8月もいよいよ終わって9月になりますね。それに合わせた……になるのかな?そんな感じのお話です
「〜♪」
モクモクと立ちのぼる湯気を顔に受けながら、鼻歌交じりで鍋を菜箸でグルリと回す。
渦につられるように動くソーメンたち。泳ぐかの如く揺れるその様は、どこか愛嬌があるように見えた。
彼が食べやすいように、でも茹ですぎないように。様子を確認しながらじっくり見守っていると、麺はお湯を吸って少しずつしなやかな姿へと変わっていく。
「あとは、良い感じになったら、水をしっかり切って……♪」
ミトンを両手にしっかりとつけてから、取っ手を掴んで一気にザルへあける。ザバーッと勢いよく上がる湯気で一瞬だけ前が見えなくなるけれど、それはすぐに消えていった。
そのままキリッとした冷水を流し込み、両手で揉むようにしてソーメンのぬめりを取っていく。指先で麺がキュッと締まるのを確認してから、水気を切ってお皿へ。
丁寧に盛り付けた白いソーメンの上に、茹でておいた豚肉と真っ赤なトマトを添えて、っと。あとは——
「ただいま……」
精根尽き果てたようなか細い声。だけど、どれだけ小さくても、この耳は絶対に彼の声を聞き逃すわけがない。
もっと綺麗に整えたかったけれど、今はそれどころじゃない。手にしていたお皿をテーブルへそっと、でも素早く置いて、あたしは迷わず彼のもとへと駆け出した。
「おかえりなさい!」
勢いよく出迎えたものの、玄関に立つ彼のすっかり落ち窪んだ様子にハッとして立ち止まる。
……っと、このテンションは流石に良くないかな。
慌てて両手で口元をギュッと押さえて静かにしようとするけれど、彼に会えた嬉しさで自然と緩んでしまう頬と、背後でパタパタと元気に揺れ続ける尻尾だけは、どうしても隠すことができなかった。
「……キタサン!」
だけど、あたしのパートナー——旦那さんも同じ気持ちでいてくれたみたい。
あたしの顔を見るなり、声色がほんの少しだけ跳ねている。
それでも、それは本当に微かなもの。
土気色になっている顔で無理に作ってくれた笑顔も、今にも崩れ落ちそうにうなだれた肩も。彼が疲労困憊で、限界の底にいるのは痛いほど伝わってくる。
そんな彼のために、あたしにできることは——
「てや!」
「き、キタサン!?」
戸惑う彼をヒョイっと持ち上げて、そのまま肩に抱え込む。
抵抗する力すら残っていないのか、されるがままに収まったその体は、ほんの数ヶ月前よりもずっと軽い。彼の努力と執念がその身の証だと思うと、誇らしいと同時に胸が痛む。
でも、だからこそ!
「旦那さん、お待たせしました! 久しぶりのお助けキタちゃんです!」
空いた手で彼の靴をサッと脱がせて玄関にポイッと置き、そのまま居間の方へと駆けていく。
一瞬だけ驚いたように彼は体をバタつかせていたけれど、すぐに安心したようにギュッとあたしの背中に体重を預けてくれた。
パタパタと揺れてしまう尻尾。彼に当たらないように気をつけようとしても、抱える手を外すこともできなくて、ほんのちょっぴりだけ困ってしまった。
本当にちょっぴりだけ。
「てや!」
掛け声のように勢いよく——なんて、言うわけにもいかず。
少しの衝撃も与えないよう、彼の腰を持ってゆっくりと床のクッションへ下ろす。おっかなびっくり、目を見開いたままあたしを見ているその姿が少し微笑ましい。
「ちょっとだけ、待っててください!」
その瞳を背中に受けながら、あたしは小走りでキッチンへと引き返す。
……っと、その前に。
冷蔵庫でしっかりと冷やしておいた『あるもの』を取り出して、ソーメンの真ん中にちょこんと乗せる。
よぉし、これでバッチリだ!
