書きたいものを書いているのではありますが、トレーニング風景を書いたことはあまりないことに加えて、自己解釈で書かないといけない部分があったので大変でした……
照りつける暑さが過ぎ、透き通るような空気が風に乗って頬を撫でる。
砂浜を駆け抜けていたのが遠い昔のようだ。今は舞台をトレセン学園のグラウンドに戻し、芝を踏みしめている。
秋の大一番に向けた足音は地面を揺らし、気合いの入った掛け声は高く澄んだ秋空にこだまする。
「よぉし、まだまだ行くよ!」
その中で、頭一つ抜けて大きな一人のウマ娘が快活な声を響かせる。
一人だけジャージの色が違う彼女の背中を、何人ものウマ娘が追っていく。
「……張り切ってるな」
つい零れてしまった声。思わず自分の頬に触れてみると、緩んでいることに気づき、自然と笑みが深くなった。
先頭に立って走るその姿は現役時代そのままだ。
そのウマ娘――キタサンブラックは、汗を拭うこともせず、お祭りのような笑顔を絶えず見せていた。
『キタサンに頼みたいことがあるんだ』
夏合宿を終え、久しぶりの我が家で彼女と過ごす夜。時計の針だけが静かに進む中、お互いに落ち着いたタイミングを見計らい、腰を据えてそう言った。
彼女はキョトンと目を丸くしていたが、視線をこちらから外すことなんて考えてもいないようだった。
『チームの皆を一緒に鍛えて欲しい』
夏を越え、俺のチームのウマ娘達は一段と力を付けた。今の彼女達なら、タフなトレーニングをこなせると信じている。
それこそ、かつて俺と彼女で乗り越えてきたような、よりハードなものを。
『家のことを任せてるのに、こんな頼みをするのは申し訳ない』
そのまま頭を下げようとして――止められた。顔を上げると、彼女は静かに頭を振っていた。
『旦那さん、頼むだなんて言わないでください』
静かな室内に響く明るい声。
視線の先の彼女はいつも――いや、それ以上に笑顔を輝かせていて。
夜に隠れてしまった太陽を思わせるほどだった。
『あたしと貴方の仲じゃないですか。もっと気軽に言ってくださいよ』
トンと胸を叩く姿は頼もしく、まるで山のように大きく見えた。
『はい、このお助けキタちゃんにお任せください! 旦那さん……ってよりも、今はこう呼んだほうがいいですよね』
天井に視線を向け、顎に手を当てている。何かを考えている時の彼女の癖だ。
その姿勢もすぐに解き、満面の笑みを浮かべると――
『任せてください、トレーナーさん!』
現役時代と変わらない、晴れ渡るような表情を俺に見せてくれた。
「ほら、もう少し! まだまだやれるよ!」
「「「はい!」」」
あの頃そのままとはいかないけれど、深く芝を蹴り立ててコースを力強く駆ける姿は、間違いなく現役時代の彼女を思わせる。
とはいえ、チームの皆もよくキタサンに付いてきているな。憧れの存在がいるからか、目の色を変えていつも以上にギラギラしてる。……いつもこれくらいならいいのに。なんて、この熱量だと体力が持たないか。お互いに。
思わず緩む頬を隠そうともせず、ボードにチームの皆のデータを書き記していく。
「『トレーナーさん』!」
よく通る明るい声とともに、こちらに向かって手を振りながら駆けてくるキタサン。
うーむ……昔はこっちの方が普通だったけど、今は違うから違和感というか何というか……。
言いようのない気持ちに顔が熱くなり、誤魔化すように頬を搔く――と同時に、視線を感じた。彼女の後ろを歩いている教え子達がこちらを見て、ニヤニヤと笑っている。
「お待たせしま……って、どうしたんですか? 眉をひそめちゃって」
「いや、皆根性があって素晴らしいなって思ってな」
「ですね! 流石は貴方が指導する……あれ、さっきの顔はそういう顔じゃなかったような……?」
根性があるようだからもっとキツイのもいけるよな?
