多分この話がR-15のタグがつけた理由になっていると思います
「キスって、部位によって意味が違うらしいですよ!」
「どうした、急に」
突然ベッドから立ち上がったキタサンが、よく分からないことを言い出した。
もう寝る時間だというのに、また妙なことを。
小さく息をついて見上げると、不意に視線が絡む。
こちらを見つめる赤い瞳は、夜空の星々よりも煌めいて見えた。
「これですよ、これ! 見てください!」
勢いよく、俺の目の前へスマホを突き出してくる。
そういえばさっきから、画面に穴が空くほど見入っていたっけ。激しく揺れる尻尾が、何度も俺の背中を打っていたのも納得だ。
「どれどれ」
促されるまま、突き出された画面を覗き込む。
なになに……『キスに秘められた真意とは!』か。
いかにもなネット記事。キタサンって意外とこういうのを気にするよな。
画面から少しだけ視線をそらし、彼女の顔を盗み見る。
パタパタと揺れる耳と、紅潮した彼女の頬が視界に入った。
「見ましたよね?」
「あ、うん」
「では、一旦隠しますね!」
その言葉とともに、スマホが視界から消える。
遮るものがなくなった彼女の頬は先ほどよりも赤く、耳の動きはさらに激しくなっていた。
「というわけで旦那さん。今からあたしがするキスがどういう意味か考えてください!」
おっと、今、とんでもないことを言い出したな?
唐突な宣言に、思考が一時停止する。
確か、キタサンが俺にキスするってことだよな。その前にも何か言っていた気がするけど……なんだっけ?
「分かったよ」
「……!」
まあ、このくらいの戯れならすぐに終わるだろう。付き合ってあげようか。
小さく息をつき、もう一度彼女を見上げる。
そこには、宝石のような瞳を輝かせた、はち切れんばかりの笑顔があった。
「よぉし! ではではいきますね〜」
彼女はぐっと拳を握りしめ、体を俺に寄せてきた。
あれだけ合っていた視線はもう外され、閉じた唇からは小さく息が漏れている。
ピンと立った耳は、微動だにしない。
「……っ……」
輝いていた瞳は閉じられ、頬の熱がこちらに届きそうな距離まで、彼女の顔がゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。
——直後。
突如、彼女はしゃがみ込み、そのまま下へと顔を向けた。
「………ん」
右手首に落ちた、柔らかな感触。
彼女の唇から伝わる微かな熱が、じんわりと指先にまで広がっていく。
「む……んん……」
顔を押し付けるように、彼女はさらに強く手首に吸い付いてくる。
じんわりと深まる熱と、こそばゆさ。
その奥に混じる微かな痛みが、彼女の隠しきれない熱量を伝えていた。
「…………」
微かな彼女の息遣いだけが、静かな室内に溶けていく。
天井の淡い照明の下、二人きりの時間がただ濃密に過ぎていった。
「……ちゅ……」
ゆっくりと、彼女の唇が離れていく。
糸を引くこともなく、手首の温かな感触だけが空気に溶けて消えていった。
「ど、どういう……意味……でしょう……?」
再び隣に座り直した彼女の頬は、リンゴのように真っ赤に染まっていた。
消え入りそうな声に、手首を押さえた俺も、どうしても視線を返すことができない。
「えっ、と……その……だな……」
普段と場所が違うだけなのに、どうしてこんなに動揺しているんだ。
手首を押さえた手を離せないまま、視線を泳がせることしかできない。
「い、一回じゃ……わ、分からない、かもですよね……! で、ではでは! も、もう、一回……」
「えっ!?」
裏返った声とともに、とんでもない言葉が飛んできた。
驚いて隣を振り向くと、そこには激しく耳を揺らし、目を回しながらパクパクと口を動かしている妻の姿があった。
「つ、つよいあい……つたえる、あたし……」
「き、キタサン……落ち着いて……」
ふらりと立ち上がり、こちらに近づいてくるキタサン。
荒れ狂う波のように激しく動く尻尾は、彼女の心の内をそのまま映し出しているようだった。
さらに危ういのは、彼女の足取りだ。焦点の合っていない瞳でふらつきながら近づいてくる姿は、何かの拍子に躓いてしまいそうで——
