春とは思えないほどの冷え込みを越えると、今度は嘘のように暑い日々が待っていた。
じりじりとした日差しに当たると、まるで夏みたいで、少しだけ頭がクラクラしちゃう。
幸い、吹き込む風だけは春らしく優しくて、窓を開ければ部屋の中は思いのほか過ごしやすい。
だからなのかな? このリビングで旦那さんは、窓を開けて、朝からずっと作業をしている。
「……よし、これでオッケーっと」
ようやく注ぎ終えた二つのコーヒーカップを見つめ、あたしは小さく息をつく。
時計の短い針は、3を指している。
リビングの真ん中に陣取る旦那さんの方から、さっきまで響いていたカチカチという作業音が消えている。
……彼もひと息ついているところなのかな?
「それなら!」
時間も時間だし、きっと良い休憩になるはずだよね!
せっかくのお休みなのに、今日はあんまりお話できなかったから……今ならちょっとくらい、いいよね♪
あたしは二つのカップを手に取ると、スキップするように彼の元へ駆け寄った。
早く話したい、色々労ってあげたい、一緒に笑っていたい。
次々とあふれてくる温かい気持ちを、あたしはもう止められなかった。
「旦那さん、コーヒー持ってきま……っ」
弾んでいた足が、ぴたりと止まる。
視線の先に待っていたのは──。
「すぅ……」
「……寝ちゃってる」
何とも可愛らしくて、ほんのちょっぴりだけ憎たらしい。
腕を枕にして、すっかり無防備に目を閉じている。
綺麗に閉じられたノートパソコン。きっと、ギリギリまで頑張って終わらせてから、力尽きちゃったんだろうな。
「むぅ……」
まぁ、朝から頑張っていたのはわかりますよ? あたしだって応援してたわけだし。
だけど、こう……もう少しだけ、あたしと話す時間を作ってくれてもいいと思うんですよ。
温もりが足りないですよ、あたし。
「……もう」
なんて、ワガママなことを思っても仕方がない。
これだけ頑張って疲れているんだから、邪魔しちゃダメだよね。
ならば、今のあたしにできることは、彼のお昼寝を最高のものにしてあげること!
あっ、せっかく淹れたコーヒー……。うん、二つ飲むのはちょっと大変だから、牛乳を入れてカフェオレにして飲んじゃおっと。
コーヒーには悪いけど、少しの間だけテーブルに置いておくことにした。
「えっと、どうしようかな」
まあ、なんにせよ、この姿勢のままだと体が痛くなっちゃう。ひとまず横にしてあげようかな。場所は……寝室が良いよね。
そっと体を机から離して、リュックを背負い込むように彼をおんぶする。
意識がない人を背負うのってちょっとコツがいるけど、あたしはお助け大将だからね。
これくらい、すっかり慣れっこなのです、へへん♪
「んん……」
っとと……っ。
あっ、起きちゃったかも。
「すぅ……」
なんて焦ったけど、どうやら大丈夫みたい。
背中からはまた規則正しい寝息が聞こえてきて、すっかり安心しきっているのがわかる。
……でも、これでおんぶされても起きないってことは、よっぽど深く眠っちゃってるんだね。……そっか。なるほどなるほど。
頭の片隅に浮かんだ『あること』にワクワクしながら、あたしは寝室へと足を進めた。
「よいしょっ……と」
あっという間に辿り着いた寝室。あたしはゆっくりと、彼をベッドへ降ろした。
ポスリ……と可愛らしい音を立てて沈んだ体を、そっと仰向けに寝かせ直す。
「すぅ……」
「やっぱり起きない」
そうなると……えへへ
さっきからずっと考えていたことを実行できる。そう思うだけで、自然と頬が緩んでしまう。
ではでは、始めるとしましょうか。あたしのご褒美タイムを!
