「へぇ~、旦那さんにもこんな時期があったんだ……」
ページをめくる指が止まらない。
だって、そこにはあたしの知らない旦那さんが次々と飛び出してくるから。
かけっこで一番を狙う真剣な顔、泥だらけではしゃぐ姿、泣きべそをかいている顔……。
写真に写る彼の歩みを見つめていると、共に過ごせなかったはずの時間までもが愛おしく浮かんで、胸がポカポカした。
「き、キタサン……そろそろ見るのやめないか?」
少し離れた場所から座布団に座っているあたしを覗き込むように旦那さんは口を挟んできた。
緩む頬のままチラリと確認すれば、案の定、彼は眉をハの字にして困り果てている。
「いいじゃないですか〜♪ 色んな姿の旦那さんが見られるなんて、滅多にないんですし〜♪」
「そ、そうは言うけどなぁ……」
「ほらほら、この写真! お義母さんと一緒に笑顔で可愛いですよ♪」
「ぐ……っ。……それは、その、母さんが勝手に撮ったやつで……」
図星を突かれたように言葉を詰まらせる彼。
その反応が楽しくて、あたしはわざと彼に近い位置までアルバムを突き出す。
彼は頬を赤らめて口を尖らせながら、こちらを睨みつけていた。
やった、珍しい顔を見ちゃった♪
緩みきった顔で、あたしは彼を見つめ続ける。
「くそ……母さんめ、余計なもの渡しやがって……」
あ、少し口が悪くなってる。それすらも今のあたしには特別で、もっと得した気分だ。
いつもとは違う彼の様子にあたしは笑みをこらえることが出来ない。
ふふ、こんなことになるなんて……。あの時は想像もしてなかったな……♪
彼の視界から本を離して、もう一度自分の手元に置き、ゆっくりとページをめくっていく。
あの日──お義母さんからこのアルバムを託された時は、想像もしていなかったなぁ。
きっかけは、お義母さんから掃除を手伝ってほしいと連絡をもらったことだった。
お助けキタちゃんとして、それと彼の妻として。
あたしは弾む声を抑えきれずに二つ返事で引き受けた。
『いやぁ~本当にありがとうね』
『い、いえいえ! お助けキタちゃんとして当然ですよ!』
彼に似た笑みであたしを見つめるお義母さん。
それが妙に心地良くて、だけど照れくさくて。
そんな気持ちを隠すように普段通りを心掛けながら、あたしは掃除をしていた。
『……これは?』
その途中だった。
本棚の奥底で小さく埃を被っている分厚い本を見つけたのは。
埃を払い、ゆっくりとページをめくると、少年の姿が写し出されていた。それも沢山の姿で。
生まれたばかりの赤子の姿から少年になるまでの軌跡。ページをめくる度にそれが物語のように進んでいるのが分かった。その様子が何とも微笑ましい。
それにしてもこのヤンチャで活発そうなその少年。初めて見るはずなんだけど、誰かに似ているような気がするんだよね〜……。
う~ん……なんだろう? 見たことがある気がするんだよな〜……特に目の輝きがあのヒトに……って、あっ!
『もしかして……旦那さんのアルバム?』
カチリとピースがハマるように、その正体に近づいたような感覚に襲われる。
『キタちゃん? あっ、それ!』
『っ!』
聞こえてきた声に尻尾と耳をピンと立て、焦るように本を閉じた。
バッと素早く声の方向に体を向けると、懐かしそうな表情でこのアルバムを見つめるお義母さんがいた。
『こんなところにあったのね。何だか懐かしいわ……』
『お義母さん、このアルバムってもしかして?』
勝手にアルバムを読んでしまった罪悪感と、気心の知れたヒトであった安心感で、内心ホッとしながらお義母さんに呼びかける。
もしかしてとは言ったけど、お義母さんの様子からして、あたしの考えていることは正しいはずだ。
『そうよ、それはあの子のアルバムなの』
『やっぱりそうなんだ……』
『こんなところに紛れてたなんてね……』
『あ、あはは……そうなんですね……』
こういう物ってもう少し大事にするのでは?
遠い目をして懐かしむお義母さんに、あたしは少しだけ苦笑いを返した。
まあ、それはそれとして。
そっか……これが小さい頃の旦那さんなんだね……。
アルバムに写る笑顔の彼を指でなぞる。
彼の体温も声も感じることは出来ない。そのはずなのに、愛おしさで胸が熱くなった。
『キタちゃん、気になるなら持ってっちゃってもいいわよ?』
『いいんですか?』
『ええ。今、あの子のことを一番大切に思ってくれている人に持っていてもらうのが、アルバムも幸せだと思うから』
『……はい! 大切に、何度も読み返しますね!』
お義母さんの優しい言葉が、じわりと胸に染み渡る。あたしは宝物を抱えるように、その重みをぎゅっと胸に抱き寄せた。
この重さは、そのまま彼の人生の重みなのだと感じながら。
「これとかも! ピースして可愛らしいですよ!」
「も、もういいだろ……」
現実に戻れば、目の前には顔を真っ赤にした今の旦那さんがいる。
旦那さんからも話を聞きたいと思って一緒に見てるけど、あまりにも可愛い反応をしちゃうからからかっちゃった。
いつもはあたしが照れてばかりなんだから、たまには仕返ししてもいいよね?