ササッと居間へ戻り、彼の目の前にあるテーブルへコトンとお皿を置く。
「旦那さん、これを食べてみてください!」
「……ソーメン? だけど、なんだか色々乗ってるような……?」
疲れからかうまく焦点が合っていないのか、旦那さんはぼんやりとした様子でお皿の方を覗き込んでいた。
「ふふん、ただのソーメンじゃないです。夏にピッタリのスペシャルソーメンなのです!」
「夏ってもう終わりじゃない?」
「あ、暑さはまだまだ続いてますから!」
首を傾げながら正論をつぶやく彼。どうやら、ささやかながらもツッコむ気力はまだ残っているらしい。
図星を突かれてピンと尻尾を伸ばしつつも、あたしは心の中でホッと安堵のため息をついた。
「……コホン。さっきも言いましたけど、これはスペシャルソーメンです。なんたって、豚しゃぶとトマトのぶっかけソーメンなんですから」
「ぶっかけ……」
目を丸くして、ぽかんとした不思議そうな表情。あまり理解が追いついていないみたいだ。家の中だからというよりも、頭を回す気力すら残っていないのだろう。
それくらい、今日までずっと一人で気を張ってきた証拠。その張り詰めていた糸が、あたしの前でだけ解けている。こんな表情を独り占めできるのが嬉しいなんて、あたしは欲張りなんだな。
不謹慎だって分かっているのに。
それでもどうしても頬は緩んでしまい、パタパタと耳と尻尾は隠しきれない喜びで動いてしまう。
「まあ、とりあえず食べてみてください!」
「お、おう」
そう返事はするものの、旦那さんの手はダラリと垂れ下がったままピクリとも動こうとしない。
シュンと耳が倒れるけれど、そんなことは織り込み済みだ。だからこの料理にしたんだし。ならば、迷わずプランBを実行しよう。
あたしは自分の箸を持ち、彼が食べやすいように少なめのソーメンと、豚肉、トマトを一緒にふわりと掴む。つゆがポタポタと落ちないように気をつけながら、そのまま彼の口元へとスッと差し出した。
「はい、あーん」
「き、キタサン? 何を……?」
「貴方が自分で食べられないなら、あたしが食べさせます。だからはい、あーん」
「む、むむ……」
カァーと彼の顔が、お皿に乗ったトマトに負けないくらい真っ赤に染まっていく。
ある意味、これも役得ってやつなのかな。
ほんの少しだけ自分の頬にも熱が籠り、耳の奥で心臓の音がうるさく鳴るのを見ないふりして、それでも彼の唇のすぐそばから箸を引こうとはしない。
逃げ道を塞ぐようにジッと見つめ返していると、彼は何度か気まずそうに視線を泳がせた後、ついに観念したように小さなため息をつき——
「……あーん」
照れ隠しのように目をつぶった状態で、彼がわずかに口を開けてくれた。
本音としてはもっと大きく開けてくれた方が食べさせやすいのだけど、疲労困憊な彼にそれは高望みというやつだ。
箸先が当たらないようにそっとソーメンを滑り込ませると、彼は弱々しく口を閉じ、ゆっくりと咀嚼を始めた。
クーラーの音だけが部屋全体に響いている。あたしは自分の呼吸すら忘れて、ただ彼の顔だけを穴が空きそうなくらいに見続けた。ピンと立てた耳が、彼のわずかな反応を一つも逃すまいと全神経を集中させている。
……コクリ。
小さく喉が鳴り、ゆっくりと彼の目が開いていく。
「……おいしい、美味しいよキタサン!」
ほんの少し。ほんの少しだけだけど、それでも声に明るさが戻っている。瞳だって光が微かに輝き始めていた。
やった!
心の中で叫んでいると、ふいに手のひらがジクジクと痛む。
チラリと空いている方の手へ視線を落とすと、爪が食い込むくらい、自分自身で強く拳を握りしめていたことに気がついた。
「これって梅が入っているの?」
「あっ、はい! 風味が効いてくるので、それで!」
半分本当だ。
梅の酸味は、すっかり落ちてしまった彼の食欲を少しでも取り戻すために。それに、バテている時に元気が出る栄養がいっぱい詰まっているらしいから。
トマトと豚肉だって、彼を絶対に回復させるぞって意気込んで、一生懸命調べて選んできた特効薬だ。
「はは、ソーメンだからツルッといけちゃうな」
「えへへ、いっぱい食べてくださいね!」
「ああ、これもらってもいいかな?」
「どうぞ!」
彼はあたしから箸を受け取り、少し不器用な手つきでソーメンを口に入れている。
食べたからといって、すぐに体力が回復するわけじゃない。それでも、心の中の明かりは確実に灯っている。心さえ元気になってくれたのなら、あとはどうとでもなる。
現役時代なら、彼があたしをいつもこうして元気づけてくれた。だからあたしは今、彼にそれを返しているだけ。
それだけのことではあるけれど、妻である今のあたしだからできることだ。それがたまらなく誇らしくて、目の奥が熱くなるくらいに嬉しい。