「……よし」
彼のベッドにゆっくりと腰を下ろし、そのまま背後へと回り込み――
「これで……よし」
そのまま彼の胸へと腕を回し、そっと抱きしめる。
ギュッ……とすると起きちゃうから、キュッ、くらいの力で密着する。
「……えへへ」
衣服越しでも、彼の体温がしっかりと伝わってくる。
あたしより少し大きな背中。ほんのりと温かい、大好きな温度だ。
胸板のたくましさは、この位置からじゃ少しわかりにくいかな。対面なら、頭をすりすりしながら堪能できるのに……なんて。まあ、そんなことしたら起きちゃうから、今は我慢。忍耐だよ、キタサンブラック!
というわけで、この姿勢のままできることに挑戦しよう。
まずは……そうだなぁ。
「……すりすり」
まずは、彼の背中に頭をこすりつけてみる。
意味なんてない、ただの匂い付け。それでも、どうしてもやってみたかったから。
彼を起こさないように。そっと、慎重に。
すりすり……すりすり……。
衣服にすれるたび、ふわりと彼の匂いが立ち上る。
胸の奥がホッとするような、温かい匂い。
もっと、もっともっと、欲しい。欲しいな。
「……むぅ」
一旦、こすりつけるのをやめてみる。これじゃあ、彼の匂いがよくわからないから。
ピタリと動きを止めてみると、背中越しに匂いが強くなった。
深く息を吸い込む。
すると、彼の匂いだけがあたしの胸いっぱいに広がってくれた。
……もっと。もっと深く感じたい。
あたしは思い切り、彼の背中に顔を押し付けた。
「……あっ」
胸の奥まで、入ってくる。
彼の匂い。優しい匂い。大好きな匂い。
頭がクラクラしてくる。なのに、幸せ。
もっと、もっともっと、欲しい。欲しいの。
無意識のうちに、彼に回していた腕の力が強くなっていく。
「……うぅん〜……」
「……っ」
だけど、そんなワガママは許してもらえなかったみたい。
腕に込めた力が強すぎたんだ。彼は小さく声を漏らし、もぞもぞと動き出してしまった。
だ、ダメ……このままじゃ起きちゃう。
あたしはビクッと尻尾を震わせ、慌てて抱きしめていた腕を離した。
「……すぅ……」
だけど、まだツキは残っていたみたい。
慌てて腕を離したのが良かったのか、彼はまた静かな寝息を立て始める。
よ、良かった〜……起きなくて〜……。これならまだ堪能できちゃうよね?
そう思っていた時だった。
「……うぅん〜……」
旦那さんが、こちらへ向かって寝返りを打ったのは。
驚きのあまり、体は金縛りにあったようにピクリとも動かない。
あたしにできたのは、ただ目と口を大きく見開くことだけだった。
「……うぅ……」
寝返りを打って真っ正面になった彼。
その腕が、あたしの体を包み込むように動き――ゆっくりと、彼の方へ引き寄せられる。
やりたいことが向こうからやってきちゃいました、やったね!
……なんて喜ぶ余裕、今のあたしにはないのです。
目の前には、大きくてたくましい胸板。引き寄せられたせいで、鼻先が触れそうなほど距離が近い。
衣服越しでも、ダイレクトに体温と大好きな匂いが伝わってくる。
「……ふぅ……っ」
息を吸い込むと、さっきよりも強く匂いが流れ込んでくる。温かくて、だいすきな匂い。
燃えるように胸が熱い。
頭が、チカチカする。
「ふぅ……ふぅ……っ……」
ぱちぱちって、はじけて、わかんなくなってきた。
でも、ふわふわして、きもちよくて、しあわせ。
あたしも、うでを、かれのほうにまわす。
だって……がまん、できないんだもん。
「……っ!」
もっと近くなった。かれとのきょり、もっと、もっと。
うれしい。しあわせ。
ぱたぱた、うごく耳。
……そうだ。しっぽも、まきつけちゃお。
そしたら、もっともっと、しあわせ。
「……あっ……」
ぱちぱちって、あたまのなかに、ひろがっていく。
しかいが、ゆっくりと、やみに、とけていく。
からだにうつった、かれのにおいだけをかんじながら……。
………………
…………
……
「……ン」
聞こえてくる。
すぐ耳元から、くすぐったい距離で。
「……サン」
温かくて柔らかな声。
もっと、もっと聞きたくて。
自然と、耳がピクリと動く。
「キタサン?」
聞こえた。はっきりと、大好きな声が。
そのひと言で、甘いまどろみがスッと晴れていく。
「……ぅ……ううん?」
ごしごしと目を擦る。
うん。重たいまぶたも、なんとか開けられそう。
ゆっくりと、目を開く。
「…………?」
視界を埋め尽くしたのは、真っ白な世界。
……いや、全部が白いわけじゃない。上の方に、かすかに肌色が見える。
なんだろう。すごく、思い当たる節があるような……。
ヒヤリと背筋が凍るのを感じながら、あたしはガクガクと震える首をゆっくり上へ向けた。
「……目が覚めた?」
「……だ、旦那さん!?」
視界に飛び込んできたのは、優しく微笑む最愛の人の顔。いや、本当に目の前!
