6月までに書いておきたい話だったので書きました
今のところ回想以外では一番過去の話になります
赤と黒の天井に、ポツリ、ポツリと打ちつける音が広がっていく。
足元で飛び散る水しぶきが尻尾に当たるのも気にせずに、ステップを踏んだ。
「キタサン、ご機嫌だね」
傘を叩くような雨の中でもハッキリと聞こえた声に、くるりと振り返る。
隣で歩いていたはずのトレーナーさんとの距離は思いのほか開いていて、手を伸ばしても届きそうにない。
いつの間にこんなに。それに気づかないなんて……。
尻尾にかかる水滴なんて気にならないくらい、全身が熱くなっていく。
「でも分かるよ。白無垢、すごく似合ってたから」
小走りで、トレーナーさんはあたしのもとへ駆け寄ってくれた。
あるいは
タタタと軽い水音を立てて、トレーナーさんはあたしのもとへ来てくれた。
「トレーナーさんだって、似合ってましたよ?」
困り眉で微笑みながら、そんな言葉だけを口にした。
せめて彼もあたしと同じように……なんて、子供じみた願望。それなのに、跳ねる鼓動はさっきよりも速く、そして温かかった。
「いやぁ、俺の方は衣装に負けてるよ」
「そうですかね? 紋付袴姿、カッコよかったけどな」
「そう、かな?」
彼は明後日の方向に視線を向ける。
ふふ、どんなに頬を掻いたって、その赤みを消すことなんて出来ないのに。
パタパタと動いてしまいそうな尻尾を手で隠そうとすると、代わりに頬の緩みを抑えきれなくなってしまった。
「もうすぐ、なんですね」
「……そうだな」
ようやく彼の視線があたしと重なり、微笑みながら見つめ合う。
傘を叩く音は、少しずつ弱まっている。
もう少しで、雨は上がりそうだ。
「ワガママでしたよね、和装でやりたいなんて」
「そんなことないよ。君の実家のことを考えれば、そっちの方が自然だからね」
そう遠くない日、あたしは隣の彼と式を挙げる。
今日は衣装合わせで、お互いにどんな服装になるのかを改めて確認し合った。……どれほど素敵だったかは、胸の奥だけの秘密にしておく。でも……ふふ、思い出すだけで頬が緩んじゃうな。
ただ、そんな日に限って雲から涙がポロポロこぼれてしまった。でも、もし当日も雨なら予行演習になるかも? なんて。
せめて祈ることぐらいしか、今のあたしには出来そうにない。
「もう少しで、『トレーナーさん』じゃなくなるのかぁ」
「トレーナーじゃなくなるわけじゃないけどね」
「分かってるんですけどね。なんていうか、気持ちの問題ですよ」
ピョンと跳ねるように、彼よりも一歩前に進む。
足元の水たまりが、小さく弾けた。
「どんな風に呼ぶつもりなの?」
「『旦那さん』! 言ってみたかったんですよね〜」
「う~ん……すごく違和感あるな……」
くるりと振り返ると、彼はゆっくりとこちらに近づいてきた。
あたしみたいにピョンと跳ねたりなんかしないから、水しぶきは上がらない。
あたしが前で、彼が後ろ。いつも通りの距離感だ。
何度も呼べば慣れますよ! 今から呼びましょうか?」
「ストップ! まだ少し待ってくれ」
制止するように手を伸ばしながら、彼はあたしから視線を逸らしてしまう。
ああ、流石に踏み込み過ぎたかな? 距離感って難しいな……。
なんて、きっと昔のあたしなら耳を伏せて俯きながら、深々とため息をこぼしていたはずだ。
だけど――
「えぇ~……なんでですか?」
ピョンと……跳ねてしまうと水しぶきが彼にもかかってしまう。
なので、彼と同じようにゆっくりと足を踏み出して、彼のもとに近づいてみる。
やっぱり、水しぶきが跳ねることはなかった。
「それは、その……」
言い淀みながら、彼は顔ごと明後日の方向へ向けてしまった。
表情を隠せても、頬と耳の赤らみまでは隠しきれない。
もう何年も一緒にいるんだ。彼のことは手に取るように……は、流石に言い過ぎかな。……うん、それなりに分かってる。
「なんで、ですか……?」
「……はぁ」
彼は小さくため息をついた後、俯いた。
だけどそれは一瞬のこと。
彼はあたしの方に顔を向けてくれた。
「君には敵わないな」
「いつもは貴方にやられっぱなしですから、こういう時くらいはやられちゃってください!」
「……はは、本当に敵わないよ」