「ごめんなさい、貴方の反応が面白くてつい」
「……いつもの仕返しとかじゃないよな?」
「さ、さぁ〜て、なんのことやら?」
「……」
ぐっ……痛いとこ突いてきた。やっぱりトレーナーとしての観察眼は流石といったところかな。
誤魔化すように彼から視線を外しても、刺すような視線が突きつけられる。
「だ、旦那さんは子供の頃からトレーナーになりたかったんですか?」
話題を変えるかのように、あたしは早口で言葉を紡いだ。
咄嗟に出た言葉ではあるけど、聞きたいのは本当だもん。
「……そうだなぁ」
怪しむような視線を肌で感じていたが、それが急に消えていく。
彼の方に視線を向け直したら、右手を顎に置いて考え込むような姿が目に映った。
「……うん、ずっと昔からなりたいって思ってたよ」
……あぁ、やっぱり。
「ウマ娘の走りに胸を打たれてさ」
夢を語る彼の瞳。それは、あの写真の中にいた少年と同じだ。
「その輝きを自分が支えたかったから」
やっぱりアルバムにいたあの子は、間違いなく、目の前にいるこのヒトなんだ。
「それで必死に頑張ってトレーナーになったんだ」
キラキラと輝く、あたしが大好きな瞳だったから。
「だけど、トレーナーになったばかりで君みたいな才能溢れる子に出会えるとは思ってなかったなぁ」
目の前の旦那さんと、アルバムの中の少年が、あたしの中で一つに重なったんだ。
「まあ、こればっかりは運が良かったと言わざるを得ないな。あはは」
それが確信に変わった瞬間、心臓がうるさいくらいに跳ねる。
そう、跳ねてしまったから。
「……キタサン?」
気づけば、両手を頬に当てて、視線を下に向けていた。
ああ、やっぱりダメだ、あたし。どんなにからかってもすぐに押し負ける。こんなんだから頬が熱くなるじゃないか。
悔しいなって、もどかしいなって、まだまだだなって、色々と頭の中で考えてしまうけど。
それでも頭の真ん中にあるのは、微睡みにも似た心地よさだった。
「……旦那さんって、昔から変わってないんですね」
「えっ? あ、ああ。改めて思い返してもそうなのかもな。いや、だけど流石に子供の頃よりは大人になってるぞ。……なってるよな?」
笑って、困って、怒って。
いつもとは違う。だけど、写真には残っている面影たち。
今の彼を形作っているのは間違いなく、この思い出なんだと心の底から理解した。
「ふふ、そうですよ。旦那さんはしっかりしている大人です。出会った時からそうでした」
「そ、そうか……そう言ってもらえると嬉しいけど……。う~ん……君と出会ったばかりの頃の俺はトレーナーになったばかりで、まだまだ未熟だったからなぁ〜……」
きっとそうなのだろう。
初めてだらけで、失敗して、悩んで、落ち込んで。
その繰り返しが今に繋がっているのだと思う。
それでも、だ。
「貴方はそう言うかもしれません。だけど、あたしにとってはずっと、頼りになるトレーナーさんでしたよ」
あたしは貴方だから走り抜けることが出来た。
貴方だから今のあたしがいる。
そう伝えたくて彼に微笑んだ。
「キタサン……」
「あっ、勿論、今も頼りになりますよ!」
だけど、やっぱり今のあたしの、この燃えるように熱い頬を見せるのはちょっと恥ずかしい。
取ってつけたような言葉で誤魔化しながら、あたしはまた顔を下に向ける。
「……そっか。そう言ってくれるなら、嬉しいよ」
あれ、旦那さんの声、少し弾んでいる? 気持ちが届いたってことでいいのかな? それなら恥ずかしいこと言った甲斐があったってもんだね!
気づけば、熱くなった頬が自然と緩んでいた。……ふふ、幸せだなぁ。
なんて安心したのも束の間。不意に隣へ落ちた影に、あたしは小さく肩を揺らした。
「よいしょっと」
「ふぇ?」
急に隣に感じた気配とともに、耳元から声が聞こえてくる。
顔を上げてパッと隣を見てみると、旦那さんが隣に座っていた。
「ど、どうして隣に?」
「ここなら話しやすいかなって」
「は、話しやすいってなにを?」
「……俺の、昔の話」
燃えるように赤い頬を見られたくない。
そんな動揺から、声が裏返ってしまったけど、旦那さんは気にすることなく話す。
「気づいたんだ、俺が自分から話した方が恥ずかしくないって」
トンと軽く肩が当たる。
服と服が重なり合い、ほんの少しだけ体温を感じる。
「は、話してくれるのは嬉しいですけど、今はちょっと待って欲しいと言いますか……」
「あっ、顔が赤くなってる」
覗き込むようにこちらを見る旦那さん。
あたしの様子を見て、嬉しそうに笑い出す。
「も、もう! 恥ずかしいから指摘しないで下さい!」
「さっきはそっちがからかってきたんだし、その仕返しだよ」
「い、イジワル!」
アルバムを持つあたしの手に、彼の手が重なり合う。
少しだけゴツゴツしてて、だけど温かくて、あたしの大好きな彼の手のひら。
「あ、この写真の時はね──」
「……っ、勝手に話を進めちゃって……」
あたしはさっきみたいに顔を見られないように、ぐっと深く俯いた。
燃えるように熱い耳を隠したくて、首をすくめる。
だけど、重なった彼の手の温もりが心地よくて、どうしても自分から離すことができない。
顔を上げる勇気はないのに。
火照る体も、忙しなく動く耳も、あたしの全部が言葉とは裏腹に、もっと彼を求めていた。
「っ……」
恥ずかしさに耐えきれず漏れた小さな吐息と一緒に、あたしの尻尾が勝手に動く。
大切な獲物を捕まえるみたいに、隣に座る彼の腰へと、そっと、だけど逃さないように力強く巻き付いた。