こういう話はいつもの短編集では中々書けないのでちょっと緊張しながら書きました
「今の言葉、取り消してください!」
「いやだ、絶対にしない!」
机越しに身を乗り出し、睨み合うあたし達の間に大きな火花が散っていた。
さっきから耳に当たるエアコンの風が煩わしい。だけどそれよりも彼の瞳を射抜くことの方が大切だ。
ここから一歩だって動いてやるもんか。
「意地っ張り!」
「そういう君こそ頑固者じゃないか!」
「なな!」
「…………まあ、そういうところも好きなんだけど」
「なぁー!」
耳と尻尾がピンッと真っ直ぐ伸びる。それはもう、天高くに。
燃えるような頬と左右に泳ぐ視線。
バチバチとあたしと彼の間を飛び散っていたはずの炎は、ほんの少しだけ小さくなった。
「そ、そうやって油断させようとしてもダメですよ!」
「……本心ではあるんだぞ!」
「い、今あたし達は喧嘩してるんですよ!」
「本当のことを言っちゃいけないルールなんてないだろ!」
「ま、まあ……。それはそう、ですけど……」
あまりにも曇りのない目。
直視することが出来なくて、顔が徐々に下がっていく。
気づけば人差し指同士をツンツンと突き合わせ、落ち着きなく大きく揺れる尻尾の音が耳に入ってきた。
「……もう、これで終わりにしよう」
「……えっ?」
「これ以上言い合っても不毛なだけだ。だから、認めてほしい」
「!」
聞こえてきた声にあたしは勢いよく顔を上げる。
それだけは。
それだけは言わせない!
強く唇を噛み締めた後、真っ直ぐにキッと彼の瞳を睨みつける。
「今日のご飯は、俺が作るって!」
「だから! あたしが作るって言ってるじゃないですか!」
「「ぬぬぬ!」」
顔を突き合わせて、お互いの息がかかる距離で穴が開くほど見つめ続ける。だけど、穴も開かないし、彼は引いてもくれなかった。
不覚だった。
旦那さんが今日はお休みだから、一緒にゆっくり出来るって。昨日の夜から何をして過ごそうか、どうやって癒してあげようか。
そればかりを考えていたから、いつもよりも遅くに目が覚めてしまって。
飛び起きたまま、身だしなみも気にせず駆けるように居間へ向かうと、心配そうにこちらを見る旦那さんがいた。
『キタサン、今日は俺がなんでもやるから、君はゆっくりしてて』
昨日も遅くに帰ってきて。ほんの少し疲れた目をしていた彼なのに。
いつものように起きていたのが。変わらない温かな視線であたしを見つめていたのが、胸が痛んで。
そんな彼だから癒したくて。ずっとずっと元気でいてほしいから。
このワガママだけは絶対に譲ってはいけない。
だから。
『旦那さん、あたしは大丈夫ですから、ゆっくり休んでてください! 後はいつも通りあたしがやりますし、貴方を癒してあげますよ!』
ドンッと強く胸を叩いてみた。
みたのに。
『いやいや。いつも助けられてるから、今日くらいは俺に頑張らせてよ。だから君こそ休んでてくれ』
旦那さんは首を横に振って、頑として譲ってくれなくて。
『いえいえ、あたしがやりますって!』
『いやいや、俺が』
意地を張って大きく声を張り上げると、彼も負けじと大きな声を出して。
『あたしがっ!』
『俺がっ!』
それから引くに引けなくて、気がつけば言い合いになってしまって。
ここまできたら意地の張り合いだ。もう、誰にも止められない。
「力比べならあたしの方が強いんですよ! そのまま巻かれててください!」
「くっ……!」
言い合いでは埒が明かない。だからあたしは、一瞬の隙をついて、彼の体をグルリと逃がさないように尻尾で巻いた。
初めからこうすれば良かった。それなら、あんな言い合い……。
『そういうところも好きだけど』
い、言い合い……。
『本心ではあるんだぞ!』
う、うう……。
思い出したくないはずなのに、勝手に頭の中でポンポンと言葉が飛び跳ねている。
意気揚々と台所に向かっていた足は止まってしまい、どうしたって動いてはくれない。
「……緩んだ? なら——」
「ひゃあ!?」
頭の先まで痺れる衝撃。そして強く握られる感覚。じんわりと熱いのは尻尾?
あれこれと考えている間にも、体の芯から力はただ失われていくだけ。ヘナヘナと膝が折れていき、立ち上がることも出来そうにない。
「ごめんな、キタサン。でも、ほんの少しだけそこにいてくれ」
本当に申し訳なさそうな視線をあたしに向けながら、掴んでいた尻尾をゆっくりと手放した。
優しい彼らしい行動。だけど、今はそれが何よりも大きな隙になる。
手放された尻尾から抜けていた力も入るようになったし、淡い痺れも少しずつ弱っていく。
「……ごめんなさい! もう一回、隙ありです!」
「なっ!?」
蹴り出すように彼に飛び掛かり、勢いそのままに羽交い締めで動きを封じる。
よし、このまま動きを封じて……封じて……。
「……キタサン?」
封じて、どうしたいんだろう?