なんで!? ……って、それを聞くのはさすがにダメだよね……。
はい、覚えてます。自分が欲望のままに何をやらかしたか。
幸せ気分でどうやって寝落ちしたのかも、ぜんぶ……!
「ご、ごめんなさい! あたし……その……とにかくごめんなさい!」
ワタワタと両手を宙に泳がせ、なんとか言葉を探してみるけれど。
どう考えても、あたしが悪い。
あわあわと、ただ平謝りすることしかできなかった。
「いや、怒ってないから大丈夫だよ」
「えっ?」
目の前の彼は変わらず、優しい眼差しでこちらを見つめていた。
い、今なんて言いました? 怒ってない? ……本当に?
「ここまで連れてきてくれたのは、君の優しさだって分かるしね」
「旦那さん……!」
よ、良かった〜……! 純粋な『お助け心』が評価されたおかげで、なんとか助かりそう……!
い、一応、ちゃんとお手伝いする気持ちもあったもんね!
よ、欲望もあったけど、それはそれとして! ……って、必死に言い訳する自分に、ちょっと良心が痛んでくるけど……。
チクリと痛む胸をごまかしつつ、そっと彼の方を見上げる。
あれ? なんだか、彼の頬が赤くなっているような……?
「……それに、君の抱き心地が良かったおかげで、よく眠れたといいますか……その……はい……」
「そ、そうですか……」
な、なるほど……それでそんなに顔が赤かったんだ……。
だ、抱き心地が良かった……。そ、そっか……あ、あぅぅ……っ。
なんでこの人は、こういう時に限って破壊力抜群のことを言うのかな。顔なんて、もう絶対に見られないじゃないですか……。
頬なんか赤らめちゃって……あたしの方が、ずっと熱いんですからね。ベッドを叩く尻尾だって、さっきからうるさく動いてるし……。もう……もうっ……!
「そ、そうだ! それよりも早くご飯を食べようか! 結構良い時間だしね!」
あきらかに焦って、早口になる旦那さん。
熱を持った耳にも、その言葉はしっかりと届く。
なんですかもうっ。話を変えようとしても、そうはいかないんですからね。……まあ、見ますけどもっ。
熱い頬を両手で押さえながら、時計へと視線を向け――って、もう七時だこれ!?
「わ、わわわ! 早く準備をしないと!」
バッとベッドから飛び降り、そのまま居間へと駆け出す。
「俺も手伝うよ!」
背中から追いかけてきた、大好きな声。
ぴょんと跳ねちゃうくらい、嬉しい。
だけど、それはさすがに……っ。
「えっ! そんな――」
「一緒に寝てたことと、あとは構ってあげられなかったお詫び……なんてのはどうかな?」
はにかむように、ふわりと優しく微笑む旦那さん。
その温かさに胸がホッとして。……でもやっぱり、申し訳なくて。
「……貴方がそう言うなら、喜んで」
あたしも、彼につられて微笑みを返す。
頬が熱くて、きっと、うまく笑えていないけれど。
……それでも。
「……よかった、なら一緒に行こう」
「はい!」
彼の笑顔を見て、思い切って笑い返してみてよかったと、胸がじんわり温かくなる。
きっと今なら、すっかり冷めてしまったカフェオレだって、とびきり甘く感じるはず。
そっと彼の隣に並んで、ゆっくりと歩幅を合わせる。