「……あっ!?」
刹那、彼女の姿勢がぐらりと崩れた。
「キタサン!?」
考えるよりも先に体が動いた。
「わぷっ」
胸元から聞こえた声に、ハッと意識が引き戻される。
視線を落とすと、俺の胸に彼女の顔が埋もれていた。
いや、違う。俺の腕が、倒れ込んできた彼女の体を無意識に抱きとめていたんだ。
「大丈夫か、キタサン?」
もしも床やベッドの縁に頭でもぶつけていたら……。
最悪の想像にゾッとして、自然と彼女を抱き寄せる腕の力を強くする。
「…………」
しかし、キタサンは俺の呼びかけに応えない。
ただ無言のまま、甘えるように俺の胸へと頭を擦り付けてくる。
こそばゆい感触と、揺れる尻尾や耳が、彼女の答えのようだった。
「キタサン?」
流石に何か言葉を返して欲しい。
背中へと回している手で、彼女をポンポンと軽く叩いて促す。
「!」
ピクンと耳が跳ね、彼女の頭がピタリと動きを止めた。
胸元からこそばゆい感触が消えてしまい、ほんの少しだけ名残惜しくなる。
「旦那さん……」
ゆっくりと顔を上げるキタサン。
熱に浮かされたように揺れる瞳に射抜かれ、俺は息をすることすら忘れて硬直してしまった。
「キタ……サン……?」
震える唇から、ようやくその声だけを絞り出す。
「………………」
無言で俺を見つめる瞳。
吸い寄せられるように落とした視線の先では、彼女の口元からタラリと引いた糸が、俺の胸元へと繋がっていた。
「どういう……意味だと思いますか?」
糸がゆっくりと消えていくのと同時に、彼女は言葉を紡ぎ出した。
俺の服を掴む彼女の手の力が強くなる。
絶対に離さない。
「どういう、って、何がだい?」
喉を震わせながら、必死にとぼけてみせる。
「キス……です……。分かりますか?」
ふわりと頬を緩ませるキタサン。
緊張をほぐすための、いつもの優しい笑みだと思いたいのに。
熱を帯びたその瞳から、どうしても目を逸らすことができなかった。
「え、っと……愛情……とか?」
真っ白な頭から、どうにか絞り出した答え。
気の利いた言葉など浮かばず、先ほどの彼女のうわ言をそのままなぞるしかできなかった。
「……あはは」
もう一度、彼女は微笑む。
その笑みが歓喜なのか、それとも愉悦なのかは、俺には分からなかった。
「……ううん、違います。だけど、さっきまでなら正解でした」
彼女はゆっくりと首を振った。
宝石のように綺麗な瞳で真っ直ぐに俺だけを捉えながら、噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「……っ。それなら、今のキスには、どういう意味があるんだ?」
手首から逸れて、偶然にも俺の胸元――心臓の真上に落とされたキス。
視線を落とさずとも、跡の消えたそこには、彼女の唇の熱が火傷のようにはっきりと残っている。
「わかりませんか?」
ゆったりとしているはずなのに、妙に鋭く耳に残る声。
ハッとして視線を戻すと、彼女は口角を上げ、俺のすべての退路を塞ぐような深い笑みを浮かべていた。
「……逃さない、とかか……」
「………………」
ハッと瞳を大きく見開き、キタサンはうつむくように顔を伏せた。
もう、どんな表情をしているのかは窺えない。
あの熱を帯びた視線も、底知れない微笑みも、見えないはずなのに――
「……ごめんなさい」
絞り出すような声とは裏腹に、彼女の耳は獲物を狙う猛獣のように激しく揺れていた。
「本当に偶然なんです」
俺の胸に添えられた彼女の手が、服を強く掴み――。
「偶然、触れて。貴方の胸が、温かくて……。そうしたら、もう、どうしようもなくて……っ、ごめんなさい」
彼女の尻尾が俺の足に強く巻き付いていて——
「ですけど……っ……ううん……。だけど……ぅ……だから……っ……ね……」
途切れ途切れに紡がれる言葉と一緒に、ひどく熱い吐息が俺の胸元に吹きかかり――
「だんなさん……ごめん……っ……」
そして、ゆっくりと顔を上げた彼女。
その表情は。
「もう、ねかせないから、かくごしてね」
絶対に、俺を離さない。
有無を言わさぬその熱い瞳に射抜かれ、俺はただ、彼女の甘い熱に呑み込まれることしかできなかった。