「……キタサン」
彼が箸を置き、ふうっと小さく息をついた後。ポツリと、静かな居間にあたしの名前が落ちた。
ご機嫌に左右に揺れていた耳が、ハッとしてピンと立つ。
呼ばれた方へと顔を向けると、彼はあたしを包み込むような、いつもの優しい微笑みで見つめ返していた。
「ありがとう、気を遣ってくれて」
「気遣いなんてそんな——」
「今の俺がどんな状態か分かってたから、これを用意してくれたんだろ?」
「……っと、それは……」
別に悪いことをしたわけじゃない。
それでも、あたしの考えが全部お見通しだったと芯を突かれたのが少しばつが悪くて。
あたしは誤魔化すように、すっかり空になった彼のお皿へと視線をそらした。
「分かるよ、栄養学はそれなりに学んだからね」
「……そう、ですよね」
頭の冴えはもう戻ってきているらしい。
視線をそらしたまま、頬を掻くことしかできない。
「だけど、まさか君にこういうことをされる日が来るなんてなぁ……。なんだか感慨深いよ……」
「そ、それってどういう意味ですか!」
「バテている時のサポートは俺の役目だったからね」
「うぐっ……そ、その節は……どうも……」
泥だらけで限界まで走り込み、結局彼に寄りかかっていた過去のあたしが一瞬で頭をよぎり、完全に口をつぐむしかない。
無茶は専売特許だったもんな……現役時代のあたし。あの時からほんのちょっとしか成長してないよ、うう……。
顔から火が出そうになりながら、あたしはギュッと目を瞑った。
「……なんて、支えてくれている人にそれは失礼だよな」
「……旦那さん?」
「本当にありがとう。いつもそう思ってるよ」
静かな言葉と共に、彼の手があたしの手を優しく包み込む。
ギュッと心臓が掴まれたような気がする。
真っ直ぐなその想いを受け止めるには容量が足りなくて、胸が痛くて、痛くて、痛くて。だけど、それ以上に彼の手のひらから伝わってくる温かさが、痛みを優しく溶かすように胸いっぱいに広がっていた。
「君が現役時代からそうだったよな。支えてるつもりだけど、君に気を遣わせて。それにいつも甘えてた」
「そ、そんなこと!」
「あるよ。マッサージだって、あの時から君はしてくれてた。支えてもらってばっかりだ」
「あ、あたしだって!」
言い返そうとグイッと彼に向けて近づけた顔は、唇にそっと添えられた彼の人差し指に止められてしまった。
ウマ娘の力なら絶対に負けないはずなのに、それ以上に顔を近づけられなくて。
ひんやりとした彼の指先の優しさをただ静かに受け止めることしかできなかった。
「だから、迷惑をかけてる今日くらいは俺に言わせてほしい。いつもありがとうって」
貴方はいつもズルい。そう言って、あたしの言葉を遮ってしまう。
あたしだって、あたしだって。
もっともっと、貴方に「ありがとう」ってたくさん言いたいのに。
唇の裏側で熱を持った言葉は、あたしを押し留める彼の人差し指に遮られて出てこない。その細い指が、今だけは絶対に超えられない壁のように厚いものに見えて仕方なかった。
だけど、それでも今のあたしなら——
「……さてと、食べ終わったところだし、君の——」
「嫌です」
「……キタサン?」
彼の指をそっと外し、その手のひらをゆっくりと掴んだ。
「あたし、もう後ろをついていくだけの子供じゃないんです。貴方のこと、もっと支えたい。もっともっと、貴方に『ありがとう』を返したい」
「で、でも今日はもう——」
「——今日だから、貴方が疲れてる今日だからこそ。あたしの『ありがとう』をただ受け取って欲しいんです」
「キタサン……」
「『ありがとう』を返されて終わっちゃうのなんて、お助けキタちゃんの名が廃りますから」
掴んだ手を確かめるように、ゆっくりと擦っていく。
手のひらには硬い豆ができていて、ゴツゴツしている。
いつもチームのみんなを支えて、導いてくれる大きくて優しい手。だけど今だけは、あたし一人のための手であってほしい。
そんな我儘を込めて、擦っていた手を止め、じんわりと熱を持った手のひらの中央をゆっくりと親指で押していく。
わずかに強張っていた彼の指先から、ふっと心地よさそうに力が抜けた。
この疲れ切った手を癒せるのは、あたしだけ。世界中で、あたしただ一人だけなんだって。そんな独りよがりな想いを、指先にぎゅっと込めて。
「……ありがとう」
「今日は『ありがとう』は禁止です。ただ受け取ってください」
「ふふ、そうだね。君に全部任せるよ」
こんな我儘な気持ちごと優しく抱きしめてくれる彼への、数え切れないほどの「ありがとう」を手に込めていく。
ほんの少しずつだけど、彼の手のひらにじんわりとした温かさが戻ってきてくれた。あたしの熱と彼の熱がゆっくりと混ざり合い、これ以上ないほどの安心感で満たされていく。