気持ち良いですか、お客──ううん、旦那さん?」

 

 彼の顔を覗き見て、そっと呼びかける。

 意識は未だ夢うつつ、こんな声はきっと届いていないだろう。

 だけど、ほんの一瞬だけ。

 彼の口角が少し上がり、穏やかに笑ってくれたように見えた。

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