困ったように笑いながら、頭を掻く。
頬の赤らみはまだまだ消えそうにない。
「まだ、実感が湧かないんだよ」
「実感?」
むむむ、あたしの考えてた反応とは少し違ったかも。てっきり、ただの照れ隠しだと思ったのに
「こんな美人が俺の奥さんなのかって」
「……へ?」
パタリ、と尻尾が一度だけ揺れた後、ピンと立ち上がる。
ポツリと傘を叩く小さな音が、やけに大きく響いた。
「君に『旦那さん』って呼ばれると、嬉しくて、照れくさくて……。耐えられそうにないから、今はまだ待ってほしい」
「……」
やり返せた。
なんて、やっぱり嘘だ。
いつだって貴方は大切な言葉を真っ直ぐに伝えてくれる。そのたびに、あたしは胸が弾んでしまう。
ギュッと握りしめた手のひら。まるでそこから熱を発しているみたいに、じんじんと熱かった。
「ワガママだとは分かってる。だけど、ちゃんと君の『旦那さん』になるまでは『トレーナーさん』でいさせてくれないかな?」
申し訳なさそうに――だけど、決意に満ちた瞳。
ああ、本当にズルいや。『旦那さん』、あたしはその瞳に一番惹かれているんだよ? そんな風に言われたら、文句なんて言えないのに。
「……ふぅ」
今度はあたしがため息をこぼす番だ。
だけど口角はグッと持ち上がっちゃうし、尻尾だって何も気にせずに大きく揺らしてしまっている。
ドキリ、と跳ねる心臓の音だけが、耳の奥で鳴り響き始めた。
「仕方ないですね。本当に、あたしの『トレーナーさん』はワガママなんだから」
「ごめんな。早く慣れるようにするから」
ふふ、頭なんて下げなくてもいいのに。
今はダメでも、それは「いつかは呼んでいい」ってことだ。それも遠い未来なんかじゃない。
だから、あたしは大丈夫なんだ。
それに――
「期待してますよ、『旦那さん』!」
「っ……キタサン」
慣れるまでは、貴方の照れた顔をいつでも見られるってことなんだから。
ほら、今だって寒さを吹き飛ばせそうなくらい、真っ赤になっている。
「ふふ、ごめんなさい。つい言いたくなっちゃって」
「……君って、そんなに意地悪だったか?」
「ええ、そうなんです! キタサンブラックは良い子じゃないんです!」
貴方の前でなら。
あたしは『お助け大将』の看板を外せるんだ。
「……良い子って年じゃないよね?」
「それは言いっこなしですよ!」
「はは、お返しだよ」
「もうっ!」
お互いに困り眉になりながらも、笑い合った。
ふいに、キラリと二人の間に眩い光が走る。
思わず目を瞑り、ゆっくりと開くと、その光は少しずつ落ち着いていった
「……晴れましたね」
「……そうだな」
傘を下ろしながら空を見上げると、ところどころ雲の隙間から淡い青色がこちらを覗き見ていた。
一瞬だけ見えた太陽は隠れてしまったけど、この調子なら、すぐにでも雲を追い払ってくれるはずだ。
「当日もこんな風に晴れて欲しいですね」
「どうだろう、流石に梅雨真っ盛りだから厳しいんじゃないか?」
「まあ、そうですよね……」
こればかりは確率の問題だ。あたし達ではどうにもできないこと。
頭では分かってはいるんだけど、ほんの少しだけ俯いてしまう。
――ふいに、手が握られる。
小さく息をこぼしながら、繋がれた手に視線を落とす。
それは『旦那さん』の手のひらだった。
ギュッと握りしめられたあたしの手。あたしの方が熱いはずなのに。彼の体温が、燃えるように手のひらへと流れ込んでくる。
「だけど、良い日になるのだけは間違いないよ」
「……それはどうして?」
聞かなくても良いことだ。
それでも聞いてしまうのは、きっとあたしがワガママだから。
『旦那さん』の熱をもっと、感じていたいから。
「雨にも負けないくらい、俺の奥さんは輝いてるから」
「……そうですか」
キュッと、彼の足に尻尾を巻きつける。
絶対に離さないように。ずっとずっと、強く、思いきり。
「……良い日にしてみせます」
「ああ」
「貴方とあたしなら、きっと皆を笑顔に出来ます! ……ですよね?」
「勿論だよ」
巻きついていた尻尾を解いて、あたし達はまた歩き出す。
降り注ぐ光は、まるで彼の手のひらのように、暖かくあたしを包み込んでくれた。
キタちゃんには白無垢が似合うと思うんですよね