そんな冗談を込めて彼女達に視線を向けると、怯えたように耳を伏せて泣きそうな表情に変わっていた。
まあ、これ以上というのは流石に今の彼女達には負荷が掛かりすぎる。やるにしてももっと成長してからだ。
こんなことでムキになるなんて、俺もまだまだ未熟だな。不思議そうにジッとこちらを見つめる妻の視線も相まって、余計におかしく思えた。
「あれ、今度は笑ってる……。むむ……分からない……」
「ああ、気にしないでくれ。それよりもありがとうキタサン、後は――」
ゆっくり休んでくれ。
頭にずっと浮かんでいる言葉が喉元に張り付いて、表に出てこない。
「……」
「『トレーナーさん』?」
ああ、『トレーナーさん』なんて呼ぶことに、頷くんじゃなかったな。ジャージ姿とはいえ、あの頃のようにトレーニングする姿なんて見てはいけなかった。
キタサンブラックと走り抜けたあの日々が、煌めくような光景となって頭に浮かんだまま、消えてくれない。
「……キタサン。もう一つだけお願いがあるんだけど、良いかな?」
「はい、『トレーナーさん』! あたしで良ければ何なりと!」
夕日にも負けないくらいの笑顔で、キタサンは力強く胸を叩く。
これはただのエゴだ。
チームトレーナーでも、彼女の夫でもない。かつてキタサンブラックの担当トレーナーだった男の、ただの我儘だ。引退している彼女に言うべきことではない。
それでも。
「一度だけ、一度だけでいい。また君の走り抜ける姿を見せてもらっても、良いかな」
この想いは止まらない、止まってはくれない。
そう悟った途端、思いのほか呆気なく、その言葉を口に出せてしまった。それでも不思議と胸の中は、秋の空気のように澄んだもので満たされていた。
パタンと彼女の尻尾が一度揺れる。
驚いたように目を丸くしていたけれど、すぐにクシャリと表情を変え――
「へへ、喜んで!」
まるでその言葉を待っていたかのように、その場でストレッチを始めた。
先程までのコーチとしての優しさと厳しさから一変し、その纏う空気は、赤い瞳の奥で炎が燃え上がるような、ギラギラとしたものに変わる。
遠くで怯えていたチームの子達も首を傾げて、足を止めてしまった。
「…………よし、ひとまずはこれで大丈夫!」
何度かもも上げをして身体をほぐした後、彼女は足元の芝をギュッと踏みしめ、深く腰を落としてセットポジションに入った。
グラウンドの空気が、ピンと張り詰める。
「『トレーナーさん』、行きますね!」
その言葉が聞こえたと同時に、ダァン!と力強い足音を響かせて、彼女は駆け出していった。
駆け抜けていくスピード、踏みしめる力強さ、それに長距離を走るスタミナだって、全盛期には程遠い。
それでも彼女の瞳の輝き、そしてタフで頑丈な姿はずっと変わっていない。
ただ真っ直ぐに、食らいつかれても諦めない強さだけは変わることなんてありえなかった。
もっと見ていたい。出来れば一生、いや生まれ変わったとしても。ずっと、永遠に見ていたい。
「はぁ……はぁ……」
だけど、時は止まってはくれないし、切り取ることも出来ない。
現役時代の走りには及ばないが、それでもあっという間にコースを駆け抜け、彼女は俺の目の前で肩で息をしていた。
夢のようなひと時は、もう過ぎ去っていた。
「……へへ。どう、でしたか……?」
顔を上げた彼女の表情は晴れやかで、曇り一つないものだ。
澄んだ空気のように透き通っていて、見る人全てに笑顔を与える。お祭り娘キタサンブラックそのものだった。
「流石に全盛期とは程遠かったな」
「むむぅ……この日のために自主トレをしてみたんですけど、付け焼き刃でしたかね……」
キタサンは腕を組んで眉をひそめている。
すっかり大人の女性になったというのに、こういうところは本当にあの頃と何も変わっていない。
喜怒哀楽がハッキリとしている気持ちの良い女の子だ。
「……惚れ直してくれましたか、旦那さん?」
こうして一緒に過ごす日々が増え、好き合うようになって、家族になって。
彼女の一つ一つの仕草に、何度も心を奪われてしまう。イタズラっぽく目の前でウインクする姿だってそうだ。
俺はきっと、彼女から目を離すことなんて出来ないのだろう。
「……ああ、もう完膚なきまでにボロボロだよ」
「えへへ、なら大成功ですね!」
「はは、容赦ないなぁ」
「貴方の奥さんですので」
「それってどういう意味?」
「さあ、自分の胸に聞いてみたらどうですか」
ふふ、と口元を押さえながら笑うその仕草は、卒業してからのものだ。
ひたむきに走っていたあの頃の彼女も本当に素晴らしいが、目の前にいる今の彼女だって同じくらい魅力的だ。
「キタさん!」「な、生で見ちゃった!」「これだけで生きてきた甲斐があるってものですよね……」
「あはは、そこまで言われると照れちゃうね……」
チームの子達が彼女の元に駆けつけて、周りを囲んで次々に話し出す。
一歩引いてその様子を眺めていると、さっきまで俺に見せていた顔とは違う、頼れる先輩そのものだ。
秋の大レース。出走するウマ娘達は実力者ばかりで、栄冠を勝ち取るのは困難な道のりだろう。
それでも、チームの子達だって負けてはいない。
今までのトレーニングだけじゃない。これからの追い込みと、今日見せてくれたキタサンの走り。それら全てがきっと大きな力になってくれる。
キタサンと彼女達の笑顔を見ていると、そう信じられた。
色々な話を書けるようにもっと精進していきたいです