こんなことしても彼を癒せないのに。
あたしは、あたしは……。
「……」
スッと力が抜けていく。ダラリと落ちる両腕と垂れ下がった耳から、彼はよろめくように抜け出した。
「……本当に、あたしって頑固なんですね」
「キタサン?」
ポツリと呟いた言葉は地面に落ちる前に弾けて消えていった。
力なく揺れる尻尾と倒れた耳。床の色はいつも通りのはずなのに、じんわりと熱を帯びてどこか霞んだように見えた。
「そのせいでこんな言い合いになって、傷つけちゃって。あたし何をやってるんだろう」
「ち、違——」
「旦那さん、ごめんなさい。あたしが意地を張ってました」
顔を上げられなくて、だけどせめて形だけは見せたくて。
深くお辞儀をして、彼を背にしてふらふらと歩き出した。
もう少しだけ頭を冷やそう。きっと、彼の笑顔をちゃんと見ることが出来るから。
涙で霞む視界の隅で、微かに見えた扉へ向かおうとした時——
「——キタサンっ。ごめん。ごめんよ」
ふわりと体を包まれる。
耳元から聞こえるその声は悲しくも温かくて。体に回された両腕は弱いけど、全部預けてしまいたくなるほど安心できるから。
「俺の方が意地を張ってた。君のためにって思ったのに、こんな言い合いしちゃって。本当にごめんなさい」
「ううん、あたしが。だから、ごめんなさい……っ、ごめんなさいっ……!」
彼の手の甲に自分の手を重ね合わせた。
もう離さないように。優しく、だけど絶対に逃がさないように力強く。
ポタリと落ちていく雫が手に当たって消える。
それは冷たくて、だけど温かかった。
時を刻む音だけが室内で小さく響く。
一秒、また一秒が、長いようで短く流れているのが分かった。
進むごとに体を包んでいく彼の匂い。そして、秒針よりも僅かに遅れて鳴る胸の鼓動。
「……あたしね、貴方に休んで欲しかったんです」
重なり合った鼓動に押し出されるように言葉が紡がれる。
「今日のこと、色々考えていて……。マッサージも念入りにしてあげようって思ってて。だからつい、意地を張っちゃったの」
本当に無意識につらつらと言葉が出てきてしまう。
だけど、閉じた瞳から溢れているのは安心感だけだった。
「俺もだよ」
さっきよりも強く抱きしめられる。
背中越しでも感じる彼の匂いはより強くなっていく。それは、息が詰まるくらいに幸せな窮屈さだった。
「いつも君は朝早くから夜遅くまで頑張ってくれて。時にはマッサージまでしてくれて。こんな時くらいは休んでもらいたいって、本気で思ってるんだ」
「……分かってます」
重ねていた手を離し、腕の中にすっぽりと収まったまま彼の方に向き直る。
きっと今のあたしは冷静じゃない。なのに、こんなにも頭は冴えていて、彼の瞳を見つめることが出来る。
ほとんど変わらない目線を、彼に合わせられるんだ。
「……うん、分かってる」
そっと彼の頬に両手を添える。
ほんの少しだけカサカサで、だけど胸まで届くくらいの熱を持っていて。その温もりを逃がさないように、ゆっくりと撫でた。
「後でマッサージさせてね。たくさん、本当にたくさん癒やしてあげたいの」
「ああ、ありがとう。いつも助けられてるよ」
「だから、……だからね——」
まるで磁石のように引かれ合い、そして重なり合う唇。
唇越しに熱は伝わっていき、そして分け合うように体に広がっていく。
まだ離したくはない。それでも、甘い吐息を交わすように一度だけ唇を離した。
「もう少しだけ、貴方と抱き合いたいの。いいかな?」
無意識に上がってしまった口角のまま、彼の瞳を覗き込む。
同じように彼も、優しく目尻を下げてあたしを見つめ返してくれて。
「うん、俺もそうしたいんだ」
グッと力強く、彼の広い胸元へと抱き寄せられる。
ほんの少しだけ乱暴で、だけど壊れ物を扱うように優しい、彼だけの抱擁。
その力強さがたまらなく嬉しくて、あたしも迷わず彼の背中へと腕を回し返した。
今はただ、その温かさだけを全身で受け止める。
窓の外から入ってくる太陽の光が、あたし達を包み込むように照らし続けていた。
距離が近くなったからこそこんな喧嘩が出来るのかなって思います